COVID-19後の世界1
COVID-19:記憶の観点から
哲学者ベルナール・スティグレールによる考察
ベルナール・スティグレール
翻訳:石田英敬
新型コロナウイルスによる感染症COVID-19は、世界に大きな危機をもたらしている。現在の危機はいつかは去り、私たちの生活は旧に復するのかもしれない。だが、旧に復するだけでいいのだろうか? 内外の知識人による論考を掲載する。第1回は、哲学者のベルナール・スティグレール。
記憶の科学研究の支援と知識普及のための公益団体B2V記憶観測台[註1]は、ベルナール・スティグレールに対して、哲学者として市民として、特に記憶の観点からCOVID-19危機をどう考えるか尋ねた。以下はその考察である。
疫病危機を記憶する
大疫病の記憶のうちで私たちの表象にとどまっているものはじつはそれほど多くはありません。人間はいつも完全に安全でいたいと言いつつも、大惨事をすぐに忘れてしまうという残念な傾向を持つものです。5000万人も死んだ1918年のスペインかぜを人びとは憶えてはいます。しかし、1969年の香港かぜ[註2]を誰が思い出せるでしょうか。
今回のコロナ危機では極めて多くのことが目立ちます。これから何年も人びとはパンデミックと世界的な閉じこもりが結びついた今回の状況を語っていくことになるでしょう。それに、この閉じこもりの経験はたいへん興味深い記憶の経験をもたらすことになる。じっさいには閉じこもらなくてすんだ人たちにおいてもです。
今回のウイルス危機が香港かぜやスペインかぜと違っているのは、ウイルス危機が急速に広まっていくスピードの速さがまずある。しかし同時に注目すべきは、過去20年足らずの間に、今回よりは小規模であったとしても、こうしたウイルス危機がどんどん頻繁に起こるようになってきていることです。公衆衛生のための予算が削減されていくなかでこうしたことが起こってきた。それが今後どんなに長きにわたって世界経済に破滅的な影響をもたらすものなのか、いまではもっとはっきり分かります。
ウイルスはものすごく速く大量に世界中を駆け巡るだけでなく、感染力も非常に強い。もはや誰を信用したらいいのか誰も分からなくなった「ポスト・トゥルース」の世界にパニックを引き起こしています。
今日の私たちの経済モデルは、世界のほぼあらゆる場所の間で行われる、人びとの身体的および記号的なハイパーコミュニケーションを中心に出来ている。それは著しく危険を増大させるものです。このモデルは「データエコノミー」のモデルでもあって、レジリエンスの条件である多様性を排除してしまうので大変危険なのです。
すべてをアルゴリズムによって最適化しようとすると、たえずぎりぎりのフローのなかでやりくりするようになってレジリエンスを減殺させることになる。その結果が様々な[マスクや医療資材のような]物資の欠乏です。それが全地球レヴェルで、人間社会を危機に対してかつてないほどに脆弱なものにしてしまった。こうした無責任は終わらせなければなりません。
閉じ込もりは、それ以前の生活様式の記憶と意味を活性化させる
わたしは現在、実験的な協働プロジェクトを立ち上げて、スマートフォン問題を考える保護者や子どもたち、医療関係者のチームと一緒に仕事をしています[註3]。ITを基盤にベーシックインカムに類する協働手当による雇用や、ローカル産業や地域活性化を産学官で進めている。今回の危機にもかかわらず、私たちは活動を維持していて、「いま閉じこもって生きるとはどういうことか」という問題をともに考える作業を続けています。
目下の閉じこもり生活には、さまざまな状況がありうると思いますが、いずれにしても明らかなのは、人は一定数のことを中断せざるをえなくなる。そしてこの中断は、多少の手助けがあれば、個人としてもあるいは集団としても、いろいろなことを考え直す反省を生むきっかけとなりうるということです。
以前は自分たちでやっていたのだが、その後は多くは忘却されていた家族的な実践、例えば、料理などの教育実践の記憶や意味へと立ち帰って考えてみることにつながります。そういう問題を手がかりにして、みなで一緒に何かをするとはどんなことであるのかを考え直すこともできる。同じような意味で、スマホが子どもにも大人にも大切なことを忘れさせてしまう危険とか、そういうことを考え直すこともできる。
そこから出発して、個人レヴェルでも集団レヴェルでも、なぜいまはそういう生活様式とは再び結びついていないのか、もう20世紀のように再び生活することはできないにしても、と考え始めるのです。閉じこもり生活は、しばしば、そのように、私たちの生活様式について考え直すきっかけになります。
