高谷史郎の《ST/LL》——言葉と映像の彼方へ
文:浅田 彰
2016.01.23
浅田彰
舞台上、鏡のように磨き上げられた黒い床の上に、観客から見て縦方向に長いテーブルが置かれている。そこへ、天井からスパイダー・キャメラがするすると降りてきてテーブルをスキャンし、舞台奥の縦長のスクリーンにその映像を映し出す。陶器やガラス器、ナイフやフォーク。バラバラの時間を刻むいくつかのメトロノーム。リンゴの赤だけが色彩を添えるが、他には食物も飲物もない。これから食事が始まるのか。それにしては、食器類はバラバラに並んでいる。やがて、二人の女性が左右の席に着き、男性と女性が食器類を片付けて給仕を始める——と思ったら、人が動き出したとたんに床に波紋が広がり、観客はそれが実は水面だったことを知るのだ。静かな緊張に満ちて美しい、これがパフォーマンス《ST/LL》の始まりである。女性たちは左右対称を保ちながら存在しない食物を食べ、存在しない飲物を飲む。その儀式めいた食事が終わると、次のシーンでは、テーブル上に横たわった男女の動きが、スパイダー・キャメラで上から撮影され、移動する座標軸を添えられて、多次元空間でのダンスのようにスクリーンに映し出されるだろう…
すでにここまでのところで《ST/LL》の主なテーマが示されていると言ってもよい。高谷史郎のパフォーマンス作品を振り返ってみれば、第1作《明るい部屋》(2008年)はロラン・バルトの写真論から借りたタイトルの示す通り写真を介して映像と記憶の問題を問うエッセーだったし(同じタイトルの展覧会も開かれていて、そこで坂本龍一と私が高谷史郎を囲んだアーティスト・トークの記録が公開されているので、詳しくはそれを参照されたい)、第2作《CHROMA》(2012年)はこれまたタイトルの通りとくに色彩とその知覚を問うエッセーだった(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインからデレク・ジャーマンへという補助線も引かれており、それを作者のメンターだったダムタイプの古橋悌二につなげることもできるのだが)。第3作《ST/LL》でも、深さを持たない平面——「鏡 その底なしの深さのなさ」という宮川淳の言葉を借りて言えば「底なしの深さのなさ」を湛えた水鏡——から空間的・時間的な(あるいはさらに高次元の?)深さがどのように生み出され、また消滅するかという問題、さらには、最初の波紋のような微細なゆらぎからどのように複雑な現象が生み出され、また散逸していくかという問題が、マルチメディアを駆使して実験される(→注)。そう、《ST/LL》の「/」とは、水鏡の揺らぎ、エピクロスやルクレチウスの言う「クリナメン」——デモクリトスによればまっすぐ落下するはずだった原子の軌跡に付け加えられた微妙な偏倚に他ならない。後のシーンで読まれる短いテクスト(アルフレッド・バーンバウムによる)が示唆するように、この揺らぎの世界では、確かな因果関係と見えたものも統計的な相関(「偶然の一致」)でしかなくなるだろう(これはヒュームからメイヤスーに至る哲学の問いであり、量子力学の問いでもある)。
だが、誤解してはいけない。《ST/LL》の舞台はあくまで純粋な光と音の戯れとして進行する。ほぼ完璧なタイミング(そう、タイミングこそパフォーマンスの命だ)で展開されてゆくどこまでもシャープでありながら抑制された照明と映像、そして音響に目と耳を——いや、脳を洗われているとき、観客にものを考える余裕はないし、そんな必要もない。舞台がはねた後、ホールのロビーから冬の琵琶湖の水面を眺めるともなく眺めつつ、美しい白昼夢のようなパフォーマンスの記憶を呼び覚まそうとするとき、いま述べたようなブッキッシュな議論が脳裏をよぎるだけなのだ。あえて誇張するなら、「ST/LL」には内容などほとんど無いとさえ言える。意味だのメッセージだのといったものなしに、自分が何に感動しているかもわからない純粋な感動を与える——それが「ST/LL」というパフォーマンスの静かな効果である。これこそパフォーミング・アートの最高の達成と言うべきではないか。
