村瀬恭子の新作展(タカ・イシイギャラリー東京)
福永 信
2019.02.10
村瀬恭子が変わった。3年前に帰国してから、初めての新作個展。26年間デュッセルドルフで制作を続けてきた。今は初めて東京の片隅で暮らし、多摩美で慣れない教員としての仕事をしながら、研究室のアトリエで、制作を日々、続けている。絵を描くことが生きることの中心にあり、ドローイングをどんどん描いてから本番(?)に臨む。その姿勢はこれまでと変わってないと思う。描かれている人物もいつもの、あの子だ。以前、どこかで「自画像と思われてもかまわない」というような発言を読んだことがあるが、変わらず、あの長い髪を風もないのに絵の中で揺らせている。彼女の絵の中で、かつてチョウや鳥がさかんに登場したように、今回の新作では、雪らしきものが描かれ、宙に舞った。植物に満たされた、自然いっぱいの光景も、これまで通りである。そっけないタイトルや作者によるステイトメントがあるが、言葉や文章にあんまり乗り気でないテンションも、昔のままだ。それでも村瀬恭子は変わった。彼女の絵は変わってきたと私は思う。
TakaIshiiGallery東京で開催中(16日まで)の個展「park」は、5点の新作ペインティングと3枚綴りの新作ドローイングのみで構成されている。少ない。でも、これで十分。会場が満たされている。1時間は少なくともこの全部を見るのにかかるだろう。5点のペインティングのうち、3点がメインで、それぞれ「Winter park(ice)」「Winter park(chocolate)」「Winter park(rose)」と名付けられている。天井に届くほどの大きな絵だ。これらの大きな画面は、ほぼ同じ光景で埋められている。植物公園にある、女性像を中心に、その周囲が描かれている。女性像と言っても、これまでずっと村瀬恭子が描いてきた顔の見えない子供であるが、何ものにもさえぎられてない。これまでは、木々の幹や枝、何かわからない白いけむりのようなものなどに、部分的に隠されてきた。それが、あらわになっている(顔は見えないが)。しかし、変わったというのは、そこじゃあない。
この画家のタッチは、私の思い過ごしかもしれないが、ヴァンジ彫刻庭園美術館の個展「セミとミミズク」から豊田市美術館での個展「Fluttering far away 遠くの羽音」のあたりは、光を氷のように物質化して細かく切り出したような、ギザギザした、トゲトゲしたタッチの積み重ねだった(「セミとミミズク」という展覧会タイトルからして、そんなギザギザした感じが出ていた)。そして青や赤、時には洞窟の中の闇のように、けっこうドッシリとした「色」が画面を埋め、平気で横切っていた。しかし、「Winter park(ice)」は、これまでと全く異なり、「色」であることを慎重にやめようする瀬戸際まで、ぎりぎりの後退を目指している。そういう実験作である。あわい、この大きな絵の前で、何が起こっているのか、我々はしばらくわからないまま立っているしかない。細かなタッチが、ふわっと柔らかく(雪のように)降り積もっていくのは、絵の中だけだからだ。
ふりかえると、同じ大きさの「Winter park(rose)」が会場の奥の壁にある。こちらは一転、強い、はっきりとした「色」が、柔らかくも強弱のあるタッチで、まるでタペストリーのように、ギュッと結び合っている。密集しているタッチもあって、「いい絨毯になる」と思わず口から漏れてしまったのだが(作者が聞いていたらいい気持ちはしないだろう)、その画面の上でごろごろしてみたいような気持ちになる絵だ。色のあるところ、空白の隙間のようなところも含めて、画面の全部が、緊密に面を織りなしている。柔らかくその場に広がっていくように感じられる。絵の中に描かれているのは、真ん中に人物像があって、その周囲を植物が埋めていて……さっきとほとんど同じ光景だ。さっきまで見ていた「Winter park(ice)」は、この絵(「Winter park(rose)」)を見ている時、後ろにあるのだが、ふりかえる必要はない。この絵の前で、思い起こすだけでいい。すると、絵のまん中にいる、お尻を見せて後ろを向いていた子(ice)と、お腹を見せてこちらを向いている子(rose)が、我々を間に挟んで重なり合う。「色」がぎりぎり消えていくようなあわいを描く「(ice)」といい、絨毯のようにふさふさしたまま積み重なっているこの「(rose)」といい、作者の描く世界に、新しく「柔らかさ」が出現しているのは確かだと思う。
