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『千年の愉楽』公開に際して——若松孝二の「後期作品」
浅田 彰

2013.03.09
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©若松プロダクション


若松孝二の遺作『千年の愉楽』がついに公開された。この映画については、昨年、原作者の中上健次の没後20周年を記念する熊野大学の夏期講座で、若松孝二と高良健吾(出演者:やはり中上健次の原作による廣木隆一監督『軽蔑』にも主演している)をいとうせいこうと私で囲むトーク・セッションを行なったことがある(8月4日)。癌を克服したとはいえ尾鷲の坂道で撮影していたときは酸素ボンベを携行していたという監督も、それからずいぶん元気になったようで、意気軒高なところを見せていたから、交通事故にあって昨年10月17日に亡くなったというニュースに接した時は、愕然としたものだ(その後、2013年1月15日には大島渚も亡くなった)。以下はそのトーク・セッションでの私の発言をまとめてリライトしたものだが、読んでの通り、近年の若松孝二へのかなり辛辣な批判を含んでいる。それでも笑顔で対話に応じてくれた監督の懐の深さを思い、あえてこのままの形で公開して追悼に代える。

左より、若松孝二、いとうせいこう、高良健吾、浅田 彰の各氏(写真提供:熊野大学)


中上健次の『千年の愉楽』を映画化した若松孝二監督、そして水もしたたる中本の若者を演じた高良健吾さんを迎えて、ここ熊野の地で話ができることを、本当に嬉しく思います。中上健次が生きていたら、どんなに興奮したことでしょう。

ここには若い方や映画に親しみのない方もたくさんおられるので、あえて当たり前のことから確認しておきますが、ぼくが1975年に大学に入ったとき、若松監督はすでに神話的といっていい存在でした。

1975年というとすでに大学紛争は下火になっていたのですが、ぼくの入った京都大学ではまだ竹本信弘(=滝田修)助手の処分をめぐる紛争が続いていた。川本三郎の『マイ・バック・ページ』(読んだことがないけれど)や、それに基づく映画(観たことがないけれど)でご存じの方もあるでしょう。ローザ・ルクセンブルグ(共産党の指導を強調するレーニンに対し、自然発生的な大衆運動を肯定しようとした)の研究者だった竹本=滝田は、自衛隊朝霞基地襲撃事件(自衛官が殺された)で指名手配され、大学に出てこられないことから免職となった。それに反対する学生運動にぼくも加わったわけです。もちろん、われわれのほとんどは竹本=滝田に心酔していたわけではない。個人的には、レーニンのボルシェヴィズムや、それを微温化した共産党のエリート主義に反対する半面、革命的自然発生を安易に肯定するのは危険だと思ったし、1968年以後の動きに舞い上がった竹本=滝田が不用意な言動で墓穴を掘ったと言わざるを得ない面もあるだろうと思った。それでも、竹本=滝田を「共同正犯」としてフレーム・アップする警察や、政治的背景を見ないふりをして形式的に免職にもちこむ大学当局には、断固として抗議しなければならない、ということだったわけです。

そんなとき、学生のイヴェントで映画を上映するといえば、竹本=滝田その人を取り上げた土本典昭監督のドキュメンタリー『パルチザン前史』(1969年)は当然として、やはり若松孝二や足立正生(注1)らの作品だったんですね。ちょうどその頃、永山則夫の見たであろう風景を淡々と撮影した『略称 連続射殺魔』(1969年)が上映されるようになり(足立正生をはじめとする作者たちは、最初、上映を考えていなかった)、自主管理空間だった京都大学西部講堂で観た記憶がある。そして、「ピンク映画」というにはあまりにブラックな雰囲気の若松監督の作品。友人たちと自主上映した『処女ゲバゲバ』(1969年)なんていうのは、タイトルからしてとてもポルノグラフィとは思えないし(「あれは大島渚がつけたんだ」と監督)、富士山麓の荒野に立つ十字架のイメージは、ほとんどパゾリーニを思わせるほどだった。エロスの高揚がたえずタナトスによって阻害され、不毛なままにとどまる、それが、大学紛争末期の閉塞状況の中でリアリティを感じさせたわけです。

