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GAT 039 ブレット・リットマン
イサム・ノグチ − イン・ビトウィーン(あいだで): Part 2

2025.04.28
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イサム・ノグチ(1904–1988)は、20世紀を代表する彫刻家の一人である。2018年から2023年までイサム・ノグチ財団および庭園美術館のディレクターを務めたブレット・リットマンは、ノグチの創作を「ものとものの間」にある空間から読み解く視点を提示する。本稿は、2023年4月18日に京都芸術大学で行われた彼のトークの概要である。

構成: 石井潤一郎(ICA京都)




イサム・ノグチ − イン・ビトウィーン(あいだで): Part 1』 へ



Part 2: 彫刻、陶芸、デッサン、そしてデザイン

話題を変えましょう。これからノグチの具体的な作品群についてお話ししたいと思います。

«Undine (Nadja)» 1926
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

ノグチはもともとアカデミックな彫刻家、具象彫刻家として訓練を受けました。これは1926年の作品《ウンディーネ(ナジャ)》で、当時の彼の恋人のひとりだったかもしれないロシア人ダンサーの肖像です。わたし自身はこの作品を実際に見たことはありませんが、現存していることは確認されています。

1920年代、ノグチが生計を立てるためには、肖像の胸像やレリーフを制作する必要がありました。こうした仕事を通じて、彼はニューヨークの知識人層や慈善家、他のアーティストたちと幅広く接点を持つことができました。彼はこの仕事を「頭を割ること(busting heads)」あるいは「頭を砕くこと(cracking heads)」と呼び、心から嫌っていました。それは彼にとって決して楽しい仕事ではありませんでしたが、キャリア初期において生活を支える唯一の手段だったのです。

«R. Buckminster Fuller» 1929
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

これはおそらく彼の肖像作品の中で最も有名なもののひとつ、初期のバックミンスター・フラーの肖像です。これは1929年の作品で、彼らが出会った1928年の翌年に制作されました。素材はすべてアルミニウムです。非常に力強い肖像で、実際にバックミンスター・フラーもこの作品をとても気に入っていました。

おそらくイサム・ノグチの作品のなかでも最も複雑で、最も困難なもののひとつが《死(リンチされた人体)》、1934年の作品です。これは全米黒人地位向上協会(NAACP)の依頼によって制作されました。

«Death (Lynched Figure)» 1934
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

この作品はもともと、リンチのイメージを扱った展覧会で展示される予定で、黒人キュレーターによって企画されていました。ノグチは最初にこの作品を商業ギャラリーに展示しましたが、あまりに強烈であったため、ギャラリー側に撤去されてしまいました。

その後、ノグチはこの作品を別の商業ギャラリーで再び展示しようとしましたが、やはり撤去されてしまいました。わたしたちはこの作品を収蔵品として保持しています。現在この作品を展示するには、特にアメリカにおいては、非常に多くの文脈を要します。それほどに強烈で、展示の難しい作品なのです。

次に取り上げたいのは、ノグチと「ダンス」との関係です。ノグチは1935年からマーサ・グラハムと協働し、舞台美術を手がけ始めました。彼はグラハムのために40以上の舞台装置をデザインし、エリック・ホーキンスのダンスグループのためにもいくつかの装置を、さらにジョージ・バランシンのためにもデザインを行いました。

ダンスと舞台美術は、ノグチの物語において非常に重要な要素です。ダンスの舞台セットを見れば見るほど、彼が身体というものとどう向き合っていたのか、そしてその身体が空間における彫刻とどう関係していたのかが、だんだんと見えてくるように思います。

«Frontier» 1935
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

こちらは、1935年にマーサ・グラハムの作品《フロンティア》のためにノグチが手がけた舞台セットです。ノグチがすでに1930年代初頭に日本を訪れた際にすでに能楽を見ていたのか、それとも能に強い関心を持っていたマーサ・グラハムが彼に影響を与えたのか、非常に興味深いところですが、その点ははっきりしません。

