アピチャッポンとミヤギ
浅田 彰
2014.06.13
サッカーのワールドカップ・ブラジル大会が始まった。日本では、施設の完成が直前までずれ込んだことや、民衆の反対デモが広がったことを、あたかも「後進国」の問題であるかのように報ずる論調が目についたが、ブラジルのような「サッカー王国」で「こんなグローバル資本主義のスペクタクルに巨額の公費を投ずるくらいなら他にすべきことが山ほどあるはずだ」という正論が意外な広がりを見せたことは、この国の民主主義の成熟を物語っているのではないか。少なくとも、原子力発電所事故を抱えたまま「事態はコントロールされている」という首相の嘘でオリンピック招致を勝ち取ってすっかりお祭り気分になっているどこかの国より、はるかに「民度」が高いと言うべきだろう。
そういうわけで、ワールド・カップ初日のニュースを見るかわりに、私はアピチャッポン・ウィーラセタクンの『Phantoms of Nabua』(2009年:日本では「ヨコハマトリエンナーレ2011」で「Primitive」プロジェクトの一環として展示された)を見直すことにした。このタイの映像作家の作品には、熱帯のジャングルの気怠い時間が流れている。だが、そこには目に見えない死者たちの幽霊も浮遊しているようなのだ。たとえばナブアは1960年代に共産主義者掃討という名目でタイ国軍の攻撃を受け、一時は村から男がいなくなったとさえ言われたらしい。そうした死者の霊を慰めるお盆の火祭りのように、ジャングルの一画にあるらしいサッカー・コートで、夜、不思議な儀式が行われる。まず、放電と花火。その様子がゴールに張ったスクリーンに映し出される一方、若者たちが激しく燃える火球を蹴り合ってサッカーの試合に興ずる。火球のロング・シュートがミサイルのような音をたてるところは、なかなかの迫力だ。やがて、その火がゴールのスクリーンに燃え移り、スクリーンが燃え落ちたところで、試合は——そしてこの映像作品は終わる。
この『Phantoms of Nabua』を含むアピチャッポンの個展が京都市立芸術大学の@KCUAで開催されている。題して「Photophobia」。「羞明」という難しい訳語が当てられているが、直訳すれば「光恐怖」だ。光は見えないものを見えるようにしてくれる半面、見てはならないものも暴き出し、そこに視線を集中させることで他のものを見えなくしもする。これはそんな光の両義性をテーマとする展覧会なのだ。熱帯の夜、フラッシュ・ライトを浴びて一瞬浮かび上がり、やがてまた闇に沈む、ゴーストのようなものたち…。アピチャッポンは2010年のカンヌ映画祭でパルムドールを獲得した『ブンミおじさんの森』(実のところ彼の代表作と言えるかどうか疑問だ)をはじめとする映画で世界的に知られているが、もっぱらフォトジェニーを追求する映画監督たちとはまったく異質な感受性をもったアーティストであることを、複雑な陰影に満ちたこの展覧会はよく示している。
このアピチャッポン展と同時に、@KCUAと堀川団地のサテライト会場ではミヤギフトシの個展「American Boyfriend : Bodies of Water」も始まった。南方系のゲイの映像作家というだけでこの二人を組み合わせるのはいささか安易なようにも思われたのだが、並べてみると実はいろいろな共通点が見えてくる。その意味でなかなか面白い企画と言うべきだろう。
堀川団地で上映されている『Ocean View Resort』(2013)は、昨年、東京の Raum 1F で披露された、一人称の語りを軸とする映像作品だ。沖縄本島の西の方にある故郷の島に帰った語り手は、祖父の葬儀のためにやはり島に帰っている幼馴染のYと出会う。戦争中、この島にも日本兵が駐留し、沖縄戦終結後も無益な戦いを続けて、少なからぬ島民を道連れにした。やがて戦争が終わり、浜辺にアメリカ軍の収容所が置かれたが、そこはやがて「Ocean View Resort」というホテルになり、一時は日本本土からの観光客で賑わったものの、いまではすっかりさびれてしまっている。実はYの祖父はここで収容所に入れられていたとき若いアメリカ兵と出会い、彼の聴いていたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番をフェンス越しに聴いて好きになった。祖父の遺品を整理していたYは、弦楽四重奏曲のレコード・ジャケットからこぼれ落ちたアメリカ兵の写真を見つける(この写真は会場に展示されているが、それはミヤギの見つけたファウンド・フォトだ)。一貫して流れる弦楽四重奏曲の第3楽章(「病いの癒えた者が神に捧げるリディア旋法の聖なる感謝の歌」と題された美しい音楽)。抑制された、しかし静かな説得力をもつ、ミヤギによる英語の語り。その語りに象徴されるように、隅々まで注意深く構成された、これは端正な映像詩である。とくに、表通りから離れた静かな一画にある Raum 1F でこの作品を最初に見たときは、いささか美しすぎるという印象も受けた。このベートーヴェンの音楽はゴダールが決まって引用するものだからあえて言うとするなら、ゴダールの映画をマイルドにしてきれいにまとめたというような印象…。