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原美術館のドリス・ファン・ノーテン
浅田 彰

2019.03.29
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ファッション・デザイナーのドキュメンタリー映画を取り上げた3月7日のエントリーで、ブランド買収合戦の駒として消費され燃え尽きた天才アレクサンダー・マックイーンと、最初からメディアに顔を出さずメゾンが買収されるとやがて静かに姿を消した秀才マルタン・マルジェラの二人が、グローバル資本主義に取り込まれた現代のファッション界を象徴している、という大雑把な構図を描いてみたのだが、そうした危険な状況の中で慎重に大波を避け自分の世界を守り続けているのが、少し前に公開されていたドキュメンタリー映画『ドリス・ヴァン・ノッテン ファブリックと花を愛する男』に見られるドリス・ファン・ノーテン(「アントワープの6人」のひとりでマルジェラとも同級生)である。

ドリスはメゾンを買収から守り、インドの刺繍職人まで含む多くの職人たちのネットワークに支えられて、自らも職人的な仕事を着実に続けていく。私生活でも、庭の手入れをして摘んできた花を部屋に飾り、自ら手をかけて料理をする。いかにもフランドルのブルジョワらしく、保守的と言えば保守的。しかし、ドキュメンタリーで自ら語っているように、仕事はむろん生活にも手抜きをしないその努力は並大抵のものではない、そのことは認めておくべきだろう(仕事でも生活でもつねに傍にいて彼を支える「夫」の存在が大きいのかもしれないけれど)。対して、マックイーンには生活と言うべきものがなく、マルジェラにはあったのかもしれないけれど一切表に出てこない。それが彼らをポストモダン消費社会の表層で輝かせたと同時に消滅へと向かわせたと言うこともできるのではないか。

そのドリス・ファン・ノーテンを影の主役とする「Interpretations,Tokyo」展が原美術館で開かれた。ドキュメンタリーで自邸のシーンに強い印象を受けていただけに、原美術館――というか旧・原邦造邸という会場がこの展覧会にうってつけだと感じたことを、まず強調しておきたい。軍国主義に媚びた帝冠様式で東京帝室博物館(現・東京国立博物館)の設計競技を制した渡辺仁(実施設計は宮内省内匠寮、1937年竣工)が、この旧・原邸(1938年竣工)では曲線的なプランに沿うアール・デコ調の洒落たモダニズム建築を作ってみせる。それは1979年に東京で初めての現代美術館となり、長く親しまれてきたのだが、デザインを損なうことなく耐震補強やバリア・フリー化を行うのが難しく、2020年末で閉館することになった(その事情についてはさしあたりここに)。群馬県渋川市には磯崎新設計の Hara Museum Arc があり、2021年以後はそこが現在の原美術館のコレクションを引き継ぐことになるので、それはそれで楽しみなのだが、個人的には、ただただ鈍重で威圧的な東京国立博物館はすぐにでも建て替えるべきであり、逆に原美術館こそ何とかして保存すべきだと、無理を承知で言っておきたい。いずれにせよ、原美術館の黄昏時に開かれた「Intepretations,Tokyo」展は、この美術館――というか旧・原邸にとっても、忘れがたい挽歌ということになるだろう。
さて、展覧会自体はと言えば、「17世紀絵画が誘う現代の表現」という副題が示すとおり、ドリス・ファン・ノーテンがアントワープで買って修復させ2009年3月の開店以来青山店に飾っているヘラルド・ドゥ・ライレッセ(Gerard de Lairesse:ここではオランダ語読みをしておく)の2点のバロック絵画を日本の若手アーティストたちに料理させる、という企画で、2009年に制作され店に飾られている堂本右美・蜷川実花の作品(そしてライレッセ解釈とは関係のない大庭大介の小品)加え、今回制作された安野谷昌穂・石井七歩・佐藤允の作品が展示された。

エラルート・デ・ライレッセ
「アキレスとアガメムノンの口論」


エラルート・デ・ライレッセ
「パリスとアポロがアキレスの踵に矢を向け命を狙う」


ライレッセは1641年にリエージュ(ベルギー)で生まれ1711年にアムステルダム(オランダ)で死んだ画家である。先天性梅毒(胎内感染)を患って1690年頃には失明し、以後、絵画論の書物を著して、それによっても大きな影響を与えた。レンブラントの描いたライレッセの肖像(1965-67年)では彼の病いがリアルに描かれているが、そのせいか、いまはメトロポリタン美術館(ニューヨーク)に飾られているこの絵も、かつてボストン美術館に売り込まれたときは「梅毒患者の肖像」として忌避されたらしい。それが回り回ってロバート・リーマンの手に渡り、1975年に彼のコレクションがメトロポリタン美術館に遺贈されたとき、この絵もメトロポリタン美術館ロバート・リーマン・ウィングに入ったのである。とはいえ、最初レンブラントの影響を受けたライレッセがやがてプッサンに近い古典主義を志向し、晩年のレンブラントの絵を「キャンヴァスに塗りたくった泥水」と批判することになるにもかかわらず、レンブラントが若き日のライレッセをむしろ静かな尊厳を湛えた姿に描いていることは、強調しておくべきだろう。日本から見て面白いのは、失明後のライレッセがチェーザレ・リーパの『イコノロギア』を意識したイコノロジー大全『大絵画本(Groot Schilderboek)』 をまとめあげ、この本が日本に伝わって蘭画家たちに大きな影響を与えたということだ(磯崎康彦『ライレッセの大絵画本と近世日本洋風画家』[雄山閣]に詳しい。ちなみに、当時の日本人は『大絵画本』からもっぱら写実的描画技術を読み取り、肝心のイコノロジカルな意味付けを理解するに至らなかったというのが、この本の論点のひとつである)。おそらくそのことは知らずに、ドリスがライレッセの大作2点を現代日本にもたらし、日本の若いアーティストたちがそれに応答するというのも、不思議な縁と言うべきではないか。

