『泣きたい私は猫をかぶる』
文:北野貴裕
北野貴裕
スタジオコロリドは設立からまだ10年と経っていない新進気鋭の制作会社だ。有名な作品でいえば日本アカデミー賞優秀アニメーション作品賞を受賞した『ペンギン・ハイウェイ』、現在YouTubeにて公開されている、『ポケットモンスター ソード・シールド』の世界を舞台とした『薄明の翼』などがある。それらを見たことがないという人も、マクドナルドやパズル&ドラゴンズのアニメーションCMと言えばぴんと来るのではないだろうか。小~中学生の少年少女を主人公とした作品が多く、温かみのある絵柄が印象的だ。
『泣きたい私は猫をかぶる』(以下、なきねこ)の主人公も中学2年生の女の子・笹木美代(cv志田未来)。みんなからは「無限大謎人間」、略して「ムゲ」と呼ばれている。その理由はとにかく自由で奇抜な行動にある。とくに登校時、思いを寄せるクラスメイト・日之出(cv花江夏樹)を見つけた途端、彼女は裸足になって忍び寄り「日之出サンライズアタック」というヒップアタックをかます。しかし彼は好意剥き出しの彼女にまったく取り合わない。親友の頼子(cv寿菜美子)も呆れ半分同情半分といった感じだ。それでもムゲは日之出の素っ気ないことばにも喜ぶし、彼の悪口を耳にすれば校舎2階の渡り廊下から飛び降りて抗議する。おまけに日之出と頼子以外のことはみんな案山子に見えているらしい。盲目的な恋愛感情をありのまま日之出にぶつけている。どたばたと落ち着きのないモーションや素足に靴を履いている設定に、明るくアクティブな人間性が表れている。
そんな彼女には秘密がある。お面屋の猫店主からもらった猫の面をつけると猫に変身するのだ。ことばのとおり猫をかぶって日之出と会えば、彼は笑顔を以て受け入れてくれる。人間のムゲではなく太郎(猫化したムゲに日之出がつけた名前)でなら、優しいことばをかけてもらえる。
本作のテーマはタイトルの「猫をかぶる」から「本音を隠す」「自分に素直になる」といったことが想像できる。けれどそれはテーマと呼ぶにはすこしずれている。小道具としての猫の面からは、心理学で表面的人格を表す「ペルソナ」が連想される。ラテン語で「仮面」という意味だ。本作で描かれるのも「他者へ(から)の理解」というところにあり、自己の問題というよりは他者と関わっていくなかでの身の振り方に焦点が当てられている。
太郎として日之出に会いに行くムゲは、ときおり日之出の本心を聞くことになる。そのたびに彼女は、画面上では人間の姿として描かれ、彼の本心に対しての本心を告げる。けれど、太郎のことばを日之出は感知できない。猫をかぶれば好きな人に近づける。しかしコミュニケーションは成り立たない。本心を隠すことで円滑になる対人関係は、コミュニケーションとしては破綻しているのだ。この物語の根底にあるのはそういった「ディスコミュニケーション」である。自分と他者の関わりのなかで生じる齟齬を視覚的に表すアイテムとして、猫の面(猫化)は機能している(企画立ち上げ当初は猫のスーツを着て変身する設定だった)。
コミュニケーションをひとつのテーマとして掲げるアニメーション監督といえば、新海誠が挙げられる。しかし本作は新海作品とは一線を画している。物理的に距離を隔てることで訪れる関係性の変化を描いた『ほしのこえ』や『秒速5センチメートル』などに対し、『なきねこ』は物理的な距離がゼロに等しく、近くにいるからこそ生じるコミュニケーションの難しさが描かれている。また、新海作品で重要なアイテムとして用いられることが多い携帯電話(スマートフォン)も、『なきねこ』ではとくべつ意味を持たない(ムゲは終盤までスマホを所持していない)。現代の中学生という設定から考えれば、SNSをひとつの要素として取り入れる選択はあったはずだ。その選択を取らなかったのには、対面で築く関係性を掘っていくという意図があったのだろう。男女の恋愛感情に支えられている新海誠のコミュニケーションに対し、本作は人と人との関わり方が軸になっている。たとえばムゲと日之出を同性に置き換えたとしても、物語の辻褄は合うように思える。
そもそもなぜムゲが本心を隠す(猫をかぶる)ようになったのかと言えば、小学生時代の両親の離婚がきっかけのようだ。大好きだった母親が自分を置いて出て行ってしまったこと。それによってクラスでいじめられるようになったこと。そのころから彼女は本心を隠し、明るく振る舞うようになった。冒頭で描かれるムゲの挙動はすべて本心を隠した状態、ペルソナなのである。家族間の不和は、脚本を手がける岡田麿里の持つテーマでもある。そしてその描かれ方も、演出と相まって上手く表現されていた。
ムゲは現在、父の婚約者である薫(cv川澄綾子)を含めた三人で暮らしている。けれどもムゲは、一見普通に接しつつも心を開いていない。序盤、学校から帰宅した彼女は薫のことをほとんど見ていない。視界には入っているだろうが、目の向きからして極力顔を見ないようにしているようだ。三人での夕食のシーンでも、画面を分割し、父と薫、ムゲをそれぞれ対面にレイアウトすることで親子間の壁を演出している。ことばでは薫を気遣いながらも、こうした細かい所作や画づくりに表れる心情のスケッチが冴えている。
