横尾忠則・篠山紀信・磯崎新——横尾忠則現代美術館をめぐって
浅田 彰
2014.12.16
神戸にオープンした横尾忠則現代美術館についてはこのブログの2012年11月2日のエントリーで触れたが、その後もこの種の美術館としては例外的と言えるほど意欲的な企画展を開催してきている。たとえば2013年の夏休み企画「横尾忠則どうぶつ図鑑」展でも、近くの王子動物園から動物の剥製を借りてきて、絵の中のペンギンを剥製のペンギンが眺めているかのように配置してみせるといった具合だ。
とくに、今回の「記憶の遠近術〜篠山紀信、横尾忠則を撮る」展(2014年10月11日〜2015年1月4日)は、横尾忠則作品以外のものを展示するという点でこれまでになかった試みである。さらに言えば、「横尾忠則を撮る」というのはややミスリーディングなサブタイトルで、そこで展示されている写真は横尾忠則を彼にとってのアイドル(たち)と撮る——つまり横尾ではなくアイドル(たち)を主役として撮るという企画から生まれたものなのである。
しかし、ある意味で、これらの写真はすべて篠山起信の手を借りた横尾忠則の作品であるとも言える。そもそも横尾忠則はクリエーターである以前にメディエーター(媒介者)——さらにはメディウム(霊媒という意味も含めて)——なのであり、その作品はアーティストの内部から湧き上がったオリジナルなものというより多種多様なイメージが横尾忠則という特異な変換装置を通過する過程で変形され組み合わされたものだと言ったほうがよい。ここでも、被写体であるヌード・モデルの肌に蛍光塗料で見事なペインティングを施した作品(《Kaleidoscope》)を除き、横尾自身はアイドル(たち)の傍らに寄り添っているだけなのだが、それでも企画全体を思いついたのは横尾であり、アイドル(たち)はもちろん、撮影者の篠山さえ横尾の掌の上で踊らされているとも言えるのだ。
今回の展覧会では初日に篠山と横尾の対談が予定されていたのだが、直前に横尾が検査入院することになり、結局、篠山が一人で話すことになった。自分のプロジェクトでありながらしばしば体調が悪いとか気分が乗らないとか言ってキャンセルしようとする横尾にどれだけ苦労させられてきたかという愚痴話めかしたトークは篠山ならではの話術が冴えて大いに盛り上がり、もしかすると対談より面白かったかもしれない。とくに、いま述べた能動的というよりむしろ受動的な横尾忠則のスタイルが、そこでは数多くのエピソードから見事に浮き彫りにされた。たとえば、横尾が「赤バット」の川上哲治と「青バット」の大下弘にはさまれた写真を撮ったときは、手近にあったので着ることになった後楽園球場のボールボーイのユニフォームが気に入らなかったのか、横尾が撮影を渋りだし、貴重な機会をとらえて素早く撮影を終えようと思っていた篠山を手こずらせたという(実際、横尾はどことなくふてくされた表情で写っている)。それでも何とかして見事な1枚をものにするところが、さすが篠山と言うべきだろう(私も坂本龍一や古橋悌二とのツー・ショットを篠山に撮影されたことがあるのだが、時間をかけて準備したセッションでも実際は3ショットくらい撮ったらすぐ終わるというのがこの写真家のスタイルである。「最近のキャメラは性能がいいんで勝手にちゃんと撮ってくれる」というわけだ。この生粋の写真家にもクリエーターとしてのオリジナリティへのこだわりなどというものは一切ない)。その意味では高倉健とのツー・ショットも面白い。展覧会会期中に訃報が伝えられもはや伝説的な存在となったこの俳優の数多いポートレートの中でも最も迫力のある1枚と言ってよく、ブレているところが迫力を増しているのだが、篠山の明かしたところではこれはフラッシュが発光しなかったための失敗ショットだったという。他のすべての成功ショットを捨ててそれを選ぶところがまた篠山ならではの決断である。
