注視なき世界——ポール・ハギス『サード・パーソン』
石谷 治寛
2014.06.23
昨晩ポール・ハギスの『サード・パーソン』を鑑賞した。私はオスカーを獲得した『クラッシュ』(2004年)は公開当時に見逃しているが、とりわけ彼が、クリント・イーストウッド監督作『父親たちの星条旗』(2006年)の脚本を書いており、同様の主題を、同時代のイラク戦争を主題にした監督作『告発のとき』(2007年)でも展開していたことから、目の離すことのできない脚本家・監督のひとりになっていた(『父親たちの星条旗』に関する著者のエッセイ)。彼が脚本に携わり2000年代に息を吹き返した『007』シリーズ(『カジノ・ロワイヤル』と『慰めの報酬』)ですら大好きな映画である。ハギス監督の前作『スリーデイズ』(2010年)は、無実の罪で投獄された妻を脱獄させる逃亡劇というジャンル映画に取り組んでおり、なかなかの佳作であった。ハギスが携わる映画の魅力は、戦争とその錯綜したトラウマ的記憶をめぐるメディアの様態の描写や、法や監視の網の目に取り込まれた日常のなかにその外部へのわずかな現実的な突破口を見つけ出そうとする等身大の人々が繰り広げる、徹底的に理知的で倫理的なプロットの構成にある。『サード・パーソン』は、そのハギスが50回脚本を書き直したと言い、リーアム・ニーソンほか、豪華キャストのアンサンブルを堪能できる野心作になっている(ハギスへの本作に関するインタビューはRealtokyoに掲載されている)。しかし、ヒロイズムを欠落させた物語の狙いと、計算高い複数の物語の交差というプロットの仕掛けが、初見ではすべての整合性を理解するのが不可能なほど複雑であるがゆえに、映画としては失敗作だという印象が否めないことは確かだ。実際公開初日だというのに、レイトショーのシネコンの劇場は閑散としていた。
本作の主題は、三つの都市(パリ、ローマ、ニューヨーク)を中心に二人の男女が、そこに不在の第三者ないし子供をめぐって、愛の物語を繰り広げるというものである。パリでは(ヴァンドームの円柱が画面に映る!)ピューリッツァー賞をかつて受賞した小説家が、新作を書くために籠っているホテルに、ジャーナリスト志望の若い愛人が訪れる。小説家は妻との離婚を決意しつつあるが、愛人の女性は素直に彼との関係を受けいれられない。ローマでは、イタリアのスーツのデザインを盗むために訪れているビジネスマンが英語の通じないアメリカン・バーでロマの女性と出会う。彼女は8歳の娘を人身売買の犠牲から自由にするためには大金が必要だと言う。この女は詐欺師の一味なのか、それとも本気でこのおせっかいなアメリカ人の助けを必要としているのか。ニューヨークでは抽象表現主義風の絵を描く芸術家が、小さな息子を殺しかけたという廉で、前妻の親権を取り上げるための調停を行っている。元ドラマ女優である彼女は生活費もなく、ホテルの清掃婦として日々の生活をつなぎながら、息子との再会を夢見ている。
それぞれのエピソードが、芸術と創作をめぐる寓話になっており、小説、ファッション、絵画がそれぞれ示唆されているということは、一考に値するかもしれないとは思うものの、アーティストである男性キャラクターは概ねエゴイスティックで、女性たちは皆、男性に抑圧され脅かされているようで悲壮感が漂っている。それらの陰惨な三つの物語が関連性も不明瞭なまま、目覚めと就寝の日夜のリズムにあわせて、並行するモンタージュによって物語が綴られていく。確かに、心に傷を抱えた初老の男と若い愛人の関係(オリヴィア・ワイルドが好演している)は『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(1972年)を思い起こさせるところもあり、細部のユーモアや、先の読めない愛の駆け引きの印象的な場面や演技が多々あるのだが、多くの観客の興味を惹き続けるに十分なドラマチックな展開には向かわないように思える。
