ライフ、ライフ/鳥たちの舞うとき——高谷史郎《ST/LL》
石谷 治寛
2016.02.03
高谷史郎の舞台は、ひとつのコンセプトをもとに演者たちや他のスタッフたちのアイデアをまとめあげながら創りあげられる。むしろ高谷は舞台の空間構成や枠組みづくりにこそ細心の注意を払うことで、作家のエゴは限りなくゼロに近くなる。コラボレーターたちのアイデアは共鳴しつつも、それぞれが決して融け合うことなく、干渉し合いながら多様なかたちをとる。これらの波動の広がりやリズムのなかに、共有された夢のような時空が開かれる。その夢はますます理解不能なものになるが、上演された夢を判読しようとする私たちは、そこにあらゆる感情を見出すだろう。舞台の暗がりには、贅沢、空腹、恐怖、不気味さ、可笑しさ、驚愕、不安、安心、計算、直感、唖然、興奮、混乱、切迫、悲哀、歓喜、陶酔といったあらゆる意識や情動が、現れては消える波紋のようにゆらぎ続けていく。しかしそれを言い表すことは難しい。だが静かに、決然と、断固として、私たちは触発されている。それが何かということは<まだ>わからない。はっきりとした像が<まだ>心に浮かばないままに。どもりながら<まだ>ものが言えないけれど。
高谷史郎の新作《ST/LL》はひとつの謎のように、私たちに問いかける。フランスの港町ル・アーヴル(印象派の画家クロード・モネの育った街)でこのタイトルの新作が発表されると聞いたとき、私は正直言って一体何の略号か、皆目検討がつかなかった。《ST/LL》とは「STILL」の「I」が「/」へと置き換えられたものらしい。なるほど、これまで高谷は《明るい部屋》では写真カメラを、《Chroma》では色彩と光をテーマとしてきた。次はスチール写真だろうか。劇場の開幕前から謎解きゲームは始まっていた。結局、びわ湖ホールで鑑賞後も、ますます作品の謎は深まるばかりだったが、数日のあいだ、目眩のような余韻に酔いしれた。ここではさらに時間を経て作品を振り返りながら、いち鑑賞者としての驚きと見解を書き留めておきたい。
まず、作家のステートメントからコンセプトを確認しておこう。「ST/LL」は、「静寂」「静止した」「静止画=写真」といった意味で、私たちの認識を超えた「時間」や「空間」についての考察である。また「between moments」(瞬間のあいだ)とも記されている。「絶妙なバランスで成り立っている砂粒で出来たこの世界、ちょっとした変化で全てが崩される。アートとサイエンスはそうした世界の成り立ちを記述することが可能なのか」。
静止して直立する私(I)は、体を傾ける(/)ことによって、バランスを保とうとする。その瞬間、自動的に足を前に出したり体を動かしたりする不随意運動が生まれる。人がこの運動を開始する瞬間の0.5秒(S)前に、すでに脳の活動ははじまっているというのは、近年ベンジャミン・リベットが「マインド・タイム」(T)と呼ぶ、体と脳の働きの性質である。こうした世界や意識の成り立ちの瞬間のあいだに立ち会うこと、それが本作のコンセプトであろう。
ここに描写したのは冒頭10分ほどの場面であるが、本作は、どの場面もここに書きつくせないほどのニュアンスに富んでいる。一体何が起きているのかわからないまま感情が動かされ、あっという間に一時間十数分の舞台が過ぎ去ってしまった。Dumb Typeや高谷史郎の舞台作品で共通しているのは、こうしたパフォーマーたちの身振りやダンスと映像で構成される短いコントの連続によって、難解で抽象的な概念が、具体的でユーモラスに演じられることにある。近年は映像の速度や量よりも、微妙な光と影や色のトーンの推移(吉本有輝子)や雑音を拾う音響設計(原摩利彦と南琢也)が際立ってきている。黒や暗闇が強調されながらも、光や色や音の繊細な変化に富んだ舞台は、途方も無く美しい。さらに本作は時空の混乱がテーマであることから、これまで以上にナラティブの進行は曖昧に感じられ、いっそう抽象度の高い作品になっているように思えた。ペダンティックに言えば、暗さのなかに水がざわめく空間は、NYの世界貿易センタービル跡地の記念碑(9/11 Memorial)を思わせないこともないが、むしろカジミール・マレーヴィチやアド・ラインハートの黒い四角形のようでもある。マレーヴィッチは黒い四角のなかに潜在的な色彩の萌芽を見た。ラインハートは絵画がなにを表象しているのかではなく、あなたが何を表象しているかが問われるのだと漫画で注釈した。《ST/LL》の舞台装置自体は、鏡にも、現像室にも、廃墟にも、海中にも、宇宙の空間にもなるだろう。その黒い四角形に個々のパフォーマーたちやスタッフの夢が重ね映しにされている。鑑賞者は呆気にとられながらも無限の連想を繰り広げるしかない。
謎めいた舞台の印象を振り返って考えながら、おぼろげに見えてきたのは、ある意味できわめてシンプルな世界の成り立ちの姿だった。鶴田真由が、因果性のない偶然の一致についてのアルフレッド・バーンバウムの言葉を、マッチで火をつけながら朗読をする。つづいて、アイヌの子守歌を歌う場面は、凛としてメランコリックな美しさがある。「いのちをつくる神さま(ラマッカラカムイ)が60のゆりかご(レホッネシンタ)を[……]いっせいに揺らす。そうするとその赤ちゃんたちが泣く声が、この世界に(アイヌモシリ)、世界の上に降ってきて、そこから生まれるのが眠りというものなのです[……]」(舞台では全編アイヌ語で語られる。アニメ版)。そこから転調して、楽しげな鳥たちのダンスが、スクリーンの裏で影絵遊びをしながら通りぬける(コウノトリのように?)。4人のパフォーマーのカルテットから、タイムラグによって動きが反復される映像に合わせたバルザリーニと平井のデュエットを踊る場面へと発展する。楽しく愛に溢れた、これらの場面に作品の生命が賭けられているように思われた。
