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ホー・ツーニェン「旅館アポリア」
文:小崎哲哉

2019.09.06
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あいちトリエンナーレ2019の展示風景
ホー・ツーニェン《旅館アポリア》2019
Photo: Takeshi Hirabayashi


小崎哲哉

あいちトリエンナーレ2019をめぐる言説は、いまのところ「表現の不自由展・その後」の中止騒動に集中している。当然と言えば当然だし、ほかならぬ僕自身もいくつかの媒体にコメントや文章を寄せた。だが、本来であれば個々のコンテンツや全体についてのレビューがもっとなければおかしい。豊田市での展示をまだ観ていない福永信さんが寄稿で触れていないこともあり、今回、(高嶺格の「規格外」の作品を除いて)最も素晴らしいと思った作品についてのレビューを書いた。ホー・ツーニェンの「旅館アポリア」である。

               
特攻隊の物語

ホー・ツーニェンの「旅館アポリア」(2019年。豊田市内・喜楽亭)は、大正期に建てられ、その後、現在の場所に復元移築された元・料理旅館を舞台とする力作である。2011年にシンガポール代表としてヴェネツィア・ビエンナーレに出展したホーは、近現代史のリサーチに基づいて作品をつくることで知られている。アウトプットは映像や演劇になることが多いが、今回は展示場所自体の歴史を生かしたサイトスペシフィックな映像インスタレーションを見せてくれた。

インスタレーションが施されたのは、調度の細部にまで意匠が凝らされた、つまりは建築と内装にべらぼうな金額を使ったとおぼしき歴史的木造建築物のすべての座敷である。展示は1階と2階の計4ヶ所に分けられ、一ノ間から四ノ間と名付けられた空間を順に訪れて体験する。一ノ間は「波」、二ノ間は「風」、三ノ間は「虚無」、四ノ間は「子どもたち」と題され、映像、テキスト、音声、照明、そして振動によって特攻隊の物語が語られる。正確に言えば、特攻隊を中心とする大東亜戦争(太平洋戦争)の物語だ。

八畳間の一ノ間にはスクリーンがひとつ。物語を進めてゆくのは、そこに投影されるテキストとサウンドである。「Dear Tzu,」「Dear Yoko,」「Dear Tomo,」「Dear Kazue,」などといった呼びかけによって、テキストが作家と制作スタッフ間のEメールを引き写したものだとわかる。テキストが投影されるときの背景は、小津安二郎の映画のタイトルバックに使われる麻の布。実際には膨大なやり取りのほんの一部だろうが、うまく選択・編集されていて、観る者は一気に引き込まれる。

画面にはカメラ目線の女優が数人、連続してクローズアップで映し出される。画像処理によって顔が塗りつぶされていて誰だかすぐにはわからないが、体格や顔の輪郭から、小津映画の常連である東山千栄子、原節子、杉村春子あたりだろうと見当は付く。周知のように、小津は1937年に応召し、1年10ヶ月間、一下士官として中国戦線に従軍した。1943年には軍報道部映画班に徴集されてシンガポールに向かい、インド独立の運動家チャンドラ・ボースの映画をつくる予定だったが果たせず、現地で終戦を迎えている。戦前も戦後も、いわゆる戦争映画は1本も手がけず、生涯を通じて家族の物語を撮り続けた。
女優たちの映像に合わせて、スタッフが探し出してきた喜楽亭の元女将のインタビューが読み上げられる。女将は昭和3(1928)年、この店に19歳で嫁入りしてきた。明治42(1909)年生まれというから杉村春子の3歳年下だ。

トヨタの街として知られる豊田市は、戦前は養蚕・製糸業で、戦中・戦後はもちろん自動車産業で賑わった。喜楽亭は繁盛を極め、二・二六事件で射殺された高橋是清蔵相や、昭和天皇の弟で兄に戦争反対を進言した高松宮宣仁親王が宿泊したこともあったという。現在の豊田市、岡崎市、安城市に当たる愛知県碧海郡矢作町・上郷村には戦中に海軍の航空隊が設置され、海軍関係者が多数来店した。女将によれば、客は「戦時中は海軍さん、戦後はトヨタさん」。海軍さんは「威勢のいい方たちばかり」で気を使ったが「金払いのいい方たちばかり」でもあったという。

「波」と題されるだけあって、一ノ間のスクリーンには波の映像もたくさん映される。由比ヶ浜や江ノ島など、やはり小津映画からの引用だ。波に乗るイルカや、波間を飛ぶカモメのアニメ映像もある。こちらは、漫画家の横山隆一が戦時中につくった(つくらされた?)プロパガンダ映画『フクチャンの潜水艦』(1944年)から。その合間に「大島メモ」について調べてほしいという趣旨の、ホーからスタッフへのメールが表示される。