「美しいままに残しておく」(沖縄を舞台とする映画『Teahouse of the August Moon』でアメリカに連れて行ってほしいという女性の願いを拒んでアメリカ軍人の言う台詞の一部で、バナーに引用されている)のではなくその先まで行かないとアートとしてのインパクトに欠けるという批判も可能ではないか。しかし、表面が端正に整っているからこそ、背後にある戦争の問題やセクシュアリティの問題が逆に際立つということもあるわけで、これはこれでよかったのかもしれない…。そんなアンビヴァレントな感想を作家に書き送った記憶がある。他方、今回の堀川団地の会場はクルマの往来が激しい堀川通りに面しているので、この作品をゆっくり味わうのに最適とは言い難い。逆に言えば、この会場と、@KCUAでの関連展示会場とが、そうやって分断されているところに、ゴダール的とも言えるアクチュアリティを見て取ることもできなくはない——というのはさすがに強弁としても、クルマのノイズの中で見直した『Ocean View Resort』はやはり確かな説得力をもって私に強い印象を与えた。
もうひとつ、@KCUA会場に新しい映像作品『River』(2014)も加わっていたことに触れておこう。雪のない沖縄で聴いて、歌の中に出てくる雪景色に憧れた、ジョニ・ミッチェルの「River」。その歌詞が黒板に書かれてゆくにつれ、チョークの粉が雪のようにきらきらと舞う。美しい無言歌である。近くには、割れたスノードーム。おもちゃの守礼門の上に舞っていた雪の粉が周囲にこぼれ出てきらきら輝いている…。それだけではセンチメンタルに過ぎるかもしれない。しかし、それと黒板の無言歌とを組み合わせる精妙な構成が、作品全体にセンチメンタリズムを超えた端正な美しさを与えているのである。
最後にもう一言。先ほどは触れなかったが、『Ocean View Resort』で語り手は少年時代にYの自転車に二人乗りしたときのことを思い出す。日本軍に殺された人々の眠る墓地を通りかかったとき、Yが幽霊に取り憑かれないように目をつぶれと言うので、語り手は目を閉じ、それまで自転車の荷台をつかんでいた手をYの肩にかける。こうして米兵とYの祖父の関係にYと語り手の関係が重ねられてゆくのだが、これはアピチャッポンの映画に出てきてもおかしくないエピソードではあるまいか。むろん、表面的にテーマが共通しているからといって両者の作品の構造やトーンが大きく違っていることを忘れるわけにはいかない。だが、そこにはまた不思議に通じ合うものも確かに存在するのだ。『River』のチョークの粉がきらきら舞い踊るのを眺め、薄暗い部屋の中に舞うほこりを同じようにとらえたアピチャッポンの映像を思い出しながら、私はそんなことを考えていた。
付記:
ミヤギフトシの「American Boyfriend」プロジェクトについてはネットにサイトがあり、『美術手帖』7月号にも関連記事が掲載されている。
そういうわけで、ワールド・カップ初日のニュースを見るかわりに、私はアピチャッポン・ウィーラセタクンの『Phantoms of Nabua』(2009年:日本では「ヨコハマトリエンナーレ2011」で「Primitive」プロジェクトの一環として展示された)を見直すことにした。このタイの映像作家の作品には、熱帯のジャングルの気怠い時間が流れている。だが、そこには目に見えない死者たちの幽霊も浮遊しているようなのだ。たとえばナブアは1960年代に共産主義者掃討という名目でタイ国軍の攻撃を受け、一時は村から男がいなくなったとさえ言われたらしい。そうした死者の霊を慰めるお盆の火祭りのように、ジャングルの一画にあるらしいサッカー・コートで、夜、不思議な儀式が行われる。まず、放電と花火。その様子がゴールに張ったスクリーンに映し出される一方、若者たちが激しく燃える火球を蹴り合ってサッカーの試合に興ずる。火球のロング・シュートがミサイルのような音をたてるところは、なかなかの迫力だ。やがて、その火がゴールのスクリーンに燃え移り、スクリーンが燃え落ちたところで、試合は——そしてこの映像作品は終わる。
この『Phantoms of Nabua』を含むアピチャッポンの個展が京都市立芸術大学の@KCUAで開催されている。題して「Photophobia」。「羞明」という難しい訳語が当てられているが、直訳すれば「光恐怖」だ。光は見えないものを見えるようにしてくれる半面、見てはならないものも暴き出し、そこに視線を集中させることで他のものを見えなくしもする。これはそんな光の両義性をテーマとする展覧会なのだ。熱帯の夜、フラッシュ・ライトを浴びて一瞬浮かび上がり、やがてまた闇に沈む、ゴーストのようなものたち…。アピチャッポンは2010年のカンヌ映画祭でパルムドールを獲得した『ブンミおじさんの森』(実のところ彼の代表作と言えるかどうか疑問だ)をはじめとする映画で世界的に知られているが、もっぱらフォトジェニーを追求する映画監督たちとはまったく異質な感受性をもったアーティストであることを、複雑な陰影に満ちたこの展覧会はよく示している。