こうしてみると、横尾忠則という変換装置は篠山紀信のうちに最高のキャメラ・アイを見出したと言ってよく、他方、篠山紀信にとっても横尾忠則とのコラボレーションは他では得られない数多くの出会いをもたらすものだった。こうして、横尾+篠山という光学装置は、特異なイメージ群にうちに、1970年前後を中心とする昭和後期というひとつの時代をほとんどまるごととらえることに成功する。この展覧会の観衆は、限られたモデルだけが写った人物写真群からひとつの時代全体を体感して、眩暈にも似た感覚を味わうだろう。
その中でもやはり注目に値するのは、このコラボレーションの出発点である三島由紀夫とのツー・ショット(1968年の2点)である。篠山は、中年になってからボディ・ビルディングを始めた三島の、貧弱なままだった下半身が目立たないよう、ずいぶん苦心して撮影したと言っていたが、三島の大仰なマッチョぶりを横尾のどこか醒めた無関心と対比しつつ見事に写し取っていることに、あらためて感心させられる。『豊島横尾館ハンドブック』(福武財団、2014年)のエッセーで述べたように、三島が予定された死に向かって創作と人生のすべてを組み立てていったのに対し、横尾はそもそも死の擬態から出発しそれを反復することで逆説的に生き延びてきた。二人のツー・ショットからもそうした対比を見てとることができるのではないか(なお、先に触れたこのブログのエントリー[2012年11月2日]でもすでに述べた通り、その延長線上で撮影された三島の演ずる「男の死」の連作はいまも幻の作品として篠山の手元で眠り続けており、機会を得て公開されることが期待される)。あるいはまた、同じゲイの小説家で言えば、三島のマッチョぶりに対し、深沢七郎のふてぶてしい「おネエぶり」をとらえた1枚を対峙させてみるのも面白いだろう。また逆に、丸山(美輪)明宏がやはり「シスターボーイ」に扮した横尾忠則に口紅を塗っているシーンをとらえた嘘のように美しい1枚(この美術館の展覧会ポスターはすべて横尾忠則の新作で、今回もこのショットを使ったポスターが作られた)に眩惑されてみるのもいいだろう。
ところで、オープニング直前に検査入院した横尾忠則だが、幸い結果は良好で、会期の終わりが近づいた12月16日には、磯崎新を迎えての対談に元気な姿を見せた。この二人の交友関係は半世紀に及び、磯崎は横尾忠則の出身地に彼の作品を収蔵する西脇市岡之山美術館(1984年)を設計したほか、横尾の(そして篠山の)自邸兼アトリエも設計している。勢い、話ははずんで、予定された時間ではとても足りないほどだったが、なかでも興味深かったのは1960年代の思い出である。二人が共通して挙げたのは、ヒッピー文化の波が西海岸からニューヨークに及んだ1967年のことだった。この年の夏休みを磯崎は一柳慧とともにニューヨークのジャスパー・ジョーンズのアトリエを借りて過ごし、秋からは磯崎と入れ違いで横尾がやってくる。そして次に磯崎と再会したとき、一柳も横尾も以前とは一変したロング・ヘアー姿になっていたというわけだ。ちなみに、それに先立つ1960年代初頭に、磯崎はニューヨークのレオ・キャステリ画廊で「グラフィック畑だけれどなかなか面白いやつがいる」といってアンディ・ウォーホルの作品を紹介されたという。当時はグラフィックの仕事はまともなアートより低級とされていた(ウォーホルの日記[彼が「日記」役の女性に電話で語ったものの速記録]にも、自分のシルク・スクリーン版画がジャスパー・ジョーンズらの作品と比べてもはるかに低価格でしか売れないことへの不満が繰り返されている)。そういう意味も含め、やはり「グラフィック畑だけれどなかなか面白いやつ」だった横尾忠則こそ、日本のウォーホルと呼ぶにふさわしいだろう。少なくとも1967年以後、彼らはいずれもクリエーターとしてのみならず脱領域的なメディエーターとして同じポップ・アートの歴史をアメリカと日本でリードしてゆくことになる。そして、半世紀近くたったいま、かつてグラフィック畑出身ということで不当に差別された彼らこそ、20世紀後半を代表するアーティストとして誰もが認める存在となったのである。