調べれば、セキレイが、アイヌの国造り神話で、恋望の鳥とされているらしい。『日本書紀』でもセキレイは同様の象徴として登場するが、ふたつの神話の関連はわかっていない。アイヌ語と日本語の類似性の指摘も多くあり、古代からの交流・交易が想像される。セキレイは、尾を上下させる動きから、アイヌ(人間)に、夫婦の交わる方法を教えたというのだ。アイヌの国造りの神話は複数あるのだが、そのなかにはセキレイが、創造神の命を受けて光の尾を引いて地上に舞い降り、水をはね散らし、足で泥を踏み固め、その長い尾を上下させて地ならしをすると、陸地が現れ、水は海となってさざなみを起こした、というものもある。セキレイの尾の動きは、リズムやテリトリー化、すなわちダンスの起源の神話としても解釈できる。《ST/LL》は、こうした国造りの神話を、アイヌの子守唄を通して暗示しながらも、世界中の天地創造の神話を合成したようなかたちで提示しているのだろう、というが私にとって本作についての理解となった(もちろん浅田彰氏がアフタートークなどで指摘したエピクロスの「クリナメン」もルクレティウスによって古代ギリシアの天地創造の神話を自然科学の言葉にした概念として継承された)。
男女のデュエットの後に薮内美佐子が各国語の文字が切り抜かれた白い紙の入ったかごを運ぶ詩人=屑拾いたちを一人芝居で演じる。様々な言語が合成されたような声で、独り会話する様はとても可笑しい。この場面の最後で、かごに集められた言葉は、机の上から水面にばらまかれると白い雲や蝶や桜のように舞って散り、透明な水面が汚され、睡蓮のように広がる。世界を青黃赤白黒の五色の雲で捉えるアイヌの神話に関連させるとすれば、青い雲は海を、黃い雲は島を、赤い雲は金銀珠玉器材を、白い雲は草木鳥獣魚虫の創造となる。こうした原色のトーンがゆるやかに移り変わるように、舞台全体の色彩も繊細にコントロールされていたのではないだろうか(東京都現代美術館で行われた野村萬斎主演の能《三番叟》や《ボレロ》も、神事舞踊としての能楽という折口信夫の解釈に従っていたことが思い起こされる。高谷による《ボレロ》の能舞台演出では、GPSの衛星地図やニュース映像の素早い切り替えが舞台に投影され、パフォーマーのステップに合わせてさざなみのエフェクトがリアルタイムにコンピュータで生成された)。
このセオリーを念頭において、本作の冒頭から振り返ってみよう。天の方へと青みがかかったライトに照らされたテーブルの上の食器が片付けられると(丸い皿は海の泡のように水面で反射し、パフォーマーはいわば創造神となる)、次のシーンでは暗闇のなか、机の上に寝そべるバルザリーニの身体と肌の色(島の隆起や地震を思わせる)が強調される。またその様は、宇宙船や難破船で漂流しているようでもある。薮内と、平井が暗闇のなかに懐中電灯を揺らしながら何かを捜索するように現れるとき、水面に反射した光は舞台袖に、縞模様を映し出す。この舞台内外での闇と光の戯れは至高の体験だった(しかし同時に津波の災害の後の捜索といった不安な要素も頭を駆けめぐった)。さらに机は4つに分割されて動かされ、その上で3人はゆっくりと立ち上がったり座ったりする。ここでは土くれの彫像(ゴーレム)が焼成されているように見える。この場面ではスキャナないし日夜の周期や流れ星を思わせるような輝く光の線が横切り、神に似せてポーズをとった古典彫刻が視覚的に固定される。さらに、マッチの火と息が吹き込まれて、言葉が生まれ、魂を象徴するかのような60の電球が下がって、空間にやや赤みがかかってくる。鳥たちが赤子の魂を運び、ダンスと影絵で、その魂は男女のカップルの愛の行為として身体化される。言葉はまた、ばらばらになり白い雲がゆっくりと水面に落下し、生命が授けられて、再び白黒の世界へと展開する。その間にスクリーンに映し出されるのは、黒、赤、黃、白の表紙の書物が超スローモーションで映しだされる映像であり、先ほどの紙の文字が落ちるのと同じような速度で物体が落下する運動イメージの連鎖には陶然とする。この落下の動きは、スプーン、フォーク、ナイフ、鏡面のように磨かれた盆、コーヒー・カップ、椅子、鍵束、ワイングラスなどが次々と地面に激突する映像に続く。知識と道具の誕生だろうか。それらが、勢い良く飛び跳ねたり(トランポリンの上で跳ねているかのように錯覚してしまう)、ゆるやかに崩壊したりするのを、楽しいのやら悲しいのやら複雑な気持ちで観客は見守るだろう。
きわめつけは、深い霧に包まれて平井優子が踊るクライマックスである。コントラストの強い白黒の皆既日蝕の映像に合わせて、三日月状に体を逸らせながら一瞬の暗転とともに平井は倒れこむ。その後、劇的なライトの光のなか、降りてきていたスパイダー・カメラが螺旋状に上昇しはじめると、それに引きつけられるようにして、平井は水に濡れながらもゆっくりと起き上がって踊りだす。また強いライトが太陽で、平井が地球だとすれば、円を描く動きは公転を表し、それと引き合うカメラは月ないし人工衛星だと見なすこともできるかもしれない。いずれにせよカメラの監視の眼差しは閉ざされ、死から生への再生が高らかに賞賛されるようで、身が震えた。とりわけ、静かな劇なのでそのようには感じられないが、相当の運動量と正確さが必要とされる難役をこなした平井の超人的なパフォーマンスには圧倒された(水面の上を、波紋を立てないで踊りたいというアフタートークの言葉が納得できるほど物理学的に不可能なことが可能に思えたダンスだった)。舞台上の登場人物として動くスパイダー・カメラは、文字通り蜘蛛の糸(ウェブ)に繋がれている、または、くもは雲(Cloud)でもあると考えられる。これをアイヌ神話に絡めるならば、国造りを見守る神の目を象徴するシマフクロウだと見ることもできるかもしれない。ギリシア神話のミネルヴァのように、不眠症や監視や知恵といった主題と重ねれば、そのフクロウは機械の目(EYE=I)をもっているという連想も的外れでないだろう。