むろん、これは多少とも誇張した議論であって、《ST/LL》にまったく内容がないというわけではない。水に浸かった部屋は、タルコフスキーのイメージ(山口情報芸術センター10周年記念祭[2013年度]のディレクターだった坂本龍一が高谷史郎とのコラボレーションのひとつの核とした)をミニマリスティックに洗練したものとも言え、水鏡のイメージは「エロディアード」をはじめとするマラルメの詩に歌われたそれ(渡邊守章を中心とする「マラルメ・プロジェクト」[2010-12年@京都造形芸術大学・春秋座]で高谷史郎が見事に映像化した)を思い起こさせる。スパイダー・キャメラと並び、鋭いパルス音とともに舞台を掃いてゆくスキャニング・ラインは、ダムタイプの《OR》の頃から監視社会を念頭において主題化されてきたものだ。他方、バーンバウムのテクストの次に、鶴田真由はアイヌの子守唄「60のゆりかご」を読み、それが川上容子によるアイヌ語の口演(録音)へとつながってゆくのだが、6×10の電灯のグリッドが1m以下の高さまで降りてきて彼女の歩みを追いかけるように光るところは実に美しい。ディレクター坂本龍一の下で高谷史郎も重要な役割を果たした札幌国際芸術祭2014での発見がここにつながっているのは明らかだろう。かと思うと、《明るい部屋》の伝言ゲームや《CHROMA》のモンスターを受け継ぎながら薮内美佐子がアイヌ語でさえない正体不明の言語で一人二役(いや、三役?)の語りを聞かせる場面の絶妙な可笑しみ。もはや他者とのコミュニケーションが問題なのではない。「私」がすでに他者たちの束なのであり、たったひとりの「私」の孤独は「賑わう孤独」(ボードレール-ドゥルーズ)なのだ。老人介護の経験も踏まえ、しかしそこから生温いヒューマニズムの枠を超えたところまで線を伸ばしてみせる、彼女ならではの名人芸である。やがて彼女は四苦八苦の末にテーブル上に上がり、ありとあらゆる種類の文字をバスケットから撒き散らすが、それらが解読されることはない。そして、次のシーン、皆既日食のあと、霧の中に斜めに差し込むHMIの冷たい光を浴びながら平井優子が水上で踊る息をのむほど美しい場面では、スパイダー・キャメラも映像を撮影することをやめ、目的不明のロボットとなって、水面に倒れたダンサーの周りであてもなく円舞するばかりだ。そう、繰り返して言えば、個々のシーンで意味が凝結しそうになる前に水面を揺らし、さりげなく次のシーンへと流れてゆく、そこに「ST/LL」の洗練があり、それは最終的に言葉のみならず映像を捨てるところまで到達するのである。《ST/LL》はこのあと冒頭に戻り、波打ち際を映し出すスクリーン(観客席の後方、数十メートルのところには本物の波打ち際があるのだが)の前でパフォーマーたちがテーブルなしに最初の所作を繰り返すところで終わる——まるでそれまでのすべてが一瞬の夢だったかのように。タイトルの通りあくまでも静かな終幕である。
この記述からもわかるように、《ST/LL》に音楽を提供した坂本龍一がこの作品で決定的に大きな役割を果たしていることを付け加えておかねばならない。ディレクターとして札幌国際芸術祭2014を準備したにもかかわらず、急な病気療養のためニューヨークを離れることができなくなったミュージシャンは、その後も高谷史郎と緊密に連絡を取り合い、《ST/LL》のアイディアを聞いて、音楽を制作した。たとえば、冒頭、キーンという高周波(抑制されていて決して耳障りではない)に重ねて響いてくるピアノの低い単音の歌。アレハンドロ・イニャリトゥの《The Revenant》で音楽を担当することになる坂本龍一が、同じ監督の前作《バードマン》の音楽を高く評価していたことからも、そこで引用されるラヴェルのピアノ三重奏曲第三楽章冒頭のピアノのメロディを思い出す——メロディそのものは《ダフニスとクロエ》の「日の出」の主題をサティ風にひねったかのような感じなのだが。あるいは、最後のシーンでこの歌が回帰してくる前、霧の中のダンサーとスパイダー・キャメラのシーンで静かな緊張を孕んで高まる雅楽を抽象化したような音響。坂本龍一から提供された素材を細心の注意を払ってパフォーマンスに合わせてみせた南琢也と原摩利彦の手腕もあって、《ST/LL》の音楽はただでさえ静謐な美を湛えた舞台に絶え間ない静かな緊張を漲らせる役割を見事に果たしていたと言えよう。
