トリスターノによるブクステフーデ再発見
浅田 彰
2013.02.21
2月21日、フランチェスコ・トリスターノ(・シュリメ)が京都コンサートホール(小ホール)でブクステフーデを弾いた。『Long Walk』(2012)のリリースを記念するコンサートだが、CD自体このホールにヤマハの新しいグランド・ピアノCFXを持ち込んで録音されたものであり、同じ条件でライヴを聴く貴重な機会だったと言える。そこでわわわれの聴くことができたのは、CDよりも無駄がなく充実した素晴らしいコンサートだった。その内容に触れる前に、簡単に過去を振り返っておこう。
1981年にルクセンブルグに生まれた(いまはバルセロナに住む)このピアニストは、2001年の初レコーディングでバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を取り上げている。チェンバロのスタイルを意識した個性的な演奏だが、いささかわざとらしく、音楽の自然な流れが阻害されるところもあるように感じられた(ブクステフーデの後に聴き直すと、ピアニストのやりたかったことがいっそうよくわかる)。他方、最後に「おお、人よ、汝の大いなる罪を嘆け」と「目覚めよと呼ぶ声あり」の2曲のコラールが収録されていて、こちらはオルガンの重厚な響きを意識した悠揚迫らぬ名演なのだが、前者はエミール・ナウモフ(グールドのピアノ曲を演奏したり、フォーレのレクイエムをピアノで演奏したり、異色の試みで知られる1962年生まれのピアニスト)、後者はシュリメ自身の編曲を用いているところにも、独特のこだわりが見て取れる。さらに、トーマス・ベルンハルトがグレン・グールドを取り上げた『破滅者』などの小説を録音時に読んでいたこと、CDのリリースがグールド没後20周年の2002年になることに触れた短いライナー・ノートを読んでも、彼が独自のヴィジョンをもつピアニストであることはよくわかった。
さらに、このピアニストに対する私の関心を高めたのは、ベリオのピアノ曲全集(2005)、そしてフレスコバルディのトッカータ集(2007)だった。現代音楽と古楽を同時に取り上げる——近年では珍しくないことだが、抜群のリズム感を生かしたシュリメの演奏は中でも際立って新鮮に響いたのだ。
それだけではない。シュリメはフランチェスコ・トリスターノ名義でテクノ・ミュージックにも手を染め、ピアノでテクノ風の音楽を演奏する実験も始める。私は一流のテクノなら二流のクラシックより高く評価する用意があるが、彼の取り上げるカール・クレイグなどをあまり評価しないし、彼のようにピアノでテクノ風の音楽を弾くとどうしてもガチャガチャ響いてうるさいと感じずにいられない(繰り返すが、テクノだからいけないというのではない。たとえばレニ・トリスターノがジャズの最高水準においてバッハの対位法を生かしてみせた、そのような水準には達していないというだけのことだ)。だが、クラシックの枠を超えて現代の音楽(いわゆる「現代音楽」ではなく)のフロンティアに立とうとする姿勢自体にはむしろ好感をもった。
最終的に、彼の音楽活動はこのフランチェスコ・トリスターノという名義に統一され、バッハとケージを組み合わせたCD『bachCage』(2011)もこの名義でドイツ・グラモフォンからリリースされることになる(ドイツ・グラモフォンがカール・クレイグやマックス・リヒターらによるリミックス盤を出し始めたのと軌を一にしているのだろう)。私はCDのほかライヴも聴いたが、ケージの作品のうち単純で耳ざわりのいいものを選んでムーディな演奏をするのはいささか偏っているように思われたし、テクノ風の自作にもやはり問題を感じないわけではなかったものの、端正でリズミカルなバッハをはじめ、総じて大いに楽しめるコンサートだった。そして次に第二弾としてブクステフーデの録音がリリースされ、記念のコンサートが開催されたのである。
