『唐代胡人俑』展に寄せて
文:福嶋亮大
2018.02.03
福嶋亮大
一月に関西で用事があったので、浅田彰氏に勧められた大阪市立東洋陶磁美術館の『唐代胡人俑——シルクロードを駆けた夢』展に立ち寄ってみた。唐代の「胡人」とは西方の異民族、主にシルクロード一帯での交易で活躍したイラン系のソグド人(漢文史料では「康国」と表記されるサマルカンドを重要な拠点とした)を指すが、彼らを模した多くの「俑」(よう=ひとがたの像)が二〇〇一年に甘粛省慶城県にある唐の将軍・穆泰(ぼくたい)の墓から出土した。今回の展覧会はその出土品の一部を展示したものである。
秦の始皇帝の兵馬俑はあまりにも有名だが、それ以降も中国の「俑」は貴人の墓の副葬品として生産され続けた。七三〇年に葬られた穆泰の墓の胡人俑は、造形的な水準が高いだけではなく、保存状態もきわめて良好で見応えがある。小ぶりの展覧会ではあるものの、日本ではまだまだ知られていない中国の俑の奥深さに触れる格好の機会になるだろう。
今回の展示でひときわ眼を引くのは、胡人や動物の写実的な体軀である。鼻が高く眼をギョロッとさせた胡人俑の表情は、遊動的な商業民であったソグド人の逞しさやしたたかさをよく伝えている。馬や駱駝を牽く彼らの姿勢が、結果としてファイティング・ポーズのように見えるのも面白い。大きな尻をした馬やいななく駱駝も筋骨隆々で、サイズ以上の存在感を誇示している。総じて、製作者たちの確かな技術を感じさせる優れた作品群である。
唐代の長安では「胡服」や「胡旋舞」などが大流行し、日本の正倉院にも胡をモチーフとした伎楽面が伝わっているが、その実体もソグド系文化であった(楊貴妃の前で胡旋舞を披露した安禄山もソグド系の突厥人である)。ソグド人は商業的な「交通の民」であるとともに、身体的なパフォーマンスを得意とし、独自のファッションをも作り出した「芸能の民」でもあったわけだ。今回の胡人俑にも「パフォーマンスの写生」としての一面があり、彼らの表情は、生気に満ちた一瞬を捉えた演劇の仮面のようにも見えてくる。いわば素顔と仮面の区別ができないところに、これら胡人俑の面白さがあるとも言えるだろう。それとともに、中国の俑にいち早く注目した考古学者・濱田耕作(青陵)の言った俑特有の「謙譲にして可憐なる」形姿もそこに欠けてはいない。
それにしても、死者が静かに眠る墓に、生気溌剌とした小さな胡人の人形たちを埋葬するというのも、なかなか不思議な慣習である。そもそも、中国ほどフューネラリー・アートに情熱を傾けた国は少ない。最近の中国古代美術史研究は、たんに副葬品を個別に見ていくだけではなく、地下の墳墓そのものの空間的・時間的・物質的な構造をフォルマリスティックに分析しようとしている(Wu Hung〔巫鴻〕, The Art of the Yellow Springs: Understanding Chinese Tombs, University of Hawaii Press, 2010)。興味深いことに、『史記』によれば、始皇帝陵には侵入者をボーガンで撃ち殺す仕掛けが備えられていた。無秩序な乱世が周期的にやってくる中国において、墓はセキュリティの完備された地下の「アート・ワールド」であったわけだ。
ここには「芸術の設計」(岡﨑乾二郎)を考える上でもなかなか面白い問題が潜んでいる。埋葬者という特別な観客(?)を除いて誰も見ることができない以上、墓室は宗教的(≒前近代的)な「礼拝」の場でもなければ、公共的(≒近代的)な「展示」の場でもない――つまり、そこはベンヤミンの言う「礼拝的価値」からも「展示的価値」からも切り離された不可視の密室なのだ。中国人は実に四千年以上にわたって、この宗教施設でも美術館でもない秘密の空間の設計に、莫大な富と技術を投入してきた。胡人俑はまさにその伝統の一部である。