ここで唐突に振り返ってみれば、ピナ・バウシュ本人が見守る中でのヴッパタール舞踊団の公演——日本におけるその最後の舞台が、2008年びわ湖ホールでの《フルムーン》だった(2009年に彼女が急逝した後も活動を続けている舞踊団はびわ湖ホールでも2010年に《私と踊って》を上演、その際には楠田枝里子と私がピナ・バウシュを偲ぶトークも行ったのだが)。25トンに及ぶという水を温めて循環させる装置によって舞台上に雨を降らせ、若いダンサーたちが思うさま水しぶきを上げながら踊る。この圧倒的なパフォーマンスの一端は彼女の死後にヴィム・ヴェンダースの撮った映画《PINA》でも見ることができるが、美しい湖畔の劇場で《フルムーン》の水の饗宴をライヴで体験した、そのあまりに鮮烈な記憶に比べると、映画は貧しいサンプルにしか見えない。《ST/LL》はフランスのル・アーヴルで初演された作品なので、牽強付会は避けるべきだろうが、びわ湖ホールでの《フルムーン》公演の客席に高谷史郎の姿もあったことを思うと、《ST/LL》を《フルムーン》への遠い反歌として見たくなってしまうのだ。《フルムーン》で舞台全面に乱舞していた水は、《ST/LL》では鏡のように凍てついているかに見える。しかし、そこに生ずる微かな波紋は、相互の干渉によって思いのほか複雑な模様を描き出し、それは跡形もなくかき消えた後も観客の心に静かな感動——ピナ・バウシュの infra-red の感動でもなくウィリアム・フォーサイスの ultra-violet の感動でもない、いわば零度の感動、どこまでも透明な感動を残すのである。
(付記)
本稿は1月23日の公演の後のアーティスト・トークでモデレーターを務めた私がその場で即興的に述べた感想を展開したものである。トークに参加した高谷史郎、パフォーマーの鶴田真由・平井優子・薮内美佐子、音楽担当の原摩利彦とメディア・オーサリング担当の古舘健に感謝する。
(注)
このトークの冒頭で私が「チームラボやライゾマティクスをdisった」という情報がネットで話題になったらしいが、そこで問題にしていたのはもちろん特定のアーティストやアーティスト集団の良し悪しではない。メディアにとって根源的な問題をメディアを通して問う試みこそメディア・アートと呼ぶにふさわしいのであって、新しいメディアを駆使したエフェクトでアミューズメントを彩るだけではメディア・アートとは言えない。ただそれだけのことだ。
高谷史郎 パフォーマンス 《ST/LL(スティル)》
2016年1月23日・24日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール
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舞台上、鏡のように磨き上げられた黒い床の上に、観客から見て縦方向に長いテーブルが置かれている。そこへ、天井からスパイダー・キャメラがするすると降りてきてテーブルをスキャンし、舞台奥の縦長のスクリーンにその映像を映し出す。陶器やガラス器、ナイフやフォーク。バラバラの時間を刻むいくつかのメトロノーム。リンゴの赤だけが色彩を添えるが、他には食物も飲物もない。これから食事が始まるのか。それにしては、食器類はバラバラに並んでいる。やがて、二人の女性が左右の席に着き、男性と女性が食器類を片付けて給仕を始める——と思ったら、人が動き出したとたんに床に波紋が広がり、観客はそれが実は水面だったことを知るのだ。静かな緊張に満ちて美しい、これがパフォーマンス《ST/LL》の始まりである。女性たちは左右対称を保ちながら存在しない食物を食べ、存在しない飲物を飲む。その儀式めいた食事が終わると、次のシーンでは、テーブル上に横たわった男女の動きが、スパイダー・キャメラで上から撮影され、移動する座標軸を添えられて、多次元空間でのダンスのようにスクリーンに映し出されるだろう…
すでにここまでのところで《ST/LL》の主なテーマが示されていると言ってもよい。高谷史郎のパフォーマンス作品を振り返ってみれば、第1作《明るい部屋》(2008年)はロラン・バルトの写真論から借りたタイトルの示す通り写真を介して映像と記憶の問題を問うエッセーだったし(同じタイトルの展覧会も開かれていて、そこで坂本龍一と私が高谷史郎を囲んだアーティスト・トークの記録が公開されているので、詳しくはそれを参照されたい)、第2作《CHROMA》(2012年)はこれまたタイトルの通りとくに色彩とその知覚を問うエッセーだった(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインからデレク・ジャーマンへという補助線も引かれており、それを作者のメンターだったダムタイプの古橋悌二につなげることもできるのだが)。第3作《ST/LL》でも、深さを持たない平面——「鏡 その底なしの深さのなさ」という宮川淳の言葉を借りて言えば「底なしの深さのなさ」を湛えた水鏡——から空間的・時間的な(あるいはさらに高次元の?)