共謀するは「我ら」にあり――森田るい『我らコンタクティ』レビュー
池田 剛介
2018.01.22
共謀するは「我ら」にあり――森田るい『我らコンタクティ』レビュー
「ヒュ~イ~ ヒュ~イ~」――これは作品内に繰り返し現れる、歌声とも奇声ともつかない音の表現だ。登場人物が小学校の時に体育館で観た映画の一場面であるらしい。今これを読んだあなたは、見慣れないこの表記に、しかし何らかの音階やリズムを与えながら読んでいたのではないだろうか。読者はマンガ内の文字として示されるこの音を、それぞれに想像し、時には呟いてみることになる。ヒュ~イ~ ヒュ~イ~。
こうしたユーモラスな表現がたびたび登場する本作だが、その舞台は決して突飛なものではない。へんぴな田舎町での退屈な仕事。場末のスナックでの飲み会に、ご近所のウワサ話。会社員のカナエを取り巻くのは、ひたすら冴えない「地元」の空気だ。
ウェブで公開されている第一話から初めの2コマを見てみよう(図1)。冒頭、ひとつの「接触(コンタクト)」が描かれる。酔っ払った社長がカナエの肩に手を回しながら説教し、社長の赤くなった顔と対照をなすようにカナエは真っ青な顔で硬直している。知ってか知らずか周囲はそこに目を向けていない。
次のコマ、社長の関心がカラオケに向かうと同時に、ばっとその場を立ち去るカナエと、それを目の端で追う隣の男。数ページ先、この男は車中でカナエの手に触れ、ここでもカナエは強烈な嫌悪感を隠せない。作品序盤に現れるこのふたつの「接触」は、カナエが囚われている地元的なものの、呪いにも似た磁場を示している。
こうした耐えがたい日常からの脱出口は、予想外なところに現れる。人でも殺さんばかりの不穏な表情をたたえた飲み会からの帰り道、カナエは歩道橋の下に見える車のライトを眺め、ふと「きれいだな」と呟く。それは地元的なものとは異なる「コンタクト」への先触れとなるだろう。
この歩道橋でコンタクトするのは、小学校時代の同級生かずき。彼は町工場の片隅で、ひとりロケット開発に勤しんでいる。小学校で観た映画をのせてロケットを宇宙へ。かずきの語る突拍子のない話に、カナエはアタマが痛くなるほど爆笑しながらも(実に2ページ分、ひたすら床に突っ伏して爆笑する)、やがて自らの負担も厭わずロケットの打ち上げにむけて尽力していく。
勢いのあるドタバタの展開に聞こえるかもしれないが、こうしたカナエの変化は、実に繊細に描かれている。第一話の最終ページを見てみよう(図2)。荒唐無稽なかずきの話に感じ入るものがあったらしいカナエは、頼まれもしないのにかずきの作業場に居残っている。
右上のコマには、切断され床に落ちた、バリがついたままの鉄パイプ。次のコマでは、かずきの手がパイプを拾い上げる。手の動きを追うように視点が上げられた右下のコマで、カナエがまだ作業場に残っていたことに気づかされる。パイプを挟んだ卓上万力を間に立つ二人。最後のコマでは、この二人の構図が横方向へと反復されながら、カナエは右足を一歩踏み出し、左足をひょいと持ち上げたまま「なんか手伝うことない?」と傾くも、聞かれたかずきはパイプのバリを削り落としながら「もう帰ってよ」と素っ気ない。
右上とその下のコマ、右下と左のコマとでショットの反復を用いながら画面を静的な印象に整えることによって、カナエのちょっとした仕草が際立つ。さりげなく、だが確かにカナエの変化を二人の関係性もろとも示すシーンで第一話が切り上げられる。
最後のコマの背景に立ち上がるように描かれた工具類によって示唆されるように、冴えない日常からの離脱は、一足飛びに非日常=宇宙へと向かうのではなく、あくまでも地元の内部から立ち上げられていく。ロケット開発の舞台となる町工場、その離れにあたる作業場は、いわば地元的なもののハードコアと呼ぶべき空間だろう。
