京都芸術大学大学院 特別講義×美術工芸学科「Artists' Platform」
“ARTIFACT”から考える~場所とモノに対するキュラトリアルな実践
ゲスト:慶野 結香(キュレーター/青森公立大学 国際芸術センター青森[ACAC]学芸員) 進行:堤 拓也(キュレーター/グラフィックデザイナー)
慶野はこれまで、秋田、サモア独立国、青森と、いわゆる文化的・経済的中心地とは異なった場所で、それぞれ固有の手法を用いたキュレーティングを行ってきた。ときに公立大学の施設、ときに国立の博物館、ときにアーティスト・イン・レジデンスに特化したアートセンターらの制度を踏まえつつ、彼女の「場所とモノに対するキュラトリアル [*1] な実践」の基点となるのは、民俗資料から工芸品、美術作品、儀礼、その過程までといった、個人あるいは集団が社会的意図を持ってつくり出す“ARTIFACT”(≒人工物)を並列に捉えること。本レビューは、そういった人類学・博物館学的な見地をバックボーンに、様々な地域を横断し活動する慶野が自らの文脈について語ったレクチャーのまとめである。
文:堤 拓也
[*1] 本稿では「キュレーション」と「キュラトリアル」を意図的に使い分けている。前者は、展覧会コンセプトを決定し、それに過不足ないアーティストや作品選定を経て、公的に開示するという一般的な展覧会制作を指し、後者は、展覧会という最終的な到達点を目指しながらも、それに至るまでの過程や継続に重きを置き、既存の制度への批判性を含みながらも有機的にそれを乗り越えようとする水平的な時間をイメージしている。また「キュレーティング」は行為自体を意味し、キュレーションとキュレトリアルを包括する動名詞と捉えている。ちなみに、どちらがより良いかは社会や文化状況によって異なり、後者のキュレトリアルを通した教育的な実践が美術関係者やオーディエンスを育てることもあるし、場合によっては、過度な議論や過程重視がアーティストを含む文化従事者を疲弊させることもあると考えている。なお、これらのキュレーティングに関する微細な言語運用の違いに関する議論は、以下に詳しい。大森俊克『コンテンポラリー・ファインアート:同時代としての美術』美術出版社、2014年、pp.369–396.
アーティストと協働する(秋田/2014〜2016)
学部では哲学科に属し、ジョルジュ・バタイユの思想や芸術論を学んでいた慶野は、大学卒業後、東京大学大学院学際情報学府に入学する。そこでは、東京大学が運営している総合研究博物館・インターメディアテクの館長である西野嘉章氏のもとで博物館工学/美術史学を学びつつ、美術館や展示への興味から、都内のいくつかの美術館でアルバイトやインターンを経験した。しかし大学院を修了後、秋田公立美術大学の助手として、社会貢献センター(当時)の事業にも関わる立場で働き出したことをきっかけに、そういった博物館制度下での、すでに「生」が抜き取られた人工品(資料や標本など)を扱うことから、「生」そのものであるアーティストと協働する現代美術の分野で社会と関わることになったという。実は、美術館での研修時に、美術館の現場は案外、アーティストの実制作と距離があることに気づいたことも大きかったそうだ。それを踏まえ、博物館や美術館内での学芸業務というよりはむしろ、実は自分は制作プロセスの側に身を置きたかったのかもしれない、と回想する。
その秋田では、大学周辺にある使われなくなった空き家をベースに、岩井優といった若手から中堅のアーティストに秋田を訪れてもらい、地域に所在する歴史や文化の継続的なリサーチや、一般市民や学生を巻き込んで定期的にディスカッションの機会を設けるなど、教育的かつ水平的な時間を内包するようなプロジェクトを行っていた。最終的には、秋田公立美術大学ギャラリー BIYONG POINT(ビヨンポイント)というホワイトキューブでの展示に加え、中心市街地にあるガレージを使用し、合計2箇所で展覧会を実現した。
その後、プロジェクトに関わった市民や学生たちに一体どのような変化があったのか検証のしようはないが、少なくとも大学と地域の連携を担ってきた「社会貢献センター」が母体となった「NPO法人アーツセンターあきた」が、今もなお、まちや地域住民自体にアプローチしている事業の数々を知る限り、慶野が実施したプロジェクトの本質は受け継がれているように推測する。
また筆者は、慶野の秋田での活動が、教育的な対話の時間の構築とともに、美学的な落とし所として空間をも志向していたという点で、「展示の趣旨と作品を前もって決め、それを公共に向けて提示する」といった単線的キュレーションというよりはむしろ、動的かつ「アーティストが秋田にいる」という環境自体への言及をも含めた、既存制度への挑戦があったと見る。[*2] そういった意味で、当レクチャーの主題でもある「artifact”(≒人工物)に優劣を付けず並列に捉える」という、ジャンル違いの成果物から過程をも分け隔てなく等価に価値を見出す態度や倫理は、思わぬところでマリア・リンドが提唱する「キュラトリアル(the curatorial)」に接近していなくもないということを考えた。[*3]
次に慶野は、パシフィックの地図をスライドに映し出し、自身の次のキャリアについて述べる。
[*2] Ibid., p.369.
