2つのフェア、2つのロゴ、2ヶ所の桜
小崎 哲哉
2013.03.27
某月某日
あいちトリエンナーレ記者会見@愛知芸術文化センターの後、東京へ。G-tokyoの内覧会に滑り込む。今回から会場となった東京ミッドタウン・ホールは、会議場を想定して造られているために床は絨毯。照明も苦労したそうだが、広い空間を利した大型インスタレーション展示もあり、通常のアートフェアとはだいぶ趣が異なって豪華な印象。いくつかのギャラリーに聞いてみたところ売れ行き好調とのことで、これもアベノミクスの影響か。
翌日はアートフェア東京(AFT)@東京国際フォーラム。G-tokyoとは打って変わって小さく仕切られたブースが軒を連ねる。古美術から現代アートまでが並ぶ会場で目を惹いたのは細川護煕の個展(?)。焼き物や書に加え、道具を並べた二畳台目の茶室展示も。
G-tokyoとAFTの二極分化(?)は進むのだろうか。それはわからないが、AFTの会場に行ってあることを思い出した。トーキョーワンダーサイト(TWS)が主催する展覧会『東京画 II』のロゴと、AFTのロゴのデザインが酷似しているのだ。TWSには「前科」があって、ここ数年行っている「展覧会企画公募」のロゴが大竹伸朗の特徴ある書体とよく似ている。知人のグラフィックデザイナーに聞いてみたところ、「たぶん設計思想は違う」とのことだが、素人目にはほとんど同じ。アート好きなら誰もが知るとおり、大竹は2006年に大規模個展『全景』を開催している。そのときのロゴも本人がデザインしたもので、しかも会場は東京都現代美術館。同じ東京都の機関であるTWSが気付かないわけはないが、ある種のオマージュかアプロプリエーションだろうか(笑)。
AFTを観た後、銀座のギャラリー小柳で鈴木理策『アトリエのセザンヌ』展、六本木のワコー・ワークス・オブ・アートでリュック・タイマンス展、オオタファインアーツでサスキア・オルドウォーバース展、タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムでフランシス・ベーコン展。ベーコン展と言っても、本人が創作の資料として写真家に撮らせたレスリングなどのコンタクトシート。僕は同じ写真の一部を含む『IN CAMERA FRANCIS BACON』という書籍を持っているが、これが滅法面白い。ファンは必見。
六本木アートナイトのイベントや作品もいくつか観たけれど、人出・人混みがすごすぎて中味は忘れてしまった。ミッドタウンの桜は照明がどぎつく、実体経済を反映していないアベノバブルのごとく空虚に映った。
翌日、『ソフィ カル―最後のとき/最初のとき』展を観に原美術館へ。メインは、後天的に盲目になった人々に「最後に見たイメージは何か?」と尋ね、答をテキスト化するとともに、可能なものはイメージを写真で再現し、本人のポートレートと併せて展示するという作品。以下のようなものを連想した。盲人に絵を描かせるアルトゥール・ジミェフスキの「Blindly」。シリア内戦の際に狙撃兵らの映像を携帯で撮り、次の瞬間に射殺された(とされる)市民が遺したまさにその画像を集めてレクチャーパフォーマンスに仕立て上げたラビア・ムルエの「The Pixelated Revolution」。建築家が最初に脳裏に浮かべた建築物のイメージを、焦点をぼかすことによって事後的に「再現」するという杉本博司の『建築』シリーズ。車の衝突事故に性的興奮を覚える主人公が出てくるJ.G.バラードの小説『クラッシュ』。『リヤ王』『春琴抄』をはじめとする、盲人を主人公とする文学作品(もちろんベケットも)。様々な死体写真集。前日に見た鈴木理策の、「カード遊びをする人々」と同じ構図のボケボケの写真。さらには、タイマンスの絵画、オルドウォーバースの映像、ベーコンの写真も……。
外に出ると、ミャンマー大使館脇の桜並木が満開。散るのも早いだろうが。
次に、恵比寿NADiffで利部志穂展。取次から書店に送られた書籍梱包用の紙箱や、売上カードなどを組み合わせたインスタレーション。国立新美術館『アーティスト・ファイル2013』展の宣伝ビデオで、作家が以下のように語っていたのを思い出す。「イメージを具現化するっていうよりも、もうちょっと手前のことをやりたいと思っていて」
続いて3階のトラウマリスで三宅砂織展。フィルムへ手描きし、さらに物体を直接載せて感光させるフォトグラム絵画とも呼ぶべきモノクロームの作品。いまわの際に「最後に見るイメージ」とはこのようなものではないだろうか。