静かだがノイズに満ちた最後の浜辺の映像(ついに潮の満ち引きによって生成する世界の具体的なイメージが現像する)の前で、立ちすくむ4人のパフォーマーたちの姿はただただ素晴らしい。もちろんびわ湖ホールなので、舞台を出れば実物の湖の岸辺の風景も目にすることもできた。機会があれば何度でもこの奇跡のような舞台に足を運びたい。
たいてい優れた作家の最新作には、これまでのあらゆるコンセプトが濃密に圧縮されている。高谷は「Life」という名のつく作品を、Dumb Typeの初期の《Pleasure Life》(1988年)と、坂本龍一とのオペラとインスタレーション《LIFE》(1999年)で手がけており、さらに野村萬斎を迎えての能楽《LIFE-WELL》(2013年)も発表してきた。私は《Pleasure Life》を残念ながら未見であるが、四方幸子によれば「幾何学的・抽象的な空間で繰り広げられるライフ・フォーメーション」のようにルールに拘束されつつ、情報端末に囲まれた空間で機械的所作を繰り広げる「生活世界のゲーム化」がパロディとして演じられたという。この初期のコレオグラフィは近年の能楽の試みを経て、今回の舞台で新たな次元に達したと言えよう。また本や食器が落下する場面は、オペラ《LIFE》で兵器をはじめとするあらゆるものが落下し崩壊するCG映像(原田大三郎制作)にミニマルな音と声「世界の破壊者」が強迫的に反復される戦慄的な「オッペンハイマーのアリア」を連想させもした。とはいえ《ST/LL》では、落下する物体は食器なので比較的安全なものへと脱力させられているとも言えるが、破壊のもつ取り返しのつかなさやエントロピーの増大や喪失感も感じられる。アイヌの神話のなかには、神が世界創造の仕事を終えて、天に帰るとき黒曜石の斧を打ち捨てて、毒の水が流れ湿地に至り病気が蔓延した、というものもあるようだ。
アフタートークで高谷は《ST/LL》の制作にあたり『2001年宇宙の旅』(1968年)などを参照したことを語っていた。よく知られているように黒いモノリスは、テクノロジーによる類人猿からの飛躍的な進化を象徴している。知性による道具の使用によって、闘争や暴力がもたらされた。武器となった骨は闘争の後に類人猿の頭上に放られると、その上昇する動きはいっきょに宇宙船へとモンタージュされる。またその宇宙船は精子を思わせ、母艦とドッキングするイメージは受精を表し、人工知能HAL9000の叛乱とその眠りの後に「超人」が誕生する、というのが、ありふれた読解である(それ以後、『エイリアン』〔1979年〕から『プロメテウス』〔2012年〕や『ゼロ・グラビティ』〔2013年〕まで、多くのSF映画は宇宙船を生命誕生の母胎や精神の発生のメタファーとして描きつづけている)。《ST/LL》では、道具は天から落下する。むしろ、果てしない空や宇宙への上昇の夢ではなく、「セキレイの水辺」とでもいうべき鳥たちの舞いの神話的な想像力と現代の自然科学やテクノロジーを通して、生命の発生と知性の発展を描きだしたのではないだろうか。
「LL」の同一のアルファベットが反復する瞬間のあいだには見分けがたい視差や差異が孕まれていて、破壊や死のあともなお、子守唄(lullaby)とゆりかごに揺られて、新たな生や芸術の誕生が祝福されているように感じられる。高谷史郎の新作は初期の時代を振り返りながらも、21世紀の「宇宙の旅(スペース・オデッセイ)」として圧倒的な進化のもとでつねに新しく生まれ変わっている。《ST/LL》の水は、そうした生命を育む羊水かもしれない。あるいはプランクトンのような微生物を顕微鏡で観察するためのビーカーの液体かもしれない (オペラ《LIFE》では沖縄民謡「ちんさぐの花」にあわせて生物学者リン・マーギュリスのテクストが読まれ、バクテリアの進化のようにダンサーたちが踊った)。
坂本と高谷は、2016年のKYOTOGRAPHIE「Circle of Life|いのちの環」において、クリスチャン・サルデが微生物を撮影した映像をもとにしたインスタレーションを展示予定である。舞台から写真展へという次の移行で、どんな体験が京都でもたらされるか、いまから待ち遠しい。
(注1)
またマラルメ・プロジェクトも近代的詩人の想像力が、起源の神話や自我の問題と結びついた作品だった。鳥というモチーフの変奏を考えるならば、《イジチュール》では黒鳥や鳥の羽のイメージが万年筆での文字を書く音や動きで表された。また《二重の影》では、モロッコの壁の影がタイムラプスで変化するなか、時々飛ぶ鳥の影が画面を横切るのが見えるだろう。高谷の映像において鳥のモチーフは、動きや生の感覚と関連して、意識的に主題化されている。
(注2)