ロケット打ち上げに関して「技術的には可能/法的には分からない」というかずきのセリフに示されるように、その愚直な願いの裏側には、法の秩序を超えてしまう予感が張り付いている。すべからくロケット開発は、小学生の秘密基地(*1)で為されるような悪巧み、近年の言葉で言い換えれば「共謀」の様相を呈していく(ゆえに終盤では警察が介入することになる)。
だが同時に、そうした「法的には分からない」ロケットの打ち上げが、例えばテロリズムのような”反”社会的な行為として行われている「のではない」点は重要である。実のところ、そもそもカナエは冴えない暮らしの中で、会社を辞めようとしており、あくまでも「金になりそう」というゲスな動機のもと、かずきに関心を寄せていた。飲み会で隣だった男を口車に乗せて大金を出させようとする行為には、地元的なものに対する復讐の意味もあったはずだ。
こうしたカナエを取り巻く磁場に対する”反”社会的な復讐は、彼自身「宇宙人」的な存在であるかずきとのコンタクトを通じて、”脱”社会的な営為へと転調する(*2)。復讐するのはいつも「我」にあるが、カナエとかずきの共謀は周囲を巻き込みながら、脱社会的な、どこか間の抜けた「我ら」を生成していく。
冒頭で触れた「ヒュ~イ~ ヒュ~イ~」という声は、こうした脱社会的な「我ら」の生成において重要なキーとなる。これは何ら一般的に共有しうる意味もなさない声だが、であるがゆえに容易に理解し得ない暗号となって共謀者間の不確かな感覚を媒介する。第二話で作業場を燃やそうとする梨穂子は、この声を通じて「我ら」のなかへと巻き込まれ、終幕部ではカナエとかずきが警察によって隔てられながらもなお、この声を通じてこそ、なけなしの「我ら」を保つだろう(*3)。
それぞれの強く個別的な感覚にもとづいて発せられるものでありながら、にもかかわらず不確かな感覚をもつ者たちの間に悦ばしい共謀関係を立ち上げる、秘密の徴としての声。「ヒュ~イ~ ヒュ~イ~」——作品を読み、それぞれの想像を通じて思わずこの呟きを漏らす読者もまた、こうした共謀的な「我ら」の方へと、すでに誘われている。
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『月刊アフタヌーン』で連載された著者初の長編マンガが一巻完結で単行本化。作者の森田るいは京都市立芸術大学大学院の彫刻専攻を修了。彫刻科出身というバックグラウンドの片鱗は、金工作業や発電装置といったモノたちの扱いの具体性のなかに確かに現れている。京都市芸とも縁の深いあのアーティストも訳ありなキャラクターとして登場(図3)。森田は、作品内にも登場するカフェ/バー「みず色クラブ」の立ち上げメンバーのひとりであり、京都の河原町三条からほど近くにあるこのスペースもまた、路地裏にあって秘密基地的な感覚をもつ空間であるが、閉鎖的な雰囲気ではない。本書を読み終えた後に、ぜひふらりと立ち寄ってみてほしい。
*1 こうした「秘密基地」的感覚は、かずきが「多機能ふでバコの消しゴムのとこにメダカ入れてきた」というエピソードにも鮮烈に刻まれている。
*2 同時に、カナエが序盤で辞めたいと思っていた会社から離れることなく、終業後や週末の時間を割いてロケット計画に協力していることにも留意すべきである。あくまでも社会的な基盤の上にありながら脱社会的な位相を成り立たせていくこと。裏を返せば、こうした脱社会的な営為によってこそカナエの日常は支えられていると言える。
*3 こうした暗号的コミュニケーションによる共謀関係の生成は、前作の読み切り「妹たち~続・お姉ちゃんの妹~」(『月刊アフタヌーン』2016年1月号所収)の終盤にも見て取ることができる。また筆者による聞き取りのなかで、森田はこうした関係について「バディ(buddy)」という印象的な言葉で表現していたことを付記しておく。