しかしノグチの舞台装置、特にこの《フロンティア》の装置は、舞台空間を彫刻的に構成しながら、その制限的な境界を定義するという点で、最も簡潔かつ抽象的な例と言えるでしょう。そしてこの考え方は、まさに能の伝統と通じるものがあります。2本のロープと1枚のフェンスによって、いかに広がりのある景観を創出できるか、という発想です。

ノグチは木を素材とした作品も手がけていました。ただし、これはあまり知られていない作品群のひとつです。ここでご紹介する写真の彫刻はすべて1920年代後半に制作されたもので、残念ながら現在どこにあるのか、あるいは現存しているのかどうかすら分かっていません。わたしたちの手元にあるのは、当時撮影された写真だけなのです。

«Musical Weathervane / Lunar Weather Vane» 1933
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

これらの作品は、もちろんノグチがブランクーシと接触した時期以降に制作されたものであり、ノグチが初めて抽象表現に本格的に取り組んだ例といえます。

彼はニューヨークに戻ると、すぐに具象彫刻に立ち戻ります。これらの抽象的な木彫作品はあまり定着しませんでしたが、木材は比較的安価で扱いやすい素材であったため、ある意味で自由に試せる材料だったのかもしれません。

次にご紹介する作品群は陶芸で、ノグチの作品の中でも最も「日本的」といえるものです。ノグチが陶芸作品を制作したのは、日本においてのみで、1930年、1950年、1951年、そして1952年のことでした。つまり、彼は本当に日本の土を愛しており、日本だけが自分が陶芸作品を作れる場所だと感じていました。

«Tamanishiki (The Wrestler) (Sumo) » 1931
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

«My Mu» 1950
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

この作品は《玉錦(力士)(相撲)》1931年、《私の無》1950年です。後者は、彼が短期間結婚していた日本人女優の妻とともに住んでいた北鎌倉のアトリエで制作されました。1950年からおよそ1952年までの間、彼はそのスタジオで非常に活発に制作を行っていました。

ノグチは、あまり頻繁にドローイングを行うタイプのアーティストではありませんでした。特に、彫刻作品については下描きをすることはほとんどありませんでした。それでも、一部にはドローイングによって取り組んだ作品群も存在しています。

«Paris Abstractions» 1928-1929
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

これらはわたしたちが《パリ抽象》と呼んでいる作品群で、1928年から1929年にかけて制作されたものであり、先ほど紹介した初期の木彫作品と非常に密接に関連しています。ノグチはこれを約150点制作し、美術館ではそのうち約100点を所蔵しています。非常に興味深い作品群で、ブランクーシからの深い影響が見て取れます。

次にご紹介するのは、デザインに関する作品群です。ここからは比較的テンポよく進めていきます。ただし最初にお伝えしておきたいのは、ノグチにとってインダストリアルデザインや一般的なデザインとは、常に「彫刻とは何か?」という問いの下にあるものでした。彼はそれらを彫刻と切り離された別の活動だとは考えておらず、すべては包括的に結びついていたのです。ノグチがデザインという対象に取り組むとき、彼は常にそれを彫刻的な観点から考えていました。

ノグチによる最初の既知のデザイン作品は《ホークアイ・メジャード・タイム》です。

«Hawkeye Measured Time» 1932
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

これは基本的にはキッチンタイマー/エッグタイマーで、1932年に制作されました。多くの人が、この作品は縄文時代初期の埋葬用彫刻に関連しているのではないかと言っていますし、また、ノグチが丹下健三のためにデザインした広島平和記念碑を思い起こさせる、いわゆる「マウンド(塚)」のような形でもあります。ただし、これはあくまで商業デザインで、20年ほど前まではeBayで10ドルほどで手に入れることができました。現在では2万ドルほどになっており、「これはノグチの作品だ」と多くの人が気づき始めているようです。