「大島メモ」とは何かについては後述する。簡単に言えば、あの時代に作成された、戦争、すなわちこの作品の主題に、深くかかわるメモである。「波」には現実の海の波ばかりでなく、景気の波や時代の波も含意されているのだろう。波の音を模したサウンドは徐々に大きくなり、最後には建具を揺らすまでになる。

 
「同期の桜」と「海行かば」

二ノ間は「風」。手前は八畳間、奥は六畳間。ふたつの部屋は障子の高さのスクリーンで仕切られ、表裏両面に違う映像が映される。観客がまず観ることになる手前のスクリーンには、「Dear Tzu,」という書き出しの後、喜楽亭の女将が語った内容がテキストとナレーションで再現される。豊田市には民間と軍の共用飛行場があり、そこから特攻隊員(神風特別攻撃隊草薙隊)が、鹿児島県国分基地を経由して沖縄方面に飛び立った。三次にわたる特攻で63名の若者が戦死したが、出陣前に最後の宴を囲んだのが、ここ喜楽亭だった。
 
ここでも小津の映画から、さまざまな場面が引用される。女たちが床を延べ、電灯を消して就寝する。男たちが座り込み、単行本や文庫本を読む。『晩春』からは、笠智衆がフリードリヒ・ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』の原書を手に取るカット。原節子が演じる父親思いの娘がようやく嫁ぐことを承諾し、結婚前に親子がふたりで京都に旅して同じ部屋に泊まった翌朝、旅館で帰り支度をする最後の場面である。

『父ありき』や『秋刀魚の味』からの引用もある。男たちが喜楽亭のような料亭で酒宴に興じる場面だが、一ノ間で映し出された俳優たちと同様に、笠智衆、北竜二、中村伸郎、佐分利信らは、いずれも顔をのっぺらぼうにされている。宴もたけなわ、男たちは手拍子を取りながら声を揃えて歌い出す。

映像に重ねられるのは悲壮なメロディーだ。「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ 国のため」に始まり、「離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」で終わる軍歌「同期の桜」である。戦争末期に陸海軍を問わず大流行したというから、74年前に、まさにこの場所で出撃前の特攻隊員たちが歌ったに違いない。スピーカーからは複数の声が流れ出てきて、三島由紀夫の読者であれば、二・二六事件の首謀者や特攻隊員たちの霊が大勢で「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と昭和天皇に対して呪詛の声を上げる「英霊の聲」を連想するかもしれない。別のシーンでは、万葉集に収められた大伴家持の長歌に由来する「海行かば」が紹介される。「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじ……」。この歌も最後の宴で合唱されたことだろう。

続いて第二次草薙隊隊員の名簿が示される。昭和20年4月12日出撃。名前と階級の下に「消息不明」「負傷帰還」「編成外」などの記述が若干数あるが、圧倒的に多いのは「散華」である。画面にはその後、『東京物語』の洗濯物、『麦秋』の鯉のぼり、『一人息子』の「とんかつ」と書かれた幟など、風に揺れるものが映される。そして4月13日に出撃した第三次草薙隊の宮内栄が、両親に最後に書いた手紙が読み上げられる。

「父上様、母上様、栄はこれから出撃します。(中略)近くの山に咲く桜花は栄の立派な生まれ変わった姿です。幼くして出郷する時、母上から受けた教訓は立派に実行してきました。酒と女でしたね。今まで酒は少しやりましたが女は全然知りませんでした。今となっては何も思ひ残すことはありません。只日本の必勝のみであります。(中略)折がありましたら靖国神社で待っておりますから面会に来てください。土産物はいりません。沖縄が私の最後の場所です。昨晩最後の夢を挙母町のきらく亭で見ましたが、やはり父上様と母上様の夢でした。くだらないことを書いて全く女々しい様ですがお許しください。では皆々様の御健康を祈って出撃します。昭和二十年四月十三日 栄より」

スクリーンには、風に吹かれる野原や、山や、刈り取られた後の田んぼの映像が映っている。風の音が次第に大きくなり、プロペラ音のような轟音へクレッシェンドしていく。轟音は襖などの建具を揺らし、観客の体内にも振動が伝わってくる……。

スクリーンの裏側に当たる奥の六畳間でも「同期の桜」が歌われ、今度は第一次草薙隊の集合写真が示される。約40名。真ん中に座っている地上指揮官のみ大尉で、出撃した隊員は二飛曹から中尉まで。「散華」後に特進した後の階級なのかどうかはわからなかったが、隊員は当然ながら一様に若く、年かさの士官たちとの対照が悲しく感じられる。