たまたま本稿の仕上げをしながら公開中の映画ロン・ハワード『白鯨との闘い』を見た。海と荒ぶる動物=神の主題という点で、本稿の論点にも重なる部分がある。舞台である一九世紀初頭にとって捕鯨船は最新のテクノロジー、巨大な機械だったと同時に、風と潮力を動力とするエコロジカルな乗り物でもある。映画はメルヴィル『白鯨』にまつわる実話をもとにしており、新鮮味のないテーマかもしれないが、一九世紀のクジラ漁と航海の様子はディテールに富んでいて一見の価値がある。跳びはねるイルカや潮を吹くクジラの描写も魅力的だ。キュアロン『ゼロ・グラビティ』やノーラン『インターステラー』は無重力でテクノロジーに保護された身体から重力や故郷の大地への帰還というのがテーマだったが、ロン・ハワードの映画は、自然との厳しい対峙がいっそう強調され、巨大クジラとの対決の末に遭難した船乗りたちはきわめて過酷で極限的な状況に放り出される。同時に北米とエクアドルやチリなどの地政学も垣間見える。小説家ナサニエル・ホーソーンがメルヴィル『白鯨』をホメロスの叙事詩のようだと賞賛したというが、「海のオデッセイ」である『白鯨との闘い』は、近年のSF映画 ——マーヴェルの一連のヒーロー映画も含めて ——無重力への憧れと断念という主題(電子メディアのもつ身体性と結びついている)に対する鋭いアンチ・テーゼだと言えよう。さすがに『コクーン』(1985年)の監督ロン・ハワードだけはある。
ついでに言うとマイケル・キートン主演の『ザ・ペーパー』(1994年)は個人的には忘れがたい佳作であり、ハワード・ホークスのように職業的な身振りとジャーナリズムの精神を丹念に描くアメリカ映画の良き伝統を継承したロン・ハワードのスタイルはもっと評価されていいだろう(もちろん「ダ・ヴィンチ・コード」シリーズや『ビューティフル・マインド』〔2001年〕など「陰謀論」めいたヒット作もあるし、『フロスト×ニクソン』〔2009年〕は米国では高い評価を受けた良作である)。『白鯨との闘い』には、若きメルヴィルの熱意や、船旅の嵐や孤島の表現のほか、貴重な鯨の脳の油を摂るためにクジラの頭の中に少年が潜るなど、エネルギー資源の開発と脳科学の歴史との関連が示唆される場面もあり興味は尽きない。さらに海のリスクと生命保険といったテーマに広がる論点も簡潔に描かれている。
今週末にはリドリー・スコットの『オデッセイ』も公開予定である(タイトルは『火星の人』などにするべきだと思われるが)。これは孤島で生き延びるロビンソン・クルーソーを思わせる筋書きを、火星に置き換えたものである。
高谷史郎 パフォーマンス 《ST/LL(スティル)》
2016年1月23日・24日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール
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【高谷史郎《ST/LL》 関連記事一覧】
〈REVIEW〉
▶津田朋延(近日公開予定)
▶浅田彰「高谷史郎の《ST/LL》——言葉と映像の彼方へ」
〈BLOG〉
▶石谷治寛「ライフ、ライフ/鳥たちの舞うとき ——高谷史郎《ST/LL》」
高谷史郎の新作《ST/LL》はひとつの謎のように、私たちに問いかける。フランスの港町ル・アーヴル(印象派の画家クロード・モネの育った街)でこのタイトルの新作が発表されると聞いたとき、私は正直言って一体何の略号か、皆目検討がつかなかった。《ST/LL》とは「STILL」の「I」が「/」へと置き換えられたものらしい。なるほど、これまで高谷は《明るい部屋》では写真カメラを、《Chroma》では色彩と光をテーマとしてきた。次はスチール写真だろうか。劇場の開幕前から謎解きゲームは始まっていた。結局、びわ湖ホールで鑑賞後も、ますます作品の謎は深まるばかりだったが、数日のあいだ、目眩のような余韻に酔いしれた。ここではさらに時間を経て作品を振り返りながら、いち鑑賞者としての驚きと見解を書き留めておきたい。
まず、作家のステートメントからコンセプトを確認しておこう。「ST/LL」は、「静寂」「静止した」「静止画=写真」といった意味で、私たちの認識を超えた「時間」や「空間」についての考察である。また「between moments」(瞬間のあいだ)とも記されている。「絶妙なバランスで成り立っている砂粒で出来たこの世界、ちょっとした変化で全てが崩される。アートとサイエンスはそうした世界の成り立ちを記述することが可能なのか」。
静止して直立する私(I)は、体を傾ける(/)ことによって、バランスを保とうとする。その瞬間、自動的に足を前に出したり体を動かしたりする不随意運動が生まれる。人がこの運動を開始する瞬間の0.5秒(S)前に、すでに脳の活動ははじまっているというのは、近年ベンジャミン・リベットが「マインド・タイム」(T)と呼ぶ、体と脳の働きの性質である。こうした世界や意識の成り立ちの瞬間のあいだに立ち会うこと、それが本作のコンセプトであろう。
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開演前から舞台には奥へと縦長にテーブルが置かれ、その上には皿やナイフやフォークやワイングラスなどが並べられており、椅子が二つ用意されている。テーブルの食器は伝統的な静物画(Still Life)の構図を思わせる。この構成はまた、高谷の個展『明るい部屋』展のために制作されたスキャニング撮影の写真にも似ている。幕はなく、背後の白いスクリーンにテーブルの鳥瞰映像が映しだされて、ひっそりと舞台が開始される。古舘健によって作成されたランプのような物体がゆっくりと地上に接近する。はじめ豪華なシャンデリアかと思われたその物体は、黒いテーブルに徐々に近づく。それは実はスパイダー・カメラであるが、あたかも遠隔操作されたドローンのようにも見えなくない。映像は、テーブルの木目の縞模様が見えたところで、構図の向きが変わり、観客の手前の方へと近づいてくる。