ARICA+金氏徹平による《しあわせな日々》——テリトリー化されたベケット?
浅田 彰
2014.11.29
ARICA+金氏徹平による《しあわせな日々》の公演を見た(京都芸術劇場・春秋座、11月29・30日:もともと「あいちトリエンナーレ2013」で初演された舞台である)。面白かった。しかし、ベケットをここまで面白くするべきだろうか。
ただ一度だけ、高校2年のとき同級生がベケットの『ゴドーを待ちながら』の上演を企てたので、スタッフとして付き合ったことがある。そのとき初めて英仏語の原文も一応読んだし(私の通っていた洛星中・高等学校はカナダの修道会がやっていて、カナダから来た教師たちに初歩的なフランス語の読み方を教えてもらうことができた)、高橋康也の『サミュエル・ベケット』(研究社)も読んで大きな知的刺激を受けた(その後のベケット研究の進展を知らないわけではないが、ベケットとは、さらに近代とは何かを知るための簡潔でシャープな入門書として、この本は今でも価値を失っていないと思う)。そのとき以来、ベケットは私にとって重要な存在となった。考えてみれば、人間的な、あまりに人間的な演劇に食傷していた私にとっても、いわば人間が人間でなくなる地点に接近する——後のドゥルーズの定義によれば人間的な「疲労」を超えて非人間的な「消尽」(「枯渇」と訳してもよい)にまで至るベケットの作品は、狭義の演劇の枠を超えたものと見えていたのだろう。
次に舞台装置の問題がある。ベケットの指定では、「最後の人間」の一人であるウィニーは、一幕では腰の上あたり、二幕では首まで砂に埋もれたまま、えんえんと一人語りを続ける。他方、今回の公演で装置を担当した金氏徹平(注)は、古いおもちゃ箱をぶちまけたかのように、さまざまなガラクタを積み上げた山を、舞台の中央につくってみせた。ひとつひとつのアイテム、またそれらのつながり方が面白く、見ていて飽きることがないし、二幕になっていくつかのパーツが山から落ちてゆくところも面白い。人間がものに接近する一方、ものが人間のように(あるいは人間以上に)チャーミングなキャラクターとなって演技を始めたかのようだ。しかし、それはベケットの想定した「消尽」の空間としての砂の舞台とはかなり異質なのではないか。さらに、ウィニーは山のてっぺんにいるため、砂に埋められているというより、ガラクタの山に君臨している、あるいはガラクタの山を巨大なスカートとしてはいているようにも見える(苔むした帽子をかぶり、山の一部となったかに見える場面などもあるのだが)。これもまたベケットの想定とはかなり異質なのではないか。
ともあれ、この舞台装置、そして多弁な音楽・音響効果(ベケットの指定通りレハールの《メリー・ウィドウ(陽気な未亡人)》のメロディがオルゴールから流れるところなどはうまく処理されている)や、古典的な(中央の山の上のウィニーにスポットライトを当てる)照明に支えられて、ARICA+金氏徹平の《しあわせな日々》は多彩な展開を見せる。最初に言った通り、これは実に面白い舞台だ。むろん、ベケットの演劇が道化芝居を重要なパラダイムとしていることを考えても、面白くていけないわけではない。裏を返せば、しかし、それは非人間的な「消尽」ではなく、人間的な「疲労」と「退屈」に至る手前で観客——とくにマンガやアニメの世代の短いアテンション・スパンしか持たない観客を飽きさせないための、サーヴィス過剰なパフォーマンスとも言えるのではないか。もとより、ベケットのテクストだからといって、彼の細かな指示に従い、従来どおりの形で上演しなければならないわけではない。ARICA+金氏徹平の《しあわせな日々》は、言ってみれば21世紀のベケットのひとつの形なのだろう。その面白さを認めつつ、いや、それゆえにこそ、私はやはり20世紀のベケットの方を選びたいと思う。
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〈注〉
金氏徹平の装置による舞台はいまのところ今回の《しあわせな日々》しか観ていないが、東京都現代美術館での「新たな系譜学を求めて――跳躍/痕跡/身体」展(2014年9月27日-2015年1月4日)や京都芸術センターでの「四角い液体、メタリックなメモリー」展(10月4日-11月3日)で相次いで公開された近作に見る、「小さなゴミ」から「大きなゴミ」への重心の移動(揶揄して言うのではない)は、たいへん興味深い。金氏徹平の作品を初めて見たのは、大阪にあった児玉画廊での2002年の個展だと思うが、その頃から彼はプラモデルのパーツのような「小さなゴミ」を並べた上に石膏を流しかける(それによって我有化する)といった作品をつくってきた(《しあわせな日々》のガタクタの山の前面下方にもそれらしい部分がある)。