その後の磯崎と横尾の歩みには不思議な平衡関係が見てとれる。たとえば、1970年大阪万博で磯崎新は「お祭り広場」の装置や演出を担当した(それが『建築の解体』でサーヴェイされることになるイギリスのアーキグラムやセドリック・プライスの仕事などと同じ時代精神を体現するものだったことは、横尾との対談に先立つ12月15日に京都の精華大学で開催されたアーキグラムのピーター・クックとの公開対談で語られた)あげく過労のため入院するのだが、同じ時期、横尾も「せんい館」を工事現場のままで見せるというラディカルなプロジェクトを実現させながら病気で入院して実際に万博会場を訪れることはなかったという。反万博を唱えた多くのアーティストにも同調しきれない半面、国家と資本主義の祭典である万博にどこか違和感を感じており、身体の不調を通じて結局はそこから脱落することになる——両者に共通する微妙な姿勢である。
それとも関連してもうひとつだけ、オカルティズムの問題に触れておこう。横尾忠則はメディウム(霊媒)のような存在だと言ったが、実際、彼はオカルティズムに傾斜して周囲を当惑させることが何度もあった。たとえばピラミッド・パワーもそのひとつで、横尾の熱中ぶりを面白半分に見ていた磯崎も西脇市岡之山美術館にピラミッドをいただくメディテーションルームをつくったほどだ。面白いのは、飽きやすい横尾のオカルティズム熱がすぐに醒めるのに対し(たとえば一時は瀧のパワーに熱中して世界中の瀧を訪ね歩いた、それもいまでは「瀧の絵葉書を集めたかっただけ」ということになっている)、鋭い批評精神の持ち主であるはずの磯崎の方が半信半疑ながらいつまでもオカルティズムへの関心を持ち続けているところだろう。横尾忠則というのはそれほど強い感染力をもったメディウムなのである。
このように「記憶の遠近術」展はたんなる写真展の域をはるかに超える文化史的意義をもった展覧会である。その内容自体は『記憶の遠近術〜篠山紀信、横尾忠則を撮る』(芸術新聞社)にまとめられているが、やはり会場で見ておくべきだろう。篠山紀信は写真のプリントをアート作品として見せるなどというフェティシズムとはまったく無縁な写真家だが、その写真を大きく引き伸ばしたプリントを壁に直接貼った展示(会期が終われば廃棄される)は、写真集とは違った迫力で観衆を圧倒する。すでに会期末が近づいてはいるが、機会があればぜひ。
*
なお、こちらはすでに会期が終了しているが、横尾忠則現代美術館での「記憶の遠近術」展と同時に、西宮市大谷記念美術館では四谷シモンの作品を集めた「SIMONDOLL」展(10月11日〜11月30日)が開催された。横尾忠則同様、四谷シモンも1970年前後の日本のアンダーグラウンド文化に大きな足跡を残した存在であり、展示されている作品のうち3点(「未来と過去のイヴ4」「少年の人形3」「少女の人形3」)が篠山紀信臓であるという点でも、「記憶の遠近術」展と密かにつながっている。また逆に、あくまで最初のイメージに忠実であり続ける(年とともに洗練の度を増し、ある意味で枯れてきてもいるとはいえ)四谷シモンに比べ、横尾忠則がいかに大きく変貌し続けてきたかを見てとる上でも、この二人の時ならぬ出会い/すれ違いはきわめて興味深い出来事だった。
もうひとつだけ付け加えておけば、西宮市大谷記念美術館で同時に開催されていたコレクション展も忘れがたい。スペースが限られているため、ジョルジュ・ルオーの22点の版画(画商ヴォラールがジャリに触発されて書いた『ユビュおやじの再生』の挿画、1928年)と、この美術館で何度か興味深いプロジェクトを展開してきた藤本由紀夫の《26 Philosophical Toys》(2005年)が並べてあるだけなのだが、まったく無関係な2系列の作品群のフレームの対比が美しく、とくに藤本作品(「Vanilla」に始まる26の単語をアクリル板にあけた穴とその影によって示し、各々に短い断章を伏したもの)は内容面でもきわめて興味深い。それに見入っていると、どこからか微かなノイズが聞こえてくる。それは実は、1分に1回転する円筒の中に角砂糖を封じ込めた藤本由紀夫の《Sugar 1》(1995年)の立てる音なのだ。たまにしか動かさないのだろうが、それにしても、20年近く前に封じ込められた角砂糖がいまも音を立て続けている、ただそれだけのことから驚きを生み出すところが、藤本由紀夫ならではのさりげないマジックと言うべきだろう。