あいちトリエンナーレ記者会見@愛知芸術文化センターの後、東京へ。G-tokyoの内覧会に滑り込む。今回から会場となった東京ミッドタウン・ホールは、会議場を想定して造られているために床は絨毯。照明も苦労したそうだが、広い空間を利した大型インスタレーション展示もあり、通常のアートフェアとはだいぶ趣が異なって豪華な印象。いくつかのギャラリーに聞いてみたところ売れ行き好調とのことで、これもアベノミクスの影響か。
翌日はアートフェア東京(AFT)@東京国際フォーラム。G-tokyoとは打って変わって小さく仕切られたブースが軒を連ねる。古美術から現代アートまでが並ぶ会場で目を惹いたのは細川護煕の個展(?)。焼き物や書に加え、道具を並べた二畳台目の茶室展示も。
G-tokyoとAFTの二極分化(?)は進むのだろうか。それはわからないが、AFTの会場に行ってあることを思い出した。トーキョーワンダーサイト(TWS)が主催する展覧会『東京画 II』のロゴと、AFTのロゴのデザインが酷似しているのだ。TWSには「前科」があって、ここ数年行っている「展覧会企画公募」のロゴが大竹伸朗の特徴ある書体とよく似ている。知人のグラフィックデザイナーに聞いてみたところ、「たぶん設計思想は違う」とのことだが、素人目にはほとんど同じ。アート好きなら誰もが知るとおり、大竹は2006年に大規模個展『全景』を開催している。そのときのロゴも本人がデザインしたもので、しかも会場は東京都現代美術館。同じ東京都の機関であるTWSが気付かないわけはないが、ある種のオマージュかアプロプリエーションだろうか(笑)。
AFTを観た後、銀座のギャラリー小柳で鈴木理策『アトリエのセザンヌ』展、六本木のワコー・ワークス・オブ・アートでリュック・タイマンス展、オオタファインアーツでサスキア・オルドウォーバース展、タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムでフランシス・ベーコン展。ベーコン展と言っても、本人が創作の資料として写真家に撮らせたレスリングなどのコンタクトシート。僕は同じ写真の一部を含む『IN CAMERA FRANCIS BACON』という書籍を持っているが、これが滅法面白い。ファンは必見。
六本木アートナイトのイベントや作品もいくつか観たけれど、人出・人混みがすごすぎて中味は忘れてしまった。ミッドタウンの桜は照明がどぎつく、実体経済を反映していないアベノバブルのごとく空虚に映った。
翌日、『ソフィ カル―最後のとき/最初のとき』展を観に原美術館へ。メインは、後天的に盲目になった人々に「最後に見たイメージは何か?」と尋ね、答をテキスト化するとともに、可能なものはイメージを写真で再現し、本人のポートレートと併せて展示するという作品。以下のようなものを連想した。盲人に絵を描かせるアルトゥール・ジミェフスキの「Blindly」。シリア内戦の際に狙撃兵らの映像を携帯で撮り、次の瞬間に射殺された(とされる)市民が遺したまさにその画像を集めてレクチャーパフォーマンスに仕立て上げたラビア・ムルエの「The Pixelated Revolution」。建築家が最初に脳裏に浮かべた建築物のイメージを、焦点をぼかすことによって事後的に「再現」するという杉本博司の『建築』シリーズ。車の衝突事故に性的興奮を覚える主人公が出てくるJ.G.バラードの小説『クラッシュ』。『リヤ王』『春琴抄』をはじめとする、盲人を主人公とする文学作品(もちろんベケットも)。様々な死体写真集。前日に見た鈴木理策の、「カード遊びをする人々」と同じ構図のボケボケの写真。さらには、タイマンスの絵画、オルドウォーバースの映像、ベーコンの写真も……。
外に出ると、ミャンマー大使館脇の桜並木が満開。散るのも早いだろうが。
次に、恵比寿NADiffで利部志穂展。取次から書店に送られた書籍梱包用の紙箱や、売上カードなどを組み合わせたインスタレーション。国立新美術館『アーティスト・ファイル2013』展の宣伝ビデオで、作家が以下のように語っていたのを思い出す。「イメージを具現化するっていうよりも、もうちょっと手前のことをやりたいと思っていて」
続いて3階のトラウマリスで三宅砂織展。フィルムへ手描きし、さらに物体を直接載せて感光させるフォトグラム絵画とも呼ぶべきモノクロームの作品。いまわの際に「最後に見るイメージ」とはこのようなものではないだろうか。