ブクステフーデ(1637?-1707)は、デンマーク(と一応言われるが現在のデンマーク領ではないかもしれない)に生まれ、北ドイツで活躍した音楽家であり、ドイツ音楽史を大きく見ればシュッツ(1585-1672)とバッハ(1685-1750)の中間に位置する。1705年、20歳のバッハは、名高いブクステフーデの演奏を聴くために、リューベックまで400kmもの道のりを歩いて行った(ちなみに、1703年にはバッハと同い年のヘンデルもブクステフーデを聴きに行っている)。CDのタイトル『Long Walk』はこのことを指す。
そこでバッハが聴いたのは、まずはオルガン演奏だろう。現在でも、ブクステフーデのオルガン曲は演奏される機会が多い。他方、チェンバロ曲はあまり知られておらず、私自身これまでほとんと聴いたことがなかった。今回、昨年リリースされたシモーネ・ステッラ(やはり1981年生まれ)による全曲録音(Brilliant 94312)を聴き、ブライトコップ&ヘルテル版の楽譜を見たのだが、そこに掲げられた写真によると、オリジナルのタブラトゥーアは、コード・ネームと音型だけを記したジャズ・ミュージシャンのメモに近いもので、それを解読して五線譜に書き起こしたものも、驚くほどシンプルだ。また、バッハがタイトルにわざわざ「平均律クラヴィア曲集」と謳ったのは平均律が新しいシステムだったということなので、ブクステフーデの頃はまだ平均律ではなく中全音律による調律が一般的だった。三度を純正音程に近づけるため五度を純正音程よりわずかに狭めた調律だが(そのため全音の音程が大全音と小全音の間の大きさとなるので中全音律と呼ばれる)、あまり広い音程では響きが歪むので、音域が限定される。実のところ、ブクステフーデは早くから平均律を推奨した音楽家の一人とされ、オルガン曲ではそれが可能にする広い音域を駆使した作品も書いている(トリスターノが今回のコンサートで取り上げたニ短調のトッカータはその例)ものの、チェンバロ曲は中全音律の範囲にとどまっている。それでも、チェンバロならレジスターを変えて音色に変化をつけることができるだろう(ステッラ盤で聴かれるように)。しかし、楽譜を見たとき、それをピアノで弾いて面白い演奏ができると、いったい誰が思うだろうか。トリスターノは、その無謀な企てに挑み、結果、驚くほど生き生きと多彩な音楽を紡ぎ出してみせたのである。かつてグールドがバッハの「ゴルトベルク変奏曲」から埃を吹き払って新鮮な音楽として甦らせたとすれば、トリスターノはやはり目の覚めるような演奏によって古楽の専門家以外見向きもしなかったブクステフーデのチェンバロ曲をいっそう遠い過去から見事に甦らせた——そう言っても決して大げさではないだろう。
いま「ゴルトベルク変奏曲」を例に挙げたが、実は『Long Walk』の中心をなすブクステフーデの「アリア『ラ・カプリッチョーザ』による変奏曲」こそ「ゴルトベルク変奏曲」のモデルと考えられる。バッハの曲は、最初と最後のアリアおよび30の変奏、あわせて32のパートから構成されるが、ブクステフーデの曲も32のパルティータから構成される(バッハの場合、パルティータは複数のパートからなる組曲を意味するのに対して、ここでは個々のパートを意味し、最初のアリアを第一パルティータと数える)。これほど大規模なチェンバロ曲はブクステフーデの作品が初めてだろう。そして、ブクステフーデの使っているアリアの旋律が、「ゴルトベルク変奏曲」の最後の変奏にあたる「クオドリベット」に出てくるのである。バッハの大作に比べてはるかに素朴なこの曲の楽譜から、トリスターノが何と多彩な音楽を紡ぎ出していくことだろう! ライヴで聴くといっそうよくわかるが、一切ペダルに触れることなく端正な音楽を奏でることのできる的確なタッチ、そして抜群のリズム感が、その演奏を一貫して支えている。ライヴでは録音より大胆にコントラストが強調され、第3パルティータの弱音の美しさに息を呑むかと思うと、第5パルティータでは鋭いスタッカートにはっとさせられる。第10パルティータでは古雅なお引きずりのリズムがチェンバロを思わせるかと思うと、第31パルティータではダンパー・ペダルを踏みっぱなしにしてカリヨンのような響きを生み出す。繰り返すが、ブクステフーデの楽譜自体は、五線譜に書き起こされた形でもきわめて単純であり、そこからかくも多彩な音楽を紡ぎ出してくる、しかも、確かな様式感覚を維持し、恣意的と感じさせないとは、おそるべき才能と言うほかない。
