COVID-19後の世界3
大いなるエポケーのために
子どもたちに説く「システミックな危機」
石田英敬
新型コロナウイルスによる感染症COVID-19は、世界に大きな危機をもたらしている。現在の危機はいつかは去り、私たちの生活は旧に復するのかもしれない。だが、旧に復するだけでいいのだろうか? 内外の知識人による論考を掲載する。第3回は、フランス文学者でメディア情報学者の石田英敬。
「まことにわれらの意志には大いなる痴愚が住んでいる。この痴愚が精神を習得したことがおよそ人間的なものにとって呪いとなった!」(ニーチェ『ツァラトゥストラかく語りき』)
フーコーによれば、近代人の「理性の歴史」は、浮浪者、犯罪者、狂人たちの「一般施療院」への「大いなる閉じ込め」から始まったのだった(フーコー『狂気の歴史』)。その理性の文明史は地球を四世紀分ほども周回して、いまでは、世界各国で人びとを一時的にせよ「大いなる閉じ込め」状態に置くようになった。
なにしろ世界110カ国以上で人類の半数以上が外出できない状態に置かれている。人びとの自宅が病院の代わり、部屋が病室の代わりになった。そして実世界に外出することができず、オンライン上での生活を余儀なくされている。
世界中で人類の大部分がこんな経験をいっせいにするようになるとは、1年前には誰が想像しただろう。「パンデミック」とは、ギリシャ語源で「パン 凡ての」+「デモス 人びと」という意味だが、まさしく凡ての人びとがこの閉じこもりを世界同時中継的に経験しつつあるのだと思うと、なんだか少し嬉しくなってこないかい(ならないよね、きっと)。
たぶんもう実現することはない、東京オリンピックよりも、この共通経験はよほど、これからの世界を理解するためにはとてもよい学習機会になるはずだ(人間がバカでなければね)。
ひとは大病をすると、入院した病室で、それまでの人生を振り返り、反省する。そのとき、いろんなことが分かる。それと同じで、今回の経験は、人間の文明とは何か、なぜこうなってしまったのか、反省するためにはよい機会だ。そこには、病という人生の非常事態が与えてくれる洞察という、認知的ゲイン(知的御利益)があるはずだ。そうでなければ人間は賢くならない。
いちばん重要なことは、このパンデミックが、起こるべくして起こったシステミックな危機だということだ。システミックという意味は、平たくいえば、すべてがつながっているということ。そのつながりを
コロナウイルスに誰かが感染するためには、森林が破壊され人間が動物界を侵して家畜がウイルスを媒介する必要があった(今回のCOVID-19については、詳細はまだ分からない)。これはアニメ『千と千尋の神隠し』のテーマだった。グローバル化によって森林が破壊されエネルギー資源が消費され、大気中のCO2が上昇して地球の温暖化が起こっている。南北アメリカ大陸、オーストラリアなど各地で大規模森林火災や巨大台風・ハリケーンや大洪水が頻繁に起こるようになった(グレタ・トゥーンベリさんが警告している通りだ)。
未知のウイルスの感染が急速に拡がったのは人の移動の速度と量が飛躍的に増大したからで、人と物の移動を促進したのは世界が情報化されてあらゆる地点が情報ネットワークで結びついたからだ……と、まあ、このように全ての問題が相互に結びついて地球はシステミックな危機にますます頻繁に見舞われるようになった。これを「人新世」の問題というのだが、小学生にも説明すればすぐ分かる理屈だ。
子どもにも分かる問題を、なぜ、大人たちは解決できていないのか。大人たちがバカだからという以外ないのだが、それにも理由がある(ライプニッツは「全てには理由がある。理由がないことなどない」と言っている)。バカな大人たちのなかでも最もバカな者たちが世界の政治指導者になることが世界史的必然性である時代が今だ。かれらは、資本主義の運動から見放され、現在の世界システムを理解できないグローバル化から取り残された人びとに偽りの見取り図を与えて慰撫することができると受けとめられている。そのようにしてかれらはグローバル資本主義を規制させないことに貢献する。そういう意味で、世界を覆っている痴愚は世界のシステミックな危機の一部なのだ。これがトランプやアベの世界史的意義だ。いまなお世界史では、ヘーゲル流の「理性の狡知」が働いているのだ(とても「理性」とも「狡知」とも見えないにしても……)。
さて、あなたはいま病室同然となった自宅の居室にいて、コンピュータに向き合うしかない。いまあなたがあらためて実感しているはずなのは、「実世界」の価値であり、人びととの「リアルな接触」、「場の共有」の意味であるはずだ。これまでは、実世界とは、タダで活用できる「経済的外部性」と考えられてきていた。しかし、これからはちがう。テレプレゼンスとは何か、とか、リアルとは何か、とか、改めて存在論的な問いにあなたは向き合うことができる。大いなる「エポケー(本質直観のための判断停止)」のときに、あなたは、ついに到達したのだ。
いま、あなたは、オンライン上への「大いなる閉じ込め」によって、近代理性の始まりの一般施療院の房のなかと同じ状況に置かれている。そして、私たちがおかれているこの世界のシステミックな危機の概要のひととおりをおさらいしたばかりだ。この閉じこもりの室はストレスに満ちていて、おもわずあなたはあなたの伴侶や家族へのDVの衝動に駆られてしまうのかもしれない。しかし、思いとどまってほしい。そして、そのような狂気の生産こそが、近代の始まりにあった閉じ込めの意味であったことを思い出そう。閉じ込めが狂気を生みだし観察を可能にし理性を生みだすことに貢献する。このことを思い起こすならば、あなたの痴愚の昏い衝動もいま回転しつつある世界史の本質を見抜くための明晰へと転換可能かも知れぬではないか。「人間とは必然的に狂人であって、狂人ではないとは、狂気であることをもう一周りさせたものなのである」(パスカル『愛の情念に関する説』)。
いしだ・ひでたか
1953年、千葉県生まれ。フランス文学者、メディア情報学者。東京大学名誉教授。著書に『自分と未来のつくり方-情報産業社会を生きる』『現代思想の教科書 ──世界を考える知の地平15章』『大人のためのメディア論講義』、編著に『デジタル・スタディーズ1 メディア哲学』『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』『デジタル・スタディーズ3 メディア都市』など、訳書に『ミシェル・フーコー思考集成』I ~ X巻(責任編集・共訳)、『フーコー・コレクション』1~6 (責任編集・共訳)、監修書にベルナール・スティグレール『技術と時間 1 エピメテウスの過失』『技術と時間 2 方向喪失』『技術と時間 3 映画の時間と<難-存在>の問題』(いずれも西兼志訳)などがある。
(2020年5月19日公開)