そういった家庭環境から、彼女にはどこか捨てられた/裏切られたという意識があるようだ。だからこそ、はじめて猫になった夏祭りの夜、自分を見つけ拾ってくれた日之出に恋したのだ。すると恋愛感情の奥にあるべつの思い、承認欲求や拠り所といったものも見えてくる。彼女は広い意味で「愛される」ことを望んでいる。自分の居場所を求めているのだ。
ムゲの居場所への願望は、彼女の部屋に表れている。部屋に置かれたロフトベッド。これについて共同監督のひとり柴山智隆はインタビューで「ベッド下の空間にカーテンを張って、そこから奥はムゲの内面の世界というふうに見せたかった」と語っている。たしかにベッド下の空間には、父と実母と三人で写る家族写真が飾られていた。また棚の上にはハンプティ・ダンプティと思しき人形も置かれており、これは彼女が成長途中の「卵」であるとも取れるが、同インタビューにて「本棚に異世界が出てくる児童小説や絵本を並べて、ムゲがどんな子なのかを表現してみました」とも話しているので『鏡の国のアリス』から来ていると考えたほうがいい。部屋に飾られている小物も中学生にしてはやや子どもっぽく、母が出て行った幼少期から前へ進めていないような印象を受ける。このように部屋という領域には彼女の人間性がよく表されている。また、現在本棚にある絵本はもともと、実母がいたころにはリビングに置かれていたことが回想シーンでわかる。回想からオーバーラップで繋がれる現在の同シーンでは、絵本が雑誌に替わっている。薫が住むようになってから自室へ引き上げたのだろう。そういった背景からも、居場所のない家庭になんとか設けた領域、パーソナルスペースと受け取ることができる。
ずっと猫でいることを望むようになったムゲから、やがて人間の面が外れる。それにより人間に戻らなくて済むようになるのだが、代償として人間のことばがわからなくなってしまう。薫の飼い猫・きなこがムゲの人間の面をかぶり、ムゲとして学校へ行くようになってからも、彼女はその光景を反対側の校舎の屋上から見守ることしかできない。猫をかぶり続けるという選択により、ムゲはコミュニケーションそのものを失ってしまう。
ここでおもしろいのが、人間の猫化だけでなく猫の人間化も描かれていることだ。きなこは自分を幸せにしてくれた薫を幸せにしたいと思い人間になるのだが、そこで目にするのはきなこの不在に落ち込む薫の姿。きなこがムゲとして、いくらことばを尽くしても、薫の喪失感を掬い取ることはできない。人間の姿ではだめなのだと、自身が代替不可能な存在であったことをきなこは知る。きなこの取った選択には、薫の気持ちが含まれていなかったのだ。だからこそ齟齬が生じた。このパートから見えてくる、コミュニケーションにおける他者の重要性が本作のテーマをより厚くしている。
人間に戻るため、あるいは猫に戻るため、ムゲときなこ、そして日之出が猫島を訪れる。猫たちが気ままにたのしく暮らす異世界。生活圏がオレンジ色の温かな光に包まれているのに対し、お面屋の店内が暗く冷たい色味なのがいい対比だ。
猫の面をつけた日之出とムゲはお面屋と対峙する。ここで日之出も猫の面をつけるのは、猫でないと猫島が見えないという設定だからというのもあるが、それ以上にお面屋との対決において猫をかぶっている必要があったからだ。猫をかぶったふたりが対決する、その相手は猫。この場合の猫店主には、ふたりがかぶっている猫という意味もあるのだろう。クライマックスとしてのカタルシスを生みながらも、その実ふたりにとっては自己とのたたかいでもある。自身を抑えつけている面を剥ぎ、隠してきた本心を見つめる作業。だからこそふたりはたたかいの最中、ぼろぼろと本音をこぼしてゆく。
お面屋との決着後、日之出はムゲに「いろんな顔のムゲが見たい/猫じゃないムゲに好きって言いたい」と言う。ここで背景に打ち上がる花火は、猫化したムゲが日之出に拾われたときにも上がっていた花火だ。映像的な美しさだけでなく、ふたりが人間として出会い直す演出でもある。現実世界への帰路、ムゲは自分が「一生懸命(他者を)好きにならないようにしてた」ことに気づく。そして口にする。「帰ったら、好きになってみる」と。このことからも本作で描かれる「好き」が日之出への恋愛感情のみでなく、他者全般へと向けられた「愛」であることがわかる。この作品における恋愛要素はあくまで普遍性として存在しているもので、根幹にあるのは他者と関わるなかでこの世界に居場所をつくっていくことなのだろう。
本作はもともと劇場公開を予定して制作されたが、コロナウィルスの影響でNetflix配信になったという背景がある。しかしこの社会の変化は図らずも、本作をより時代性を孕んだ作品にしたと思う。人と会うことすらままならない現在だからこそ、ムゲと日之出が築く「密」な関係性を見てもらいたい。
(2020年6月25日公開)
きたの・たかひろ
1994年 神戸市生まれ 神戸市在住。京都造形芸術大学 文芸表現学科 クリエイティブ・ライティングコース卒業。現在、映像編集アルバイト。
〈映画情報〉
『泣きたい私は猫をかぶる』
2020年/104分/日本
出演:志田未来、花江夏樹、小木博明、山寺宏一
監督:佐藤順一、柴山智隆
脚本:岡田麿里
制作:スタジオコロリド
企画:ツインエンジン
製作:「泣きたい私は猫をかぶる」製作委員会
公式サイト
2020年6月18日よりNetflixにて配信中。