Rembrandt (Rembrandt van Rijn) Portrait of Gerard de Lairesse 1665–67,
Robert Lehman Collection, The Metropolitan Museum of Art


今回の展覧会のソースとなるライレッセ作品は「アキレウスとアガメムノンの口論」と「パリスとアポロンがアキレウスの踵に矢を向け命を狙う」の2点であり、日本の若いアーティストたちは、錯綜したその画面を読み解いて、自分なりの応答を示すことを求められた。なかでも注目に値するのは、原画の構造をかなり精密に分析しつつ現代日本のゲイ・シーンに引きずり下ろして再構成してみせた佐藤允さとうあたるの作品である。京都造形芸術大学に入った若き日の佐藤允は、田名網敬一や束芋にドローイングの才能を認められ、束芋がギャラリー小柳に持ち込んだ彼の高校時代の試験答案――いずれも零点なのだが裏面にびっしりドローイングが描かれている――は海外のアート・フェアで飛ぶように売れたという。不吉な欲望を帯びて増殖し、表皮を侵蝕して体内にまで入り込んでいくかと思うと、フレームを超えて壁にまで広がってゆく、線の錯綜。その後、2014年にパレ・ド・トーキョー(パリ)の「Inside」展に参加したとき、キュレーターに背中を押され、同性愛の欲望をあからさまに表出する、部分的にはゲイ・バーの便所の落描きにも似た絵(というのはむろん褒め言葉だ)を、臆することなく出すようになる。近年では油画にも挑戦しているが、新作では、油画の人体像にドローイングを貼り付けて内臓部分を示すという混合技法によって、彼ならではのドローイングの魅力を生かしつつスケールの大きな作品をつくる試みを成功させていたと言えるだろう。作家は「原作の西洋人をすべてアジア人に置き換えた」と語っており、たとえば「パリスとアポロンがアキレウスの踵に矢を向け命を狙う」のアポロンを転置したヌード像は自画像のようにも見えるが、バロックの源泉であるカラヴァッジョなら下層階級の若者を描いてもイタリア人らしく美しくセクシー、それをレンブラントやライレッセがオランダの「イモにいちゃん」「イモねえちゃん」に置き換えてセクシーな魅力が減じていたのを、佐藤允が再びセクシーなアジア人に変換し直したのだと言うこともできるのではないか。「アキレウスとアガメムノンの口論」のパロディは小品で、一見シンプルに見えるものの、78㎜の厚みがあり、上下左右の側面(そして実は裏面)もびっしきりと描き込まれていて、バロック絵画の内包する空間的ダイナミズムを別の形で展開しているのが面白い。

佐藤允「アキレスとアガメムノンの口論」2019年
photo by Kei Okano


佐藤允「パリスとアポロがアキレスの踵に矢を向け命を狙う」2019年
photo by Kei Okano


入口近くの天井の高いサロンでライレッセの大作2点を見、湾曲した展示室でこの佐藤允を含む5人の作品を見たあと、廊下に出ようとすると、正面に大庭大介の小品2点が掛けられており、パール・カラーが角度によってさまざまな表情を見せる。バロックのダイナミズムに悪酔いした観客を静謐な光の世界でチル・アウトさせる心憎い演出である。

大庭大介「Spectrum」2009年


原美術館で3日間だけ開かれたこの展覧会には、ドリス・ファン・ノーテン自身の服はない。しかし、自分の気に入ったものだけをひっそりと展示するというそのスタイルは、まさにこのデザイナーにぴったりではないか。繰り返せば、原美術館が渋川市の Hara Museum Arc に統合されるにせよ、旧・原邸が建築として保存されることを、私は強く望んでいる。しかし、原美術館の黄昏の日々に、そこでこういう贅沢な試みに遭遇しえたことは、万一建築が失われることになったとしても、そこでこれまで経験した様々な展覧会とともに、いつまでも私の記憶に残るだろう。

 

*注 1600年前後のカラヴァッジョらの革命以後、17世紀にはヨーロッパ全域でバロック文化が盛んになる。フランスも例外ではない。ただ、そこではプッサンのようにバロックを古典主義化したものが規範とされた。それゆえ17世紀フランスのバロックが「古典主義」と呼ばれるという紛らわしい事態が生ずるのである。ちなみに、ミシェル・フーコーの『言葉と物』でルネサンスと近代の間に「古典主義」が配される、あれも普通に言えばバロックであることは、そのパラダイム(範例)とされるのがバロック画家ベラスケスの『ラス・メニーナス(女官たち)』であることからも明らかである。きわめて初歩的な確認だが、念のため…