ライヴでは、アンコールが「ゴルトベルク変奏曲」の「クオドリベット」の終わり頃(つまり曲の途中!)から弾き出され、あの美しいアリアで締めくくられた。音楽教師ならとても認められないルール違反かもしれないが、ブクステフーデの長い変奏曲のあと、その音楽がバッハに受け継がれることを示すさりげないジェスチュアとして、むしろたいへん効果的だったように思う。というのも、CDの方は、その部分がいささか冗長なのだ。ブクステフーデの変奏曲のあと、「クオドリベット」が演奏されるのはいいとして、次にトリスターノの自作「Long Walk」が10分近く続く。若き日のバッハがドイツの田舎道をてくてく歩いていく、その感じがよく出ているといえばよく出ているのだが、音楽として聴いたとき、どうしても退屈に響くのだ。その後にまた「ゴルトベルク変奏曲」のアリアがエフェクトをかけて響くとなると、やりすぎと言わざるを得ない。「ゴルトベルク変奏曲」そのものでアリアと29の変奏を聴いたあげくクオドリベットまで来ると、長い旅もいよいよ終わりに近いという感慨がこみあげてくるものだが、このCDのような構成でそれを再現しようというのはそもそも邪道だろう。それがなければ『Long Walk』は素晴らしい一枚になったはずで、残念と言うほかない。それに比べて、ライヴでは、最初に「プレリュード」、前半の最後に「ラ・フランシスカーナ」、後半の最後に「グラウンド・ベース〜シャコンヌ〜」、都合3曲の自作が演奏されたが、CDより短くてしかも印象的だった。
初レコーディングに「ゴルトベルク変奏曲」を選んだピアニストだから、ブクステフーデを中心とする前半のあと、後半にバッハのこの名曲を選ぶこともできただろう。しかし、京都のコンサートではかわりにバッハのパルティータ第3番と第5番が演奏された。私はパルティータの第1番、第2番、第6番も別の機会に聴いているのだが、今回もきわめて端正な演奏で、とくに第5番冒頭のプレリュードをまったくペダルに触れずに弾いてのけるあたりはたいへん印象的だった。総じて、CDの良い部分を、コンパクトな形で、しかもいっそう雄弁に示す、素晴らしいコンサートだったと言ってよい。
付け加えておくと、録音とライヴの双方で使用されたヤマハのグランド・ピアノCFXの機能は予想以上に素晴らしく、ピアノもフォルテも、レガートもマルカートも、それぞれに美しく響く。まったくペダルに触れずに弾かれる端正なバッハから、テクノ・ミュージックを意識し、内部奏法も含めた大胆な響きまで、おおきな広がりをもつトリスターノの音楽を支えるパレットとして理想的と言えるのではないか。
『Long Walk』、そして今回のコンサートは、トリスターノの音楽の最良の成果であり、初録音の「ゴルトベルク変奏曲」に始まるひとつのサイクルのモニュメントと言ってもいいだろう。だが、トリスターノのレパートリーはそれだけにとどまるものではない。私は彼の弾くハイドンのソナタ、そしてムソルグスキーの「展覧会の絵」やドビュッシーの前奏曲集第1巻もライヴで聴いているが、いずれも個性的な忘れがたい演奏だった。1981年生まれの新世代のピアニストが、これからどんな演奏を聴かせてくれるか。トリスターノへの期待は膨らむばかりだ。
最後に付け加えるなら、このブログの2012年11月8日の項で触れたグレン・グールドをめぐる宮澤淳一との公開対談(京都府民ホールALTI)で、グールドの後、現在でもファジル・サイやフランチェスコ・トリスターノのような新世代のピアニストたちが自由な実験を試みているのは歓迎すべきことだ、しかし、グールドが録音スタジオの自由の中で個性的でありながら実は(少なくとも彼の考えでは)オーセンティックな演奏を実現したのに対し、サイがモーツアルトの「トルコ行進曲」をジャズ風に弾き崩してみせるのは確かに面白いにせよ下手をすると観客を沸かせるための見世物になってしまうし、トリスターノのテクノ風の自作自演にも同じような危惧を感じないではない、私はおおむねそのように述べた。その意見はいまも変わらない。ただ、今回の京都でのコンサートは、音楽史の研究からテクノ・ミュージックへの興味までが絶妙なバランスでコンパクトに凝縮された、きわめて興味深いイヴェントだったと思う。グールドが聴いたならきっと面白がったに違いないと思うのだが、どうだろうか。