ホーはファウンドフォトや映画のフッテージを巧みに編集して、物語に重層的で複雑なレイヤーを盛り込む手法を自家薬籠中のものとしている。制作事情や背景がまったく異なる映像を視覚的な共通性でつないでゆく手法である。一ノ間では波、二ノ間では風。ここでは、薬罐の湯気から蚊取り線香、家庭の焼却炉から工場の煙突、小さな蒸気船から蒸気機関車に至るまでの煙の映像がテンポよく接続される(言うまでもなく、煙もまた、風を可視化する装置のひとつである)。そして、鎌倉時代の絵巻物「蒙古襲来絵詞」が映し出され、スタッフがホーに、元寇の折に吹き、特攻隊の名称となった神風について説明する。

さらに、今度はホーからのメール。「親愛なるトモ、KAMIKAZE号のことを知っているだろうか」という書き出しである。その後に映し出される写真は、飯沼正明と愛機「神風号」。1937年に、記録的な速度で東京・ロンドン間飛行を成功させたパイロットと飛行機だ。神風号のプロペラは、羽根が1枚、地面に対して垂直の位置で停止している。飯沼はそのすぐ横に立っているから、長い軍刀を構えているように見える。このときには、10年も経たない内に愛機と同じ名が特攻隊に付けられることなど思いもよらなかっただろう。ホーが調べたところによると、飯沼は1941年、仏領インドシナはプノンペンの飛行場にいたときに日米開戦の知らせを聞き、ショックのあまり滑走路に歩み出て、軍用機のプロペラに巻き込まれて亡くなったという。非業の死を、そして不幸な戦争を予言する不吉な写真と言えるかもしれない。

その後、またもや小津の映画から、からからと回る風向・風力計、鯉のぼり、揺れる葦簀、雲、天に上ってゆく風船などの映像が挿入される。山や野原にも風が吹く。風の音は大きくなり、プロペラ音のようになり、ついには轟音となって建具が大きく振動する。戦争末期の空襲時には、こんな風に家が揺れたのかもしれない。時代は曰く言い難い「風」に左右され、簡単に「虚無」の方向へ押し流されてしまいがちだ。それを身体的に感じさせる見事な構成だと思う。

 
京都学派と海軍の秘密会合

二階に上がって「虚無」と題される三ノ間に入っても、風のテーマは続いている。暗い八畳間の奥に直径1メートル半ほどの大きな送風機があって、観客に向かって風を送ってくる。間に障子はあるけれど、障子紙は貼られていない。風は桟越しに、というより桟しかない障子越しにこちらに向かって吹いてくる。

送風機の羽根は否応なしに「神風号」を、そしてプロペラに巻き込まれて死んだ飯沼正明を想い起こさせる。連想はもちろん、米軍の艦船に突っ込んで、あるいはその前に撃ち落とされたり操縦不能になって自ら墜落したりして亡くなった、神風特別攻撃隊草薙隊の若い隊員たちにも及ぶ。送風機の内部には照明が仕込まれているらしく、青い光が雷のように明滅し、それは米軍の艦船が張る弾幕にも、体当たり攻撃の瞬間にも思える。チェレンコフ光、つまり核分裂の際に発生する青い閃光も連想され、テクノロジー開発の最果てたる原発事故や核兵器にも思いが向かう。照明は最後にはオレンジ色に変わる。浄土の抽象的な表現だろうか。

低い声のナレーションが始まり、送風機の下に字幕が出る。西田幾多郎、田邊元、西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高、上田閑照ら京都学派に属する哲学者の固有名とともに、彼らの問題系、特に「虚無の問題」や「絶対無」が云々される。松尾芭蕉『奥の細道』の冒頭から「そぞろ神のものにつきて心をくるはせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず」という文章が引かれる。禅の思想に立脚して「空」の論理を主唱した西谷が、芭蕉への敬愛の念を込めて書いたものだ。谷崎潤一郎が床の間について「虚無の空間」と書いたくだりも取り上げられるが、これはもちろん名高い『陰翳礼讃』から取られたものだろう。曰く「もし隅々に作られている蔭を追い除けてしまったら、忽焉としてその床の間はたゞの空白に帰するのである。われらの祖先の天才は、虚無の空間を任意に遮蔽して自ら生ずる陰翳の世界に、いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである」。

作品のコンセプトからして当然だが、次のような文章も出てくる。

私はたとひ事実的にみて唯物史観を否定する力はないかも知れないが、然し人間の争ひの一切の根源は単に生産関係ではなく、人間がそれ自身として種的存在であるといふ事、その存在に於て縦と横の分極性、内と外との対立をもってゐるといふ事から出発するのだと思ふ。従って争ひは人間が種的存在として親から生れ結婚をなす限り、如何に労働階級が勝利を得ても尽きる事がないと思ふ。