とくに、今回の「記憶の遠近術〜篠山紀信、横尾忠則を撮る」展(2014年10月11日〜2015年1月4日)は、横尾忠則作品以外のものを展示するという点でこれまでになかった試みである。さらに言えば、「横尾忠則を撮る」というのはややミスリーディングなサブタイトルで、そこで展示されている写真は横尾忠則を彼にとってのアイドル(たち)と撮る——つまり横尾ではなくアイドル(たち)を主役として撮るという企画から生まれたものなのである。
しかし、ある意味で、これらの写真はすべて篠山起信の手を借りた横尾忠則の作品であるとも言える。そもそも横尾忠則はクリエーターである以前にメディエーター(媒介者)——さらにはメディウム(霊媒という意味も含めて)——なのであり、その作品はアーティストの内部から湧き上がったオリジナルなものというより多種多様なイメージが横尾忠則という特異な変換装置を通過する過程で変形され組み合わされたものだと言ったほうがよい。ここでも、被写体であるヌード・モデルの肌に蛍光塗料で見事なペインティングを施した作品(《Kaleidoscope》)を除き、横尾自身はアイドル(たち)の傍らに寄り添っているだけなのだが、それでも企画全体を思いついたのは横尾であり、アイドル(たち)はもちろん、撮影者の篠山さえ横尾の掌の上で踊らされているとも言えるのだ。
今回の展覧会では初日に篠山と横尾の対談が予定されていたのだが、直前に横尾が検査入院することになり、結局、篠山が一人で話すことになった。自分のプロジェクトでありながらしばしば体調が悪いとか気分が乗らないとか言ってキャンセルしようとする横尾にどれだけ苦労させられてきたかという愚痴話めかしたトークは篠山ならではの話術が冴えて大いに盛り上がり、もしかすると対談より面白かったかもしれない。とくに、いま述べた能動的というよりむしろ受動的な横尾忠則のスタイルが、そこでは数多くのエピソードから見事に浮き彫りにされた。たとえば、横尾が「赤バット」の川上哲治と「青バット」の大下弘にはさまれた写真を撮ったときは、手近にあったので着ることになった後楽園球場のボールボーイのユニフォームが気に入らなかったのか、横尾が撮影を渋りだし、貴重な機会をとらえて素早く撮影を終えようと思っていた篠山を手こずらせたという(実際、横尾はどことなくふてくされた表情で写っている)。それでも何とかして見事な1枚をものにするところが、さすが篠山と言うべきだろう(私も坂本龍一や古橋悌二とのツー・ショットを篠山に撮影されたことがあるのだが、時間をかけて準備したセッションでも実際は3ショットくらい撮ったらすぐ終わるというのがこの写真家のスタイルである。「最近のキャメラは性能がいいんで勝手にちゃんと撮ってくれる」というわけだ。この生粋の写真家にもクリエーターとしてのオリジナリティへのこだわりなどというものは一切ない)。その意味では高倉健とのツー・ショットも面白い。展覧会会期中に訃報が伝えられもはや伝説的な存在となったこの俳優の数多いポートレートの中でも最も迫力のある1枚と言ってよく、ブレているところが迫力を増しているのだが、篠山の明かしたところではこれはフラッシュが発光しなかったための失敗ショットだったという。他のすべての成功ショットを捨ててそれを選ぶところがまた篠山ならではの決断である。
こうしてみると、横尾忠則という変換装置は篠山紀信のうちに最高のキャメラ・アイを見出したと言ってよく、他方、篠山紀信にとっても横尾忠則とのコラボレーションは他では得られない数多くの出会いをもたらすものだった。こうして、横尾+篠山という光学装置は、特異なイメージ群にうちに、1970年前後を中心とする昭和後期というひとつの時代をほとんどまるごととらえることに成功する。この展覧会の観衆は、限られたモデルだけが写った人物写真群からひとつの時代全体を体感して、眩暈にも似た感覚を味わうだろう。
