疫病の年の手紙 浅田 彰
グローバル化の行き着く先で、温暖化に代表される地球環境問題もいよいよ発火点に来ている、エボラ出血熱やトリ・インフルエンザ H5N1 などによるパンデミックの可能性も考慮しておかねばならない…。
頭ではわかっていたつもりだったし、折りにふれて話もしてきましたが、実際に新型コロナウイルス SARS-CoV-2 による COVID-19 パンデミックが起こってみると、あらためて身体的に危機を痛感するこの頃です。
2019年12月から後に Covid-19 と呼ばれることになる肺炎の流行が伝えられていた武漢が2020年1月23日に封鎖されたと報じられたとき、パンデミックは不可避だと覚悟しました。遅まきながら(というか、最初、医師たちの警告を封殺しておきながら)中国政府がそこまで危機感をもったほどのエピデミック。しかし、いかに共産党独裁国家とはいえ人口一千万人規模の都市を完全に封鎖することなどできるはずがない…。春節休暇で京都につめかけた中国人観光客を見ながら暗澹たる気分になったのを思い出します(むろんその危機感はウイルスに対してのもので、中国人に対してのものではありませんが)。
実のところ、日本での感染拡大は、そのときの予想より小規模でゆっくりしており、中国に次いでヨーロッパやアメリカが採用することになる多少とも厳しいロックダウン政策も取られなかった。しかし、それも3月まで。4月に入って状況は一気に緊迫してきたようです。武漢での感染爆発を力づくで抑え込んだ中国も、中国からの第一波をわりにうまくやり過ごしたアジア各国も、ここに来て欧米から逆輸入された第二波に襲われているように見える(SARS-CoV-2のさまざまな変異型についてはまだ研究途上ですが、アメリカで流行を起こしたのはヨーロッパから入ってきた系統らしく、トランプの言った「中国のウイルス」ではないようです)。状況は予断を許しません。
4月3日にはいよいよアメリカ大使館が在日アメリカ人に日本からの事実上の帰国勧告を出しましたね。
まともにPCR検査もせずに何とか感染爆発を抑えてきたけれどもう限界だ、と見ているのでしょう。
感染症対策に関してはまったくの素人ですが、さしあたり
(1)古典的な方法:検疫隔離と大規模な国境封鎖・都市封鎖など
(2)近代的な方法:ワクチンや治療薬を用意してのウイルスとの共生
(3)現代的な方法:検査、感染者の確定、感染者との接触者の追跡、細かな(自主)隔離とsocial distancing [社会的距離戦略]( IT社会ではネット上で社会的コミュニケーションが可能なので、これはむしろ physical distancing [身体的・物理的距離戦略]と言ったほうがいい)
とまとめてみるとして、日本は
(1)で出遅れたし(しかもクルーズ船をずさんな形で検疫停留して感染を拡大させた)、そもそも中国のような都市封鎖などできない。
(3)に関しても、PCR検査の能力が不十分で(その理由は徹底的に検証される必要がある)、シンガポール・台湾・韓国のようなITを駆使した対応もできなかった。
(2)は常識的に見れば1年半から2年以上先のこと。
そのような状況の中で、いまある手段をもって戦うほかない現場指揮官としては、厚生労働省に詰める「クラスター対策班」の押谷仁と西浦博が感染クラスターをひとつひとつ潰していく戦術をとったのは賢明だったと思います。ただ、それもどうやら限界。3月末日の西浦博の一連のtweetは事実上の敗北宣言でしょう。
しかし、もはや「日本人の国民性」に頼るほかない、と言われると、大和魂で本土決戦を勝ち抜こう、と言われているような感じ。ぼくは「やってる感」だけで大衆の目を眩ましてきた安倍晋三政権はジミー大西の「やってる、やってる」のレヴェルだと言ってきたけれど、まさか西浦博からも「お前もがんばれよ」と言われるとは!