ここからは映画の内容に踏み込むことになるので、未見の方は注意していただきたいが(複雑な本作の識者による解釈は公式ウェブサイトでも読むことができ、鑑賞後にもう一度考え直すことができるのも本作の楽しみのひとつである)、およそ共感を欠いた三つの主題の関連性とは、児童に対するネグレクトないし虐待という主題である。物語が進むにつれて、どうやらその主題は、小説家の創作の苦悩と、彼の抱える複雑性PTSD(養育時から複数の精神的外傷を経験しているため、その原因が一つに特定できないほどに解離が進んでいる)に関連しており、主人公の記憶や感情は、それぞれのエピソードに登場する人物に置き換えられて投影されているらしいことが見えてくる。解離性の多重人格を念頭においたプロットの構成はジェームズ・マンゴールド『アイデンティティ』(2003年)を思い出させるところもあり、決して目新しいものではない(『サード・パーソン』では、精神障害が創作行為に転換され、暴力が愛に転換されるという違いはあるが)。また、児童虐待や児童の人身売買の主題は、映画監督ブライアン・シンガーが男児への性的虐待によって(後に告訴は撤回された)、写真家テリー・リチャードソンが若いモデルに対するセクシャル・ハラスメントによって告発されている現在(レディ・ガガが彼の監督したMVをお蔵入りにした)、きわめてタイムリーであると言えるが、近年映画ではお馴染みの主題である。イタリア映画ではアフリカからの移民を描いた『13歳の夏に僕は生まれた』(2005年)やロシアからの人身売買を描いた『題名のない子守唄』(2006年)があるし、パリを舞台にした映画では、リーアム・ニーソンのアクション俳優としての転身作『96時間』(2008年)が、娘を人身売買組織に誘拐されて復讐する物語である。既にハギス自身がロサンゼルスを舞台にした『クラッシュ』で人種差別という主題とともに、鍵となるエピソードとして児童の人身売買が示唆されていた。またBBCが制作したジェーン・カンピオン監督による傑作ミニドラマシリーズ『トップ・オブ・ザ・レイク』(2013年)でもニュージーランドでの児童の人身売買リングがきわめて明解に描き出されていたことも付け加えておきたい。
ある種の既視感のある主題やプロットを接ぎ木した感もあるのが『サード・パーソン』であるが、それでも本作に意味があるとしたら、登場人物たちの不眠症や孤独や苛立ちや不注意の原因が、iPhoneのメッセージを知らせる強迫的なアラームとともに示唆されていることにある。あたかもアップル社の携帯電話などが、ネグレクトや虐待の犠牲となる子供の代償となっているかのようですらあるのだ。冒頭のシーンで小説家の妻は苛立ちから、携帯を水没させ、ローマのアメリカ人は、娘のメッセージを大事に保存し、ニューヨークの清掃婦はプリペイド電話の残量が足りず、親権を保つための重要な弁明の機会を逸す。『サード・パーソン』では、携帯電話の遍在性は、かつての身近な隣人が顔を合わせるバーや近親者のケアを育む家庭の環境を徹底的に荒廃させているものとして位置づけられているように思える。スマートフォンの浸透による、一方のコミュニケーションの過剰と他方での孤立によって親密圏の荒廃した先に、子供のネグレクトや虐待が常態と化しているかのようなのだ。
初期映画の巨匠D・W・グリフィス以来、児童虐待の主題とともに、その贖いを可能にするために映画が要請してきたのは、暴力の暴露や告白、その集結をもたらすまでの宙吊りの体験への共同の注視であった。いまや携帯電話による遠隔通信の遍在によって、そうした宙吊りの体験は絶えず中断され、注意散漫が常態化し、集団的な注意力は枯渇している。『サード・パーソン』では、映画の主人公である小説家とともに、観客は強迫的に「ウォッチ・ミー」という幻聴に絶えず悩まされ続けることで、他者に対するケアと警戒の減退が示唆される。注意深い観察や監視や告白では贖いが機能しなくなった荒涼とした世界のなかで、いかにして信頼と再生のオルタナティブなイメージがあり得るだろうか。