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夏のおすすめ、木田金次郎展
福永 信

2018.08.24
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もうあと1週間ほどで会期が終わってしまうが、木田金次郎展(府中市美術館)がおかしい。おかしいというのは、微笑を誘われるという意味だが、それは当時、リアルタイムで木田金次郎の出現を知っていた世代と、今から振り返る我々とでは、全然違うんじゃないかと思えるからである。

木田金次郎は「孤高の画家」と言われるが、それは無名の画家という意味では全然ない。また木田金次郎は「モデル画家」とも呼ばれるのだが、それは有島武郎の「生まれ出づる悩み」のモデルだからである。木田金次郎は、生涯地元北海道の岩内にいたが、「生まれ出づる悩み」のモデルとして知られたために早くから著名だった。「孤高」というのは「中央(東京)に住んでいない画家」とか「中央の美術学校に学ぶことがなかった画家」というほどの意味である。しかし、木田は、同時代の美術状況をよく知っており、また西洋絵画や文学も学んでいた。彼の絵が、セザンヌ風であったり、ピサロ風であったり、野獣派風であったり、富岡鉄斎風であったりするのは勉強の成果であり、「中央」の若き画家達となんら変わらない。「緑色の太陽」すら画面に描き込んでいるのだ(晩年、高村光太郎と面会している)。日本における西洋画という、同時代の画家の持っていた「悩み」を彼もまた持っていたのである。しかしその「悩み」はちっともジメジメしておらず、元気いっぱい、爽やかで、絵に描いたような「絵」であることに臆することがない。妙にたくましい。

「生まれ出づる悩み」の刊行から100年を記念しての展覧会だが、1918年当時の読者は、木田金次郎という「孤高の画家」を、この小説の中でしか知らない。というのは、まだ木田金次郎はデビューしていないからである。「生まれ出づる悩み」は新聞連載小説だが、挿絵は木田金次郎が描いているわけではない(描いていたらよかったと私は思うのだが)。「君」と二人称で呼ばれる木本少年(木田)が、札幌の「私」(有島)の家を、絵を持参して訪ねる、実際にあった通りの場面から始まる。10年(実際は7年)を経ての再会以降は、「君」の漁師としての凄まじい経験(例えば転覆しそうな漁船の描写が延々と続き、「死にはしないぞ」という奇妙な確信が、「死にはしなかったぞ」に至る)、また漁師生活と対比される山の広大な自然、生活と両立しがたい芸術への断ちがたい思いを書くのだが、これらは語り手である作家自身の夢想であるとわざわざ断っている(「私が私の想像にまかせて、ここに君の姿を写し出してみることを君は拒むだろうか」)。

この小説の大半は、作家の夢想として位置付けられている。木田金次郎から実際に聞いた話がベースにはなっているだろうが、芸術と実生活の苦悩という有島の思想が反映している。「君、君はこんな私の自分勝手な想像を、私が文学者であるという事から許してくれるだろうか」とも書くが、これらはさっきの「私が私の想像にまかせて、ここに君の姿を写し出してみることを君は拒むだろうか」と共に、刊行100年を経て、今もなお新鮮に響く名言である。なぜなら、現実にあった事件や事故に対して小説家が、ルポやエッセイ、ツイッターやブログではなく、小説を書くことで向き合うということがしばしばあり、またそれが小説家のあるべき姿勢とされることがあるからだ。その時に稼働する「想像力」の舵取りに、作家自身が、翻弄され、実在する人物や事象への遠慮が働くことがあるが、できるだけ図々しくやらなければ小説ではない。実在の人物や事象を気にしてばかりの小説など小説の読者をばかにしている。作者だけがいい気分になり、読者を子分にして終わる。そういう小説が私は嫌いだが、むろん有島の「君は拒むだろうか」「許してくれるだろうか」は反語であって、許してくれるだろう、いや、きっとそうにちがいない、そうでないはずがないじゃないか、私は許されるに違いないという文学者らしい図々しさ、確信が脳髄に居座っており、身勝手であり(実際「君の寛大はそれを許してくれる事と私は決めてかかろう」とある)、私は大好きである。そして実際には、連載が始まってから、「迷惑はかけないから」みたいな手紙を書いているような小心なところも好きである。