2013年2月21日
1981年にルクセンブルグに生まれた(いまはバルセロナに住む)このピアニストは、2001年の初レコーディングでバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を取り上げている。チェンバロのスタイルを意識した個性的な演奏だが、いささかわざとらしく、音楽の自然な流れが阻害されるところもあるように感じられた(ブクステフーデの後に聴き直すと、ピアニストのやりたかったことがいっそうよくわかる)。他方、最後に「おお、人よ、汝の大いなる罪を嘆け」と「目覚めよと呼ぶ声あり」の2曲のコラールが収録されていて、こちらはオルガンの重厚な響きを意識した悠揚迫らぬ名演なのだが、前者はエミール・ナウモフ(グールドのピアノ曲を演奏したり、フォーレのレクイエムをピアノで演奏したり、異色の試みで知られる1962年生まれのピアニスト)、後者はシュリメ自身の編曲を用いているところにも、独特のこだわりが見て取れる。さらに、トーマス・ベルンハルトがグレン・グールドを取り上げた『破滅者』などの小説を録音時に読んでいたこと、CDのリリースがグールド没後20周年の2002年になることに触れた短いライナー・ノートを読んでも、彼が独自のヴィジョンをもつピアニストであることはよくわかった。
さらに、このピアニストに対する私の関心を高めたのは、ベリオのピアノ曲全集(2005)、そしてフレスコバルディのトッカータ集(2007)だった。現代音楽と古楽を同時に取り上げる——近年では珍しくないことだが、抜群のリズム感を生かしたシュリメの演奏は中でも際立って新鮮に響いたのだ。
それだけではない。シュリメはフランチェスコ・トリスターノ名義でテクノ・ミュージックにも手を染め、ピアノでテクノ風の音楽を演奏する実験も始める。私は一流のテクノなら二流のクラシックより高く評価する用意があるが、彼の取り上げるカール・クレイグなどをあまり評価しないし、彼のようにピアノでテクノ風の音楽を弾くとどうしてもガチャガチャ響いてうるさいと感じずにいられない(繰り返すが、テクノだからいけないというのではない。たとえばレニ・トリスターノがジャズの最高水準においてバッハの対位法を生かしてみせた、そのような水準には達していないというだけのことだ)。だが、クラシックの枠を超えて現代の音楽(いわゆる「現代音楽」ではなく)のフロンティアに立とうとする姿勢自体にはむしろ好感をもった。
最終的に、彼の音楽活動はこのフランチェスコ・トリスターノという名義に統一され、バッハとケージを組み合わせたCD『bachCage』(2011)もこの名義でドイツ・グラモフォンからリリースされることになる(ドイツ・グラモフォンがカール・クレイグやマックス・リヒターらによるリミックス盤を出し始めたのと軌を一にしているのだろう)。私はCDのほかライヴも聴いたが、ケージの作品のうち単純で耳ざわりのいいものを選んでムーディな演奏をするのはいささか偏っているように思われたし、テクノ風の自作にもやはり問題を感じないわけではなかったものの、端正でリズミカルなバッハをはじめ、総じて大いに楽しめるコンサートだった。そして次に第二弾としてブクステフーデの録音がリリースされ、記念のコンサートが開催されたのである。
ブクステフーデ(1637?-1707)は、デンマーク(と一応言われるが現在のデンマーク領ではないかもしれない)に生まれ、北ドイツで活躍した音楽家であり、ドイツ音楽史を大きく見ればシュッツ(1585-1672)とバッハ(1685-1750)の中間に位置する。1705年、20歳のバッハは、名高いブクステフーデの演奏を聴くために、リューベックまで400kmもの道のりを歩いて行った(ちなみに、1703年にはバッハと同い年のヘンデルもブクステフーデを聴きに行っている)。CDのタイトル『Long Walk』はこのことを指す。