『サード・パーソン』が、苦悩する小説家の背中の姿とともに、問題として投げかけているのは、少なくともそうした困難な問いであることは間違いない。本作で特筆すべきイメージとしては、信頼やケアの可能性として、夜の場面で、男女がどこで就寝をともにするか、しないかという選択や決断が繰り返し描かれることにある。暴力の気配や記憶はつねに潜んでいるが、それが直接的に描かれることはなく、愛の戯れへと反転される。夢を見るには年をとりすぎ、喪失感に絶えずつきまとわれている男女が、それでもなお、寄り添ったり、相手の訪問を待ったりすることに一抹の可能性が託されているように思える。本作が、こうした課題に応えることに成功しているかどうかの検証は今後見直してみる必要があるが、少なくともその可能性を模索し垣間見せてくれただけでも、私にとっては心強い試みであったことは、記憶にとどめておきたい。
本作の主題は、三つの都市(パリ、ローマ、ニューヨーク)を中心に二人の男女が、そこに不在の第三者ないし子供をめぐって、愛の物語を繰り広げるというものである。パリでは(ヴァンドームの円柱が画面に映る!)ピューリッツァー賞をかつて受賞した小説家が、新作を書くために籠っているホテルに、ジャーナリスト志望の若い愛人が訪れる。小説家は妻との離婚を決意しつつあるが、愛人の女性は素直に彼との関係を受けいれられない。ローマでは、イタリアのスーツのデザインを盗むために訪れているビジネスマンが英語の通じないアメリカン・バーでロマの女性と出会う。彼女は8歳の娘を人身売買の犠牲から自由にするためには大金が必要だと言う。この女は詐欺師の一味なのか、それとも本気でこのおせっかいなアメリカ人の助けを必要としているのか。ニューヨークでは抽象表現主義風の絵を描く芸術家が、小さな息子を殺しかけたという廉で、前妻の親権を取り上げるための調停を行っている。元ドラマ女優である彼女は生活費もなく、ホテルの清掃婦として日々の生活をつなぎながら、息子との再会を夢見ている。
それぞれのエピソードが、芸術と創作をめぐる寓話になっており、小説、ファッション、絵画がそれぞれ示唆されているということは、一考に値するかもしれないとは思うものの、アーティストである男性キャラクターは概ねエゴイスティックで、女性たちは皆、男性に抑圧され脅かされているようで悲壮感が漂っている。それらの陰惨な三つの物語が関連性も不明瞭なまま、目覚めと就寝の日夜のリズムにあわせて、並行するモンタージュによって物語が綴られていく。確かに、心に傷を抱えた初老の男と若い愛人の関係(オリヴィア・ワイルドが好演している)は『ラスト・タンゴ・イン・パリ』(1972年)を思い起こさせるところもあり、細部のユーモアや、先の読めない愛の駆け引きの印象的な場面や演技が多々あるのだが、多くの観客の興味を惹き続けるに十分なドラマチックな展開には向かわないように思える。
ここからは映画の内容に踏み込むことになるので、未見の方は注意していただきたいが(複雑な本作の識者による解釈は公式ウェブサイトでも読むことができ、鑑賞後にもう一度考え直すことができるのも本作の楽しみのひとつである)、およそ共感を欠いた三つの主題の関連性とは、児童に対するネグレクトないし虐待という主題である。物語が進むにつれて、どうやらその主題は、小説家の創作の苦悩と、彼の抱える複雑性PTSD(養育時から複数の精神的外傷を経験しているため、その原因が一つに特定できないほどに解離が進んでいる)に関連しており、主人公の記憶や感情は、それぞれのエピソードに登場する人物に置き換えられて投影されているらしいことが見えてくる。解離性の多重人格を念頭においたプロットの構成はジェームズ・マンゴールド『アイデンティティ』(2003年)を思い出させるところもあり、決して目新しいものではない(『サード・パーソン』では、精神障害が創作行為に転換され、暴力が愛に転換されるという違いはあるが)。