そこから急に飛躍しますが、率直にいって、近年の若松監督の作品は、あれほど救いのない荒涼とした世界を描いていた作家にしては、いささかわかりやすすぎる、とくに若者たちを好意的に描きすぎていると感じずにいられないんですね。かつての永山則夫、そして若松監督が撮ろうとして果たせなかった山口二矢(17歳で社会党委員長浅沼稲次郎を刺殺し少年鑑別所で自殺した:*注2)のように、連合赤軍の若者たちも、「盾の会」の若者たち(とくに三島由紀夫とともに割腹自殺した森田必勝)も、そして『千年の愉楽』に出てくる中本の血統の若者たちも、それぞれ短くも鮮烈な生を生きた。若松監督が彼らに向ける暖かい視線は映画から確かに伝わってきますが、左翼でも右翼でもいい、それをきっかけに若者たちが自己犠牲を厭わず真摯に生きる姿こそが美しいというのは、カール・シュミットの言う政治的ロマン主義(そこでは左翼なり右翼なりの「大義[cause]」は自己の高揚のための「機会[occasion]」——言ってみれば「ネタ」——でしかなくなる)への退行と言われても仕方がないでしょう。

また、晩年を迎えた監督が、死を賭して戦う若者たちに暖かい視線を向ける、その暖かさゆえに、近年の映画には奇妙なくらいエロスの影が希薄になっているという問題もあります(確かに若松監督は1960年代からエロスよりはタナトスの人でしたが、近年はタナトスの影も希薄になっているんですね)。

たとえば三島由紀夫が自衛隊に討ち入って割腹自殺した事件は、ゲイの心中とまでは言わずとも、きわめてホモエロティックな自殺パフォーマンスだったと思うのですが、若松監督の『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(2012年)では、森田必勝の「男の色気」のようなものは確かにとらえられているものの、直接にはテーマ化されず、事件はもっぱら政治的な行動として描かれる。しかし、政治的な行動として見れば、それはどうしようもない愚挙ということで終わってしまうでしょう(実際、もし自衛隊が呼びかけに応えて蹶起していたら、三島由紀夫は立ち往生するほかなかったはずです)。

あるいは、中上健次が『千年の愉楽』で中本の血統の若者たちの「男の色気」をしつこいほど強調しているにもかかわらず、映画版はそういう側面をむしろ抑制しているように見えます。たしかに原作もオリュウノオバ(路地の産婆だった老婆)の視点から語られているので、若松監督がオリュウノオバと同一化して若者たちの物語を語っているのだとすれば、いわば茶粥のようにあっさりしたその味付けも理解できなくはない。それにしても、オリュウノオバは年齢も定かでない老婆のはずで、寺島しのぶさんでは若すぎる。ついでに言えば、彼女の連れ合いだった毛坊主の「礼如さん」の遺影が特殊効果でしゃべりだすあたりも、チープといえばあまりにチープでしょう。それ以上に、さっき言いかけた通り、若者たちがわりあいあっさりと描かれているのはどうしたことか。せっかく高良健吾さんのような触ると感電しそうな俳優が出演しているのに(さっきから隣でぼくの方をまっすぐ見つめて話をされるので、思わずドキドキしてしまいます)、もったいないような気がするんですね。

©若松プロダクション


しかし、逆に言えば、ここにはエロスの高揚さえ描ければそれでいいと考える安易な性的ロマン主義はない。エロスとタナトスの高揚と切断、その非情な反復が、引いた視点からクールに観察されている。考えてみれば、若松監督は昔から安易なエロスの高揚を許さなかったので、その点ではこれらの「後期作品」も一貫していると見るべきなのかもしれません。

引いた視点と言えば、『千年の愉楽』は主に三重県の尾鷲市で撮影されたそうで、湾を遠望する坂の町が実に印象的な背景となっています。映画公開時にはそこでイヴェントが企画されているようですが、ぜひこの熊野の地でもイヴェントを開催するべきでしょう。来年この地で若松監督や高良さんと再会して話の続きができることを期待しつつ、とりあえず私の発言はここまでとします。ありがとうございました。