そこでバッハが聴いたのは、まずはオルガン演奏だろう。現在でも、ブクステフーデのオルガン曲は演奏される機会が多い。他方、チェンバロ曲はあまり知られておらず、私自身これまでほとんと聴いたことがなかった。今回、昨年リリースされたシモーネ・ステッラ(やはり1981年生まれ)による全曲録音(Brilliant 94312)を聴き、ブライトコップ&ヘルテル版の楽譜を見たのだが、そこに掲げられた写真によると、オリジナルのタブラトゥーアは、コード・ネームと音型だけを記したジャズ・ミュージシャンのメモに近いもので、それを解読して五線譜に書き起こしたものも、驚くほどシンプルだ。また、バッハがタイトルにわざわざ「平均律クラヴィア曲集」と謳ったのは平均律が新しいシステムだったということなので、ブクステフーデの頃はまだ平均律ではなく中全音律による調律が一般的だった。三度を純正音程に近づけるため五度を純正音程よりわずかに狭めた調律だが(そのため全音の音程が大全音と小全音の間の大きさとなるので中全音律と呼ばれる)、あまり広い音程では響きが歪むので、音域が限定される。実のところ、ブクステフーデは早くから平均律を推奨した音楽家の一人とされ、オルガン曲ではそれが可能にする広い音域を駆使した作品も書いている(トリスターノが今回のコンサートで取り上げたニ短調のトッカータはその例)ものの、チェンバロ曲は中全音律の範囲にとどまっている。それでも、チェンバロならレジスターを変えて音色に変化をつけることができるだろう(ステッラ盤で聴かれるように)。しかし、楽譜を見たとき、それをピアノで弾いて面白い演奏ができると、いったい誰が思うだろうか。トリスターノは、その無謀な企てに挑み、結果、驚くほど生き生きと多彩な音楽を紡ぎ出してみせたのである。かつてグールドがバッハの「ゴルトベルク変奏曲」から埃を吹き払って新鮮な音楽として甦らせたとすれば、トリスターノはやはり目の覚めるような演奏によって古楽の専門家以外見向きもしなかったブクステフーデのチェンバロ曲をいっそう遠い過去から見事に甦らせた——そう言っても決して大げさではないだろう。
いま「ゴルトベルク変奏曲」を例に挙げたが、実は『Long Walk』の中心をなすブクステフーデの「アリア『ラ・カプリッチョーザ』による変奏曲」こそ「ゴルトベルク変奏曲」のモデルと考えられる。バッハの曲は、最初と最後のアリアおよび30の変奏、あわせて32のパートから構成されるが、ブクステフーデの曲も32のパルティータから構成される(バッハの場合、パルティータは複数のパートからなる組曲を意味するのに対して、ここでは個々のパートを意味し、最初のアリアを第一パルティータと数える)。これほど大規模なチェンバロ曲はブクステフーデの作品が初めてだろう。そして、ブクステフーデの使っているアリアの旋律が、「ゴルトベルク変奏曲」の最後の変奏にあたる「クオドリベット」に出てくるのである。バッハの大作に比べてはるかに素朴なこの曲の楽譜から、トリスターノが何と多彩な音楽を紡ぎ出していくことだろう! ライヴで聴くといっそうよくわかるが、一切ペダルに触れることなく端正な音楽を奏でることのできる的確なタッチ、そして抜群のリズム感が、その演奏を一貫して支えている。ライヴでは録音より大胆にコントラストが強調され、第3パルティータの弱音の美しさに息を呑むかと思うと、第5パルティータでは鋭いスタッカートにはっとさせられる。第10パルティータでは古雅なお引きずりのリズムがチェンバロを思わせるかと思うと、第31パルティータではダンパー・ペダルを踏みっぱなしにしてカリヨンのような響きを生み出す。繰り返すが、ブクステフーデの楽譜自体は、五線譜に書き起こされた形でもきわめて単純であり、そこからかくも多彩な音楽を紡ぎ出してくる、しかも、確かな様式感覚を維持し、恣意的と感じさせないとは、おそるべき才能と言うほかない。