ノグチによる次のデザインは、ゼニス社のために1937年にデザインされた《ラジオ・ナース》です。これはチャールズ・リンドバーグの息子が誘拐された事件の後に制作されました。これは史上初の双方向ベビーモニターであり、赤ちゃんの部屋にスピーカーが設置されていました。

«Radio Nurse for Zenith» 1937
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

もし赤ちゃんが何かに邪魔されたり、泣いたりしたら、親の部屋でその音を聞くことができました。今日であれば、おそらく目にカメラを仕込んだテディベアがあって、ナニー(乳母)を見張ったりするようなことがあるかもしれませんが、これは実際には、赤ちゃんの安全のための双方向ラジオとしては最初の製品でした。

ノグチは、1937年頃にはすでに彫刻的なテーブル、つまり一点物のユニークなテーブルを制作し始めています。そうした作品は主に、一点もののオブジェを求める裕福なコレクターたちのために作られていました。

«Table for Conger Goodyear» 1939
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

これは《コンガー・グッドイヤーのためのテーブル》です。コンガー・グッドイヤーは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の理事長を務めていた人物です。このオブジェクトは現在、おそらくこれまで販売されたデザインオブジェの中でも最も高額なもののひとつでしょう。

このテーブルは、約10年前のオークションでおよそ450万ドル(約6億円強)で落札されました。完全な一点ものである彫刻的なテーブルであり、もちろんこの作品がきっかけとなって、ノグチが1944年にハーマン・ミラー社のためにデザインした《コーヒーテーブル》、つまり《コンガー・グッドイヤーのためのテーブル》の、より民主的なバージョンへとつながっていきます。

«Coffee Table» 1944
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

そしてもちろん《あかり》ランプも欠かせません。これは戦後、伝統的な和紙提灯の産業が衰退していた岐阜市の市長からの招待を受けて始まったプロジェクトです。市長は、ノグチに「どうすれば提灯産業を再生できるかを考えてほしい」と依頼しました。

«Akari» 1952-present
Photo courtesy of The Isamu Noguchi Foundation and Garden Museum

ノグチは、「紙の提灯の中に電球を入れる」という、それまで誰も考えなかったような独創的かつ奇抜なアイデアを思いつきました。この《あかり》は、現在も尾関家(株式会社オゼキ)によって製作されており、今日までに約197種類もの異なるバージョンが生産されています。

イサム・ノグチ − イン・ビトウィーン(あいだで): Part 3』




ブレット・リットマン(Brett Littman)

ブレット・リットマンは、2018年5月から2023年6月まで、ニューヨーク・ロングアイランドシティにあるイサム・ノグチ財団・庭園美術館の館長を務めました。2007年から2018年までザ・ドローイング・センターのエグゼクティブ・ディレクター、2003年から2007年までMoMA PS1の副館長、2001年から2003年までディウ・ドネ・ペーパーミルの共同ディレクター、そして1996年から2001年まではアーバン・グラスのアソシエイト・ディレクターを歴任しました。
リットマンの関心は学際的です。過去16年間で150以上の展覧会を監督、30以上の展覧会を個人的にキュレーションするなかで、視覚芸術、アウトサイダー・アート、工芸、デザイン、建築、詩、音楽、科学、文学を扱ってきました。2019年と2020年には、ロックフェラー・センターの フリーズ彫刻展(Frieze Sculpture)のキュレーターに任命されました。美術評論家、講師、美術館やギャラリーのカタログの活発なエッセイストにとどまらない、米国および国際的なアート、ファッション、デザイン雑誌での執筆など幅広く活躍しています。
生粋のニューヨーカーであるブレット・リットマンは、2017年にフランスから芸術文化勲章シュヴァリエを授与されました。同年、カリフォルニア大学サンディエゴ校で哲学の博士号を取得しています。

※ このトークは2023年4月18日に京都芸術大学で開催された。