[*3] Maria Lind, “The Curatorial” in Selected Maria Lind Writing, pp.57–66.
オセアニアはキュラトリアル先進地域?(サモア/2017〜2019)
2年半の秋田でのアーティストやプロジェクト参加者と協働する密接な時間を経て、ふと慶野の中に、また博物館に戻りたいという想いが突然沸き起こったという。色々なアーティストと接するなかで、秋田という実際の場所のいま・ここで何を行うかだけでなく、自身のキュレーティングの核や指針を見つける必要があったのだ。そういった動機とともに、慶野は青年海外協力隊に学芸員の枠組みがあることを知り、2017年1月よりサモア独立国にある国立博物館に赴任することとなる。
サモアは、オセアニアに位置する7つの小島からなる国であり、1899年から1962年まで、ドイツやニュージーランドを宗主国とする国際連合の委任統治領であったが、西サモアとして独立後、現在の名称となっている。お察しの通り、南東には東サモアがあり、その国は現在もアメリカ領だということだ。両国とも西欧の支配下に置かれたことをきっかけに、土着的な文化と、キリスト教を中心とした西洋文化との狭間で混交文化がつくられた。慶野は、そういった事象への興味がそもそもあったという。
国際ボランティアとして学芸員という立場で勤務することになったサモア国立博物館(Museum of Samoa)は、所蔵品は約500点、見学者は年間約3,000人という比較的小さなものであり、観光客や地元の学生が研修で来る程度の施設。そこまでたくさんの視線に晒されることはない一方、何より問題だったのは、その博物館に専門家が不在だったということ。自分たちだけでは、企画を立案し、コンテンツを揃え、空間に秩序立って情報を展示することができず、ニュージーランド等近隣諸国の文化機関から寄贈なり借用されたものをただ陳列したような展覧会を行っていたらしい。
そこで慶野が実施したことは、そういった基礎的な展示知識の伝達だった。それは一つ、日本が政府開発援助として実施している青年海外協力隊の参加者の使命だろう。ただそれと並行して、パシフィックという、多民族で構成されるこのフィールドの特質を踏まえ、オセアニアのキュレーティング自体の方法論やその背景を考えざるを得なかったという。その中でまず出てきた重要項目としては、サモアを含むパシフィックの文化自体が、いわゆる静的な展示向きというよりも、一回性や仮設性に価値を見出す、上演向きだったということである。[*4] その実例として、慶野は、半屋外で1930年に実施された農業祭 [国内産物の品評会](Agriculture show)の記録写真や、サモアの伝統文化であるファイン・マットがお披露目される瞬間の資料を映す。ようは、布という生活と一体となった形式を重要視する文化圏において、王宮の宝物が市民のものになったことを起源とする西洋由来のミュージアムの制度よりも、より観客と一体となった束の間の出来事を、観客と一時的に共有することこそが大事であり、そもそも展示芸術文化とは相入れないものがあるかもしれないということである。
ほかにもいくつか、オセアニアにおけるキュラトリアルの特性として、例えばオークランド博物館のPCAP(Pacific Collection Access Project)や、ニュージーランド国立博物館(Te Papa)の常設展、Asia Pacific Triennial of Contemporary Artでのコミュニティとアーティストの協働といった、重要な実例を紹介した。
[*4] 上演の性質に関しては、以下に詳しい定義がある。エリカ フィッシャー=リヒテ『演劇学へのいざない―研究の基礎』(山下純照、石田雄一、高橋慎也、新沼智之 訳)国書刊行会、2013年、pp.37–83.