そこには多少ともフェティシスティックな自閉性と湿度が感じられる。ところが、「大きなゴミ」はそういう主観的閉域に閉じ込めることができず、作者はそれらを一見無造作に、しかし細心の注意を払って——正確に言い直せば、無造作に見えるように細心の注意を払って——ごろりと転がしておくのだ。たとえば、《しあわせな日々》のガラクタの山の右手には、バケツを重ねて運ぶ器具(?)が横倒しにしてある、ただそれだけのものが何と面白く見えることか。この風通しのよさと乾いたトーンは、金氏作品にかつてなかった、あるいはあっても目立たなかった魅力であり、演劇における他者とのコラボレーションがこの変化をもたらした一因であるとすれば、たいへん興味深い。問題があるすればただひとつ、それがベケットの世界にどこまで適しているかということだ(ちなみに、東京都現代美術館に展示されているのは、《家電のように解り合えない》[あうるすぽっとプロデュース、岡田利規作・演出;2011年]の装置らしく、傍らには岡田利規のカンパニーであるチェルフィッチュの新作インスタレーション《4つの瑣末な 駅のあるある》が展示されているが、まっすぐ立って明晰に話すこともできず、体をくねくねさせながら「セルフィッシュ」を「チェルフィッチュ」と言ってしまうような出来損ないの若者たちに密着し、彼らの生態を精密に観察して様式化していく、その一種のリアリズムに敬意を払わないわけではないものの、そこまで下らないものをそこまで努力して作品化する必要があるのかというナイーヴな疑問を禁じ得ないというのが、このブログの2012年10月27日のエントリー「ポツドールとブリュイエール」の注にも書いたチェルフィッチュに対する感想であり、今回の新作もゆっくり見る気にはなれなかった)。他方、京都市立芸術大学の @KCUA で開催されている「舞台がぼんやり見えてきた」展(11月22日-12月7日)も、ワークショップのための舞台装置のようなものだが、Tom Woolner および山本麻紀子とのコラボレーションということもあって、あまりに混沌とした印象だった。そこには一種の書き割りも含まれるが、たとえば高谷史郎の《Chroma》の海辺のシーンでの書き割りの扱いの驚くべき洗練に比べると、児戯に等しいと言わざるを得ない(彼らが児戯に徹しようとしているのだとすればこれは有効な批判にはならないし、そもそも目指す方向が正反対なのだろうからこの比較自体に無理があると言われるかもしれないけれど)。
なお、舞台を離れて言えば、東京の ShugoArts での「MATERIAL ANALYSIS」展(11月15日-12月20日)と京都の Hotel Anteroom Gallery9.5 での「DAYDREAM with GRAVITY」展(2014年11月29日-2015年1月11日)も、金氏徹平を中心とするグループ展である。とくに前者は、「小さなゴミ」から「大きなゴミ」に至るアーティストの歩みを、他の種類の作品も含めてざっと見通すには恰好の機会であり、彼の作品群が Kesang Lamdark と Lee Kit という異質なアーティストたちの作品のフレームとして機能しているように見えるところも面白い。Kesang Lamdark にはゴミとして捨てられた空き缶の底に小さな穴をあけてさまざまなものを描いた一連の作品があり、金氏徹平と似ているようだが、チベットのラマ僧を父としてインドに生まれスイスで育った彼がそこに描き込んでいるのは、中国の支配に抗議する焼身自殺だったりするのだ。興味深い対照ではある。
◇
その前にまず断っておくが、私はもちろん演劇の専門家ではなく、舞台もそれほど観ていないので、批評家めいたことを言う資格はない。祖父母が能に熱中していたので幼い頃から能には親しみがあったし、他方、映像などを通して知るようになったピーター・ブルックや寺山修司らの前衛的な舞台には興味をもったが、中途半端にリアリスティックな演劇、とくに中学や高校の演劇部でよく見られるその劣化形態が大嫌いだった(体育会は嫌いだったけれど、演劇部はそれ以上に嫌いだったというのが正直なところだ。ちなみに、演劇部と並んで嫌いなのが生徒会、それらを結びつけたものの代表格が現在で言えば平田オリザ的なるものということになるだろう)。だから、その後も、マース・カニンガムやトリシャ・ブラウン、ピナ・バウシュやウィリアム・フォーサイスらのダンス、あるいは、ロバート・ウィルソンやローリー・アンダーソン、そして同世代のダムタイプが切り開きつつあったマルチメディア・パフォーマンスに強く惹かれた半面、典型的な演劇からは必要以上に距離をとってしまったのかもしれない。