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セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』
文:真部優子

2018.11.06
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セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』
2018年 ロームシアター京都
撮影:松見拓也


真部優子

クラシックバレエにおいて、トゥシューズの使用は19世紀前半のロマン主義全盛時代に端を発する。それはロマン主義文学においてしばしば描かれた女性の妖精、つまりこの世のものではない存在を表現するため、薄くふんわりとしたチュチュと共に生み出された。それ以降、つま先のみで全身を支えるトゥシューズは、より上方へと伸び上がるための道具であるとともに、はかなさや美しさといったイメージをまとってきた。

さて、それからおよそ200年の時を経てのセシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョーの『DUB LOVE』である。ダブはジャマイカ発祥の音楽であり、ジャマイカやヨーロッパでは、野外で大音量のダブを流し、大勢の人が思い思いに踊るイベントも多くあるという。今作では舞台の端にDJがいて、舞台後方には高さ、幅ともに3メートルはあろうかと思われる巨大なスピーカーが設置されている。

冒頭、暗闇の中で身体を圧倒するような大音量のダブが流れ、静かに1人のダンサーが登場する。ダンサーはポワント(トゥシューズを履いてつま先立ちすること)で立ったまま、腰を落として膝を60°程に曲げ、その不安定な姿勢を数分間保ちながら、ぴんと伸ばした腕をゆっくりと動かす。そして1人ずつ他のダンサーが登場し、少し膝を曲げた前傾姿勢で膝の上に手を置いてポワントで歩くといった奇妙な動きをする。
 
 
端的に言って、どちらもクラシックバレエではありえない姿勢である。ポワントで立つときは基本的に膝は真っ直ぐに伸びていて、腕は常に優美なカーブを描いていなければならない。さらに言えば、クラシックバレエにおいてはポワントで立ったときに、足の甲が少し前方にせり出しているのが美しいとされる。しかし、今作のダンサーたちの甲は出ているとは言い難く、足を床に突き刺しているかのような力強い印象を与える。その後も、ポワントで立ったまましゃがみこんで移動するといった、そもそものトゥシューズの目的「より上方へと伸び上がること」を大胆に無視した動きが続く。しかも、そのどれもがダンサーの身体に過度な負担をかけそうな動きばかりである。ベンゴレア&シェニョーにとって、トゥシューズはかつてのように美しさを追求するためのものではないのだろう。彼らにとってのトゥシューズは、おそらく人間の身体に新たな可能性をもたらしてくれる手段に過ぎず、ダンサーの身体はそのための実験台である。

もう一点、トゥシューズに関して特筆すべきは、女性1名と男性2名のダンサー全員がそれを履いているという点である。20世紀に入っても、基本的にはトゥシューズは女性のダンサーの特権であった。(コンテンポラリーバレエの巨匠ウィリアム・フォーサイスの作品においても、トゥシューズを履くのは女性だけだ。)そして衣装は、3人とも腕にスパンコールによる若干の装飾があるものの、ベージュのシンプルなレオタード姿である。これによって、「力強く跳躍し、バレリーナを支える男性ダンサー」と「チュチュをまとって、トゥシューズではかなげに舞うバレリーナ」というバレエにおける古典的なジェンダー規範は撹乱される。

しかし、このようなジェンダー規範の無効化は、現代舞踊の世界では珍しいものではない。むしろ、現代舞踊において「男らしさ」「女らしさ」が表象される場合、大方それは批判の対象として引用される。(例えば、ピナ・バウシュやローザスのように。)では、ベンゴレア&シェニョーの作品をジェンダー的観点からみた場合の特異点は何か。先ほどダンサーは男性2名と述べたが、そのうちの1人、シェニョー本人は、メイクを施した中性的な顔立ちに、すらりとした体つきで、こう言ってよければ「クィア的な」身体を有している。もう一人の男性ダンサーと女性ダンサーも、いわゆる「男らしい」あるいは「女らしい」身体を有するわけではない。この3人が全員同じレオタードを着て、トゥシューズを履いて踊る今作において、もはや二元論的な性別という概念はない。そこにあるのは逸脱したトゥシューズの使用によって、酷使される身体のみである。
 
 
公演を未見の方は「中性的なダンサー」というと、モーリス・ベジャール振付の『ボレロ』を踊ったことで知られるジョルジュ・ドンを想起されるかもしれない。しかし、ドンの身体や放つ雰囲気が両性具有的であることによって、彼を“始原的、神話的”な存在感を放つダンサーであると表現するとすれば、今作のシェニョーはかなり趣を異にする。例えば、今作には驚くべきことに、3人のダンサーが順にマイクを握って歌う場面がある。そこで暗がりの中、大音量のダブに合わせて咆哮するシェニョーは、腕のスパンコールを妖しげにきらめかせながら、観客を睨みつけるかのように鋭い眼光で一瞥する。その様は攻撃的でありながら、彼の「クィア的な」身体が放つ強烈なエロチシズムはあまりにも蠱惑的である。
 
 
尼ヶ崎彬によれば、現代舞踊において「エロチシズム」を真っ向から扱うことは少なく、扱うと反動的にすら見える。ジェンダーの差異が強調されないということは先述した通りである。一方、それ以前の「ジェンダーの制度としてのエロチシズム」が存在していた時代には、エロチックな身体は性的対象としての「異性」の理想を体現したものでなければならなかった。例えば、まさしくトゥシューズの生まれたころに人気のあった演目『ジゼル』(もちろん今でも盛んに上演されているが)のヒロインの衣装や身体は、フランスのブルジョア男性にとって最も魅力的な異性像であったということだ。しかし20世紀に入ると、19世紀までは「芸術」の一分野として認められていなかった舞踊は現代芸術の仲間入りを果たすべく、そこにおける規範に従った。そうした中で官能的身体あるいは「エロチシズム」というものは、モダンダンスにおいて否定され、今日の現代舞踊に至るというわけだ。

このように考えると、シェニョーの「クィア的」な身体は、既存のジェンダーの制度を撹乱するものでありながら、現代舞踊がジェンダーの差異を無効化しようとするあまりに切り捨てざるを得なかった「エロチシズム」を取り戻そうとするものだと言えるだろう。ベンゴレア&シェニョーの試みは、クラシックバレエからは逸脱したトゥシューズの使い方やダブ、歌唱といった要素によって、「バレエ/そうでないもの」の境界を、そして「クィア的な」身体によって「男/女」の境界を軽やかに飛び越えていく。その力強いトゥシューズが次に向かう先には、いかなる新たな世界が切り開かれていくのであろうか。

 

〈参考文献〉
桜井圭介、いとうせいこう、押切伸一『西麻布ダンス教室‐舞踊鑑賞の手引き』白水社、1998
尼ヶ崎彬『ダンス・クリティーク‐舞踊の現在/舞踊の身体』勁草書房、2004

 
まなべ・ゆうこ
京都大学総合人間学部在籍。現代美術や映画、現代演劇、コンテンポラリーダンス、音楽、現代文学など、ジャンルを問わず、現在の表現行為に対して批評をしていきたい。

 

画像提供:KYOTO EXPERIMENT事務局

 


セシリア・ベンゴレア&フランソワ・シェニョー『DUB LOVE』は、2018年10月18日・19日・20日に、ロームシアター京都 ノースホールで日本初演されました(主催:KYOTO EXPERIMENT)。

(2018年11月6日公開)