また、児童虐待や児童の人身売買の主題は、映画監督ブライアン・シンガーが男児への性的虐待によって(後に告訴は撤回された)、写真家テリー・リチャードソンが若いモデルに対するセクシャル・ハラスメントによって告発されている現在(レディ・ガガが彼の監督したMVをお蔵入りにした)、きわめてタイムリーであると言えるが、近年映画ではお馴染みの主題である。イタリア映画ではアフリカからの移民を描いた『13歳の夏に僕は生まれた』(2005年)やロシアからの人身売買を描いた『題名のない子守唄』(2006年)があるし、パリを舞台にした映画では、リーアム・ニーソンのアクション俳優としての転身作『96時間』(2008年)が、娘を人身売買組織に誘拐されて復讐する物語である。既にハギス自身がロサンゼルスを舞台にした『クラッシュ』で人種差別という主題とともに、鍵となるエピソードとして児童の人身売買が示唆されていた。またBBCが制作したジェーン・カンピオン監督による傑作ミニドラマシリーズ『トップ・オブ・ザ・レイク』(2013年)でもニュージーランドでの児童の人身売買リングがきわめて明解に描き出されていたことも付け加えておきたい。
ある種の既視感のある主題やプロットを接ぎ木した感もあるのが『サード・パーソン』であるが、それでも本作に意味があるとしたら、登場人物たちの不眠症や孤独や苛立ちや不注意の原因が、iPhoneのメッセージを知らせる強迫的なアラームとともに示唆されていることにある。あたかもアップル社の携帯電話などが、ネグレクトや虐待の犠牲となる子供の代償となっているかのようですらあるのだ。冒頭のシーンで小説家の妻は苛立ちから、携帯を水没させ、ローマのアメリカ人は、娘のメッセージを大事に保存し、ニューヨークの清掃婦はプリペイド電話の残量が足りず、親権を保つための重要な弁明の機会を逸す。『サード・パーソン』では、携帯電話の遍在性は、かつての身近な隣人が顔を合わせるバーや近親者のケアを育む家庭の環境を徹底的に荒廃させているものとして位置づけられているように思える。スマートフォンの浸透による、一方のコミュニケーションの過剰と他方での孤立によって親密圏の荒廃した先に、子供のネグレクトや虐待が常態と化しているかのようなのだ。
初期映画の巨匠D・W・グリフィス以来、児童虐待の主題とともに、その贖いを可能にするために映画が要請してきたのは、暴力の暴露や告白、その集結をもたらすまでの宙吊りの体験への共同の注視であった。いまや携帯電話による遠隔通信の遍在によって、そうした宙吊りの体験は絶えず中断され、注意散漫が常態化し、集団的な注意力は枯渇している。『サード・パーソン』では、映画の主人公である小説家とともに、観客は強迫的に「ウォッチ・ミー」という幻聴に絶えず悩まされ続けることで、他者に対するケアと警戒の減退が示唆される。注意深い観察や監視や告白では贖いが機能しなくなった荒涼とした世界のなかで、いかにして信頼と再生のオルタナティブなイメージがあり得るだろうか。『サード・パーソン』が、苦悩する小説家の背中の姿とともに、問題として投げかけているのは、少なくともそうした困難な問いであることは間違いない。本作で特筆すべきイメージとしては、信頼やケアの可能性として、夜の場面で、男女がどこで就寝をともにするか、しないかという選択や決断が繰り返し描かれることにある。暴力の気配や記憶はつねに潜んでいるが、それが直接的に描かれることはなく、愛の戯れへと反転される。夢を見るには年をとりすぎ、喪失感に絶えずつきまとわれている男女が、それでもなお、寄り添ったり、相手の訪問を待ったりすることに一抹の可能性が託されているように思える。本作が、こうした課題に応えることに成功しているかどうかの検証は今後見直してみる必要があるが、少なくともその可能性を模索し垣間見せてくれただけでも、私にとっては心強い試みであったことは、記憶にとどめておきたい。