即ち人間が人間である限り、争ひは避け得ないのであって、唯物史観の如く生産関係に於ける労働者の勝利を以て争ひが終るとは考へられない。より根本的な時間構造それ自体の中に歴史の対立性、そこよりする人間の悲劇的宿命が見られる。一切の対立と闘争は人間の有限性より根源的に出発する。

所で行為に於て無が現れるとは如何なる事か、ヘーゲルは周知の如く「泳ぐ前に遊泳の術を学ぶ」といってカントを嘲ったが、泳ぎを学ばねば水に入れない。水に入らねば泳ぎは実地に学べない。前者は死を免れる事、後者は死ぬ事、故に死ぬ事を免れるために死ぬ、死ぬ前に死ぬといふ矛盾が泳ぎを学ぶ事の中にある。
その事が明かに示す如く我々が行為するといふ事は死前の死の立場で生きて働いてゐるといふ矛盾である。

故に社会の構造が時間的、歴史的だといふ事それ自体が既に悲劇性をもってゐるのである。而してかかる社会の構造の底には存在の面、種の面で考へられない絶対の無の統一があるのである。この無の底から出てくるのが我々の行為である。かかる絶対の無に於て我々が種といふ有の存在を統一化し神の働きを行ずるものとしてそれを私は類と呼ぶのである。

先述した「大島メモ」から抜粋した、京都学派の重鎮、田邊元が秘密会合で行った講演の記録の一部である。「大島メモ」は近年(2001年)発見された画期的な史料で、田邊元の弟子、大島康正が記録したもの。京都学派を研究する哲学者の大橋良介によれば「昭和十七年(一九四二年)二月から二十年七月にかけて、つまりは太平洋戦争のほぼ全期間を通じて、『京都学派』の哲学者たちを中心とする京都大学の学者グループが、海軍の一部の要請と協力を受けて月に一、二度、時局を論ずるひそかな会合を重ねていた」際の記録であり、その会合は「海軍と連携しつつ陸軍の戦争方針を是正しようとする、体制内反体制ともいうべき際どい会合」だったという(大橋良介『京都学派と日本海軍 新史料「大島メモ」をめぐって』)。田邊による講演は、京都学派による「戦争協力」の証拠のひとつと言えるものだが、詳しくは後述する。

 
小津の墓に刻まれた「無」という文字

「子どもたち」と題された四ノ間は、連続する3つの八畳間が2枚のスクリーンで仕切られている。手前のスクリーンには例によって小津作品の引用映像が映し出される。中心となるのは『生まれてはみたけれど』。第1次上海事件が起こり、満州国建国が宣言され、血盟団事件で政財界の要人が殺された1932年に公開されたサイレント映画である。

主人公は小学生の兄弟ふたり。厳格な父親はサラリーマンで、兄弟は「うちのお父ちゃんは偉い」と尊敬している。ある日、兄弟は父親とともに同級生である太郎の家に招かれる。太郎の父親は兄弟の父親が勤める会社の重役で、自宅にテニスコートがあるような資産家だ。そこで上映されたホームムービーで、兄弟は父親が重役におべっかを使い、剽軽な真似をしてご機嫌を取る様を見て幻滅する。家に帰ってから兄弟は「お父ちゃんの弱虫、意氣地なし」と叫び、「大人になって太郎ちゃんの家来になる位だったら學校なんかやめだい」と言ってハンストを宣言する。母親が「お前たち、大きくなって、お父ちゃんより偉くなればいゝぢゃないの」と言って、おにぎりを運んでくる。空腹に堪えられず食べ始めたふたりに、父親が近づいていって一緒に食べる。父親が「お前は大きくなったらなんになるんだ」と聞くと、弟は「中将になるんだ」と返し、「どうして大将にならないんだ」と重ねて問われ、「兄ちゃんがなるんだからいけないって言ったよ」と答える。

映画の終盤で交わされるこの会話を念頭に、ホーはスタッフへのメールで「大人になったら軍人になりたいと言っていたあの子たちは、その後、実際に戦地に行ったのでしょうか」と問いかける。日中戦争が始まるのは映画公開から5年後、太平洋戦争は9年後。草薙隊など特攻隊が出撃するのは13年後のことだ。

