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ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』
文:真部優子

2019.08.28
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photographs by Julian Moment


真部優子

「西欧とは、まさに身体のオブセッション以外のなにものでもないのかもしれない」1
小林康夫はジャン=リュック・ナンシーを引きつつ、こう述べている。
本作『THE GREAT TAMER』の冒頭シーンは、あたかもその疑念に答えるかのようだ。

横たわる裸体。
それを隠すように被せられる白い布。
布が風で吹き飛び、再び露わになる裸体。


これが五、六回は繰り返されただろうか。身体、とりわけ裸体に対する欲望は、たとえ抑圧されようと、決して封じられることはない。布で覆われた身体は必ず露出される。西欧文化の核心を、これほど簡潔に表現したものはないだろう。

photographs by Julian Moment


そこから90分にわたって、本作はこれでもかと言わんばかりに、西欧文化の身体イメージを実演してみせる。ルネサンス以降の西欧文化が、古代ギリシャ的な肉体への憧憬と、キリスト教の身体への禁欲的な態度の二つによってかたちづくられたものだとすると、本作には一見、前者のギリシャ神話的な雰囲気が濃厚だ。例えば、舞台に設置された水辺にかがみこみ、自らを映す美青年はナルキッソス、頭に巨大な円形の飾りを付けた女性は官能的な女神。また、レンブラントの解剖学講義の様子を描いた作品を想起させるシーンでは、あろうことか取り出した臓器を皆で食べてしまう。これは、我が子を食らったサトゥルヌスや原始の神々に食べられたディオニュソスを連想させる。一方で、どこか「最後の晩餐」を思わせるその食事シーンは、聖体拝領というもう一つのカニバリズムにも通じている。本作で見逃してはならないのは、身体への欲望を抑圧してきたはずのキリスト教にも、このような身体イメージが溢れているという事実ではないだろうか。

photographs by Julian Moment


一般にキリスト教は肉体よりも霊魂を尊び、身体を蔑視するとされる。しかし岡田温司も述べるように、受難、磔刑、復活という出来事がキリスト伝のクライマックスをなすこの宗教は、身体をめぐるイメージこそがその根幹にあるのだと言うこともできる2。本作にも、そういったキリスト教的モチーフが散見される。例えば、スティルト(西洋竹馬)をつけた男性が棒によって腕を水平に固定されるとき、それはあからさまに磔にされたキリストを連想させる。相手のわき腹に執拗に指をねじ込もうとする様は、キリストの復活を信じられず、その傷口に指を差し入れようとした聖トマスのエピソードを想起させる。また、身体をめがけて飛んでくる無数の矢は聖セバスチャンを、恥らいながら立つ裸体の男性はアダムを、と枚挙にいとまがない。身体に対して禁欲的なキリスト教が、その一方でどれほど身体に執着してきたかということが、生身のパフォーマンスによって暗に示されるのである。

photographs by Julian Moment


そうした身体のオブセッションは過去のものではない。本作に繰り返し現れる宇宙飛行士は現代人の身体への執着を仄めかすものかもしれない。宇宙飛行士の姿とは、ロケットや人工衛星の打ち上げでは飽き足らず、何としてもこの身体をもってして宇宙空間に飛び出したいという欲望の具現化である。一方で、本作の宇宙飛行士は突如、宇宙服を脱いで生身の身体を晒し、授乳を行おうとする。頑丈な宇宙服に守られていた青白い裸体の、その脆弱さ。宇宙空間になど決して耐えることのできないその脆弱な身体こそが、人類の生の営みを支えてきたのだと気付かされる。

また、本作では床の上に重ねられた薄い板が剥がされることによって身体が現れたり、革靴の底にびっしりと根が生えていたりと、人間の身体と結びついた「大地」も大きなテーマとなっている。冒頭で引いた小林康夫は、身体と「大地」の関係についても考察しており、メルロ=ポンティの「世界と身体が同じ生地で練り上げられている」というテーゼを引きつつ、宇宙飛行士が体験するような暗黒の宇宙空間では、このようなテーゼは成立しないと述べる。だからこそ、「大地」とはただ地球のことを指すのではなく、私たちの身体をその同じ「生地」で仕上げているような基体にほかならないのだと指摘する3。莫大な資金をつぎ込んでまで宇宙に旅立とうとするのは、あえて「大地」から身体を引き離すことによって、身体が「大地」に根差したものであることを確認したいからなのかもしれない。

photographs by Julian Moment


上述したような宇宙飛行士や「大地」といったテーマからみえる身体への執着は、西欧文化に限ったものではないが、本作の大きなベースとなっているのは、やはり西欧文化における身体の表象への関心であろう。「ギリシャ人である私は、西欧文化の中心にいるのですから」とビジュアル・演出のディミトリス・パパイオアヌーが語るように4、本作は西欧文化への自己言及的な作品だと言える。本作の「美しい」身体を持つパフォーマーたちが一人残らず白人なのも、その是非はさておき、当然と言えば当然だ。

しかし、本作がただの西欧文化礼賛に陥らないのは、減速された『美しく青きドナウ』のおかげと言えるだろう。パパイオアヌーは、引き伸ばされてもその続きは誰もが知っている「世界一ありふれた」この曲に、「一種の皮肉」をこめたと語る。本作で繰り広げられる西欧の身体へのオブセッションは「ありふれた」楽曲によって相対化され、その奇妙なまでの執着ぶりはもはや面白おかしいものに映る。『THE GREAT TAMER』、つまり「偉大なる調教師」は時間のことを指すそうだが、これもパパイオアヌーなりの皮肉なのだろうか。西欧は今も昔も変わることなく、身体に取り憑かれ続けている。

 

1 小林康夫『身体と空間』、筑摩書房、1995年、p. 10
2 岡田温司『キリストの身体 血と肉と愛の傷』、中公新書、2009年
3 小林康夫『表象の光学』、未來社、2003年
4 以下、ディミトリスの発言は本公演パンフレットに掲載されているインタビューより



photographs by Julian Moment


 
まなべ・ゆうこ
京都大学総合人間学部在籍。現代美術や映画、現代演劇、コンテンポラリーダンス、音楽、現代文学など、ジャンルを問わず、現在の表現行為に対して批評をしていきたい。

(2019年8月29日公開)

画像提供:ロームシアター京都
 


ディミトリス・パパイオアヌー『THE GREAT TAMER』 は2019年7月5日〜6日にロームシアター京都 サウスホールにて上演されました。