『アブストラと12人の芸術家』の4人
文:福永 信
2012.11.29
福永 信
12人は、この大きな空間で個展ができるほどの作者ばかりだ。
その一人ひとりが、作品を、ふだんは展示とは縁の遠い倉庫という場所に持ち寄ることで構成している。そんなグループ展だ。事前にどれだけの打ち合わせがあったのかわからないが、ステートメントでの力強い言葉を読む限り相当綿密に組み上げていったのだろうというのがわかる。
大判でありながら持ち運びが便利なチラシには、会場までの地図も大きく詳細に記載され、これが大変ありがたい。だが、注目したいのは、このチラシに刷られた当のステートメントで、地図でわれわれを導くだけでなく、自分達12人のこれから進むべき道まで具体的に暗示し、われわれを案内しようとしていることである(「(前略)時代的必然と圧倒的な吸引力で美術史の一つのピークを作り、歴史を塗り替えたアメリカの抽象表現主義を男性的でマッチョな抽象とするならば、おそらく僕たちの現代の抽象は、それとは異質なものなのだろう。つまり、それは、男性的な抽象に対し、女性的な抽象と呼べるものではないのか? というのが僕たちの一つの問いである。この問いのもと、アメリカ抽象表現主義を起点に、それを振り返りながらも、僕たちは前を向き、まだ見ぬ「アブストラ」という名の女性を探そうと思う。(後略)」)。
むろんそれが、その言葉をたよりに読み進んでいけば自然とたどりつくような、簡単な道のりでないことは、実際に会場を訪れることで、わかる。というか、ステートメントを読むことで、むしろ積極的に迷子になるように作られているのがこの展覧会だった、といってもいいくらいかもしれない。言葉は言葉、ブツによる展示は展示、そこんところ混同しないように、と、この展覧会は全体で語っているのかもしれない。うっかり言葉をたよりにというか言葉を優位なものとして位置付けて安心してしまいがちなわれわれを戒める、そんな意図もそこには込められていたかもしれない。会場でわれわれが感じ取るのは、「女性的な抽象」よりも、〈倉庫と私〉というような、もっと即物的な、そんな不思議な関係だからである。
展覧会『アブストラと12人の芸術家』(2012年11月11日―12月16日/大同倉庫)において、〈倉庫と私〉の考察をもっともエンジョイしているのは、金氏徹平と南川史門だ。
金氏徹平は、入れ子状になった透明な箱の表面にカラフルな直線、斜線をひいて見る者の視線を乱反射させる「Model of Something #4」を比較的小ぶりな部屋で展示しているがこれがすごい地味だ。つまり軽くがっかりするわけだが、じつはその感想は、お隣の大きな空間で別の作品なんかを見ているうちにまったく異なる印象に変わる。東京のSHUGOARTSでこのシリーズがお披露目された2、3年前、そのカラッポな内容にもかかわらず(要はほとんどが箱と線だけだから)、いつまでも見ることが終わらぬ地獄のような、しかし快楽を伴った視線の混乱をすでに提供していたが、そのときは現実から切り離された、ある種のカードゲームを楽しむみたいなことで終わっていたように思う。
今回、現実の倉庫空間をわれわれが歩き、大小の部屋で、ほかの作家の作品、また金氏徹平の別作品「Ghost in the Liquid Room (lenticular)#3」という3Dシールをぺたぺた貼り付けた立体のまわりをぐるぐるまわっているうちに、軽いめまいを感じるだろうが(それは3Dシールのせいだけではないはずだ)、それは、地であるはずの倉庫が、その壁が、その床が、図に転換するというか、主役に大抜擢されたとでもいうような、自分は今、倉庫を見てしまっているのか作品を見ているのか、わからなくなるからである。そして、その「めまい」へのプロセスは、そもそも小さな隣の部屋でさっき見た、地味でひかえめな「Model of Something #4」によって示されていた。いや、この作品を最初に見ていたからこそ、「めまい」を隣の大きな倉庫空間で感じたのかもしれない。巨体のおすもうさんを相手に技ありで勝つ小兵の舞の海のような作品というか、小さいながらも圧倒的な存在感を事後的に獲得する作品だった。