人は、ギャラリーを訪れて、どれだけの時間を過ごすのかわからない。スタスタ歩いて、一周して出て行く。まるで警備員みたいな足取りで会場を出てくことが、私にもあるが、今回の村瀬恭子の個展は、その「歩く」が止まる。再び歩くとしても、それは「絵に近づく」ためである。ドアのカギを開けることができるくらいに近づく。金庫のカギを開ける時みたいに目をこらす。手の届く範囲くらいまで、人なら手をつなぐくらいまで近づくと、見えてくる筆のタッチがある。絵は触るものではないが(しかし、本当に?)、手をつなぐくらい近くの距離で初めて、見えてくる世界がある。それが、この画家の魅力だと思う。やや離れた距離から見るとはっきりあった奥行きが、近づくとふと消えてなくなる。それが面白い。私はこの画家の絵を18年くらい前から見ている者であるが、その近さの印象は、前から変わらない。
ドローイングは、この画家にとって欠かせない世界だ。キャンバスに描かれるペインティングにも、ドローイングのタッチが生きている(というか、ドローイングがなければ村瀬恭子のペインティングの世界は生まれないだろう)。昔はドローイングにも油絵具を使っていたこともあったという。彼女のドローイングは、さらっとしてない。禅画のようにサッと描くのではなく、ガシガシ描いており、紙が雑巾みたいになっている。破れそうな、タフな絵の世界の現実が、生々しく伝わってくる。今回の「Begonia」はとりわけ複雑で、入り組んでいて、一度絞った布みたいに(雑巾みたいに)、ゴワゴワしているが、そのフシギな物質としての絵の中で、見るのに時間がかかる楽しさが生まれる。フェンスのような構造はどうなっているのか、とか、ベゴニアはほんとに繋がっているの?とか、影だけの子供が、腰かけているのは一体どこなのか、など、魅力は尽きない。
2点のペインティングは、近年の村瀬恭子らしさがよくわかるもので、初めてこの画家を知るにはぴったりの作品だろう。人が木々にさえぎられて向こう側にいつもいる。「木と人を、同時に見ている」そんな瞬間が描かれる。人物が木のように、木が人間の一部のようにも思えてくる。木と木のあいだを埋めるものが見えてくる。気配が、色を帯びた空気のような姿で描かれているからである。人物が、木にずっと引っかかっている。そう見えることもある。絵を見るとは、視線が、絵の表面に引っかかっているようなものだからだろうか。人は動き、木も動く(しかし、人間とは異なる時間の中で)。異なる時間を同時に見ているというわけだ。人の後ろ姿が、さまよっているように見えることから、ストーリーを感じる向きもあると思うが、実際は、どこを探しても、物語は出てこない。物語には、必ず「始まり」と「終わり」があるが(未完であっても)、この画家の絵の世界にはそれがない。タイトルの言葉だけがギリギリ精一杯で、後にも先にも言葉はない。単語ひとつだけの世界なのだ。Chasing (追う)のその先はない。目的地はなく、物語も終わりもない(始まりもない)。なぜなら、色には終わりというものはないからだ。