いよいよ緊急事態宣言が出されたところで、数理的モデル(SIRモデルやSEIRモデルなど)によるシミュレーションをもとに、social distancing で他人との接触を8割減らすという目標が示されたのは画期的なことだけれど(素人ながらこの数字の算出方法の妥当性には疑問もあるものの、それは措くとして)、西浦博の証言によれば政府部内でさえ経済への影響を嫌ってそれが「7~8割、掛け値なしに言えば6割」と曖昧化されたというし、もちろん一般社会でそれが厳格に実現されているとは思えない。いずれにせよ、感染爆発が起こりそうになれば規制を強めるという対応を繰り返しながら、医療崩壊(大げさな表現だけれど、要するに、集中治療室や人工呼吸器といったボトルネックを超える数の重症者が一気に発生して病院がパンクすること)が起こらないようにしていくほかないのでしょう。
ケインズ主義の「福祉国家」が「welfare-warfare state」だったことを忘れてはいけないけれど、資本の目指す効率化のためには人が死んでもかまわないという新自由主義+新保守主義よりはまし。柄谷行人が指摘したように、日本も冷戦期は自民が社会民主主義右派、社共が社会民主主義左派だったと言ったほうがいい。中曽根-小泉-安倍と、それがどんどん解体され、新自由主義+新保守主義の下で研究体制も医療体制も「効率化」された――つまりは痩せ細っていたわけです。(ちなみに、アメリカで国民皆保険を目指すバーニー・サンダースも、たかだかデンマークのような福祉社会を目指しているだけ、「民主社会主義者」を自称しているものの実際は中道の社会民主主義者でしょう。それを「極左の社会主義者」として排除し、当選可能性 [electability] を考えると中道しかないと言って、冴えない中道のジョー・バイデンをトランプの対抗馬に選ぶ民主党は、Realkyotoでも指摘した2016年大統領選挙での誤りをまたも繰り返している!)
しかし、大きな意味での中道社会民主主義がグローバル資本主義に押しまくられたあげく、再分配問題でグローバル資本主義にすり寄る一方、承認問題でマイノリティの解放と多文化主義を前面に出す方向に転じた(クリントン夫妻やオバマ)、その「偽善」への反発がトランプのような「露悪」の勝利を生んだことも確かです。そのトランプは、「白人男性が威張れる古き良きネーション」の幻想で大衆を釣りながら、彼が「ディープ・ステート」と呼ぶものを解体してきた…。
たとえば、オバマがトランプ政権による自動車の燃費基準の緩和とならびパンデミック対策の遅れを批判しましたが、オバマからトランプへの政権移行期に、オバマ・チームがトランプ・チームにパンデミック対策のシミュレーション(ロンドン、ソウル、ジャカルタで新型インフルエンザの流行が始まるという設定)を説明、それがまともに受け取られなかったどころか、そのときのトランプ・チームの出席者の3分の2(ティラーソン国務長官、マティス国防長官、etc.)がすでに政権にいない、と! Politico の記事にそのときのシナリオがそのまま載っており、関連記事には69頁におよぶパンデミック対策の「PLAYBOOK」がそのまま載っていますが、こんなに詳しいマニュアルがあるのになぜ使わないのかと言えば、知っている人がいなくなっていたから! それどころか、トランプ政権(具体的にはボルトン安全保障担当大統領補佐官[当時])は2018年に国家安全保障会議のグローバル・パンデミック対策室を解散し、大統領は1月にも2月にもパンデミックの恐れを警告したインテリジェンス・レポートを無視した…。皮肉を込めて言えば、アメリカ帝国主義を内側から着々と解体してきたわけです。