ほかに引用されるのは『父ありき』(1942年)の中学校の同窓会で先生ふたりが乾杯の音頭を取るシーンや、『秋刀魚の味』(1962年)で、偶然再会した駆逐艦の元艦長と元乗組員が、「軍艦マーチ」の調べに乗せてバーで敬礼のポーズを取るシーンなど。後者では、元乗組員の加藤大介が狭いバーの店内を行進しながら「本日天気晴朗なれども波高し」と、1905年の日露戦争・日本海海戦の際に連合艦隊の旗艦「三笠」が大本営に向けて打電した電文を唱える。加藤はその前に、「ねえ艦長、どうして日本は負けたんですかね」と元艦長の笠智衆に尋ねている(笠は、しばらく経った後に「けど、負けてよかったじゃないか」と応じ、加藤も「うん、そうかもしれねえなあ」と答える)。言うまでもないことだが、日本海海戦は、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を打ち破り、「海戦史上稀に見る勝利」と謳われる戦いである。日本海軍の絶頂期を示す海戦だった。

四ノ間がほかの部屋と違うのは、2枚のスクリーンが紗幕であることだ。そして、加藤が「本日天気晴朗なれども〜」と言った瞬間に、奥にあるスクリーンに『フクチャンの潜水艦』の水兵が映し出されるのが透けて見える。「守るも攻むるも黒鐵の 浮かべる城ぞ頼みなる 浮かべるその城 日の本の 皇國の四方を守るべし 眞鐵のその艦 日の本に 仇なす國を攻めよかし」という歌に乗せるかのように、爆弾投下のシーンが続く。繰り返すが、笠智衆も加藤大介もフクちゃんも、顔はのっぺらぼうにされている。

さまざまな小津映画から墓を映したシーンが連続して引用される。列車と墓、墓地、カラスが上に留まっている仏塔、墓、墓、墓……。唐突に手持ちカメラで撮った墓地の映像が挿入される。カメラがパンして、「無」という文字だけが刻み込まれた墓碑がアップになる。北鎌倉は円覚寺にある小津の墓だ。墓前には、酒をこよなく愛した名監督のために、缶ビールやミニチュアのウイスキーボトルが供えられている。

間の八畳間を通り抜けて奥の八畳間に行く。こちらのスクリーンに映されるのは主に『フクチャンの潜水艦』の映像だ。ホーとスタッフのメールのやり取りから、作者の横山隆一が1941年に陸軍の報道班員としてジャワ(インドネシア)に派遣され、『ジャカルタ記』という書物を発表していることがわかる。絵と文章とで綴った滞在記で、序文をジャワ派遣軍宣伝報道部長だった町田敬二中佐が書いているという。中佐曰く「こん日では漫畫も戦力であり畫家もむろん戦士である」。

南洋を想わせる波が画面に出る。大空にカモメが飛ぶ。手前の八畳から「軍艦マーチ」の調べが聞こえ、先ほどとは逆に『フクチャン』の空に笠智衆と加藤大介の顔が浮かぶ。ふたつのスクリーンに映し出される映像は、厳密に同期している。潜水艦は波に翻弄され、その音は建具が揺れるほどに増幅され、画面を見る我々の体が揺さぶられる。水兵フクちゃんののっぺらぼうの顔が大写しにされ、その横に『生まれてはみたけれど』の、やはりのっぺらぼうの兄弟の顔が並ぶ。大人になった彼らは、潜水艦に乗っただろうか。

あいちトリエンナーレ2019の展示風景
ホー・ツーニェン《旅館アポリア》2019
Photo: Hiroshi Tanigawa


 
散華の思想を理論的に支えた京都学派

ある文芸評論家によれば、桜は古代には「女性の化身、至高の美そのもの」であり、「平安王朝に桜文化を開花させた」(小川和佑『桜と日本文化』)。だが江戸中期の1730年、国学者の本居宣長が自画像に寄せた讃「敷島の 大和心を 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花」が幕末の攘夷思想を経て明治維新以降の大日本帝国に受け継がれ、桜はナショナリズムの象徴となる。大君に身を捧げ、お国のために死ぬ散華の思想はここから始まった。1944年、初の特攻隊は「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられた。豊田の「草薙隊」の名は、現在熱田神宮に納められている三種の神器のひとつ「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」に由来する。花見に興じる現代人と熱田神宮を訪れる観光客の中で、どれほどの人がこの事実を知っているだろうか。

散華の思想を理論的に支えたのが、主に京都大学に在籍した京都学派の哲学者たちである。京都学派は主著『善の研究』(1911年)で知られる西田幾多郎と「種の論理」を唱えた田邊元を中心に、西洋と東洋の思想哲学を融合させようとしたグループ。メンバーには、先述した「京都学派四天王」と呼ばれる西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高らのほか、「左派」とされ、戦時中に治安維持法違反で逮捕・投獄されて獄中で死んだ三木清や戸坂潤らがいる。西田は同郷の仏教学者、鈴木大拙と肝胆相照らす仲で、「西田哲学」という名称が付けられるほどの独創的な思索によって、戦前・戦中に巨大な知性として称えられ、同時代に大きな影響を与えた。西田は終戦前に亡くなったが、左派を除く京都学派の多くは終戦後に公職から追放され、その哲学に触れることがタブー視される時期もあった。ひとことで言えば「戦争イデオローグ」と見なされたのである。