メインの大きな3点のうちの最後の「Winter park(chocolate)」から今回の新作は取り組んだという。この「(chocolate)」の手応えをもって、「(rose)」を描き、それを経て「(ice)」が描けたという順番のようである。どれも、ほぼひとつの色が選ばれ、それをメインに描かれており、タイトルに反映されてもいるが、実際は黄色系の色(地の色か)などもあり、決して単純な単色だけで描かれてない。触れるほど近寄ってみると、緑色が、ほんとにかすかに入り込んでいる。どさくさまぎれというか、文章なら「誤植」という感じで緑色が付け足されているのだが、誤植がそうであるように、いったん気づいてしまうと、そこが妙に光り出す。あざのように、目に入ってしまう。画面の下は、地面のはずが、波打って、動いているのでは、という気にもなってきて、もしや海の中なのでは、草と思ってたのは海藻だったのかも、と様々な修正案が、見ている我々の頭の中を駆け巡る。これら大きな3点の絵は、「ありえたかもしれない、1枚の絵」の間で揺れ動いているのかもしれない(それとは異なり、3枚続きのドローイングの「Begonia」は、フィルムのように繋がった1枚なのかもしれない)。
村瀬恭子が変わったというのを、帰国したからだ、というのは易しい。実際そうかもしれない。でも、様々なことが組みあわさって変化したのだと思う。その変化も、劇的にということではないのが彼女らしい。描いていることを、言葉で取り出してみれば、草木、少女、枝、風など、これまでと変わらない。また、単語でこうして取り出してみると、とたんに魅力がなくなる。それもこれまでと変わらない。やはり、言葉ではないのだ、彼女の世界は。言葉に対してテンションが低いのは、絵の世界だけが、ここでは信じられているからだと思う。色や、線、そこから見えてくる世界。1色のように見えながら、形、線と連携して、「色」の中の見えない幾つもの層が確かめられていく世界。絨毯みたいな絵の中で、視線が、寝転がり、ごろごろしてオーケーな世界。もし、人間の持ち時間を超えてまで、絵を描くことが可能なら、どんな絵の世界が見られるんだろうと考えているような絵の世界……。(そういえば子供の頃、日が暮れて暗くなるのに抵抗しながら「まだ見える」「まだ遊べる」と砂場でずっと遊んでた時、子供は、太陽や地球と張り合っていた。あの時、たぶん「人間」の時間感覚を子供は超えていた)
ところで、たまたま先日チラシを見つけて知ったのだが、村瀬恭子はこんな審査員もやっている(郷里だから引き受けたのだろうと推察する。かなり珍しいことだろう)。この清流の国ぎふ芸術祭は、まだ始まったばかりとのこと。こういう時が応募のチャンスだ。というのは、まだあまり知られていないから。私も、リトルモアで短編が当選したのは、第1回だったから、応募総数がめちゃめちゃ少なかったからだ。こういうタイミングを見つけるのは大事だ。村瀬恭子は、絵を見るのも大好きだ。そして若い絵の仲間の登場を待っている。ぜひ応募してみるといいと思う。
村瀬恭子 「park」
会期:2019年1月11日(金) – 2月16日(土)
会場:タカ・イシイギャラリー 東京
TakaIshiiGallery東京で開催中(16日まで)の個展「park」は、5点の新作ペインティングと3枚綴りの新作ドローイングのみで構成されている。少ない。でも、これで十分。会場が満たされている。1時間は少なくともこの全部を見るのにかかるだろう。5点のペインティングのうち、3点がメインで、それぞれ「Winter park(ice)」「Winter park(chocolate)」「Winter park(rose)」と名付けられている。天井に届くほどの大きな絵だ。これらの大きな画面は、ほぼ同じ光景で埋められている。植物公園にある、女性像を中心に、その周囲が描かれている。女性像と言っても、これまでずっと村瀬恭子が描いてきた顔の見えない子供であるが、何ものにもさえぎられてない。これまでは、木々の幹や枝、何かわからない白いけむりのようなものなどに、部分的に隠されてきた。それが、あらわになっている(顔は見えないが)。しかし、変わったというのは、そこじゃあない。