そこからより一般的な教訓を引き出すべきでしょう。私たちはこういった問題に、さらにまた、デジタルテクノロジーをつかって都市を住民たちとどのように新しく構想できるのかとか、料理や都市農業や、エネルギーやモビリティーの問題にも取り組んでいます。住民と緊密に連携しながら、住民の知恵やローカルな場所のもつ価値を再評価することで協慟的経済をつくる実験を行っているのです。
私たちの経験や心的記憶を機械的記憶に従属させてはいけない
現在のエコノミーは情報を基礎としていますが、そのとき情報とは人びとの知恵に取って代わるものだとされています。情報とはそれ自体が全面的に計算可能で、私たちを計算され、模倣的で遠隔操作される存在へと変えてしまうのです。
理論情報学の新しいモデルを開発しなければなりません。計算できないものに価値付与するためにこそ計算を使うような新モデルです。音楽にはそのような例はある。音楽は、一方では計算に基づき、他方では、計算の超克に基づいている。
情報技術を考え直して、一切合切をアルゴリズムにゆだねるのではなく、医師たち同士、銀行家同士、地域住民同士など、議論と協働の仕組みを作り直し、場所の多様性に価値付与する必要があります。現在のシステムは、計算できないものを排除しがちな自動計算に基づいている。計算できないものを前にすると、システムは途端に危機に瀕することになるのです。
現在のマスクの欠乏問題にしても、リスクを過小評価したのですね。リスクはけっして平均値計算には収まらないということが忘れられていたのです。
現在私たちが目撃していることが人類への恐るべき警告であることは間違いないと私は思います。そして、人びとの知恵の、ローカルな価値の、多様性の、議論と協働の価値を高めていくことが他のすべての問題に取り組むための最重要な課題と思うのです。
私たちは2008年の金融危機の教訓を引き出すことができなかった。問題のすべては、人類はこのCOVID-19の危機からやっと何かを学ぶことになるのかどうかです。
学ぶとは、自分たちを問い直すことである。緊急状態でそれをしなければならないというのは、十分な考察にとっては理想的とはいえませんが、よく反省し、研究し、これからのことをじっくりと用意するための機会としてこの閉じこもりを活用すべきです。
この記事は、シニアとリタイア世代のためのウエブマガジン『Senioractu.com』に2020年4月10日付で掲載された。
註1:B2V記憶観測台(l’Observatoire B2V des Mémoires)は、個人、集団、デジタルほか、あらゆる形式の記憶についての科学知識の研究、啓蒙、伝達の支援に取り組んでいる。ベルナール・スティグレールはB2V記憶観測台の学際的な科学評議会のメンバーである。
註2:香港かぜは1968年夏に発生し、1970年夏まで流行したパンデミック。世界中で約100万人が死亡したといわれる。フランスでは1969年から患者が報告されはじめ、約3万1000人が亡くなった。
註3:スティグレールを中心としたArs Industrialisグループが、2016年以来パリ郊外のプレーヌ・コミューヌ都市群と協働して行っている未来創成型プロジェクトへの言及。ITを基盤にベーシックインカムに類する協働手当による雇用や、ローカル産業や地域活性化を産学官で進めている。
Bernard Stiegler
1952年、セーヌ=エ=オワーズ県(フランス)生まれ。ポスト構造主義以後の代表的哲学者。国際哲学コレージュのプログラム・ディレクター、コンピエーニュ工科大学教授を務めた後、国立視聴覚研究所(INA)副所長、音響・音楽研究所(IRCAM)所長、ポンピドゥー・センター文化開発部長を歴任。現在、同センター開発研究所(IRI)所長を務める。技術と人間との関係を根源的に問い、フランス国立図書館の電子化をはじめ、多数の国家的メディア政策にも関わる。著書に『技術と時間』シリーズ(1994年〜)、『愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を』『現勢化―哲学という使命』『偶有からの哲学―技術と記憶と意識の話』など。
いしだ・ひでたか
1953年、千葉県生まれ。フランス文学者、メディア情報学者。東京大学名誉教授。著書に『自分と未来のつくり方-情報産業社会を生きる』『現代思想の教科書 ──世界を考える知の地平15章』『大人のためのメディア論講義』、編著に『デジタル・スタディーズ1 メディア哲学』『デジタル・スタディーズ2 メディア表象』『デジタル・スタディーズ3 メディア都市』など、訳書に『ミシェル・フーコー思考集成』I ~ X巻(責任編集・共訳)、『フーコー・コレクション』1~6 (責任編集・共訳)、監修書にベルナール・スティグレール『技術と時間 1 エピメテウスの過失』『技術と時間 2 方向喪失』『技術と時間 3 映画の時間と<難-存在>の問題』(いずれも西兼志訳)などがある。
(2020年5月17日公開)