実際にパンデミックに直面したトランプは、就任後二度目の大統領執務室からのTV演説(3月11日)で「われわれは中国からの渡航を停止することで『外来ウイルス』の蔓延を防ぐという素晴らしい仕事をしてきたが、ヨーロッパは対策を怠って蔓延を許した、ヨーロッパからのすべての渡航を停止する」と大見得を切ったものの、狂信的な移民排撃論者スティーヴン・ミラーが書いたと言われる原稿が穴だらけ、直後に「アメリカ人ならヨーロッパから帰国できる、財の貿易にも当てはまるかのように言ったが貿易には関係ない、医療保険会社が治療費の加入者負担免除に同意したと言ったが検査料だけだった」と慌てて修正する始末。ホワイトハウスがまともに機能していないんですね。果たして、演説の最中から株式市場は大暴落状態に。
それでも最初は「感染者はそのうちゼロになる、パンデミック騒ぎは民主党のデマだ」と言っていたのが、一転「オレはパンデミックという言葉が出てくる前からパンデミックだと感じていた」「オレは戦時大統領だ、これは戦争なんだ」(ルーズヴェルトのように任期延長を狙っているのか?)と大威張り、ところがやはり経済のためには復活祭の日曜(4月12日)までにロックダウンを解いて「教会を満員にしたい」と言い出し、「そんなことをしたら100万から240万の死者が出る(ロックダウンを続けても10万から22万の死者は避けられない)」と専門家に脅されてやっと厳戒路線に戻る(それでも「死者が10万以下ですめばわれわれはいい仕事をしたことになる」と胸を張りながら)という迷走ぶり――ホンネはいまも経済重視だと思いますが。
そういえば、6人の孫をもつテキサス州副知事が FOX ニュースで「孫たちによきアメリカ(つまり豊かな経済)を残すためには、生存にかかわるリスクを冒す用意がある、全米には同じような祖父母がたくさんいるだろう」と発言し、グレン・ベックは彼のラジオ・トーク・ショーで「子孫を貧困に追いやるくらいなら死を恐れはしないというオレのようなやつはいっぱいいるぞ、オレが恐れるのは自分の死ではなく国家の死だ」と叫んで、ジョン・オリヴァーのお笑いトークショー(他のトークショーと同じく自宅収録)で「death cultとなった市場崇拝」と揶揄されていました。他方、連邦国家アメリカで大きな権限をもつ知事だち(党派を問わず)がイニシアティヴをとって各州でロックダウンが広まると、トランプは民主党の知事たちが行き過ぎたロックダウンによって自由を奪い経済を窒息させようとしていると主張、「ミネソタ州を解放しろ」「ミシガン州を解放しろ」「ヴァージニア州を解放しろ」などとツイートし、それに応じてトランプ支持者たちが各州の州都でデモを展開する始末。それどころか、ミスリーディングな虚偽や根拠のない楽観論を垂れ流すトランプの傍らで淡々と客観的な事実や予測を述べ続け国民の信頼を集めるアンソニー・ファウチ(AIDS危機のとき国立アレルギー・感染症研究所長となり現在もその職にある老科学者)や、2015年にTEDトークでパンデミックの危険を警告し、それが現実のものとなったいま7つのワクチン開発計画などに巨額の寄付を行っているビル・ゲイツらを非難し脅迫さえしているのだから(SARS-CoV-2はゲイツがつくったという陰謀説すらある!)、トランプの体現する反知性主義インフォデミック(デマの疫病)もいよいよ危険なところまで来たと言うべきでしょう。
ただ、これはトランプの危機感の表れでもある。先ほどバイデンについて否定的なことを書きましたが、危機に際しトランプはあまりにいい加減で頼りないという印象が大衆にも広がっており、経済危機と相まって、トランプの再選も楽にはいかないだろうというのもまた確かです。
イギリスでも、ボリス・ジョンソン首相と科学顧問パトリック・ヴァランスが「長期戦を覚悟して、ただちに厳戒態勢は取らず、だましだまし感染爆発を抑えながら、国民の6~7割が感染して集団免疫ができるまで耐える」という方針を出したけれど(ぼくは最初イギリスらしいストイシズムだと思った)、「2万程度の死者を覚悟すれば」と言っていたのが1桁か2桁多くなるという反論が優勢になり、政策を転換(この論争自体はオープンでよかった)。