この画家のタッチは、私の思い過ごしかもしれないが、ヴァンジ彫刻庭園美術館の個展「セミとミミズク」から豊田市美術館での個展「Fluttering far away 遠くの羽音」のあたりは、光を氷のように物質化して細かく切り出したような、ギザギザした、トゲトゲしたタッチの積み重ねだった(「セミとミミズク」という展覧会タイトルからして、そんなギザギザした感じが出ていた)。そして青や赤、時には洞窟の中の闇のように、けっこうドッシリとした「色」が画面を埋め、平気で横切っていた。しかし、「Winter park(ice)」は、これまでと全く異なり、「色」であることを慎重にやめようする瀬戸際まで、ぎりぎりの後退を目指している。そういう実験作である。あわい、この大きな絵の前で、何が起こっているのか、我々はしばらくわからないまま立っているしかない。細かなタッチが、ふわっと柔らかく(雪のように)降り積もっていくのは、絵の中だけだからだ。
ふりかえると、同じ大きさの「Winter park(rose)」が会場の奥の壁にある。こちらは一転、強い、はっきりとした「色」が、柔らかくも強弱のあるタッチで、まるでタペストリーのように、ギュッと結び合っている。密集しているタッチもあって、「いい絨毯になる」と思わず口から漏れてしまったのだが(作者が聞いていたらいい気持ちはしないだろう)、その画面の上でごろごろしてみたいような気持ちになる絵だ。色のあるところ、空白の隙間のようなところも含めて、画面の全部が、緊密に面を織りなしている。柔らかくその場に広がっていくように感じられる。絵の中に描かれているのは、真ん中に人物像があって、その周囲を植物が埋めていて……さっきとほとんど同じ光景だ。さっきまで見ていた「Winter park(ice)」は、この絵(「Winter park(rose)」)を見ている時、後ろにあるのだが、ふりかえる必要はない。この絵の前で、思い起こすだけでいい。すると、絵のまん中にいる、お尻を見せて後ろを向いていた子(ice)と、お腹を見せてこちらを向いている子(rose)が、我々を間に挟んで重なり合う。「色」がぎりぎり消えていくようなあわいを描く「(ice)」といい、絨毯のようにふさふさしたまま積み重なっているこの「(rose)」といい、作者の描く世界に、新しく「柔らかさ」が出現しているのは確かだと思う。
人は、ギャラリーを訪れて、どれだけの時間を過ごすのかわからない。スタスタ歩いて、一周して出て行く。まるで警備員みたいな足取りで会場を出てくことが、私にもあるが、今回の村瀬恭子の個展は、その「歩く」が止まる。再び歩くとしても、それは「絵に近づく」ためである。ドアのカギを開けることができるくらいに近づく。金庫のカギを開ける時みたいに目をこらす。手の届く範囲くらいまで、人なら手をつなぐくらいまで近づくと、見えてくる筆のタッチがある。絵は触るものではないが(しかし、本当に?)、手をつなぐくらい近くの距離で初めて、見えてくる世界がある。それが、この画家の魅力だと思う。やや離れた距離から見るとはっきりあった奥行きが、近づくとふと消えてなくなる。それが面白い。私はこの画家の絵を18年くらい前から見ている者であるが、その近さの印象は、前から変わらない。
ドローイングは、この画家にとって欠かせない世界だ。キャンバスに描かれるペインティングにも、ドローイングのタッチが生きている(というか、ドローイングがなければ村瀬恭子のペインティングの世界は生まれないだろう)。昔はドローイングにも油絵具を使っていたこともあったという。彼女のドローイングは、さらっとしてない。禅画のようにサッと描くのではなく、ガシガシ描いており、紙が雑巾みたいになっている。破れそうな、タフな絵の世界の現実が、生々しく伝わってくる。今回の「Begonia」はとりわけ複雑で、入り組んでいて、一度絞った布みたいに(雑巾みたいに)、ゴワゴワしているが、そのフシギな物質としての絵の中で、見るのに時間がかかる楽しさが生まれる。フェンスのような構造はどうなっているのか、とか、ベゴニアはほんとに繋がっているの?とか、影だけの子供が、腰かけているのは一体どこなのか、など、魅力は尽きない。