その中でもやはり注目に値するのは、このコラボレーションの出発点である三島由紀夫とのツー・ショット(1968年の2点)である。篠山は、中年になってからボディ・ビルディングを始めた三島の、貧弱なままだった下半身が目立たないよう、ずいぶん苦心して撮影したと言っていたが、三島の大仰なマッチョぶりを横尾のどこか醒めた無関心と対比しつつ見事に写し取っていることに、あらためて感心させられる。『豊島横尾館ハンドブック』(福武財団、2014年)のエッセーで述べたように、三島が予定された死に向かって創作と人生のすべてを組み立てていったのに対し、横尾はそもそも死の擬態から出発しそれを反復することで逆説的に生き延びてきた。二人のツー・ショットからもそうした対比を見てとることができるのではないか(なお、先に触れたこのブログのエントリー[2012年11月2日]でもすでに述べた通り、その延長線上で撮影された三島の演ずる「男の死」の連作はいまも幻の作品として篠山の手元で眠り続けており、機会を得て公開されることが期待される)。あるいはまた、同じゲイの小説家で言えば、三島のマッチョぶりに対し、深沢七郎のふてぶてしい「おネエぶり」をとらえた1枚を対峙させてみるのも面白いだろう。また逆に、丸山(美輪)明宏がやはり「シスターボーイ」に扮した横尾忠則に口紅を塗っているシーンをとらえた嘘のように美しい1枚(この美術館の展覧会ポスターはすべて横尾忠則の新作で、今回もこのショットを使ったポスターが作られた)に眩惑されてみるのもいいだろう。
ところで、オープニング直前に検査入院した横尾忠則だが、幸い結果は良好で、会期の終わりが近づいた12月16日には、磯崎新を迎えての対談に元気な姿を見せた。この二人の交友関係は半世紀に及び、磯崎は横尾忠則の出身地に彼の作品を収蔵する西脇市岡之山美術館(1984年)を設計したほか、横尾の(そして篠山の)自邸兼アトリエも設計している。勢い、話ははずんで、予定された時間ではとても足りないほどだったが、なかでも興味深かったのは1960年代の思い出である。二人が共通して挙げたのは、ヒッピー文化の波が西海岸からニューヨークに及んだ1967年のことだった。この年の夏休みを磯崎は一柳慧とともにニューヨークのジャスパー・ジョーンズのアトリエを借りて過ごし、秋からは磯崎と入れ違いで横尾がやってくる。そして次に磯崎と再会したとき、一柳も横尾も以前とは一変したロング・ヘアー姿になっていたというわけだ。ちなみに、それに先立つ1960年代初頭に、磯崎はニューヨークのレオ・キャステリ画廊で「グラフィック畑だけれどなかなか面白いやつがいる」といってアンディ・ウォーホルの作品を紹介されたという。当時はグラフィックの仕事はまともなアートより低級とされていた(ウォーホルの日記[彼が「日記」役の女性に電話で語ったものの速記録]にも、自分のシルク・スクリーン版画がジャスパー・ジョーンズらの作品と比べてもはるかに低価格でしか売れないことへの不満が繰り返されている)。そういう意味も含め、やはり「グラフィック畑だけれどなかなか面白いやつ」だった横尾忠則こそ、日本のウォーホルと呼ぶにふさわしいだろう。少なくとも1967年以後、彼らはいずれもクリエーターとしてのみならず脱領域的なメディエーターとして同じポップ・アートの歴史をアメリカと日本でリードしてゆくことになる。そして、半世紀近くたったいま、かつてグラフィック畑出身ということで不当に差別された彼らこそ、20世紀後半を代表するアーティストとして誰もが認める存在となったのである。