そもそも有島武郎は、木田金次郎が東京へ出たいと申し出たのに対し、地方にいた方がいいよ、と「孤高の画家」への道をさりげなくすすめており、なかなかのプロデューサーと言えるだろう。そして小説「生まれ出づる悩み」刊行の翌年、有島の主催で、東京で「木田金次郎氏習作品展覧会」を開催し、デビューさせるのである(木田26歳)。大佛次郎や古賀春江なども来訪、よく売れて好評を博したようだが、2日間だけであり、当時の読者はほとんど見られなかったと思う。もし運良く見られていたら、小説の世界と、現実との合体を面白く思っただろう。「モデル画家」の証拠のように絵がそこに並べられるのを見た当時の読者の心の中を思うと興味深い。ザワザワしたのではあるまいか。その後も木田、有島、2人の交流は続くが、4年後には有島が心中自殺する(45歳)。プロデューサー有島の死と接するように、木田金次郎は漁師の職を離れ、絵の制作に専念するようになったという。

とはいえ、小説「生まれ出づる悩み」の当時の読者は、しばらく、彼の存在を忘れることになるだろう。木田金次郎が、再び読者の前に現れるのは、彼が60歳の時の「木田金次郎個人展第一回」まで待たねばならない。札幌のデパートで開催されたこの展覧会は好評を博したという。朝日新聞や北海道銀行のトップらとの知遇も、このあたりで得たと思われる。翌年、岩内を襲った大火により作品1500〜1600点が消失するが、5年後には東京を皮切りに朝日新聞主催で個展を開催、全国のデパートを巡回している(2年後にも新作展が巡回している)。

最晩年のこの時期、「生まれ出づる悩み」の読者は、木田金次郎という「モデル画家」の成長ぶりに目を見張ったはずだ。小説のラスト近く、「君が一人の漁夫として一生をすごすのがいいのか、一人の芸術家として終身働くのがいいのか、僕は知らない。それを軽々しく言うのはあまりに恐ろしい事だ。それは神から直接君に示されなければならない。僕はその時が君の上に一刻も早く来るのを祈るばかりだ」と書き付けられた文章の「その時」が、数十年の「時」を経て、こうして目の前にあると知った当時の読者は、いささか異様な体験をしたと言えるのではないか(冒頭の「私」が「僕」に変化しているが、これは作者の病気によって連載が中断、書籍化の際に未完部分が書き足されたためだろう)。当時の読者は、小説の中で書かれている若々しい、たくましいキャラクターが、60代の男として現実に出現したというような、そんな錯覚を得たのではないかと思う。それは、今、こうして、この展覧会で彼の作品を見ている観客とは、全く違う感想だったろう。そう考えると面白い。

リアルタイムで「生まれ出づる悩み」を読み、年老いて、木田金次郎の絵に出会った読者は、とんでもなく豊かな体験をしたと言えるが、それは、まさに、人の一生をかけた、ライブとしての体験だと思う。当時の読者は、作者(有島)が見ることのできなかったこと(木田の成長)をも目撃しながら生きてきたわけだ。私は、昨年札幌を取材した時、木田金次郎の作品を初めて見た。そして今回の展覧会を見た後で、「生まれ出づる悩み」を読んだ。木田金次郎の絵を見なければ読まなかったと思う。彼の絵が、この小説「生まれ出づる悩み」の読者を生んだのである。事態は逆転したのであり、ライブ感は消え失せたが、木田の絵が「読者」を生んだ、そしてこれからも生まれ続ける、そう考えると、面白い。

さて、知ったふりしていろいろ書いてきたが知識的なことはすべて『木田金次郎 —生まれ出づる悩み』(佐藤友哉/北海道新聞社)に書いてある。私がもともと持っている知識は皆無だ。展覧会場のショップで売っており、コンパクトに木田金次郎の生涯がまとめてある。カタログよりも安価で(874円プラス税)おすすめだ。

この展覧会もおすすめなのだが、「木田金次郎展 有島武郎『生まれ出づる悩み』出版100年記念」と題されていることからわかるように、前半は有島武郎関連の資料(有島の絵も数点展示されている)、後半に木田金次郎の絵が80点ほど続く、言わば二人展の様相であり、仲良しの彼らにとって、幸福な展覧会だと観客が思えるからだ。