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「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」豊田編
文:福永 信

2019.10.10
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福永信

河村たかし名古屋市長があいちトリエンナーレのメイン会場である愛知芸術文化センターの外でプラカードを手に座り込みをした。これに関して、私は極めて残念に思う者である。なぜなら彼は座る場所を間違えているからであり、腰を下ろすのはその場所ではなく、むろん県庁前でもなく、同じあいちトリエンナーレ出品作小田原のどか《↓(1923−1951)》の上に彼は座るべきだったのである。作者は望んでないかもしれないが、河村は、実在する野外彫像の「台座」のみを再現したその作品に登って座り込みをすべきだったのである。この台座の「本物」は戦時下の東京、帝国陸軍の拠点付近に建設されたもので、当時は寺内元帥騎馬像のブロンズ像がその上で勇ましい姿で見下ろしていた。それが戦時中に金属供出であっさり消え、戦後数年を経た1951年、新たにまったく逆のコンセプトであるはずの、平和の群像と題された女性裸体像にすげ替えられた。作品タイトルはこの事実を示したものである(会場でもらえるハンドアウトに作者による詳細解説あり。もしくは小田原のどか「彫刻を見よ-公共空間の女性裸体像をめぐって」などを参照)。今回の展覧会で「台座」は公園に設置され、観客はその上に実際に登ることができる。最初は見るだけの予定だったらしいが、公園の遊具と極めて相性が良く、仮設の階段を設置し、誰もが彫刻を体験できるという、ユーモラスな仕掛けになった。彫刻にとって台座とは何か、という問いは、作品にとって美術館とは何か、と同じであり、このトリエンナーレはかつてないほど多くの「美術館とは何か」という議論を呼んでいるが、そのことを考える上でも、本作は極めて重要である。名古屋市長としてはアウェイだが、あいちトリエンナーレ実行委員会会長代行としての河村は、この上に座ることで、大いに奮起するものがあるのではないか。名古屋の方を向いて座ることができるし、そもそも、この「台座」のオリジナルは皇居の方を向いているのであり、河村にとって一石二鳥ということもできる。そして何より端的に、彼には台座の上がお似合いだと私は思う。

実際に登ってみると、見上げていたよりも高く感じ、心地よくもあるが、気恥ずかしくも感じる。しかしながら、河村はそんなことをあれこれ感じる必要はない。与党や野党を自在に渡り歩いてきた複雑な政治思想の実践者として、河村は、表現の自由を守るべき政治家という職業に就きながら、表現の自由を守るために抗議していた作家らが全作品展示を再開するあいちトリエンナーレへ抗議するというアポリアに立ち向かえばいい。会場外での座り込みなどという「分かりやすい」場所は彼には似合わないし、そもそも素通りされてしまう。そんなヤワな場所ではダメだ。私はニュース映像で見たのだがあんな場所での座り込みなど、おじいさんが仲間達と休んでいるだけにしか見えないではないか。しかも、時間が短い。ますます「おじいさんが散歩の途中でひと休みしている」ことにリアリティを与えるだけであり、なんというか、国民として恥ずかしい。だから彼の支持者は、河村、ここじゃないと、電車に乗って約50分、豊田市駅近くの新とよパーク内に設置されている小田原さんの出品作の上だよ、と進言すべきだった。そして、豊田市駅に着いたなら、「台座」作品へ向かう前に、ちょっとこっちも寄ってみよと、駅の中にある展示スペースへと彼を導くべきだったのである。そこもあいちトリエンナーレの会場のひとつであり、彼女の作品が2か所、並んだフロアで展示されている。一方は資料性の強い展示、もう一方はよりインスタレーション度の高い作品だが、両方とも、歴史に突き刺さったまま置き去りにされかねない問題をアートならではの力で可視化したものである。

特に前者の展示は、河村は忘れず立ち寄るべきだと思う。というのは「テロ予告ファックス」「脅迫電話」等がもたらした一連のあいちトリエンナーレ出品作の展示中止に呼応し、小田原作品も作者によって自主的に一部「撤去」したからだ。小田原は、展示場のステートメントで端的に示しているが、作品を展示しないことで不可視の状態にすることを選んだ。展示をし続けることで抵抗するのではなく、いったん引っ込めることで「ない」ことを強調する。作品が「ない」ことは台座の上の彫像の不在ぶりを際立たせるだろう。ちなみに、新とよパーク内のこの台座作品は、トリエンナーレのスタッフ達が安全を見てくれているから、高いところが苦手でも不安はない。しかし、四方から監視カメラが目を光らせており、夜によじ登ったりしたらお巡りさんがやってくることになっているので気をつける必要がある。すでに人気のスポット感も出ており、あまりおじいさんが陣取っていたら下から我が子の写真を撮ろうとしている親に怒られるかもしれないが、持ち前のずうずうしさでぜひ何時間でも座り込みをしてほしい。監視カメラによって次世代の観客にも市長の勇ましい姿を残すことができる。もっとも、10月といっても暑く、座り込みはこれ以上できない、あんたわしを殺す気かというなら、私は、河村こっちだよと、彼をゆっくりと台座から降ろし、そこからやはり遠からずの喜楽亭に誘うだろう。「え? 料亭?」と、やや心がざわつくかもしれないが、そこは昔、旅館料理屋だった場所で、ホー・ツーニェン《旅館アポリア》の展示場所である。アポリア好きの彼なら喜ぶに違いないと思ったのだが、会期も迫っているこの時期、多くの観客が訪れて並んでいるはずである。12分単位の映像、音響など、7本のセットでひとつの作品を構成しており、傑作であるが、回転率を上げるために観客は10数名ごとにまとめて移動し、見るように促されるわけで、会場内は慌ただしく、とてもじゃないが座り込みには適さない場所かもしれない。したがってこのレポートでも後で読んでもらうことにして、私は、旧豊田東高校の、大木の木陰のような場所に彼を案内するつもりだ。