*注1
2012年末にはフィリップ・グランドリュー監督のドキュメンタリー『美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう/足立正生』(2011年)も公開された。足立正生は、1971年に若松孝二とパレスチナへ渡り、『赤軍−PFLP・世界戦争宣言』を撮影、1974年には日本を離れてパレスチナ解放闘争に身を投じるが、1997年にレバノンで逮捕抑留され、3年の禁固刑ののち日本へ強制送還された。そんな経歴のせいか、キャメラの前で日本語の言葉をいろいろと言い換えては適切な表現を探っていく、その内省的な語り口が印象的だ。しかし、内容はといえば、とりたてて論ずるまでもないというのが正直なところである。
対してジャン=リュック・ゴダールを考えてみよう(さしあたり、『映画の世紀末』[新潮社]に収録された鵜飼哲との対談「パレスチナから遠く離れて」のほか、「歴史の授業——ヴェトナム戦争から遠く離れて」 も参照されたい)。ジガ・ヴェルトフ集団を名乗ったジャン=リュック・ゴダールとジャン=ピエール・ゴランは、1970年にやはりパレスチナで『勝利まで』というプロパガンダ映画を撮影する。しかし、さまざまな事件——とくに、映画に登場する闘士たちがイスラエルではなくヨルダンのフセイン国王に殺されるという事件があって、映画の計画は挫折し、むしろその挫折をめぐる考察の中から『ヒア & ゼア こことよそ』(1976年)という別の映画となって甦る。そこでは、フランスのブルジョワ家庭とパレスチナの闘士たちとを「世界同時革命」(「世界戦争」)において直結することではなく、それらの間を切断/接続する「と」——つまり媒介(メディア)について考えることが、主要なテーマとされるのである。こうして、挫折を受け止め、徹底した自己批判(それはメディアによるメディアの批判でもある)を行うことこそが、ゴダールのその後の地平を開いたと言えるのではないか。他方、ゴダールよりはるかにストレートに現地で闘争を続けた足立正生にそのような転回を見出すのは難しいだろう。つまるところ、足立の一貫性に敬意を払いつつ、ゴダールの屈曲の中により多くを見るというのが、私の一貫した評価である。なお、『ヒア&ゼア こことよそ』のほか『パート2』『うまくいってる?』を収録した『ゴダール/ソニマージュ初期作品集』が紀伊国屋書店からDVDとブルーレイ・ディスクで発売される(ソニマージュは、ジガ・ヴェルトフ集団の解散後、ゴダールがアンヌ=マリー・ミエヴィルと結成したユニットである)。これらの作品を見る機会がほとんどなかった時期もあるので、当時に比べると夢のような話だ。必見と言っておく。
*注2
周知のとおり、大江健三郎の『セヴンティーン』と『政治少年死す』はこの事件をモデルにしており、右翼から強い抗議を受ける。同時期に深沢七郎の『風流夢譚』掲載誌の出版元である中央公論社社長宅を右翼の暴漢が襲撃して家政婦を殺害する事件が起きたこともあって、『政治少年死す』は以後、出版されることがなかった。内容的には『セヴンティーン』ですでに十分と言っていいだろうが、表現の自由の問題としてやはり『政治少年死す』も出版されるべきだ(海賊版はあるし、ネットで簡単に読めるとはいえ)。大江健三郎のノーベル賞を善用する道は、それをきっかけにこの作品を再刊することだったと思うのだが、それは実現しなかった。
なお、昨年、ノルウェー労働党の若者向けサマー・キャンプで乱射事件を起こした犯人に関して、フランスの作家リシャール・ミエが『アンネシュ・ブレイヴィクの文学的賛辞』というエッセーを発表し、むしろ彼をテロへと追い込んだノルウェーの多文化主義こそが問題だと論じたとき、ノーベル文学賞受賞者のル・クレジオは、パリの文壇から距離を取っている彼には珍しく『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌に一文を寄せ、こんなものを読むくらいなら大江健三郎の『セヴンティーン』を読むべきだ、と書いている。そのような意味でも、大江健三郎が、また若松孝二がこだわってきた問題群は、現代の世界でもアクチュアリティを失っていない。

3月9日