2点のペインティングは、近年の村瀬恭子らしさがよくわかるもので、初めてこの画家を知るにはぴったりの作品だろう。人が木々にさえぎられて向こう側にいつもいる。「木と人を、同時に見ている」そんな瞬間が描かれる。人物が木のように、木が人間の一部のようにも思えてくる。木と木のあいだを埋めるものが見えてくる。気配が、色を帯びた空気のような姿で描かれているからである。人物が、木にずっと引っかかっている。そう見えることもある。絵を見るとは、視線が、絵の表面に引っかかっているようなものだからだろうか。人は動き、木も動く(しかし、人間とは異なる時間の中で)。異なる時間を同時に見ているというわけだ。人の後ろ姿が、さまよっているように見えることから、ストーリーを感じる向きもあると思うが、実際は、どこを探しても、物語は出てこない。物語には、必ず「始まり」と「終わり」があるが(未完であっても)、この画家の絵の世界にはそれがない。タイトルの言葉だけがギリギリ精一杯で、後にも先にも言葉はない。単語ひとつだけの世界なのだ。Chasing (追う)のその先はない。目的地はなく、物語も終わりもない(始まりもない)。なぜなら、色には終わりというものはないからだ。
メインの大きな3点のうちの最後の「Winter park(chocolate)」から今回の新作は取り組んだという。この「(chocolate)」の手応えをもって、「(rose)」を描き、それを経て「(ice)」が描けたという順番のようである。どれも、ほぼひとつの色が選ばれ、それをメインに描かれており、タイトルに反映されてもいるが、実際は黄色系の色(地の色か)などもあり、決して単純な単色だけで描かれてない。触れるほど近寄ってみると、緑色が、ほんとにかすかに入り込んでいる。どさくさまぎれというか、文章なら「誤植」という感じで緑色が付け足されているのだが、誤植がそうであるように、いったん気づいてしまうと、そこが妙に光り出す。あざのように、目に入ってしまう。画面の下は、地面のはずが、波打って、動いているのでは、という気にもなってきて、もしや海の中なのでは、草と思ってたのは海藻だったのかも、と様々な修正案が、見ている我々の頭の中を駆け巡る。これら大きな3点の絵は、「ありえたかもしれない、1枚の絵」の間で揺れ動いているのかもしれない(それとは異なり、3枚続きのドローイングの「Begonia」は、フィルムのように繋がった1枚なのかもしれない)。
村瀬恭子が変わったというのを、帰国したからだ、というのは易しい。実際そうかもしれない。でも、様々なことが組みあわさって変化したのだと思う。その変化も、劇的にということではないのが彼女らしい。描いていることを、言葉で取り出してみれば、草木、少女、枝、風など、これまでと変わらない。また、単語でこうして取り出してみると、とたんに魅力がなくなる。それもこれまでと変わらない。やはり、言葉ではないのだ、彼女の世界は。言葉に対してテンションが低いのは、絵の世界だけが、ここでは信じられているからだと思う。色や、線、そこから見えてくる世界。1色のように見えながら、形、線と連携して、「色」の中の見えない幾つもの層が確かめられていく世界。絨毯みたいな絵の中で、視線が、寝転がり、ごろごろしてオーケーな世界。もし、人間の持ち時間を超えてまで、絵を描くことが可能なら、どんな絵の世界が見られるんだろうと考えているような絵の世界……。(そういえば子供の頃、日が暮れて暗くなるのに抵抗しながら「まだ見える」「まだ遊べる」と砂場でずっと遊んでた時、子供は、太陽や地球と張り合っていた。あの時、たぶん「人間」の時間感覚を子供は超えていた)
ところで、たまたま先日チラシを見つけて知ったのだが、村瀬恭子はこんな審査員もやっている(郷里だから引き受けたのだろうと推察する。かなり珍しいことだろう)。この清流の国ぎふ芸術祭は、まだ始まったばかりとのこと。こういう時が応募のチャンスだ。というのは、まだあまり知られていないから。私も、リトルモアで短編が当選したのは、第1回だったから、応募総数がめちゃめちゃ少なかったからだ。こういうタイミングを見つけるのは大事だ。村瀬恭子は、絵を見るのも大好きだ。そして若い絵の仲間の登場を待っている。ぜひ応募してみるといいと思う。
村瀬恭子 「park」
会期:2019年1月11日(金) – 2月16日(土)
会場:タカ・イシイギャラリー 東京