やや青みがかかった映像は、ワイングラスの光沢や黒い皿の質感を、白黒写真のように捉えていく。傾いたラクルス(短縮遠近法)のカメラの構図は、アレクサンドル・ロトチェンコやラスロ・モホイ=ナジといった構成主義の時代の白黒で抽象的なかたちを強調した静物写真のようで、この動く映像自体、実に見事で惚れ惚れとする。画面には、テーブルの上に置かれた黄色い木で覆われたメトロノームも飛び込んできて(計4つある)、時間が刻まれ、空間が色づけられる。そこに、中盤で語り部となる鶴田真由が無言で登場する。フォークやナイフのイメージは人間よりも大きく映しだされ、その鋭い光沢は不気味に思えてくる。皿が空っぽであることから、宴の後だろうか、あるいは巨大な廃墟の都市のようにも思える。テーブルに置かれた赤いリンゴが画面に映される。映像のなかで、カメラの動きに合わせてゆっくりと、垂直のスクリーンに映しだされたリンゴはニュートンの法則を裏切って水面に揺れながら落ちていく。その超自然な感覚に目眩がする。他のパフォーマーたち、薮内美佐子、オリビエ・バルザリーニ、平井優子が登場する。バルザリーニと薮内がウェイターとウェイトレスとして不在の客人のための食器を片付けはじめるのに対し、鶴田と平井は鏡合わせのように向き合いながら、ナイフとフォークを手にとり、皿に向かって食事の身振りをはじめる。時間の前と後、空間の大きさが混乱しているのだろう。そこでまた観客は舞台には薄い水が張られていることにはっきりと気づく。ダンサーたちが静かに足を踏み出すのに合わせて、水のゆらぎは複雑な干渉縞を創り上げる。この水は鏡のようでもあり、写真スチールとの連想からすれば現像液のようでもある。物と映像、実在と現象のゆらぎのなかの時空が、ある種異様な舞台構成のなか展開していく。ときには、食器がテーブルに置かれる音や水を跳ねる足音によって、静寂が破られる。また、ゆっくりと鏡の身振りを繰り返す鶴田と平井は、いたずらっぽくスプーンを落とす。すると鋭い音の反響とともに水面の波紋が広がって干渉し合うなか、二人はゆっくりとかがんでそのスプーンを拾う。さらに二人の女性は空っぽの皿の上の食事をナイフとフォークで食べる夢遊病者の動作から、ふとテーブルにもたれかかっては、眠ったり起きたりを繰り返す。夢のなかなのか、目覚めているのかわからないかのように。ここに描写したのは冒頭10分ほどの場面であるが、本作は、どの場面もここに書きつくせないほどのニュアンスに富んでいる。一体何が起きているのかわからないまま感情が動かされ、あっという間に一時間十数分の舞台が過ぎ去ってしまった。Dumb Typeや高谷史郎の舞台作品で共通しているのは、こうしたパフォーマーたちの身振りやダンスと映像で構成される短いコントの連続によって、難解で抽象的な概念が、具体的でユーモラスに演じられることにある。近年は映像の速度や量よりも、微妙な光と影や色のトーンの推移(吉本有輝子)や雑音を拾う音響設計(原摩利彦と南琢也)が際立ってきている。黒や暗闇が強調されながらも、光や色や音の繊細な変化に富んだ舞台は、途方も無く美しい。さらに本作は時空の混乱がテーマであることから、これまで以上にナラティブの進行は曖昧に感じられ、いっそう抽象度の高い作品になっているように思えた。ペダンティックに言えば、暗さのなかに水がざわめく空間は、NYの世界貿易センタービル跡地の記念碑(9/11 Memorial)を思わせないこともないが、むしろカジミール・マレーヴィチやアド・ラインハートの黒い四角形のようでもある。マレーヴィッチは黒い四角のなかに潜在的な色彩の萌芽を見た。ラインハートは絵画がなにを表象しているのかではなく、あなたが何を表象しているかが問われるのだと漫画で注釈した。《ST/LL》の舞台装置自体は、鏡にも、現像室にも、廃墟にも、海中にも、宇宙の空間にもなるだろう。その黒い四角形に個々のパフォーマーたちやスタッフの夢が重ね映しにされている。鑑賞者は呆気にとられながらも無限の連想を繰り広げるしかない。
謎めいた舞台の印象を振り返って考えながら、おぼろげに見えてきたのは、ある意味できわめてシンプルな世界の成り立ちの姿だった。鶴田真由が、因果性のない偶然の一致についてのアルフレッド・バーンバウムの言葉を、マッチで火をつけながら朗読をする。つづいて、アイヌの子守歌を歌う場面は、凛としてメランコリックな美しさがある。「いのちをつくる神さま(ラマッカラカムイ)が60のゆりかご(レホッネシンタ)を[……]いっせいに揺らす。そうするとその赤ちゃんたちが泣く声が、この世界に(アイヌモシリ)、世界の上に降ってきて、そこから生まれるのが眠りというものなのです[……]」(舞台では全編アイヌ語で語られる。アニメ版)。そこから転調して、楽しげな鳥たちのダンスが、スクリーンの裏で影絵遊びをしながら通りぬける(コウノトリのように?)。4人のパフォーマーのカルテットから、タイムラグによって動きが反復される映像に合わせたバルザリーニと平井のデュエットを踊る場面へと発展する。楽しく愛に溢れた、これらの場面に作品の生命が賭けられているように思われた。