ただ一度だけ、高校2年のとき同級生がベケットの『ゴドーを待ちながら』の上演を企てたので、スタッフとして付き合ったことがある。そのとき初めて英仏語の原文も一応読んだし(私の通っていた洛星中・高等学校はカナダの修道会がやっていて、カナダから来た教師たちに初歩的なフランス語の読み方を教えてもらうことができた)、高橋康也の『サミュエル・ベケット』(研究社)も読んで大きな知的刺激を受けた(その後のベケット研究の進展を知らないわけではないが、ベケットとは、さらに近代とは何かを知るための簡潔でシャープな入門書として、この本は今でも価値を失っていないと思う)。そのとき以来、ベケットは私にとって重要な存在となった。考えてみれば、人間的な、あまりに人間的な演劇に食傷していた私にとっても、いわば人間が人間でなくなる地点に接近する——後のドゥルーズの定義によれば人間的な「疲労」を超えて非人間的な「消尽」(「枯渇」と訳してもよい)にまで至るベケットの作品は、狭義の演劇の枠を超えたものと見えていたのだろう。
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ここで《しあわせな日々》に戻ろう。この公演はテクストとして倉石信乃による新訳を使っている。訳稿は読んでいないが、こなれた日本語になっており、ほとんどの台詞を語るウィニー役の安藤朋子(太田省吾の転形劇場の女優として知られる)が芸達者なこと、しかもマイクで微かな息遣いまで拾っていることもあって、聴いていてたいへんわかりやすい。しかし、それがすでに問題といえば問題だ。ベケットは故郷のアイルランドからパリに移り住み、いわば英語とフランス語の間で書き続けた作家である。そのエクリチュールは師のジェイムズ・ジョイスとは対極的にシンプルな場合が多いけれど、英語らしい英語、フランス語らしいフランス語とは微妙に違うのだ。それを、聴いて自然に理解できる日本語にしてしまうこと、ドゥルーズ&ガタリの言葉で言えば日本語にテリトリー化(属領化)して飼いならすことは、一種の裏切りにならないだろうか(キリスト教の神との闘いというベケットのテーマが多少とも見えにくくなっていることも含めて)——一般論として翻訳(traduttore)とはすなわち裏切り(traditore)であるとしても(個人的には、ベケットのテクストは語学的にはシンプルな場合が多いので原語で上演したほうがいいと思うが、日本では難しいのかもしれない)。次に舞台装置の問題がある。ベケットの指定では、「最後の人間」の一人であるウィニーは、一幕では腰の上あたり、二幕では首まで砂に埋もれたまま、えんえんと一人語りを続ける。他方、今回の公演で装置を担当した金氏徹平(注)は、古いおもちゃ箱をぶちまけたかのように、さまざまなガラクタを積み上げた山を、舞台の中央につくってみせた。ひとつひとつのアイテム、またそれらのつながり方が面白く、見ていて飽きることがないし、二幕になっていくつかのパーツが山から落ちてゆくところも面白い。人間がものに接近する一方、ものが人間のように(あるいは人間以上に)チャーミングなキャラクターとなって演技を始めたかのようだ。しかし、それはベケットの想定した「消尽」の空間としての砂の舞台とはかなり異質なのではないか。さらに、ウィニーは山のてっぺんにいるため、砂に埋められているというより、ガラクタの山に君臨している、あるいはガラクタの山を巨大なスカートとしてはいているようにも見える(苔むした帽子をかぶり、山の一部となったかに見える場面などもあるのだが)。これもまたベケットの想定とはかなり異質なのではないか。
ともあれ、この舞台装置、そして多弁な音楽・音響効果(ベケットの指定通りレハールの《メリー・ウィドウ(陽気な未亡人)》のメロディがオルゴールから流れるところなどはうまく処理されている)や、古典的な(中央の山の上のウィニーにスポットライトを当てる)照明に支えられて、ARICA+金氏徹平の《しあわせな日々》は多彩な展開を見せる。最初に言った通り、これは実に面白い舞台だ。むろん、ベケットの演劇が道化芝居を重要なパラダイムとしていることを考えても、面白くていけないわけではない。裏を返せば、しかし、それは非人間的な「消尽」ではなく、人間的な「疲労」と「退屈」に至る手前で観客——とくにマンガやアニメの世代の短いアテンション・スパンしか持たない観客を飽きさせないための、サーヴィス過剰なパフォーマンスとも言えるのではないか。もとより、ベケットのテクストだからといって、彼の細かな指示に従い、従来どおりの形で上演しなければならないわけではない。ARICA+金氏徹平の《しあわせな日々》は、言ってみれば21世紀のベケットのひとつの形なのだろう。その面白さを認めつつ、いや、それゆえにこそ、私はやはり20世紀のベケットの方を選びたいと思う。