深さがどのように生み出され、また消滅するかという問題、さらには、最初の波紋のような微細なゆらぎからどのように複雑な現象が生み出され、また散逸していくかという問題が、マルチメディアを駆使して実験される(→注)。そう、《ST/LL》の「/」とは、水鏡の揺らぎ、エピクロスやルクレチウスの言う「クリナメン」——デモクリトスによればまっすぐ落下するはずだった原子の軌跡に付け加えられた微妙な偏倚に他ならない。後のシーンで読まれる短いテクスト(アルフレッド・バーンバウムによる)が示唆するように、この揺らぎの世界では、確かな因果関係と見えたものも統計的な相関(「偶然の一致」)でしかなくなるだろう(これはヒュームからメイヤスーに至る哲学の問いであり、量子力学の問いでもある)。
だが、誤解してはいけない。《ST/LL》の舞台はあくまで純粋な光と音の戯れとして進行する。ほぼ完璧なタイミング(そう、タイミングこそパフォーマンスの命だ)で展開されてゆくどこまでもシャープでありながら抑制された照明と映像、そして音響に目と耳を——いや、脳を洗われているとき、観客にものを考える余裕はないし、そんな必要もない。舞台がはねた後、ホールのロビーから冬の琵琶湖の水面を眺めるともなく眺めつつ、美しい白昼夢のようなパフォーマンスの記憶を呼び覚まそうとするとき、いま述べたようなブッキッシュな議論が脳裏をよぎるだけなのだ。あえて誇張するなら、「ST/LL」には内容などほとんど無いとさえ言える。意味だのメッセージだのといったものなしに、自分が何に感動しているかもわからない純粋な感動を与える——それが「ST/LL」というパフォーマンスの静かな効果である。これこそパフォーミング・アートの最高の達成と言うべきではないか。
むろん、これは多少とも誇張した議論であって、《ST/LL》にまったく内容がないというわけではない。水に浸かった部屋は、タルコフスキーのイメージ(山口情報芸術センター10周年記念祭[2013年度]のディレクターだった坂本龍一が高谷史郎とのコラボレーションのひとつの核とした)をミニマリスティックに洗練したものとも言え、水鏡のイメージは「エロディアード」をはじめとするマラルメの詩に歌われたそれ(渡邊守章を中心とする「マラルメ・プロジェクト」[2010-12年@京都造形芸術大学・春秋座]で高谷史郎が見事に映像化した)を思い起こさせる。スパイダー・キャメラと並び、鋭いパルス音とともに舞台を掃いてゆくスキャニング・ラインは、ダムタイプの《OR》の頃から監視社会を念頭において主題化されてきたものだ。他方、バーンバウムのテクストの次に、鶴田真由はアイヌの子守唄「60のゆりかご」を読み、それが川上容子によるアイヌ語の口演(録音)へとつながってゆくのだが、6×10の電灯のグリッドが1m以下の高さまで降りてきて彼女の歩みを追いかけるように光るところは実に美しい。ディレクター坂本龍一の下で高谷史郎も重要な役割を果たした札幌国際芸術祭2014での発見がここにつながっているのは明らかだろう。かと思うと、《明るい部屋》の伝言ゲームや《CHROMA》のモンスターを受け継ぎながら薮内美佐子がアイヌ語でさえない正体不明の言語で一人二役(いや、三役?)の語りを聞かせる場面の絶妙な可笑しみ。もはや他者とのコミュニケーションが問題なのではない。「私」がすでに他者たちの束なのであり、たったひとりの「私」の孤独は「賑わう孤独」(ボードレール-ドゥルーズ)なのだ。老人介護の経験も踏まえ、しかしそこから生温いヒューマニズムの枠を超えたところまで線を伸ばしてみせる、彼女ならではの名人芸である。やがて彼女は四苦八苦の末にテーブル上に上がり、ありとあらゆる種類の文字をバスケットから撒き散らすが、それらが解読されることはない。そして、次のシーン、皆既日食のあと、霧の中に斜めに差し込むHMIの冷たい光を浴びながら平井優子が水上で踊る息をのむほど美しい場面では、スパイダー・キャメラも映像を撮影することをやめ、目的不明のロボットとなって、水面に倒れたダンサーの周りであてもなく円舞するばかりだ。そう、繰り返して言えば、個々のシーンで意味が凝結しそうになる前に水面を揺らし、さりげなく次のシーンへと流れてゆく、そこに「ST/LL」の洗練があり、それは最終的に言葉のみならず映像を捨てるところまで到達するのである。《ST/LL》はこのあと冒頭に戻り、波打ち際を映し出すスクリーン(観客席の後方、数十メートルのところには本物の波打ち際があるのだが)の前でパフォーマーたちがテーブルなしに最初の所作を繰り返すところで終わる——まるでそれまでのすべてが一瞬の夢だったかのように。タイトルの通りあくまでも静かな終幕である。