南川史門は、今夏の国立国際美術館(『リアル・ジャパネスク 世界の中の日本現代美術』)でのカラフルでポップな絵画作品の展示が記憶に新しい。あの展示よかったよねと思っている人はたくさんいると思うが、そのつづきがここにあると思うと軽くがっかりするだろう。またかと思うがそうである。しかし、じつは、上記の金氏徹平作品と同様に、われわれは、「4つの絵画」と題された、何も描いていないその作品を前に、しだいに倉庫と深い関係になっていく自分に気付くだろう。
正確にいえば何も描いていないのではない。銀色の下地に、うっすらと近づいて見分けられるかどうかのかすかさで、濃淡がつけられているからだ。何かの影のように見えてしまうことから日本現代美術史上有名なあの作家を思い出すことになるが、彼と違うとすぐにわかるのはそれが何の影でもないからである。というか、じつは影ですらないといったほうがいいだろう。倉庫にまるでスラッシュを引くように、斜めに連続した板に足がついて自立しているその姿は、「もともと倉庫の備品である」といわれても信じてしまいそうである。しかし完全に溶け込んでいるかというと微妙に「倉庫の備品」から浮いている感じもある。そこがおもしろい。やはり「4つの絵画」なのだ。いくら見つめても人は映り込まない、倉庫だけがその姿を映すことができる鏡のようでもある。
ところでステートメントの主語が「僕たち」になっていた。女性も含む展覧会で、これもむろんわざとこう書いているのだと思われるが、その彼女らは、〈倉庫と私〉などという正面切っての考察ではなく、〈倉庫とこのグループ展そのものと私〉という向き合い方で制作しているように感じられる。というのも、三宅砂織は、反復される木の枝、水面の情景を壁に天井まで届けとばかりに貼り付けていく。そこから、不可視の大木全体を、見上げるわれわれが想像してしまうのだが、実際はそんな大木なんか描かれていない。それでも、そう見えてしまう、見てしまうことをやめられないわれわれは、このとき、ステートメントを読む読者そっくりの姿になっているといっていい。見るために必要な重要なことが書いてあるかのように思い込み、読み取ってしまうわれわれというナイーブな読者を、三宅砂織は、叱る。叱るというのはおかしな表現かもしれないが、ないものを見てるヒマがあるんなら、この場所、ここにある倉庫という存在の大きさを感じなさいよ、という作品の声が聞こえてくる。つまり、床から天井までの高さに木の枝と水面の情景が貼られたのは、幻想の大木を仰ぎ見るためではなくて、倉庫の高さを計測するモノサシとしてだった。
多くの作品が倉庫の壁に貼り付けてあり、われわれもつられて壁ばかり見てしまうのだが、菅かおるの作品は、大きな部屋ではあえて、小さく柱にそっとくっついている(隣の小さめの部屋では、むしろ大きな作品を展示している)。まるでみのむしの見る夢のように、そこにある。12人の全作品の配置を示した見取り図が会場受付でわたされるが、そこに記載しない作品をさりげなくまぎれこませることができるのも、菅かおるのこの小さな手つきが可能にしたのだろう。会場見取り図をすりぬける小さなおどろきは、そのくせ、いつまでも人のこころに残るだろう。
いずれにせよ、この4人に注目しながらこの展覧会を見ると、チラシのステートメントにまどわされず(むろん、このチラシの文章はそれはそれで重要で、胸を打つのだが)、あくまでそいつは言葉であって作品の思考とは何ら無関係であるということを感じとることができる。まったく異なる、さまざまな才能を持った、同じ道は決して歩まないだろう12人の作者達による、グループ展の最良の部分が今、12月16日まで、西院の七本松通りの大同倉庫に、ある。
『アブストラと12人の芸術家』(荒川医、金氏徹平、菅かおる、国谷隆志、小泉明郎、立花博司、田中和人、田中秀和、中屋敷智生、南川史門、三宅砂織、八木良太)
ふくなが・しん
1972年生まれ。著書に『アクロバット前夜』(2001年/新装版『アクロバット前夜90°』2009年)、『コップとコッペパンとペン』(2007年)、『星座から見た地球』(2010年)、『一一一一一』(2011年)。村瀬恭子との共著に『あっぷあっぷ』(2004年)。編著として『こんにちは美術』全3巻(2012年)。