高嶺格《反歌:見上げたる 空を悲しも その色に 染まり果てにき 我ならぬまで》あいちトリエンナーレ2019


高嶺格の作品《反歌:見上げたる 空を悲しも その色に 染まり果てにき 我ならぬまで》であるが、今回のあいちトリエンナーレでも評判の高いものだ。私は思うのだが、国際芸術祭というのは移動が大変だ。好きな作家だけを選んで回るつもりが映像作品ばかりであわれ時間切れとなってしまうことがある。もし友達やカップル、子供連れ、あるいは座り込みを数分で切り上げるようなせっかちな男などと一緒に芸術祭を回る場合、映像作品や資料展示ばかりが続くと、結構困るものである。仲違いの原因になったりしかねない。しかし、この高嶺の作品のような、一発でわかる豪快なものだったら、サッと切り上げられる。作者に、忙しんだろ、先、急げよと言われている気もして、これまた気恥ずかしくもあるのだが、芸術祭の観客の切実な現実ではある。むろん、帰りの電車の中や車の中で、つまりおしゃべりの中で、言葉として、高嶺の作品は復活し、その場にいたよりも長く、話題にのぼり、会期が終わってもずっと記憶に残るかもしれない。そうなったら面白い。ところでこの作品の裏側は心地よい日陰でいいけれども、ここで座り込みをしても、ただおじいさんが涼んでいるだけのようにしか見えないじゃないかと、さっきまでうつらうつらしていた河村がふと目覚め、不服を申し述べるかもしれない。不満を率直に言うのが彼の魅力ではある。私は、それならこっちだよと、彼を豊田市美術館へと、連れて行くだろう。

豊田市美術館の展示は、彼が昨日座り込みをしてしまった愛知芸術文化センターよりも出品点数も作家の数も少ないが、コンパクトな展示で、観客の目線、流れも良く考え抜かれ充実している。今回の「検閲」に伴い、展示再構成をしている作家(レニエール・レイバ・ノボ)もいるが、そんな状況でも視覚的な配慮というか、さすがビジュアルの世界で仕事をしているのがアーティストというものだなと、そのスマートな展示に感心する者も多いだろう。立体作品は黒く覆われ、展示平面作品はあいちトリエンナーレ関連の新聞報道記事で梱包されて、見られない。が、我々観客は、ここでも「読者」になって、すでに忘れかけているかもしれない、8月上旬からの報道の数々を読んでいくことになる。むろん河村の記事もあり、自尊心をくすぐりかねず、自分はここに座りたいと主張するかもしれないが、私は、いや、こっちだ、と彼を会場入り口付近へと引き戻すつもりだ。もっとも、彼が座り込みをするということは、すべての展示が再開しているわけで、もう新聞などで覆われた状態は、解除されているだろうが、ともかく、ここじゃない、こっちだと、彼を急き立てながら入り口へと戻っていくわけだが、あれ、そんなところに作品なんてあったっけ、と河村は言うかもしれない。あるんだよ、お前さんの目には見えないだろうが、と私が愛情を込めて意地悪風に述べて、引っ張っていく。そして、ほら、ここに座るんだ、と彼の背中を押す。

シール・フロイヤー《Fallen Star》
あいちトリエンナーレ2019


このシール・フロイヤーの作品《Fallen Star》もさっきの高嶺作品と同様、我々を見上げさせるのであるが、インドア派の彼女の作品の目線はすぐに天井にぶつかり、床に落ちる。床に落ちた視線が見つけるのが、小さな光の星である。まるで五七五の俳句のような構造の作品であり、確かに3点に区切られてはいるが、大事なのは、それを結ぶ我々観客の立体的な視点である。まるで星座のように、スライドプロジェクター・天井の小さな鏡・床の上の光の星、と観客の視線が空間を繋ぎ合わせる。見えない空間を、自分の目で結ぶことで、その都度しっかりと自分なりに把握する。それがこの作品のすごさであり、小田原作品とも通じ合う、「ない」ものを見ようとする目の豊かさと出会う瞬間である。「ある」ものしか見えない河村の目が、もっとも欲しているものが、その視点なのだから、河村には本作を見ながらぜひ何時間でも座り込みをしてもらおう。

(2019年10月10日公開)

 
【2019年10月10日追記】
小田原のどかさんの新とよパーク作品は、もともとの構想から観客が登れるものだったとのこと、豊田市美術館からご指摘いただきました。文中の福永の間違いはそのまま残しておきますが、この追記が情報としては正しいですのでご注意ください。

 
ふくなが・しん
1972年、東京生まれ。小説集に『星座から見た地球』(2010)、『一一一一一』(2011)、『実在の娘達』(2018)など。編著として、子供のための現代美術のアンソロジー『こんにちは美術』(2012)、短編小説とビジュアル表現のアンソロジー『小説の家』(2016)がある。最新作は執筆・構成を担当した図録『絵本原画ニャー! 猫が歩く絵本の世界』(2019)。

 


〈展覧会情報〉
「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」
 2019年8月1日[木]-10月14日[日] 名古屋市と豊田市の4つのエリアにて開催
 会場情報