「ヒュ~イ~ ヒュ~イ~」――これは作品内に繰り返し現れる、歌声とも奇声ともつかない音の表現だ。登場人物が小学校の時に体育館で観た映画の一場面であるらしい。今これを読んだあなたは、見慣れないこの表記に、しかし何らかの音階やリズムを与えながら読んでいたのではないだろうか。読者はマンガ内の文字として示されるこの音を、それぞれに想像し、時には呟いてみることになる。ヒュ~イ~ ヒュ~イ~。
こうしたユーモラスな表現がたびたび登場する本作だが、その舞台は決して突飛なものではない。へんぴな田舎町での退屈な仕事。場末のスナックでの飲み会に、ご近所のウワサ話。会社員のカナエを取り巻くのは、ひたすら冴えない「地元」の空気だ。
ウェブで公開されている第一話から初めの2コマを見てみよう(図1)。冒頭、ひとつの「接触(コンタクト)」が描かれる。酔っ払った社長がカナエの肩に手を回しながら説教し、社長の赤くなった顔と対照をなすようにカナエは真っ青な顔で硬直している。知ってか知らずか周囲はそこに目を向けていない。
次のコマ、社長の関心がカラオケに向かうと同時に、ばっとその場を立ち去るカナエと、それを目の端で追う隣の男。数ページ先、この男は車中でカナエの手に触れ、ここでもカナエは強烈な嫌悪感を隠せない。作品序盤に現れるこのふたつの「接触」は、カナエが囚われている地元的なものの、呪いにも似た磁場を示している。
こうした耐えがたい日常からの脱出口は、予想外なところに現れる。人でも殺さんばかりの不穏な表情をたたえた飲み会からの帰り道、カナエは歩道橋の下に見える車のライトを眺め、ふと「きれいだな」と呟く。それは地元的なものとは異なる「コンタクト」への先触れとなるだろう。
この歩道橋でコンタクトするのは、小学校時代の同級生かずき。彼は町工場の片隅で、ひとりロケット開発に勤しんでいる。小学校で観た映画をのせてロケットを宇宙へ。かずきの語る突拍子のない話に、カナエはアタマが痛くなるほど爆笑しながらも(実に2ページ分、ひたすら床に突っ伏して爆笑する)、やがて自らの負担も厭わずロケットの打ち上げにむけて尽力していく。
勢いのあるドタバタの展開に聞こえるかもしれないが、こうしたカナエの変化は、実に繊細に描かれている。第一話の最終ページを見てみよう(図2)。荒唐無稽なかずきの話に感じ入るものがあったらしいカナエは、頼まれもしないのにかずきの作業場に居残っている。
右上のコマには、切断され床に落ちた、バリがついたままの鉄パイプ。次のコマでは、かずきの手がパイプを拾い上げる。手の動きを追うように視点が上げられた右下のコマで、カナエがまだ作業場に残っていたことに気づかされる。パイプを挟んだ卓上万力を間に立つ二人。最後のコマでは、この二人の構図が横方向へと反復されながら、カナエは右足を一歩踏み出し、左足をひょいと持ち上げたまま「なんか手伝うことない?」と傾くも、聞かれたかずきはパイプのバリを削り落としながら「もう帰ってよ」と素っ気ない。
右上とその下のコマ、右下と左のコマとでショットの反復を用いながら画面を静的な印象に整えることによって、カナエのちょっとした仕草が際立つ。さりげなく、だが確かにカナエの変化を二人の関係性もろとも示すシーンで第一話が切り上げられる。
最後のコマの背景に立ち上がるように描かれた工具類によって示唆されるように、冴えない日常からの離脱は、一足飛びに非日常=宇宙へと向かうのではなく、あくまでも地元の内部から立ち上げられていく。ロケット開発の舞台となる町工場、その離れにあたる作業場は、いわば地元的なもののハードコアと呼ぶべき空間だろう。