また本章の最後には、自らがサモア国立博物館でキュレーティングした展覧会について説明する。詳しい内容については割愛するが、しかしここでもっとも興味深いところは、慶野がその展示に、耐久性を意図的に付与しなかったことだ。[*5] どういうことかというと、企画展であれ常設展であれ、基本的に展示物や説明資料等は簡単に落ちたりしないよう、壁にしっかりと固定するのが一般的だと思われるが、慶野は本企画において、あえてメンテナンスや補修をしないとパネルや写真が剥がれたり、落ちてしまうような仕掛けをした。もちろんそれに悪意があるわけではなく、定期的に人の手が加わらないと展示自体が成立しないよう、わざと弱い素材を使ったりしたのだという。そのあたりは、慶野が単なる展覧会の実現ではなく、慶野が立ち去った後も博物館にいる現地の人々に向けた、教育的かつキュラトリアルな実践のひとつだとも言えるのではないか。[*6]
[*5] 詳しい内容については、同じく本レクチャーについて書かれた三木学氏によるレビューに詳しい。三木学「アートにとってキュレーションするモノとは何か?」瓜生通信(2021年10月12日/2021年12月9日閲覧)
[*6] 後日談として、慶野が青年海外協力隊の業務を終えて立ち去ったあと、日本からSNS等で確認する限り、慶野が企画したその展示は、撤去されずに実は今も続いているようだという。オリジナルの形は保っていないと思われるものの、周りの展示品に合わせて、フレキシブルに展示空間はアレンジされているらしい。
場所とモノに対するキュラトリアルな実践(青森/2019〜)
本レクチャー最後のコンテンツとして、慶野が2019年より勤務している青森公立大学 国際芸術センター青森(ACAC)にて企画・実施したグループ展「いのちの裂け目―布が描き出す近代、青森から」が語られる。本展は、これまでACACが行ってきた「青森市所蔵作品展」の流れを汲みつつ、青森の民俗資料や文化財に何かしら関わることを前提に、日本からは碓井ゆい、遠藤薫の2名、台湾から林介文(リン・ジェーウェン/ラバイ・イヨン)が参加したもの。裂織や刺し子、ボロをはじめとする地元に根ざした布類や農具、戦前の女子教育・洋学受容、戦争と花火、台湾原住民族と日本の関わり等の様々なテーマを切り口に、3名のアーティストはそこから着想された作品を展示した。
中でもそのキュレーティングで制作された特筆すべき作品は、遠藤薫《閃光と落下傘》だろう。本作はちぎり絵で有名な画家・山下清が長岡の花火を見て残した有名なフレーズ「みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりつくっていたら きっと戦争なんて起きなかったんだな」に触発されてつくったものだという。第二次世界大戦末期、長岡空襲の後に青森も空襲を受けている。アーティストは青森をリサーチ中に偶然、市内の長島小学校で山下清が描いた花火のペン画の存在を知ったそうだ。つまり遠藤は、時に緊急用の脱出装置として人の命を助け、時に人を殺す道具としても用いられたパラシュートの両義性を、戦争をキーワードに青森以外の場所へも接続しようとしたのだ。
展覧会では、その花火にも似た大きな落下傘が開いた状態で展示されているその脇に、青森の暮らしのなかで生み出され、現在は文化財となっているものから、損傷などが激しいものが並んでいた。展示構成的にはもちろん、遠藤の作品の一部とはなっているものの、これまで慶野が貫いてきた「モノの併置」がここでも顔を出していると考えられる。
“ARTIFACT”(≒人工物)を通して、過去から現在へとつながる人間の生活や営みを考えること。慶野のキュレーティング・プラクティスは、これまで東西(the west and others)に執着しがちだった私自身のキュレーティングに、南北という新なパースペクティブを持ち込んだ。今後の彼女の活動に引き続き注視したい。
慶野結香(けいの・ゆか)
キュレーター/青森公立大学 国際芸術センター青森[ACAC]学芸員。1989年生まれ、神奈川県出身。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。2014–16年秋田公立美術大学ビジュアルアーツ専攻・社会貢献センター(現・NPO法人アーツセンターあきた)助手として、大学主催展覧会および大学ギャラリーBIYONG POINTの企画・運営に携わる。地域の空き家を利活用しアーティスト・イン・レジデンスを行った企画に、岩井優「習慣のとりこ―踊り、食べ、排便する。/見つめ、再生、指しゃぶり」(2015–16年)など。2017–19年サモア国立博物館(Museum of Samoa)派遣を経て、2019年4月より現職。国際芸術センター青森では、地域のリサーチと滞在制作による展覧会の企画・制作や、レジデンスプログラムの再編(共同企画)など、施設の可能性をさらに引き出す取り組みを行う。ACACでの主な企画に、展覧会「いのちの裂け目―布が描き出す近代、青森から」(2020年)、SIDE CORE/EVERYDAY HOLIDAY SQUAD 個展「under pressure」(2021年)など。