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勝部如春斎展7日(日)まで
福永 信

2017.05.02
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西宮市大谷記念美術館に行くのはすごく久しぶりだったけど行ってよかった。
よく知られてこなかった画家に光をあてるのは、美術館の重要な仕事だと思うが、本展はまさに地元の美術館ならではの調査、研究の成果が見事に発揮された地味で有意義な展覧会だ。おれも、初めて今回この勝部如春斎のことを知った。それまで、知らなかった。勝部如春斎、はっきり言って謎の男だ。年譜は見開きだけ。ほぼ同世代の若冲や蕪村と比べても圧倒的に情報量が少ない。その年譜を埋める字も、控えめだ。ちょっとした現代詩みたいだ。それでいてガツンとくる記述の連続に目を奪われる。次男が亡くなったのが数えで36歳のときとあるが、それ以降、次女、妻、長女、三女と、立て続けの不幸が彼を襲う。如春斎と名乗った後も、四女、最愛の弟子でもあった養子が亡くなり、長男も彼より先に亡くなったという。そして、歌日記の記述によって彼のことを後世に残した兄も亡くなる。今回展示されているのは、このような過酷な現実に身を置いた男が描いた絵であるというわけだ。
彼が何をほんとは思っていたのか、わからない。悲劇的な物語を彼に当てはめようにも材料が少ない。「三十三観音図」の膨大な模写は、亡き妻の供養のためと伝わるが、それも「そう伝わる」だけのようだ。勝部如春斎という名前を持つ画家が描いた絵が残った。それだけのことだといっていい。いや、その名も正確には残らなかった。長らく「山本如春斎」と誤記されてきたという。亡くなって数年後、江戸中期の人名辞典にそう登録されて以来、そのままになってきたというのだ。もっとも過去に2度、1934年と1969年に展覧会が開催され、それは勝部如春斎で正しかった。にもかかわらず、美術史的には「山本如春斎」と間違われ続けてきたという。過去のその2度の展示が地元(西宮市)での開催だったからだろうか。面白いのは、1970年代に美術史家が専門誌で誤記を指摘したのに、本格的な修正には至らなかったということである。要するに新しい研究や指摘がちゃんと読まれてなかったということだろうが、一度権威的な場所に登録されると、歴史というジャンルは、そっちばかりに目が向き、間違っていても修正するのが難しいということだ。
「西宮の狩野派 勝部如春斎 18世紀摂津の画人伝」は、展示も素晴らしく(特に1階)、あと数日、7日(日)までだが、無理してでも行って損はないと断言できる。仕事があってもサボって行ったらいいと思う。軽やかで、品があり、決して超絶技巧に陥らず、にもかかわらず複雑な空間を描く(例えば襖絵の孔雀や松は、アニメのセル画と背景画のように空間が別々に描かれ重ね合わされているように見える。襖のさらに奥に描かれている空間とでもいうような。それは、スライドし、重ね合わされる襖という枠組みとも合致しているだろう)、その技量を十分に感じ取ることができる内容だ。また先に触れた「三十三観音図」も、そんなに昔のものとは思えぬほど鮮やかで、保存状態がいい。水墨で描かれた「龍虎図」は、漫画のコマを辿るような楽しさがある。絵が好きなら、いつまでもこの場を去りがたく思うはずだ。あるいは、絵になんかちっとも興味がなかったとしても、歴史の中で人が、どのように忘れられ、ぺちゃんこになるか、それを知る絶好の機会だ。忘れ去られるのも、決して均質でなく、ムラがある。専門家が正しい名前を指摘してるのに、他の専門家がそれに気づかず誤記が続くなどその例だろう。そして、それをただすのも、専門家だ。今回の展覧会はそんな機会なのだろうと思う。歴史のいいかげんさ、始末に負えなさ、しかし、それでも、志ある者が軌道修正を試みる、それはむしろ現代史そのものであり、重要な仕事に違いない。