田邊は西田の弟子で、フライブルク大学でエトムント・フッサールに師事し、マルティン・ハイデガーとも交流した英才だ。西田哲学を批判したことで師との関係が微妙になったが、批判する際に、新プラトン主義との比較を行ったことで、西田哲学は世界水準と認められるようになったと言われている。数学専攻から哲学に転じたが、戦後はポール・ヴァレリーやステファヌ・マラルメについて論じるなど、幅広い執筆活動を行った。

前述したように、太平洋戦争が始まってから、田邊を初めとする京都学派の学者の一部は海軍に請われて秘密会合に出席していた。そもそも京都学派は「歴史は一元的なものではない」とする「世界史の哲学」を提唱していて、それが反国体思想であるとして陸軍皇道派に攻撃されていた。「世界史の哲学」とは、今日的な言い方をすればある種の文化相対主義あるいは文化多元主義である。京都学派にとっては、大東亜共栄圏と太平洋戦争を文化相対主義的な視点から哲学的・史的に位置づけることが、当時の学問的な使命だった。

日清・日露戦争以来といわれる大日本帝国陸軍と海軍の不仲説、いわゆる「陸軍悪玉論・海軍善玉論」は、これを認めない論者も存在する。だが、両者にある種の緊張関係があったことは否定できない。太平洋戦争でも、開戦当初から陸軍は戦線拡大論、海軍は縮小論に立っていた。長期決戦論と短期決戦論という違いもあった。連合艦隊司令長官、海軍大臣を歴任し、1940年に総理大臣の職に就いた米内光政は日独伊三国同盟と対米開戦には消極的だったが、組閣後わずか半年で、陸軍による露骨な倒閣運動のために内閣総辞職に追い込まれた。米内の後、近衛文麿を経て首相の座に就いたのが、近衛内閣の陸軍大臣であった東条英機である。東条は首相就任後、わずか50日で対米開戦に踏み切った。そういった史実から見ると、悪玉か善玉かはともあれ、両軍は明らかに対立している。

田邊は、そのような状況下でクローズドな講演を行ったわけだが、日米開戦までは花形知識人としてオープンな言論活動を繰り広げていた。宗教人類学者、中沢新一のように「田邊元は、全体主義が突きつけた自由主義への異議申し立てのはらむ重大な意味を正しく理解して、それにある種の共感をすらしめした。しかし、それと同時に、民族主義に根ざすその全体主義の硬直した理念や、非合理的な思考法に、とりかえしのつかない災禍をもたらしかねない危険を感じとっていた。『種の論理』は、そのような哲学者によって自由主義と全体主義とを、同時に解体していくための方法として考えぬかれたものだった。おそらく田邊元は、当時の日本やドイツの思索家たちの中でもとりわけて真摯でまた困難なやり方で、事態に立ち向かっていこうとしていたのだと、私は思う」(中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』)と前向きに評す向きもある。

だが、外交官で文筆家の佐藤優は以下のように述べている。「彼はあの戦争に多くの学生たちを送り込みました。自分の理論によって日本は大東亜戦争を正当化した、あるいは学生たちはおのれが特攻死することを正当化した、そのことに関して彼はまったく反省していなかった。それは日本全体に責任があるんだと。だから懺悔は日本全体でするべきであって、自分に特別の責任があるという発想は、まるで持っていなかった人、ものすごく無責任な人です」と非難している(佐藤優『学生を戦地に送るには』)。この見方のほうが事実に即していると僕は思う。

 
田邊元の「悪魔の講義」

実際、1939年に京都帝国大学で6回にわたって開催された連続講義「歴史的現実」(田辺元述・竹本智志編『歴史的現実』)は、佐藤が「悪魔の京大講義」(前掲書)と呼ぶとおり、情理とレトリックを尽くしつつも「侵略をするための理屈、方便」(同)と取る以外にないものだ。以下、同講演の終盤(第五講と第六講)から引いてみよう。

指導者は専制君主とは違う。指導と言われるには他の個人も追随することがなければならない。そこに力づくで強制しているだけではなく——それもなるほど強く行われているようでありますが——個人が国家に協力しようとする意思をもって自発的にはたらいていることを見逃すことはできない。そこに個人のはたらきがあるのである。