調べれば、セキレイが、アイヌの国造り神話で、恋望の鳥とされているらしい。『日本書紀』でもセキレイは同様の象徴として登場するが、ふたつの神話の関連はわかっていない。アイヌ語と日本語の類似性の指摘も多くあり、古代からの交流・交易が想像される。セキレイは、尾を上下させる動きから、アイヌ(人間)に、夫婦の交わる方法を教えたというのだ。アイヌの国造りの神話は複数あるのだが、そのなかにはセキレイが、創造神の命を受けて光の尾を引いて地上に舞い降り、水をはね散らし、足で泥を踏み固め、その長い尾を上下させて地ならしをすると、陸地が現れ、水は海となってさざなみを起こした、というものもある。セキレイの尾の動きは、リズムやテリトリー化、すなわちダンスの起源の神話としても解釈できる。《ST/LL》は、こうした国造りの神話を、アイヌの子守唄を通して暗示しながらも、世界中の天地創造の神話を合成したようなかたちで提示しているのだろう、というが私にとって本作についての理解となった(もちろん浅田彰氏がアフタートークなどで指摘したエピクロスの「クリナメン」もルクレティウスによって古代ギリシアの天地創造の神話を自然科学の言葉にした概念として継承された)。
男女のデュエットの後に薮内美佐子が各国語の文字が切り抜かれた白い紙の入ったかごを運ぶ詩人=屑拾いたちを一人芝居で演じる。様々な言語が合成されたような声で、独り会話する様はとても可笑しい。この場面の最後で、かごに集められた言葉は、机の上から水面にばらまかれると白い雲や蝶や桜のように舞って散り、透明な水面が汚され、睡蓮のように広がる。世界を青黃赤白黒の五色の雲で捉えるアイヌの神話に関連させるとすれば、青い雲は海を、黃い雲は島を、赤い雲は金銀珠玉器材を、白い雲は草木鳥獣魚虫の創造となる。こうした原色のトーンがゆるやかに移り変わるように、舞台全体の色彩も繊細にコントロールされていたのではないだろうか(東京都現代美術館で行われた野村萬斎主演の能《三番叟》や《ボレロ》も、神事舞踊としての能楽という折口信夫の解釈に従っていたことが思い起こされる。高谷による《ボレロ》の能舞台演出では、GPSの衛星地図やニュース映像の素早い切り替えが舞台に投影され、パフォーマーのステップに合わせてさざなみのエフェクトがリアルタイムにコンピュータで生成された)。
このセオリーを念頭において、本作の冒頭から振り返ってみよう。天の方へと青みがかかったライトに照らされたテーブルの上の食器が片付けられると(丸い皿は海の泡のように水面で反射し、パフォーマーはいわば創造神となる)、次のシーンでは暗闇のなか、机の上に寝そべるバルザリーニの身体と肌の色(島の隆起や地震を思わせる)が強調される。またその様は、宇宙船や難破船で漂流しているようでもある。薮内と、平井が暗闇のなかに懐中電灯を揺らしながら何かを捜索するように現れるとき、水面に反射した光は舞台袖に、縞模様を映し出す。この舞台内外での闇と光の戯れは至高の体験だった(しかし同時に津波の災害の後の捜索といった不安な要素も頭を駆けめぐった)。さらに机は4つに分割されて動かされ、その上で3人はゆっくりと立ち上がったり座ったりする。ここでは土くれの彫像(ゴーレム)が焼成されているように見える。この場面ではスキャナないし日夜の周期や流れ星を思わせるような輝く光の線が横切り、神に似せてポーズをとった古典彫刻が視覚的に固定される。さらに、マッチの火と息が吹き込まれて、言葉が生まれ、魂を象徴するかのような60の電球が下がって、空間にやや赤みがかかってくる。鳥たちが赤子の魂を運び、ダンスと影絵で、その魂は男女のカップルの愛の行為として身体化される。言葉はまた、ばらばらになり白い雲がゆっくりと水面に落下し、生命が授けられて、再び白黒の世界へと展開する。その間にスクリーンに映し出されるのは、黒、赤、黃、白の表紙の書物が超スローモーションで映しだされる映像であり、先ほどの紙の文字が落ちるのと同じような速度で物体が落下する運動イメージの連鎖には陶然とする。この落下の動きは、スプーン、フォーク、ナイフ、鏡面のように磨かれた盆、コーヒー・カップ、椅子、鍵束、ワイングラスなどが次々と地面に激突する映像に続く。知識と道具の誕生だろうか。それらが、勢い良く飛び跳ねたり(トランポリンの上で跳ねているかのように錯覚してしまう)、ゆるやかに崩壊したりするのを、楽しいのやら悲しいのやら複雑な気持ちで観客は見守るだろう。
きわめつけは、深い霧に包まれて平井優子が踊るクライマックスである。コントラストの強い白黒の皆既日蝕の映像に合わせて、三日月状に体を逸らせながら一瞬の暗転とともに平井は倒れこむ。その後、劇的なライトの光のなか、降りてきていたスパイダー・カメラが螺旋状に上昇しはじめると、それに引きつけられるようにして、平井は水に濡れながらもゆっくりと起き上がって踊りだす。また強いライトが太陽で、平井が地球だとすれば、円を描く動きは公転を表し、それと引き合うカメラは月ないし人工衛星だと見なすこともできるかもしれない。いずれにせよカメラの監視の眼差しは閉ざされ、死から生への再生が高らかに賞賛されるようで、身が震えた。とりわけ、静かな劇なのでそのようには感じられないが、相当の運動量と正確さが必要とされる難役をこなした平井の超人的なパフォーマンスには圧倒された(水面の上を、波紋を立てないで踊りたいというアフタートークの言葉が納得できるほど物理学的に不可能なことが可能に思えたダンスだった)。舞台上の登場人物として動くスパイダー・カメラは、文字通り蜘蛛の糸(ウェブ)に繋がれている、または、くもは雲(Cloud)でもあると考えられる。これをアイヌ神話に絡めるならば、国造りを見守る神の目を象徴するシマフクロウだと見ることもできるかもしれない。ギリシア神話のミネルヴァのように、不眠症や監視や知恵といった主題と重ねれば、そのフクロウは機械の目(EYE=I)をもっているという連想も的外れでないだろう。