ロケット打ち上げに関して「技術的には可能/法的には分からない」というかずきのセリフに示されるように、その愚直な願いの裏側には、法の秩序を超えてしまう予感が張り付いている。すべからくロケット開発は、小学生の秘密基地(*1)で為されるような悪巧み、近年の言葉で言い換えれば「共謀」の様相を呈していく(ゆえに終盤では警察が介入することになる)。
だが同時に、そうした「法的には分からない」ロケットの打ち上げが、例えばテロリズムのような”反”社会的な行為として行われている「のではない」点は重要である。実のところ、そもそもカナエは冴えない暮らしの中で、会社を辞めようとしており、あくまでも「金になりそう」というゲスな動機のもと、かずきに関心を寄せていた。飲み会で隣だった男を口車に乗せて大金を出させようとする行為には、地元的なものに対する復讐の意味もあったはずだ。
こうしたカナエを取り巻く磁場に対する”反”社会的な復讐は、彼自身「宇宙人」的な存在であるかずきとのコンタクトを通じて、”脱”社会的な営為へと転調する(*2)。復讐するのはいつも「我」にあるが、カナエとかずきの共謀は周囲を巻き込みながら、脱社会的な、どこか間の抜けた「我ら」を生成していく。
冒頭で触れた「ヒュ~イ~ ヒュ~イ~」という声は、こうした脱社会的な「我ら」の生成において重要なキーとなる。これは何ら一般的に共有しうる意味もなさない声だが、であるがゆえに容易に理解し得ない暗号となって共謀者間の不確かな感覚を媒介する。第二話で作業場を燃やそうとする梨穂子は、この声を通じて「我ら」のなかへと巻き込まれ、終幕部ではカナエとかずきが警察によって隔てられながらもなお、この声を通じてこそ、なけなしの「我ら」を保つだろう(*3)。
それぞれの強く個別的な感覚にもとづいて発せられるものでありながら、にもかかわらず不確かな感覚をもつ者たちの間に悦ばしい共謀関係を立ち上げる、秘密の徴としての声。「ヒュ~イ~ ヒュ~イ~」——作品を読み、それぞれの想像を通じて思わずこの呟きを漏らす読者もまた、こうした共謀的な「我ら」の方へと、すでに誘われている。
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『月刊アフタヌーン』で連載された著者初の長編マンガが一巻完結で単行本化。作者の森田るいは京都市立芸術大学大学院の彫刻専攻を修了。彫刻科出身というバックグラウンドの片鱗は、金工作業や発電装置といったモノたちの扱いの具体性のなかに確かに現れている。京都市芸とも縁の深いあのアーティストも訳ありなキャラクターとして登場(図3)。森田は、作品内にも登場するカフェ/バー「みず色クラブ」の立ち上げメンバーのひとりであり、京都の河原町三条からほど近くにあるこのスペースもまた、路地裏にあって秘密基地的な感覚をもつ空間であるが、閉鎖的な雰囲気ではない。本書を読み終えた後に、ぜひふらりと立ち寄ってみてほしい。
*1 こうした「秘密基地」的感覚は、かずきが「多機能ふでバコの消しゴムのとこにメダカ入れてきた」というエピソードにも鮮烈に刻まれている。
*2 同時に、カナエが序盤で辞めたいと思っていた会社から離れることなく、終業後や週末の時間を割いてロケット計画に協力していることにも留意すべきである。あくまでも社会的な基盤の上にありながら脱社会的な位相を成り立たせていくこと。裏を返せば、こうした脱社会的な営為によってこそカナエの日常は支えられていると言える。
*3 こうした暗号的コミュニケーションによる共謀関係の生成は、前作の読み切り「妹たち~続・お姉ちゃんの妹~」(『月刊アフタヌーン』2016年1月号所収)の終盤にも見て取ることができる。また筆者による聞き取りのなかで、森田はこうした関係について「バディ(buddy)」という印象的な言葉で表現していたことを付記しておく。