このアピチャッポン展と同時に、@KCUAと堀川団地のサテライト会場ではミヤギフトシの個展「American Boyfriend : Bodies of Water」も始まった。南方系のゲイの映像作家というだけでこの二人を組み合わせるのはいささか安易なようにも思われたのだが、並べてみると実はいろいろな共通点が見えてくる。その意味でなかなか面白い企画と言うべきだろう。
堀川団地で上映されている『Ocean View Resort』(2013)は、昨年、東京の Raum 1F で披露された、一人称の語りを軸とする映像作品だ。沖縄本島の西の方にある故郷の島に帰った語り手は、祖父の葬儀のためにやはり島に帰っている幼馴染のYと出会う。戦争中、この島にも日本兵が駐留し、沖縄戦終結後も無益な戦いを続けて、少なからぬ島民を道連れにした。やがて戦争が終わり、浜辺にアメリカ軍の収容所が置かれたが、そこはやがて「Ocean View Resort」というホテルになり、一時は日本本土からの観光客で賑わったものの、いまではすっかりさびれてしまっている。実はYの祖父はここで収容所に入れられていたとき若いアメリカ兵と出会い、彼の聴いていたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番をフェンス越しに聴いて好きになった。祖父の遺品を整理していたYは、弦楽四重奏曲のレコード・ジャケットからこぼれ落ちたアメリカ兵の写真を見つける(この写真は会場に展示されているが、それはミヤギの見つけたファウンド・フォトだ)。一貫して流れる弦楽四重奏曲の第3楽章(「病いの癒えた者が神に捧げるリディア旋法の聖なる感謝の歌」と題された美しい音楽)。抑制された、しかし静かな説得力をもつ、ミヤギによる英語の語り。その語りに象徴されるように、隅々まで注意深く構成された、これは端正な映像詩である。とくに、表通りから離れた静かな一画にある Raum 1F でこの作品を最初に見たときは、いささか美しすぎるという印象も受けた。このベートーヴェンの音楽はゴダールが決まって引用するものだからあえて言うとするなら、ゴダールの映画をマイルドにしてきれいにまとめたというような印象…。「美しいままに残しておく」(沖縄を舞台とする映画『Teahouse of the August Moon』でアメリカに連れて行ってほしいという女性の願いを拒んでアメリカ軍人の言う台詞の一部で、バナーに引用されている)のではなくその先まで行かないとアートとしてのインパクトに欠けるという批判も可能ではないか。しかし、表面が端正に整っているからこそ、背後にある戦争の問題やセクシュアリティの問題が逆に際立つということもあるわけで、これはこれでよかったのかもしれない…。そんなアンビヴァレントな感想を作家に書き送った記憶がある。他方、今回の堀川団地の会場はクルマの往来が激しい堀川通りに面しているので、この作品をゆっくり味わうのに最適とは言い難い。逆に言えば、この会場と、@KCUAでの関連展示会場とが、そうやって分断されているところに、ゴダール的とも言えるアクチュアリティを見て取ることもできなくはない——というのはさすがに強弁としても、クルマのノイズの中で見直した『Ocean View Resort』はやはり確かな説得力をもって私に強い印象を与えた。
もうひとつ、@KCUA会場に新しい映像作品『River』(2014)も加わっていたことに触れておこう。雪のない沖縄で聴いて、歌の中に出てくる雪景色に憧れた、ジョニ・ミッチェルの「River」。その歌詞が黒板に書かれてゆくにつれ、チョークの粉が雪のようにきらきらと舞う。美しい無言歌である。近くには、割れたスノードーム。おもちゃの守礼門の上に舞っていた雪の粉が周囲にこぼれ出てきらきら輝いている…。それだけではセンチメンタルに過ぎるかもしれない。しかし、それと黒板の無言歌とを組み合わせる精妙な構成が、作品全体にセンチメンタリズムを超えた端正な美しさを与えているのである。
最後にもう一言。先ほどは触れなかったが、『Ocean View Resort』で語り手は少年時代にYの自転車に二人乗りしたときのことを思い出す。日本軍に殺された人々の眠る墓地を通りかかったとき、Yが幽霊に取り憑かれないように目をつぶれと言うので、語り手は目を閉じ、それまで自転車の荷台をつかんでいた手をYの肩にかける。こうして米兵とYの祖父の関係にYと語り手の関係が重ねられてゆくのだが、これはアピチャッポンの映画に出てきてもおかしくないエピソードではあるまいか。むろん、表面的にテーマが共通しているからといって両者の作品の構造やトーンが大きく違っていることを忘れるわけにはいかない。だが、そこにはまた不思議に通じ合うものも確かに存在するのだ。『River』のチョークの粉がきらきら舞い踊るのを眺め、薄暗い部屋の中に舞うほこりを同じようにとらえたアピチャッポンの映像を思い出しながら、私はそんなことを考えていた。
付記:
ミヤギフトシの「American Boyfriend」プロジェクトについてはネットにサイトがあり、『美術手帖』7月号にも関連記事が掲載されている。