静かだがノイズに満ちた最後の浜辺の映像(ついに潮の満ち引きによって生成する世界の具体的なイメージが現像する)の前で、立ちすくむ4人のパフォーマーたちの姿はただただ素晴らしい。もちろんびわ湖ホールなので、舞台を出れば実物の湖の岸辺の風景も目にすることもできた。機会があれば何度でもこの奇跡のような舞台に足を運びたい。
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楽屋落ちのようになるが、《ST/LL》という単純な文字の並びから連想した、著者の妄想も追記しておこう。《S/N》が音響比を現すシグナルとノイズの比率、意味と無意味、情報の信号と冗長性を現す二項の記号だったとするならば、《ST/LL》は、記号が四項となり各項の組み合わせや反復によって意味作用がいっそう撹乱されているように思える。《ST/LL》の「/」は、比率を表す記号ではなく、固定した意味の切断や裂け目や破れを思わせるので、単に字面から比較することはできないが、ここではあえてザーウミ(超意味言語)といった詩的言語の働きをふまえて、意味作用を組み替え、美術史的な連想を膨らませておきたい。ここで提示されている夢は作家の精神分析的なものではなく(同じようにマルチメディア・インスタレーションやパフォーマンスに取り組むウィリアム・ケントリッジと高谷が明確に異なる点である)、むしろロシア構成主義やバウハウスに参与した人々の夢に近いのではないだろうか。モダニズム革命のユートピアは結果的にはそれに対する反動形成によって廃墟とならざるを得なかったとしても。こうしたモダニズムの伝統を振り返れば、「ST/LL」を暗号として、こう解読できるかもしれない。「S」はサーペンタインのダンサーの螺旋の動きを。「T」はフォード社のT型自動車モデルを。「L」はL型キッチンを。サーペンタインの催眠誘発的なダンスはテーラー主義を応用した生産主義(ビオメハニカ)を経由し、家事と消費の効率化というモダニズムの原則になった。このコレオグラフィの原則を20世紀半ばにモダニズムの失墜に対峙したブルース・ナウマン《Manipulating the T-Bar》(1966)やロバート・モリス《L-beams》(1965)、さらにはマーサ・ロスラー《Semiotics of the Kitchen》(1975年)の試みの系譜上に位置づけることも可能だろう(あるいはCIやアイコンなど省略記号をアルファベット順に並べたアルヴァ・ノト《Uni Acronym》〔2011年〕は現代の消費社会と標準化、通信メディアの帰結に関する鋭い考察になっている)。とはいえ、舞台上の水の波紋はテレビのモワレやフィードバック・ループというよりはむしろ、液晶やポストインターネット時代のプロトコルや情報の波へとアップデートされている。「/」はウェブのURLに使われるI.P.アドレスの短縮記号のようでもある。「/」は「i」という文字を潜ませている。「i」がセルフィーに象徴されるような、スマホ時代の大衆的自意識の拡散を現す記号だとすれば、「ST/LL」にはそうした「i」に無言で、身体的な運動「/」を導入したいという作家の主張が垣間見えるというのは言い過ぎだろうか。「Shiro Takatani / LL(サイズ)」? たしかに本人は背が高い。楽屋の雑談でそういう声も聞こえてこなかったわけでもない。本作は他の高谷作品に比べても原作となるテクストがないので、タイトルに作家の署名が書き込まれているという解釈はおそらくありうる。しかし冒頭に述べたように舞台制作のコラボレーションにおいて高谷の作家としてのエゴは、鏡や透明のプリズムのように分光されて、限りなく微分化されると言ったほうがいい。「/」はスクリーンや鏡や光の屈折でもあろう。むしろ、音楽を担当したskmtこと坂本龍一と高谷史郎とのコラボレーションによる人間の世界(アイヌモシリ)や、生命の発生の舞台化ということを念頭に、タイトルを「Sakamoto Takatani / Life Life」と、無理やり読んでみるというのはどうだろうか。たいてい優れた作家の最新作には、これまでのあらゆるコンセプトが濃密に圧縮されている。高谷は「Life」という名のつく作品を、Dumb Typeの初期の《Pleasure Life》(1988年)と、坂本龍一とのオペラとインスタレーション《LIFE》(1999年)で手がけており、さらに野村萬斎を迎えての能楽《LIFE-WELL》(2013年)も発表してきた。私は《Pleasure Life》を残念ながら未見であるが、四方幸子によれば「幾何学的・抽象的な空間で繰り広げられるライフ・フォーメーション」のようにルールに拘束されつつ、情報端末に囲まれた空間で機械的所作を繰り広げる「生活世界のゲーム化」がパロディとして演じられたという。この初期のコレオグラフィは近年の能楽の試みを経て、今回の舞台で新たな次元に達したと言えよう。また本や食器が落下する場面は、オペラ《LIFE》で兵器をはじめとするあらゆるものが落下し崩壊するCG映像(原田大三郎制作)にミニマルな音と声「世界の破壊者」が強迫的に反復される戦慄的な「オッペンハイマーのアリア」を連想させもした。とはいえ《ST/LL》では、落下する物体は食器なので比較的安全なものへと脱力させられているとも言えるが、破壊のもつ取り返しのつかなさやエントロピーの増大や喪失感も感じられる。アイヌの神話のなかには、神が世界創造の仕事を終えて、天に帰るとき黒曜石の斧を打ち捨てて、毒の水が流れ湿地に至り病気が蔓延した、というものもあるようだ。
