訂正と、久門剛史の「音」と、今尾拓真の「音」
福永 信
2016.02.29
まず最初に前回のブログの訂正をせねば。
前回の後半で『わたしたちは無傷な別人である』の公開リハーサルを見たときの岡田利規の「声」のことを書いたけれども、おれはこの公開リハーサルを見てなかった(そういうのがあったのかどうかも知らない)。別の公開リハーサル、『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』と混同してしまったのだ。どちらも矢沢さん出演とはいえ、まったく似ても似つかぬ作品を取り違えたことに、トシとったなと実感した次第だ。訂正してお詫びする。すんまへん。ただ、おれは左にあるような人の良さそうな顔に似合わず厚かましい男なのでぜひ言い訳させてもらいたい。以下、言い訳である。この作品のヴァリアントともいうべき作品に『わたしたちは無傷な別人であるのか?』がある。『わたしたちは無傷な別人である』と比較して、どっちがどっちなのか混同してしまいそうだが、実際パッと見そっくりな作品である(どちらも大傑作なのだが、おそらく『わたしたちは無傷な別人であるのか?』は今後上演されることはないだろう)。どっちの上演のときも、岡田利規と喋ったことがあった。このときの岡田さんの「声」を、おれは、公開リハーサルの「声」のように記憶してしまったというのが言い訳である。だってさ、岡田さんってばおれが適当な返答をしないようにあの目でキッと見つめ(にらみ)、「どうなんですか」と、「分かりたいですか」と、聞いてくる。問い詰めるというと言葉が悪いが、あのはっきりとした声は、真剣そのものだった。今、目の前にしている対象へ向けて、おのれの興味にひっかかると、公開リハーサルでも、飲み屋でも、どこであっても、真剣であること以外のことができない、それが岡田さんの魅力である。公開リハーサルのときの「声」もそんな男のあの目と口から出たものだった。
さて、『部屋に流れる時間の旅』の公開リハーサルで楽しみなのは岡田利規の「声」だけではなく、久門剛史の美術と音であることも、付け加えておかねば。
プリコグさんからの情報によれば、この日、本番に近い大きな空間での稽古となり、音や照明も加わるそうだ。久門剛史の音と空間の細かな作用が、本番ではどうなるのか、一足先にこのとき、その断片を目撃することになるだろう。公開リハーサルに行くことができなくても、彼のウェブサイトでつい聞き続けてしまうその音の魅力を体験しておくのも良いだろう。おっ、なんじゃい、このかっこよさは!
彫刻と音の考察といえば、より若い世代の今尾拓真も、久門剛史と響きあうだろう(久門さんの影響を受けているかも?)。先日の元崇仁小学校でのグループ展『OPEN DIAGRAM』での展示は、「見ている」だけで音が聞こえてきそうだ。廊下から、誰もいない教室をのぞくとそこには、音を出している「犯人」(=空調にパイプを付け足し、ハーモニカやリコーダーなどが音を出す)がいる。教室内の照明もごく自然な不自然さで明滅する。
写真から音が想像できる。しかし、実際の体験のプロセスはその逆で、音を聞いてから、その音がどこから鳴っているのか、「見る」という順番になる。音はすれども姿が見えず、というか、意外にもうまく偽装してしまっているのだ(しかし、頭隠して尻隠さず的にすぐにバレてしまうのだが)。おもしろかった。ほんとは会期中に紹介するつもりだったのだが、書かずにぐずぐずしているうちに終わってしまった。これもトシですかなぁ。
前回の後半で『わたしたちは無傷な別人である』の公開リハーサルを見たときの岡田利規の「声」のことを書いたけれども、おれはこの公開リハーサルを見てなかった(そういうのがあったのかどうかも知らない)。別の公開リハーサル、『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』と混同してしまったのだ。どちらも矢沢さん出演とはいえ、まったく似ても似つかぬ作品を取り違えたことに、トシとったなと実感した次第だ。訂正してお詫びする。すんまへん。ただ、おれは左にあるような人の良さそうな顔に似合わず厚かましい男なのでぜひ言い訳させてもらいたい。以下、言い訳である。この作品のヴァリアントともいうべき作品に『わたしたちは無傷な別人であるのか?』がある。『わたしたちは無傷な別人である』と比較して、どっちがどっちなのか混同してしまいそうだが、実際パッと見そっくりな作品である(どちらも大傑作なのだが、おそらく『わたしたちは無傷な別人であるのか?』は今後上演されることはないだろう)。どっちの上演のときも、岡田利規と喋ったことがあった。このときの岡田さんの「声」を、おれは、公開リハーサルの「声」のように記憶してしまったというのが言い訳である。だってさ、岡田さんってばおれが適当な返答をしないようにあの目でキッと見つめ(にらみ)、「どうなんですか」と、「分かりたいですか」と、聞いてくる。問い詰めるというと言葉が悪いが、あのはっきりとした声は、真剣そのものだった。今、目の前にしている対象へ向けて、おのれの興味にひっかかると、公開リハーサルでも、飲み屋でも、どこであっても、真剣であること以外のことができない、それが岡田さんの魅力である。公開リハーサルのときの「声」もそんな男のあの目と口から出たものだった。
さて、『部屋に流れる時間の旅』の公開リハーサルで楽しみなのは岡田利規の「声」だけではなく、久門剛史の美術と音であることも、付け加えておかねば。
プリコグさんからの情報によれば、この日、本番に近い大きな空間での稽古となり、音や照明も加わるそうだ。久門剛史の音と空間の細かな作用が、本番ではどうなるのか、一足先にこのとき、その断片を目撃することになるだろう。公開リハーサルに行くことができなくても、彼のウェブサイトでつい聞き続けてしまうその音の魅力を体験しておくのも良いだろう。おっ、なんじゃい、このかっこよさは!
彫刻と音の考察といえば、より若い世代の今尾拓真も、久門剛史と響きあうだろう(久門さんの影響を受けているかも?)。先日の元崇仁小学校でのグループ展『OPEN DIAGRAM』での展示は、「見ている」だけで音が聞こえてきそうだ。廊下から、誰もいない教室をのぞくとそこには、音を出している「犯人」(=空調にパイプを付け足し、ハーモニカやリコーダーなどが音を出す)がいる。教室内の照明もごく自然な不自然さで明滅する。
写真から音が想像できる。しかし、実際の体験のプロセスはその逆で、音を聞いてから、その音がどこから鳴っているのか、「見る」という順番になる。音はすれども姿が見えず、というか、意外にもうまく偽装してしまっているのだ(しかし、頭隠して尻隠さず的にすぐにバレてしまうのだが)。おもしろかった。ほんとは会期中に紹介するつもりだったのだが、書かずにぐずぐずしているうちに終わってしまった。これもトシですかなぁ。