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〈注〉
金氏徹平の装置による舞台はいまのところ今回の《しあわせな日々》しか観ていないが、東京都現代美術館での「新たな系譜学を求めて――跳躍/痕跡/身体」展(2014年9月27日-2015年1月4日)や京都芸術センターでの「四角い液体、メタリックなメモリー」展(10月4日-11月3日)で相次いで公開された近作に見る、「小さなゴミ」から「大きなゴミ」への重心の移動(揶揄して言うのではない)は、たいへん興味深い。金氏徹平の作品を初めて見たのは、大阪にあった児玉画廊での2002年の個展だと思うが、その頃から彼はプラモデルのパーツのような「小さなゴミ」を並べた上に石膏を流しかける(それによって我有化する)といった作品をつくってきた(《しあわせな日々》のガタクタの山の前面下方にもそれらしい部分がある)。そこには多少ともフェティシスティックな自閉性と湿度が感じられる。ところが、「大きなゴミ」はそういう主観的閉域に閉じ込めることができず、作者はそれらを一見無造作に、しかし細心の注意を払って——正確に言い直せば、無造作に見えるように細心の注意を払って——ごろりと転がしておくのだ。たとえば、《しあわせな日々》のガラクタの山の右手には、バケツを重ねて運ぶ器具(?)が横倒しにしてある、ただそれだけのものが何と面白く見えることか。この風通しのよさと乾いたトーンは、金氏作品にかつてなかった、あるいはあっても目立たなかった魅力であり、演劇における他者とのコラボレーションがこの変化をもたらした一因であるとすれば、たいへん興味深い。問題があるすればただひとつ、それがベケットの世界にどこまで適しているかということだ(ちなみに、東京都現代美術館に展示されているのは、《家電のように解り合えない》[あうるすぽっとプロデュース、岡田利規作・演出;2011年]の装置らしく、傍らには岡田利規のカンパニーであるチェルフィッチュの新作インスタレーション《4つの瑣末な 駅のあるある》が展示されているが、まっすぐ立って明晰に話すこともできず、体をくねくねさせながら「セルフィッシュ」を「チェルフィッチュ」と言ってしまうような出来損ないの若者たちに密着し、彼らの生態を精密に観察して様式化していく、その一種のリアリズムに敬意を払わないわけではないものの、そこまで下らないものをそこまで努力して作品化する必要があるのかというナイーヴな疑問を禁じ得ないというのが、このブログの2012年10月27日のエントリー「ポツドールとブリュイエール」の注にも書いたチェルフィッチュに対する感想であり、今回の新作もゆっくり見る気にはなれなかった)。他方、京都市立芸術大学の @KCUA で開催されている「舞台がぼんやり見えてきた」展(11月22日-12月7日)も、ワークショップのための舞台装置のようなものだが、Tom Woolner および山本麻紀子とのコラボレーションということもあって、あまりに混沌とした印象だった。そこには一種の書き割りも含まれるが、たとえば高谷史郎の《Chroma》の海辺のシーンでの書き割りの扱いの驚くべき洗練に比べると、児戯に等しいと言わざるを得ない(彼らが児戯に徹しようとしているのだとすればこれは有効な批判にはならないし、そもそも目指す方向が正反対なのだろうからこの比較自体に無理があると言われるかもしれないけれど)。
なお、舞台を離れて言えば、東京の ShugoArts での「MATERIAL ANALYSIS」展(11月15日-12月20日)と京都の Hotel Anteroom Gallery9.5 での「DAYDREAM with GRAVITY」展(2014年11月29日-2015年1月11日)も、金氏徹平を中心とするグループ展である。とくに前者は、「小さなゴミ」から「大きなゴミ」に至るアーティストの歩みを、他の種類の作品も含めてざっと見通すには恰好の機会であり、彼の作品群が Kesang Lamdark と Lee Kit という異質なアーティストたちの作品のフレームとして機能しているように見えるところも面白い。Kesang Lamdark にはゴミとして捨てられた空き缶の底に小さな穴をあけてさまざまなものを描いた一連の作品があり、金氏徹平と似ているようだが、チベットのラマ僧を父としてインドに生まれスイスで育った彼がそこに描き込んでいるのは、中国の支配に抗議する焼身自殺だったりするのだ。興味深い対照ではある。