この記述からもわかるように、《ST/LL》に音楽を提供した坂本龍一がこの作品で決定的に大きな役割を果たしていることを付け加えておかねばならない。ディレクターとして札幌国際芸術祭2014を準備したにもかかわらず、急な病気療養のためニューヨークを離れることができなくなったミュージシャンは、その後も高谷史郎と緊密に連絡を取り合い、《ST/LL》のアイディアを聞いて、音楽を制作した。たとえば、冒頭、キーンという高周波(抑制されていて決して耳障りではない)に重ねて響いてくるピアノの低い単音の歌。アレハンドロ・イニャリトゥの《The Revenant》で音楽を担当することになる坂本龍一が、同じ監督の前作《バードマン》の音楽を高く評価していたことからも、そこで引用されるラヴェルのピアノ三重奏曲第三楽章冒頭のピアノのメロディを思い出す——メロディそのものは《ダフニスとクロエ》の「日の出」の主題をサティ風にひねったかのような感じなのだが。あるいは、最後のシーンでこの歌が回帰してくる前、霧の中のダンサーとスパイダー・キャメラのシーンで静かな緊張を孕んで高まる雅楽を抽象化したような音響。坂本龍一から提供された素材を細心の注意を払ってパフォーマンスに合わせてみせた南琢也と原摩利彦の手腕もあって、《ST/LL》の音楽はただでさえ静謐な美を湛えた舞台に絶え間ない静かな緊張を漲らせる役割を見事に果たしていたと言えよう。
ここで唐突に振り返ってみれば、ピナ・バウシュ本人が見守る中でのヴッパタール舞踊団の公演——日本におけるその最後の舞台が、2008年びわ湖ホールでの《フルムーン》だった(2009年に彼女が急逝した後も活動を続けている舞踊団はびわ湖ホールでも2010年に《私と踊って》を上演、その際には楠田枝里子と私がピナ・バウシュを偲ぶトークも行ったのだが)。25トンに及ぶという水を温めて循環させる装置によって舞台上に雨を降らせ、若いダンサーたちが思うさま水しぶきを上げながら踊る。この圧倒的なパフォーマンスの一端は彼女の死後にヴィム・ヴェンダースの撮った映画《PINA》でも見ることができるが、美しい湖畔の劇場で《フルムーン》の水の饗宴をライヴで体験した、そのあまりに鮮烈な記憶に比べると、映画は貧しいサンプルにしか見えない。《ST/LL》はフランスのル・アーヴルで初演された作品なので、牽強付会は避けるべきだろうが、びわ湖ホールでの《フルムーン》公演の客席に高谷史郎の姿もあったことを思うと、《ST/LL》を《フルムーン》への遠い反歌として見たくなってしまうのだ。《フルムーン》で舞台全面に乱舞していた水は、《ST/LL》では鏡のように凍てついているかに見える。しかし、そこに生ずる微かな波紋は、相互の干渉によって思いのほか複雑な模様を描き出し、それは跡形もなくかき消えた後も観客の心に静かな感動——ピナ・バウシュの infra-red の感動でもなくウィリアム・フォーサイスの ultra-violet の感動でもない、いわば零度の感動、どこまでも透明な感動を残すのである。
(付記)
本稿は1月23日の公演の後のアーティスト・トークでモデレーターを務めた私がその場で即興的に述べた感想を展開したものである。トークに参加した高谷史郎、パフォーマーの鶴田真由・平井優子・薮内美佐子、音楽担当の原摩利彦とメディア・オーサリング担当の古舘健に感謝する。
(注)
このトークの冒頭で私が「チームラボやライゾマティクスをdisった」という情報がネットで話題になったらしいが、そこで問題にしていたのはもちろん特定のアーティストやアーティスト集団の良し悪しではない。メディアにとって根源的な問題をメディアを通して問う試みこそメディア・アートと呼ぶにふさわしいのであって、新しいメディアを駆使したエフェクトでアミューズメントを彩るだけではメディア・アートとは言えない。ただそれだけのことだ。
高谷史郎 パフォーマンス 《ST/LL(スティル)》
2016年1月23日・24日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール
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(2016年1月23日公開)