意志をもって種族を人類に高める個人は、種族の中に自己を否定することによりある意味で個人に対する自己をも否定して、人類の立場に自己を復活するのである。それと共に種族も人類の立場に高められる。個人は種族を媒介にしてその中に死ぬことによってかえって生きる。その限り個人がなし得るところは種族のために死ぬことである。

日本の国家は単に種族的な統一ではない。そこには個人が自発性を持って閉鎖的・種族的な統一を開放的・人類的な立場へ高める原理を御体現あそばされる天皇があらせられ、臣民は天皇を翼賛し奉ることによってそれを実際に実現している。

歴史は時間が永遠に触れるところに成り立つのであり、我々個人はそれぞれの時代に永遠と触れている。個人は国家を通して人類の文化の建設に参与することによって永遠に繋がることができるのである。今日我々の置かれている非常時においては、多くの人が平生忘れていた死の問題にどうしても現実に直面しなければならぬ。皆さんのようにある朝召される時には銃をとって戦場に立たねばならぬ若い人々はもとより、私どものような銃後の非戦闘員といえども、今日の戦場においては生命の危険を免れることができない。

ところで我々が死に対して自由になる、すなわち永遠に触れることによって生死を超越するというのはどういうことか。それは自己が自ら進んで人間は死において生きるのであるということを真実として体認し、自らの意志をもって死における生を遂行することに他ならない。

具体的に言えば、歴史において個人が国家を通して人類的な立場に永遠なるものを建設すべく身を捧げることが生死を超えることである。自ら進んで自由に死ぬことによって死を超越することの他に、死を超えることは考えられない。

1941年以前は、学生は26歳まで徴兵を猶予されていた。日中戦争は始まっていたとはいえ、日米開戦以前でもあり、「ある朝召され」「銃をとって戦場に立たねばならぬ」という状況は、学生にはリアリティをもって感じられていなかったかもしれない。だが田邊は、戦況が悪化した1943年5月に、同じ京都大学で「死生」と題する講演を行っている。在学中の学生を動員する「学徒出陣」が始まったのは5ヶ月後のことだった。講演「死生」に曰く——。

「決死」ということは、実際に死ぬことが生の中に取入れられることである。将来何時かは死ぬという観念的な覚悟の場合は、決死とはいわない。決死ということは、もっと積極的に実践して、死が可能としてではなく、必然的に起ることを見抜いて、我々がなおそれをあえて為す時にいうのである。

これは明らかに「お国のために死ね、死んでこい」というメッセージだ。哲学者の柄谷行人は「ネーションが本当に形成されるのは、それが人々にそのために死ぬことが永遠に生きることを意味するような気持にさせるときです」と述べている(「帝国とネーション」。『戦前の思考』所収)。ネーションとは何かを考え抜いた田邊は、その挙げ句に前途ある若者を死地に追いやった。草薙隊を含む特攻隊を正当化する理論として、田邊の言説は申し分なく機能したのである。

 
映画の人物はなぜのっぺらぼうなのか

ところで、4つの「間」すべてにおいて、小津安二郎の映像が引用されているのはなぜだろうか。

既に述べたように、戦中・戦後の小津作品は、多くが家族の物語を描いている。とはいえ、そのほぼすべてにおいて戦争体験が下敷きにされていると言われる。

例えば歴史学者の與那覇潤は「実は戦中・戦後に小津安二郎が発表した全十七作の家族映画は、子役を主演としたナンセンス・コメディである『おはよう』一作のみを例外として、すべてになんらかの形で、登場する『家族』と『戦争』とのつながりが仄めかされている」と指摘する。その上で與那覇は、小津の戦後最大の失敗作と言われる『東京暮色』(1957年)について「戦中の『父ありき』以来、小津作品のなかで笠が演じてきた父親によって表象される、日本内地でのみ成立する家族という虚構のシステムが、いかに植民地への拡張によってその限界を露呈し、そして日本人はその破綻の前でただ立ち尽くすしかなかったかという史実こそが、『東京暮色』の主題であった」と主張する(與那覇潤『帝国の残影』)。

文中「笠」とは、言うまでもなく小津に見出され、小津映画の常連となった俳優・笠智衆のことだ。映画批評家の蓮實重彦は、その笠を「『晩春』のよき父親から『東京物語』の達観した老父まで、また『麦秋』の俗物の兄から『お早よう』の出世しそうにないサラリーマンまで、さらには『宗方姉妹』の癌におかされた大学教授から『秋刀魚の味』の軍艦マーチに敬礼する元駆逐艦艦長にいたるまで、微笑とともにどんな人物にも変容してみせる。あらゆる人物でありながら、しかしその誰でもないという不気味な役者」と評している。そして『秋刀魚の味』のあるシーンにおける笠の顔を「表情の零度に還元されたというほかない裸形の相貌」と表現している(蓮實重彦『監督 小津安二郎〔増補決定版〕』)。