その後の磯崎と横尾の歩みには不思議な平衡関係が見てとれる。たとえば、1970年大阪万博で磯崎新は「お祭り広場」の装置や演出を担当した(それが『建築の解体』でサーヴェイされることになるイギリスのアーキグラムやセドリック・プライスの仕事などと同じ時代精神を体現するものだったことは、横尾との対談に先立つ12月15日に京都の精華大学で開催されたアーキグラムのピーター・クックとの公開対談で語られた)あげく過労のため入院するのだが、同じ時期、横尾も「せんい館」を工事現場のままで見せるというラディカルなプロジェクトを実現させながら病気で入院して実際に万博会場を訪れることはなかったという。反万博を唱えた多くのアーティストにも同調しきれない半面、国家と資本主義の祭典である万博にどこか違和感を感じており、身体の不調を通じて結局はそこから脱落することになる——両者に共通する微妙な姿勢である。
それとも関連してもうひとつだけ、オカルティズムの問題に触れておこう。横尾忠則はメディウム(霊媒)のような存在だと言ったが、実際、彼はオカルティズムに傾斜して周囲を当惑させることが何度もあった。たとえばピラミッド・パワーもそのひとつで、横尾の熱中ぶりを面白半分に見ていた磯崎も西脇市岡之山美術館にピラミッドをいただくメディテーションルームをつくったほどだ。面白いのは、飽きやすい横尾のオカルティズム熱がすぐに醒めるのに対し(たとえば一時は瀧のパワーに熱中して世界中の瀧を訪ね歩いた、それもいまでは「瀧の絵葉書を集めたかっただけ」ということになっている)、鋭い批評精神の持ち主であるはずの磯崎の方が半信半疑ながらいつまでもオカルティズムへの関心を持ち続けているところだろう。横尾忠則というのはそれほど強い感染力をもったメディウムなのである。
このように「記憶の遠近術」展はたんなる写真展の域をはるかに超える文化史的意義をもった展覧会である。その内容自体は『記憶の遠近術〜篠山紀信、横尾忠則を撮る』(芸術新聞社)にまとめられているが、やはり会場で見ておくべきだろう。篠山紀信は写真のプリントをアート作品として見せるなどというフェティシズムとはまったく無縁な写真家だが、その写真を大きく引き伸ばしたプリントを壁に直接貼った展示(会期が終われば廃棄される)は、写真集とは違った迫力で観衆を圧倒する。すでに会期末が近づいてはいるが、機会があればぜひ。
*
なお、こちらはすでに会期が終了しているが、横尾忠則現代美術館での「記憶の遠近術」展と同時に、西宮市大谷記念美術館では四谷シモンの作品を集めた「SIMONDOLL」展(10月11日〜11月30日)が開催された。横尾忠則同様、四谷シモンも1970年前後の日本のアンダーグラウンド文化に大きな足跡を残した存在であり、展示されている作品のうち3点(「未来と過去のイヴ4」「少年の人形3」「少女の人形3」)が篠山紀信臓であるという点でも、「記憶の遠近術」展と密かにつながっている。また逆に、あくまで最初のイメージに忠実であり続ける(年とともに洗練の度を増し、ある意味で枯れてきてもいるとはいえ)四谷シモンに比べ、横尾忠則がいかに大きく変貌し続けてきたかを見てとる上でも、この二人の時ならぬ出会い/すれ違いはきわめて興味深い出来事だった。
もうひとつだけ付け加えておけば、西宮市大谷記念美術館で同時に開催されていたコレクション展も忘れがたい。スペースが限られているため、ジョルジュ・ルオーの22点の版画(画商ヴォラールがジャリに触発されて書いた『ユビュおやじの再生』の挿画、1928年)と、この美術館で何度か興味深いプロジェクトを展開してきた藤本由紀夫の《26 Philosophical Toys》(2005年)が並べてあるだけなのだが、まったく無関係な2系列の作品群のフレームの対比が美しく、とくに藤本作品(「Vanilla」に始まる26の単語をアクリル板にあけた穴とその影によって示し、各々に短い断章を伏したもの)は内容面でもきわめて興味深い。それに見入っていると、どこからか微かなノイズが聞こえてくる。それは実は、1分に1回転する円筒の中に角砂糖を封じ込めた藤本由紀夫の《Sugar 1》(1995年)の立てる音なのだ。たまにしか動かさないのだろうが、それにしても、20年近く前に封じ込められた角砂糖がいまも音を立て続けている、ただそれだけのことから驚きを生み出すところが、藤本由紀夫ならではのさりげないマジックと言うべきだろう。