12人は、この大きな空間で個展ができるほどの作者ばかりだ。
その一人ひとりが、作品を、ふだんは展示とは縁の遠い倉庫という場所に持ち寄ることで構成している。そんなグループ展だ。事前にどれだけの打ち合わせがあったのかわからないが、ステートメントでの力強い言葉を読む限り相当綿密に組み上げていったのだろうというのがわかる。
大判でありながら持ち運びが便利なチラシには、会場までの地図も大きく詳細に記載され、これが大変ありがたい。だが、注目したいのは、このチラシに刷られた当のステートメントで、地図でわれわれを導くだけでなく、自分達12人のこれから進むべき道まで具体的に暗示し、われわれを案内しようとしていることである(「(前略)時代的必然と圧倒的な吸引力で美術史の一つのピークを作り、歴史を塗り替えたアメリカの抽象表現主義を男性的でマッチョな抽象とするならば、おそらく僕たちの現代の抽象は、それとは異質なものなのだろう。つまり、それは、男性的な抽象に対し、女性的な抽象と呼べるものではないのか? というのが僕たちの一つの問いである。この問いのもと、アメリカ抽象表現主義を起点に、それを振り返りながらも、僕たちは前を向き、まだ見ぬ「アブストラ」という名の女性を探そうと思う。(後略)」)。
むろんそれが、その言葉をたよりに読み進んでいけば自然とたどりつくような、簡単な道のりでないことは、実際に会場を訪れることで、わかる。というか、ステートメントを読むことで、むしろ積極的に迷子になるように作られているのがこの展覧会だった、といってもいいくらいかもしれない。言葉は言葉、ブツによる展示は展示、そこんところ混同しないように、と、この展覧会は全体で語っているのかもしれない。うっかり言葉をたよりにというか言葉を優位なものとして位置付けて安心してしまいがちなわれわれを戒める、そんな意図もそこには込められていたかもしれない。会場でわれわれが感じ取るのは、「女性的な抽象」よりも、〈倉庫と私〉というような、もっと即物的な、そんな不思議な関係だからである。
展覧会『アブストラと12人の芸術家』(2012年11月11日―12月16日/大同倉庫)において、〈倉庫と私〉の考察をもっともエンジョイしているのは、金氏徹平と南川史門だ。
金氏徹平は、入れ子状になった透明な箱の表面にカラフルな直線、斜線をひいて見る者の視線を乱反射させる「Model of Something #4」を比較的小ぶりな部屋で展示しているがこれがすごい地味だ。つまり軽くがっかりするわけだが、じつはその感想は、お隣の大きな空間で別の作品なんかを見ているうちにまったく異なる印象に変わる。東京のSHUGOARTSでこのシリーズがお披露目された2、3年前、そのカラッポな内容にもかかわらず(要はほとんどが箱と線だけだから)、いつまでも見ることが終わらぬ地獄のような、しかし快楽を伴った視線の混乱をすでに提供していたが、そのときは現実から切り離された、ある種のカードゲームを楽しむみたいなことで終わっていたように思う。
今回、現実の倉庫空間をわれわれが歩き、大小の部屋で、ほかの作家の作品、また金氏徹平の別作品「Ghost in the Liquid Room (lenticular)#3」という3Dシールをぺたぺた貼り付けた立体のまわりをぐるぐるまわっているうちに、軽いめまいを感じるだろうが(それは3Dシールのせいだけではないはずだ)、それは、地であるはずの倉庫が、その壁が、その床が、図に転換するというか、主役に大抜擢されたとでもいうような、自分は今、倉庫を見てしまっているのか作品を見ているのか、わからなくなるからである。そして、その「めまい」へのプロセスは、そもそも小さな隣の部屋でさっき見た、地味でひかえめな「Model of Something #4」によって示されていた。いや、この作品を最初に見ていたからこそ、「めまい」を隣の大きな倉庫空間で感じたのかもしれない。巨体のおすもうさんを相手に技ありで勝つ小兵の舞の海のような作品というか、小さいながらも圧倒的な存在感を事後的に獲得する作品だった。