ライヴでは、アンコールが「ゴルトベルク変奏曲」の「クオドリベット」の終わり頃(つまり曲の途中!)から弾き出され、あの美しいアリアで締めくくられた。音楽教師ならとても認められないルール違反かもしれないが、ブクステフーデの長い変奏曲のあと、その音楽がバッハに受け継がれることを示すさりげないジェスチュアとして、むしろたいへん効果的だったように思う。というのも、CDの方は、その部分がいささか冗長なのだ。ブクステフーデの変奏曲のあと、「クオドリベット」が演奏されるのはいいとして、次にトリスターノの自作「Long Walk」が10分近く続く。若き日のバッハがドイツの田舎道をてくてく歩いていく、その感じがよく出ているといえばよく出ているのだが、音楽として聴いたとき、どうしても退屈に響くのだ。その後にまた「ゴルトベルク変奏曲」のアリアがエフェクトをかけて響くとなると、やりすぎと言わざるを得ない。「ゴルトベルク変奏曲」そのものでアリアと29の変奏を聴いたあげくクオドリベットまで来ると、長い旅もいよいよ終わりに近いという感慨がこみあげてくるものだが、このCDのような構成でそれを再現しようというのはそもそも邪道だろう。それがなければ『Long Walk』は素晴らしい一枚になったはずで、残念と言うほかない。それに比べて、ライヴでは、最初に「プレリュード」、前半の最後に「ラ・フランシスカーナ」、後半の最後に「グラウンド・ベース〜シャコンヌ〜」、都合3曲の自作が演奏されたが、CDより短くてしかも印象的だった。
初レコーディングに「ゴルトベルク変奏曲」を選んだピアニストだから、ブクステフーデを中心とする前半のあと、後半にバッハのこの名曲を選ぶこともできただろう。しかし、京都のコンサートではかわりにバッハのパルティータ第3番と第5番が演奏された。私はパルティータの第1番、第2番、第6番も別の機会に聴いているのだが、今回もきわめて端正な演奏で、とくに第5番冒頭のプレリュードをまったくペダルに触れずに弾いてのけるあたりはたいへん印象的だった。総じて、CDの良い部分を、コンパクトな形で、しかもいっそう雄弁に示す、素晴らしいコンサートだったと言ってよい。
付け加えておくと、録音とライヴの双方で使用されたヤマハのグランド・ピアノCFXの機能は予想以上に素晴らしく、ピアノもフォルテも、レガートもマルカートも、それぞれに美しく響く。まったくペダルに触れずに弾かれる端正なバッハから、テクノ・ミュージックを意識し、内部奏法も含めた大胆な響きまで、おおきな広がりをもつトリスターノの音楽を支えるパレットとして理想的と言えるのではないか。
『Long Walk』、そして今回のコンサートは、トリスターノの音楽の最良の成果であり、初録音の「ゴルトベルク変奏曲」に始まるひとつのサイクルのモニュメントと言ってもいいだろう。だが、トリスターノのレパートリーはそれだけにとどまるものではない。私は彼の弾くハイドンのソナタ、そしてムソルグスキーの「展覧会の絵」やドビュッシーの前奏曲集第1巻もライヴで聴いているが、いずれも個性的な忘れがたい演奏だった。1981年生まれの新世代のピアニストが、これからどんな演奏を聴かせてくれるか。トリスターノへの期待は膨らむばかりだ。
最後に付け加えるなら、このブログの2012年11月8日の項で触れたグレン・グールドをめぐる宮澤淳一との公開対談(京都府民ホールALTI)で、グールドの後、現在でもファジル・サイやフランチェスコ・トリスターノのような新世代のピアニストたちが自由な実験を試みているのは歓迎すべきことだ、しかし、グールドが録音スタジオの自由の中で個性的でありながら実は(少なくとも彼の考えでは)オーセンティックな演奏を実現したのに対し、サイがモーツアルトの「トルコ行進曲」をジャズ風に弾き崩してみせるのは確かに面白いにせよ下手をすると観客を沸かせるための見世物になってしまうし、トリスターノのテクノ風の自作自演にも同じような危惧を感じないではない、私はおおむねそのように述べた。その意見はいまも変わらない。ただ、今回の京都でのコンサートは、音楽史の研究からテクノ・ミュージックへの興味までが絶妙なバランスでコンパクトに凝縮された、きわめて興味深いイヴェントだったと思う。グールドが聴いたならきっと面白がったに違いないと思うのだが、どうだろうか。
2013年2月21日