思えば、今日のアートは「見ること」にせよ「作ること」にせよ、とにかくすべてをオープンにしようとする傾向が強い。観客を美術館という隔離空間から引き剥がし、オリエンテーリングのように地方を歩かせる観光アートしかり。芸術家がアトリエで孤独に作品に向き合う代わりに、市民とともに芸術を創造すると称する参加型アートしかり。このポスト美術館/ポストアトリエというポストモダンのパラダイム――そこでしばしばモダンな展示的価値の地平にプレモダンな礼拝的価値が再導入されているのも徴候的である――とは対照的に、古代中国の文字通りの「アングラ」のアート・ワールドは徹底した秘密主義によって成り立っていた。
一九九〇年代以降の中国では今回の胡人俑に限らず、古代思想・古代美術を上書きするような考古学的発見が相次いでいるが(*)、その「地下からのメッセージ」は公共性を僭称する現代アートのパラダイムの盲点を教えるものにもなり得る――、そう、芸術とはたんなる参加、共有、消費の対象ではなく、むしろ「秘密」を作り守るシステムでもあったのではないか? むろん、私たちは明るい展示空間で胡人俑を見て、その情報をシェアしたりもするわけだが、この人形たちが千年以上ものあいだ秘密の空間で過ごしてきたことは常に念頭に置くべきだろう。俑(および副葬品一般)とそれを包摂する地下の「場」に注目することは、芸術とは何かを改めて考える良い機会になるはずだ。
ところで、穆泰墓の造られた八世紀は、中国の社会や文化が高揚した時期でもあった。今回の展覧会についても、文化史的なコンテクストをちょっと考えてみてもいいかもしれない。
実際、生気に満ちた胡人俑や筋骨隆々の馬のやきものを見ていると、杜甫の名高い「秦州雑詩」の「馬驕りて朱汗落ち/胡舞いて白題斜めなり」というフレーズが思い出される。杜甫が七五九年に長安の大飢饉から逃れて訪れた秦州(今の甘粛省天水市付近)は、まさに穆泰墓の近隣にある。彼はそこで、赤い汗を流して猛り狂う馬や、白い額を傾けて激しくダンスするソグド人を目の当たりにしたわけだ。今回の展示によって、私は杜詩の異国的なダイナミズムがどこから来たのかを、初めて具体的な「モノ」としてつかめた気がした。
ややもすれば唯美主義に傾きがちな日本の歌人とは違って、杜甫は「馬」や「胡」の躍動感を活写することによって、ストリートの運動性を詩に転記してみせた作家であった(ちなみに彼には、当時の高名な女性パフォーマー公孫大娘の剣舞をテーマとした詩もある)。さらに、杜甫と並び称される李白にも、胡人の吹く玉笛を聞いて、玄宗を思い出して涙を流すという放浪時代の詩がある。ソグド人の運動性や芸能性は、八世紀の詩の先端とも連続していたのだ。そう考えると、李白がソグド人あるいはバクトリア人であったという説、いわゆる「李白胡人説」はきわめて興味深いものに思えてくる。
もとより、この仮説を確証するのは難しいが、金文京氏の『李白』(岩波書店)が指摘するように、そこには十分な根拠もある。李白の先祖の故郷はソグド人の拠点にあり、彼自身の行動様式もふつうの漢人とは異なっていた。例えば、杜甫が家族を養うために中国各地を旅したのに対して、李白は目的のはっきりしない旅行を繰り返した。それもソグド系のフットワークの軽さと結びつくものかもしれない。日本の松尾芭蕉は杜甫と李白を一緒くたに漂泊詩人の先師としたが、この両者の「遊動性」には本来大きな差異があるわけだ。ついでに言えば、李白はいわば流行の歌謡曲作家であり、大勢の人間に口ずさまれたせいで彼の詩にはたくさんの異本がある。逆に、杜甫は自分の詩の「定本」を作ろうとした最初期の作家であり、ここにも李杜の大きな違いがあるだろう。
ただ、面白いのは、両者の詩がどちらも胡人のような異民族にも伝わったとされることである。中唐の白居易は、李杜の名声が「四夷」にまで伝わったことを讃えた。そして、白居易自身の詩も、その平俗さゆえに「胡児」にまで愛唱されたと伝えられる(花房英樹『白居易研究』世界思想社)。今回の胡人俑のモデルとなったソグド人の子孫も、李白や白居易の詩を街角で口ずさんでいたかもしれない。日本人はつい中国から日本へという一方向の文化的伝播ばかりに注目してしまうが、本来は西域の胡人から『枕草子』や『源氏物語』を生んだ日本の女性に到るまで、中国語の詩が国家・階層・民族・ジェンダーを超えて波及したところにこそ、唐の帝国的特性を見出すべきだろう。