南川史門は、今夏の国立国際美術館(『リアル・ジャパネスク 世界の中の日本現代美術』)でのカラフルでポップな絵画作品の展示が記憶に新しい。あの展示よかったよねと思っている人はたくさんいると思うが、そのつづきがここにあると思うと軽くがっかりするだろう。またかと思うがそうである。しかし、じつは、上記の金氏徹平作品と同様に、われわれは、「4つの絵画」と題された、何も描いていないその作品を前に、しだいに倉庫と深い関係になっていく自分に気付くだろう。
正確にいえば何も描いていないのではない。銀色の下地に、うっすらと近づいて見分けられるかどうかのかすかさで、濃淡がつけられているからだ。何かの影のように見えてしまうことから日本現代美術史上有名なあの作家を思い出すことになるが、彼と違うとすぐにわかるのはそれが何の影でもないからである。というか、じつは影ですらないといったほうがいいだろう。倉庫にまるでスラッシュを引くように、斜めに連続した板に足がついて自立しているその姿は、「もともと倉庫の備品である」といわれても信じてしまいそうである。しかし完全に溶け込んでいるかというと微妙に「倉庫の備品」から浮いている感じもある。そこがおもしろい。やはり「4つの絵画」なのだ。いくら見つめても人は映り込まない、倉庫だけがその姿を映すことができる鏡のようでもある。
ところでステートメントの主語が「僕たち」になっていた。女性も含む展覧会で、これもむろんわざとこう書いているのだと思われるが、その彼女らは、〈倉庫と私〉などという正面切っての考察ではなく、〈倉庫とこのグループ展そのものと私〉という向き合い方で制作しているように感じられる。というのも、三宅砂織は、反復される木の枝、水面の情景を壁に天井まで届けとばかりに貼り付けていく。そこから、不可視の大木全体を、見上げるわれわれが想像してしまうのだが、実際はそんな大木なんか描かれていない。それでも、そう見えてしまう、見てしまうことをやめられないわれわれは、このとき、ステートメントを読む読者そっくりの姿になっているといっていい。見るために必要な重要なことが書いてあるかのように思い込み、読み取ってしまうわれわれというナイーブな読者を、三宅砂織は、叱る。叱るというのはおかしな表現かもしれないが、ないものを見てるヒマがあるんなら、この場所、ここにある倉庫という存在の大きさを感じなさいよ、という作品の声が聞こえてくる。つまり、床から天井までの高さに木の枝と水面の情景が貼られたのは、幻想の大木を仰ぎ見るためではなくて、倉庫の高さを計測するモノサシとしてだった。
多くの作品が倉庫の壁に貼り付けてあり、われわれもつられて壁ばかり見てしまうのだが、菅かおるの作品は、大きな部屋ではあえて、小さく柱にそっとくっついている(隣の小さめの部屋では、むしろ大きな作品を展示している)。まるでみのむしの見る夢のように、そこにある。12人の全作品の配置を示した見取り図が会場受付でわたされるが、そこに記載しない作品をさりげなくまぎれこませることができるのも、菅かおるのこの小さな手つきが可能にしたのだろう。会場見取り図をすりぬける小さなおどろきは、そのくせ、いつまでも人のこころに残るだろう。
いずれにせよ、この4人に注目しながらこの展覧会を見ると、チラシのステートメントにまどわされず(むろん、このチラシの文章はそれはそれで重要で、胸を打つのだが)、あくまでそいつは言葉であって作品の思考とは何ら無関係であるということを感じとることができる。まったく異なる、さまざまな才能を持った、同じ道は決して歩まないだろう12人の作者達による、グループ展の最良の部分が今、12月16日まで、西院の七本松通りの大同倉庫に、ある。
『アブストラと12人の芸術家』(荒川医、金氏徹平、菅かおる、国谷隆志、小泉明郎、立花博司、田中和人、田中秀和、中屋敷智生、南川史門、三宅砂織、八木良太)
ふくなが・しん
1972年生まれ。著書に『アクロバット前夜』(2001年/新装版『アクロバット前夜90°』2009年)、『コップとコッペパンとペン』(2007年)、『星座から見た地球』(2010年)、『一一一一一』(2011年)。村瀬恭子との共著に『あっぷあっぷ』(2004年)。編著として『こんにちは美術』全3巻(2012年)。
(2012年11月29日公開)