トランプにとってのスティーヴ・バノンのような地位をジョンソンに対して占めるドミニク・カミングスが「(その戦略で)年金生活者が死ぬということならご愁傷さま」と言ったと報じられた(政府は否定)ところをみると、犠牲者がずっと多くなることを知りつつ経済を重視しようとした可能性が強い。あげく、ジョンソンもカミングスも感染が発覚する始末。ただ、隔離状態のジョンソンがヴィデオ・メッセージで国民の協力に感謝しつつ「思うにコロナウイルス危機がすでに証明したことのひとつは『社会というものが本当に存在する』ということだ」と言い、「社会など存在しない」と言い放ったサッチャーの新自由主義からの転換を明示したのは、なかなかの運動神経。しかし、ジョンソンは容態が悪化、入院して一時は集中治療室へ。幸い退院に至ったものの、あまりにドラマティックな展開と言うほかありません。
いずれにせよ、「この程度の犠牲ですむなら経済を減速させたくない」というのが政治家たちのホンネで、むろん安倍政権も同じ(緊急事態宣言を出しながら、広範な休業要請をためらい、休業補償にも否定的)、ただ英米ほどはっきり腹をくくる悪賢ささえなく、状況を見て豹変する運動神経もない…。
まあ、長期的にみれば、1年半から2年でワクチンや治療薬が開発され(というのは希望的観測にすぎませんが)、感染した人が免疫をもつので、COVID-19も厄介なインフルエンザのようなものになる、というのが望ましい展開でしょう。季節性インフルエンザでも日本で年に1000万人が感染して1万人が死ぬと言われるものの、社会的に許容されている。つまり季節性インフルエンザの致死率・致命率(case fatality rate=死亡症例数/感染症例数)は0.1%。COVID-19 は今のところ1%強と推定される(もっと高いという説も)けれど、それでもワクチンと治療薬があれば何とか…。他方、同じコロナウイルスでも SARS や MERS のように10%を超える強力なウイルスだと徹底的に抑え込むしかないし、いずれもわりに早く発症して重症化するので片っ端から抑え込めた (運が良かったという面もある)。0.1%と10%の中間の1%というのは現代社会にとっては微妙なところ。しかも SARS-CoV-2 は潜伏期間が長く、その間にも他人に感染させるし、治ったと思ったらまた検査が陽性になったりする(つまり病院のベッドを長いあいだ占有する)。いわば弱いくせにしつこくからんでくるヤクザみたいなもので、かえって扱いに困る。エボラのように50%を超える超強力なウイルスだと、一発で獲物をしとめる、つまり発症してすぐ動けなくなるので、広がりにくいのですが…。
100年前の1918~20年のスペイン風邪(インフルエンザ)は2.5%くらいだと言われていて(推計には異論も多い)、4000万以上(一説では1億)の死者を出したわけですが、生活水準も医療水準もまったく違うし、世界大戦末期だった当時とは状況も違うので、まあ「スペイン風邪のマイルドなヴァージョン」といったところに落ち着けばラッキーと言うべきではないでしょうか。
ついでに言えば、中国人の悪食と、コウモリだのセンザンコウだのが他の動物と入り混じって売買される wet market が非難されていて、確かにそれはよくない(さらに言えば、世界中で密林を切り開いてそこに隠れていた生物まで外に引きずり出すのはやめた方がいい)。しかし、コロナウイルス以上の大敵であるインフルエンザ・ウイルス(なかでもトリ・インフルエンザH5N1 の致死率は50%を超えると言われる)はカモからニワトリをへて人間に近づくのだけれど、何十万羽と大量飼育される鶏舎(あるいは豚舎)を格好の培養器として増殖と変異を繰り返すので、現代の大量飼育システムも同時に見直すべきでしょう。
