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平瀬礼太 「たたかう銅像」
福永 信

2013.02.21
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平瀬礼太の京都新聞での連載コラム「たたかう銅像」がおもしろい。

戦時の美術といってすぐ浮かぶのは戦争画だが、それは一面にすぎない。銅像という名の立体表現もまた、一翼を担っていたのである。

第1回(2012年11月17日)が“受難の「伊藤博文銅像」”、第2回(2013年1月19日)が“広瀬武夫・杉野孫七銅像”、そして、今のところ最新記事の第3回(2月16日)が“中村直人ら「進発の像」”である。

 
正直いって、これらの人名のうち、私は、伊藤博文しか知らなかった。

しかも、その伊藤博文も、私の知っていた伊藤博文とは相当異なっていた。というのも、伊藤博文の銅像は群衆によって台座から引きずりおろされ、さんざん引き回されているからである。ポーツマス条約(日露講和条約)が人々の怒りを買った結果というわけだが、その後、第二次大戦時の金属回収(供出)まで、立って動かぬはずの銅像は、じつに様々な経緯をたどることになる。

 
本人のあずかり知らぬところで劇的な変化をこうむるのは、第2回の広瀬・杉野像も同じである。広瀬武夫少佐は、日露戦争における「軍神」といわれ、その英雄的な戦死によって当時、世間でも慕われた人物で、銅像表現としても、広瀬が助けようとした部下(杉野孫七)を自らの下になかなか大変そうな姿勢で配していたり、その構図は、割によさそうな感じもあってさぞ好評価であろうと思いきや、これがまた、平瀬礼太が文献を探索し、ひろっていく先々で、やれ、交通の邪魔だとか、醜怪だとか、相当ないわれようなのである。

 
この平瀬礼太「たたかう銅像」は抑制のきいた、新聞をまるで読むような文章であるが(というか、新聞紙上で読んでいるのだが)、連載のベースだろうと思われる、同じ著者による『銅像受難の近代』(吉川弘文館)の方はその新聞的な文章はそのままに、どこかトボケた味があって、笑うような主題はまったく取り扱っていないはずが、つい、笑ってしまうのが素晴らしい。

 
ところで、第3回の“中村直人ら「進発の像」”は、その『銅像受難の近代』には取り上げられていないエピソードである。

「主義主張というより、推進運動への共感で集まっていた」という第二次大戦末期に結成された「軍需生産美術推進隊」は、まったくもって初耳だった。詳しくはぜひバックナンバーにあたってほしいが、同隊の中の彫塑班が、全国各地の鉱山などの現場で「進発の像」や「坑夫像」といった造形活動に汗を流すという、まったく自分が知らなかった事実を、「現場密着、産業戦士を鼓舞」なるいかにも新聞的な、やや大げさな見出し(これは新聞社が付けるのが通例)とともに、こうして、2月16日の朝、新聞紙上で、目の当たりにしていると、不思議なことにこれが、遠い昔のことには感じられなくなってくる。

 
京都新聞 毎月第3土曜日朝刊掲載