さらに、胡人俑をより広く「人形」の文化の一つとして考えても面白い。さっき中国のウェブサイトをちょっと覗いてみたが、中国の傀儡劇(人形劇)の起源は俑にあるという論文もあるようだ。胡人俑(を作る技術)もひょっとしたら、人形劇に応用されることがあったのかもしれない。加えて、彫刻史的に言えば、俑と仏像彫刻の類似性も当然重要である(今回は出品されなかったが、穆泰墓からは仏教の天王像を思わせる「天王俑」も出土している)。さらに、芸能としての人形文化のルーツを探っていくと、アジア規模の共通性にも行き当たる。傀儡劇の源流を古代インドでの宗教的な伝道のパフォーマンスに認めようとするヴィクター・メアの説は、一考に値するだろう……。むろん、私は門外漢なのでこれらの説が妥当なのかどうかは分からないが、辺境の交通空間で生み出された胡人俑は、たんに「中国的」という文脈だけでは片づけられないはずだ。
いずれにせよ、胡人俑はさまざまな連想を誘うオブジェである。もとより、俑の「芸術品」としての歴史はそれほど長くない。中国は二〇世紀初頭に国家事業として、鉄道を敷設するために大規模な土木工事を実施し、その結果として多くの墓が開かれて多くの副葬品が世に出る――それが俑の「発見」の第一歩であり、やがて欧米のバイヤーがそれを骨董品として競って買い集めるようになった。良し悪しは別にして、近代の「交通空間」の開拓こそが死者の秘密の世界を暴露し、考古学と美術史の新たな局面を開いたのだ。そう考えると、今回出品された小さな人形たちも、時代相を刻印されたマテリアルであることが分かるだろう。胡人俑の示す、商業民らしいしたたかな表情の裏側には、異文化の混淆が生み出す重層的な歴史が広がっている。
(*)特に、中国の古代思想史は一九九〇年代以降に相次いで出土した「戦国竹簡」が貴重な新資料となり、大きな転換を迎えている(それを専門に研究する「竹簡学」という分野もある)。中国文化を了解する基本的なパースペクティヴそのものが、出土資料によって部分的に修正されているわけだ。
もっとも、そこには実はきな臭い問題もある。例えば、最大級の規模を誇る上海博物館蔵戦国楚竹書(上博楚簡)はもともと盗掘品で、香港の古玩マーケットに流出したところを博物館が購入したという、いわくつきの資料である(そのため出土地は不明のままである)。さらに、大量の竹簡のなかには偽簡の疑いをかけられているものもあり、その真偽を巡って論争も起こっている。そもそも、盗掘品を学問の対象にするのは研究倫理的に正しいのかという根本的な問題も見逃せない(この点はつい最近、金文京氏が『汲古』第七二号の編集後記で触れている)。
こうした経緯はアートにおいても決して他人事ではないだろう。エキサイティングな考古学的発見は確かに文化の「起源」に対する欲望を刺激し、学問と市場をともに活気づける。だが、その欲望はひどく世俗的で、ときには反倫理的な「いかがわしさ」を潜ませてもいるのだ。こういう一切合財を含めたストーリーが、日本でももっと語られるとよいと思う。
ふくしま・りょうた
1981年、京都生まれ。文芸批評家。立教大学文学部准教授。著書に『神話が考える ネットワーク社会の文化論』、『復興文化論 日本的創造の系譜』(サントリー学芸賞受賞)。最新刊は『厄介な遺産 近代日本文学と演劇的想像力』(いずれも青土社)。REALKYOTOに「香港デモ見聞録」を寄稿。また、渡部直己との対談「高熱の京都 テクスト論から少し離れて」、福永信との対談「クロスインタビュー 普通の会話 —『厄介な遺産 近代日本文学と演劇的想像力』と『小説の家』を前にして」を行っている。
(2018年2月7日公開)