「旅館アポリア」では、小津映画の役者は、そして横山隆一の『フクチャンの潜水艦』のキャラクターは、すべて「裸形」以下の、相貌そのものが存在しない人物に変容させられている。画像処理によって一様に表情を消され、輪郭だけを残した肌色ののっぺらぼうになっているのだ。笠ばかりではなく、全員が「あらゆる人物でありながら、しかしその誰でもない」。

これは、無謀にも大東亜戦争に突入し、開戦についても、個々の戦闘局面についても、最終的に誰も責任を認めなかった大日本帝国の政治家、官僚、軍人、そして昭和天皇を指すものだろうか(連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの『マッカーサー回想記』、側近だった木戸幸一内大臣の『木戸幸一日記』や、初代宮内庁長官・田島道治の『拝謁記』などによれば、天皇は「退位して全責任を取りたい」と述べたとされる。だが、ご存じの通り結局は、東京裁判において裁かれず、退位もしなかった)。

そうかもしれないが、小津映画は「家族映画」であり、登場するのはほとんどが庶民の家庭である。だから日本人全般と受け取るべきだろうし、さらに言えば、戦後75年になんなんとする現代の日本人も含まれるのではないか。昨今の、いや以前からの政・官・財界における無責任体制は戦前・戦中とおよそ変わりがない。ホーは、小津が終戦を迎えたシンガポールに生まれ育っていて、上述したようにシンガポールを中心とした近現代史を主題にすることが多い。だが「旅館アポリア」は、日本と「大東亜」を取り上げた個別固有の作品であると同時に、国家と国民の倫理と責任を問う普遍的な作品であると僕には思える。田邊が言うところの「類」と「種」と「個」にも思いを致しているかもしれない。

付け加えれば、『生まれてはみたけれど』の兄弟の会話についてのホーのコメントを見て、僕は『若者を見殺しにする国』の著者、赤木智弘の一文を思い出した。フリーターだった赤木は「私は、若者たちの右傾化はけっして不可解なことではないと思う。極めて単純な話、日本が軍国化し、戦争が起き、たくさんの人が死ねば、日本は流動化する。多くの若者は、それを望んでいるように思う」「我々が低賃金労働者として社会に放り出されてから、もう10年以上たった。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し出さないどころか、GDPを押し下げるだの、やる気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続けばこのような不平等が一生続くのだ。そうした閉塞状態を打破し、流動性を生み出してくれるかもしれない何か――。その可能性のひとつが、戦争である」「そのために、戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ」と述べている(『論座』2007年1月号)。

「旅館アポリア」の担当キュレーターである能勢陽子・豊田市美術館学芸員によれば、ホーは数年前から京都学派と大東亜戦争の関係に関心を抱いていて、2018年にカディスト美術財団と光州ビエンナーレが共同開催したフォーラムに(やはり今回のトリエンナーレの参加作家で、「表現の不自由展・その後」展の中止後に抗議の意を込めて作品を撤去した)パク・チャンキョンらとともに参加している。日本では一時期下火になった京都学派研究は、日本以外のアジア諸国では常に注目されているのだ。

白状すれば、僕は映画が好きで、小津映画は大半を観ている。だが、京都学派については、あまりに晦渋な西田の『善の研究』を若いころに投げ出して以来、田邊についての文献数冊を除けば、まったくと言ってよいほど無知なままでいた。いまも『善の研究』を読み通す自信はないけれど、一般向け啓蒙書を何冊か読むことにより、戦争イデオローグとしての京都学派については、わずかに、かすかに、おぼろげにだが理解できたように思う。

優れたアート作品は、このように知的欲求を刺激してくれる。歴史や、映画や、哲学や、文学に興味をつなげてくれ、再見すれば、その都度新たな発見があるに違いない。「旅館アポリア」は、綿密なリサーチに基づいて、鑑賞者の目と耳と頭と体を刺激する秀作である(いまでも、揺れる建具とともに体感した音と振動が記憶に残っている)。ただビデオを撮ってつなげただけの、夏休みの自由研究のような作品とは一線を画している。

あいちトリエンナーレ2019の展示風景
ホー・ツーニェン《旅館アポリア》2019
Photo: Hiroshi Tanigawa


 


〈展覧会情報〉
「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」
 2019年8月1日[木]-10月4日[日] 名古屋市と豊田市の4つのエリアにて開催。

ホー・ツーニェン「旅館アポリア」は喜楽亭(豊田市)にて展示されている。

(2019年9月10日公開)