いずれにせよ、「日本が原発震災を克服し復興した(?!)のみならず『人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証』として『TOKYO 2020(オリンピック・パラリンピック)』を2021年に開催する」と人類のリーダーであるかのように宣言する安倍晋三は、どうかしているとしか言いようがない。東京オリンピック組織委員会の高橋治之(元電通専務)が2022年延期説の試験気球を上げていたけれど(2021年で無理押ししたあげく中止になるのを恐れている?)、自民党総裁選前の2021年夏にこだわった安倍の暴走に、オリンピック利権にむらがる連中も当惑しているのではないでしょうか。ちなみに、招致委員会→電通(高橋)→ディアク(アフリカ陸上競技界のボス)の賄賂疑惑が再燃しているのに日本ではあまり報じられない。電通を通じてディアクの息子の関係する会社に2億円を超す「コンサルタント料」を支払った件がフランスの当局の捜査対象になったときは、日本オリンピック委員会会長の竹田恆和をさっさと退任させたのに…。
そもそも、新国立競技場問題をめぐって Realkyoto でも論じたように、オリンピックも1984年ロサンゼルス大会以後の異様な商業化路線で膨張してきたあげく、それこそ持続可能性を失ってしまった。商業主義に打ち勝って(少なくとも)1964年のようなアマチュアリズムに戻り10月10日に開催するとかいうのならともかく、もう中止すべきでしょう。
3月10日、京都で久しぶりに坂本龍一・高谷史郎・池田亮司らと食事をして(念のために言えば、白川沿いの小さな和食レストランの2階を借り切り、窓をすべて開け放って;そのあと4月になって坂本はニューヨーク、池田はパリの自宅に帰った)、「パンデミックは恐ろしい災厄で一刻も早い終息を願うが、オーヴァートゥーリズムから解放された静かな京都は悪くない、グローバル資本主義が一時的にスローダウンしたこと自体はむしろいいことだ、アーティストまでビジネスマンのように飛行機で世界を飛び回っていたのがおかしいので、環境のためにも健康のためにも飛行機旅行は最小限にしたい、vegan(徹底した菜食主義)は行き過ぎかと思っていたが、肉の生産は大量の二酸化炭素を排出することになるし、健康のためとあわせ肉食もほどほどにしたい」というような話になりました。そういう変化が少しずつ広がっていく――というか、そうならざるを得ないんじゃないでしょうか。それは反動だと言われるかもしれないけれど、むしろ、グローバル資本主義をどんどん加速しようとする新自由主義と、壁をつくって multitude(マイノリティの有象無象)を排除しようとするトランプ的反動、その両者の矛盾を孕んだ結合に対しては、ゆるやかな交通と半ばオープン・半ばクローズドなインタフェースをもってするほかないのかもしれません。
そこまで行く途中というべきか、social distancing というのもある意味で面白いですね。「みんなで教会や議事堂やホールに集って口角泡を飛ばして語り合い熱く盛り上がるのが社会的だ、ひきこもりは社会性がない」と言われてきたけれど、「ひとりでひきこもることこそ最も社会的な行為であり、自分が感染しないよう他者との接触を避ける利己的行為こそ、病院の医療従事者をはじめとする同胞を助ける利他的行為である、ヴィデオでもゲームでも、あるいはポルノグラフィでも、ひとりで好きなだけ楽しんでいればいい」ということになったわけですから――もちろんそれもインフラストラクチャーを支える人々の苦労があってはじめて可能になるわけですが。
そうそう、横尾忠則は「兵庫県立横尾救急病院」展@横尾忠則現代美術館を企画、美術館スタッフのみならずオープニングの来賓も白衣で、などと要求しながら、パンデミック騒ぎで1月末日のオープニングをドタキャン。磯崎新は「Impossible Architecture」展@国立国際美術館(大阪)で2月15日にぼくとトークする予定だったのが、前日の夜に急遽来阪を断念、Skypeで沖縄の自宅とつないで「パンデミック都市」の話をしました(本稿末尾の図版を参照のこと)。両人とも時代と呼応する不思議な力を持っていると言うべきか…。それにしても、ロックダウン下のシカゴの風景やドバイの夜景はJ.G.バラードのSFのよう。「未来都市は廃墟である」という磯崎テーゼがこんな形で実現(?)されるとは!