アフタートークで高谷は《ST/LL》の制作にあたり『2001年宇宙の旅』(1968年)などを参照したことを語っていた。よく知られているように黒いモノリスは、テクノロジーによる類人猿からの飛躍的な進化を象徴している。知性による道具の使用によって、闘争や暴力がもたらされた。武器となった骨は闘争の後に類人猿の頭上に放られると、その上昇する動きはいっきょに宇宙船へとモンタージュされる。またその宇宙船は精子を思わせ、母艦とドッキングするイメージは受精を表し、人工知能HAL9000の叛乱とその眠りの後に「超人」が誕生する、というのが、ありふれた読解である(それ以後、『エイリアン』〔1979年〕から『プロメテウス』〔2012年〕や『ゼロ・グラビティ』〔2013年〕まで、多くのSF映画は宇宙船を生命誕生の母胎や精神の発生のメタファーとして描きつづけている)。《ST/LL》では、道具は天から落下する。むしろ、果てしない空や宇宙への上昇の夢ではなく、「セキレイの水辺」とでもいうべき鳥たちの舞いの神話的な想像力と現代の自然科学やテクノロジーを通して、生命の発生と知性の発展を描きだしたのではないだろうか。
「LL」の同一のアルファベットが反復する瞬間のあいだには見分けがたい視差や差異が孕まれていて、破壊や死のあともなお、子守唄(lullaby)とゆりかごに揺られて、新たな生や芸術の誕生が祝福されているように感じられる。高谷史郎の新作は初期の時代を振り返りながらも、21世紀の「宇宙の旅(スペース・オデッセイ)」として圧倒的な進化のもとでつねに新しく生まれ変わっている。《ST/LL》の水は、そうした生命を育む羊水かもしれない。あるいはプランクトンのような微生物を顕微鏡で観察するためのビーカーの液体かもしれない (オペラ《LIFE》では沖縄民謡「ちんさぐの花」にあわせて生物学者リン・マーギュリスのテクストが読まれ、バクテリアの進化のようにダンサーたちが踊った)。
坂本と高谷は、2016年のKYOTOGRAPHIE「Circle of Life|いのちの環」において、クリスチャン・サルデが微生物を撮影した映像をもとにしたインスタレーションを展示予定である。舞台から写真展へという次の移行で、どんな体験が京都でもたらされるか、いまから待ち遠しい。
(注1)
またマラルメ・プロジェクトも近代的詩人の想像力が、起源の神話や自我の問題と結びついた作品だった。鳥というモチーフの変奏を考えるならば、《イジチュール》では黒鳥や鳥の羽のイメージが万年筆での文字を書く音や動きで表された。また《二重の影》では、モロッコの壁の影がタイムラプスで変化するなか、時々飛ぶ鳥の影が画面を横切るのが見えるだろう。高谷の映像において鳥のモチーフは、動きや生の感覚と関連して、意識的に主題化されている。
(注2)
たまたま本稿の仕上げをしながら公開中の映画ロン・ハワード『白鯨との闘い』を見た。海と荒ぶる動物=神の主題という点で、本稿の論点にも重なる部分がある。舞台である一九世紀初頭にとって捕鯨船は最新のテクノロジー、巨大な機械だったと同時に、風と潮力を動力とするエコロジカルな乗り物でもある。映画はメルヴィル『白鯨』にまつわる実話をもとにしており、新鮮味のないテーマかもしれないが、一九世紀のクジラ漁と航海の様子はディテールに富んでいて一見の価値がある。跳びはねるイルカや潮を吹くクジラの描写も魅力的だ。キュアロン『ゼロ・グラビティ』やノーラン『インターステラー』は無重力でテクノロジーに保護された身体から重力や故郷の大地への帰還というのがテーマだったが、ロン・ハワードの映画は、自然との厳しい対峙がいっそう強調され、巨大クジラとの対決の末に遭難した船乗りたちはきわめて過酷で極限的な状況に放り出される。同時に北米とエクアドルやチリなどの地政学も垣間見える。小説家ナサニエル・ホーソーンがメルヴィル『白鯨』をホメロスの叙事詩のようだと賞賛したというが、「海のオデッセイ」である『白鯨との闘い』は、近年のSF映画 ——マーヴェルの一連のヒーロー映画も含めて ——無重力への憧れと断念という主題(電子メディアのもつ身体性と結びついている)に対する鋭いアンチ・テーゼだと言えよう。さすがに『コクーン』(1985年)の監督ロン・ハワードだけはある。
ついでに言うとマイケル・キートン主演の『ザ・ペーパー』(1994年)は個人的には忘れがたい佳作であり、ハワード・ホークスのように職業的な身振りとジャーナリズムの精神を丹念に描くアメリカ映画の良き伝統を継承したロン・ハワードのスタイルはもっと評価されていいだろう(もちろん「ダ・ヴィンチ・コード」シリーズや『ビューティフル・マインド』〔2001年〕など「陰謀論」めいたヒット作もあるし、『フロスト×ニクソン』〔2009年〕は米国では高い評価を受けた良作である)。『白鯨との闘い』には、若きメルヴィルの熱意や、船旅の嵐や孤島の表現のほか、貴重な鯨の脳の油を摂るためにクジラの頭の中に少年が潜るなど、エネルギー資源の開発と脳科学の歴史との関連が示唆される場面もあり興味は尽きない。さらに海のリスクと生命保険といったテーマに広がる論点も簡潔に描かれている。
今週末にはリドリー・スコットの『オデッセイ』も公開予定である(タイトルは『火星の人』などにするべきだと思われるが)。これは孤島で生き延びるロビンソン・クルーソーを思わせる筋書きを、火星に置き換えたものである。
高谷史郎 パフォーマンス 《ST/LL(スティル)》
2016年1月23日・24日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール
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