さらに付け加えれば、磯崎新の「パンデミック都市」論の流れで、公開対談後、日本では岡田温司が紹介してきたロベルト・エスポジトのイムニタスとコムニタスの話が話題になりました。security(安全保障)の secure という形容詞は
se cura(sine cura)
without care
ohne Sorge
sans souci
つまり「(他人のことを)ケアする(気にする)必要なしに(自分[たち]だけで)安心していられる」という意味だけれど、同様に immunity/immunitas(免疫、免税、etc.)というのは「munus(他者への/相互の債務・義務、etc.)から免れている」という意味であるのに対し、community/communitas(共同体・共同性)というのは「munus を共有する」という意味であり、その意味では、コミュニティというのは、免疫のない人たち、互いから感染するリスクを共有する人たちの共同体ということになる。そして、ペーター・スローターダイクの言うように COVID-19パンデミックが「メディコクラシー(医療支配)」の姿をとった「セキュリトクラシー(またはセキュロクラシー:安全保障支配)」による秩序回帰に向かっているとすれば、それはイムニタスによるコムニタスの圧殺にもつながるだろう…。そんな風に考えると、なかなか面白い議論になりそうです。ただ、エスポジト自身の共同体(コムニタス)論は、ブランショ-ナンシーの「partage(分有=分割+共有;分割されていることを共有すること)の共同体」という線に近く、抽象的に過ぎると思いますが…。そういえば、晩年のデリダも、移民問題などで揺れる現代世界について、しばしば免疫と自己免疫の比喩で語っていた――そのデリダの未亡人マルグリットがCOVID-19で亡くなった(享年87歳)というのは、あまりに象徴的な悲報でした。
そう言えば、昨年の冬至前日、磯崎新とともに杉本博司の江之浦測候所を尋ね、京都市京セラ美術館での「瑠璃の浄土」展図録のための鼎談を行ったのですが(そこから派生した磯崎・杉本両人の連歌もどきが、ぼくのかつての杉本評とあわせて、 Realkyotoに掲載されています)、この展覧会も、近くの細見美術館での「飄々表具」展も、内覧会だけは開かれたものの、当面、一般公開は延期されたままの状態にある(5月7日公開予定ではあるものの、いったいどうなることやら…)。もちろん一刻も早い一般公開を願ってやみませんが、「最後の写真家」とも言うべき杉本博司がさまざまな「終わり」を封じ込めた一分の隙もない作品群が、閉ざされた美術館のがらんとした展示室で来ることのない観衆を待ち続けているさまを想像すれば、それ自体が最高の杉本作品であるようにも思えてきます。4月2日の細見美術館での内覧会のあと、写真家と別れ、この時期にはありえないほど閑散とした疎水沿いをひとり散歩したところ、夕日を受けて惜しげもなく咲き乱れる桜がことのほか美しく、ふと、戦時中の1944年9月19日に嵐山を訪れ、「往年の行樂を思へば眞に夢の如し、一歩々々に家人や重子さんの花見の姿幻の如く浮かぶ」と日記に記した谷崎潤一郎(『中央公論』での連載が「自粛」と称して打ち切られたあとひそかに書き続けた『細雪』上巻を7月末に限定自費出版していた)のことを思い出しました。
最後にもういちど感染症の話に戻れば、こういう時代の音楽は、と考えていて、ふと、バート・バカラック&ハル・デイヴィッドの
「What do you get when you kiss a guy?
You get enough germs to catch pneumonia」
という一節(“I’ll never fall in love again”の2番)が頭に浮かびました。マレーネ・ディートリヒの伴奏者として小歌のセンスを磨いたバカラックと、(逆差別的表現かもしれないけれど)黒人ならではのリズム感をもつディオンヌ・ワーウィック、このペアの洗練された軽みはやはり比類のないもの。「恋に落ちてキスなんかしたら肺炎にかかるのに十分なバイ菌をゲットするだけ、もう恋はしない――少なくとも明日までは」という小歌は現在にぴったりかもしれない…(いまや細菌だけではなくウイルスが問題なのですが)。
他方、エリザベス女王の英国民に対するスピーチも、同じウインザー城で1940年に家庭を離れて疎開させられた子どもたちに放送で語りかけたことを想起しつつ、social distancing を説き、ヴェラ・リンの歌った戦時中の懐メロを引いて「We will meet again」と締めくくるあたりはスピーチ・ライターの腕の冴え。「どんな宗教の人も無宗教の人も、スローダウンし立ち止まって祈りや冥想のうちに内省する機会だということを発見している」というあたり(イギリス国教会のトップでありながら politically correct な表現をとっている)も、なかなか含蓄が深い。なにより、まったく淀みのない淡々とした語り口は、とても93歳とは思えない。どこかの国の首相とはずいぶん違いますねえ…。
例によって話が主題からそれ、蛇足が長くなってしまいました。静かに進行するカタストロフィの中では何となく落ち着きませんが、どうぞお体を大切にお過ごしください。
We will meet again――いつかまたお会いしましょう。
浅田 彰
P.S.
これは2020年4月上旬に数人の知人にあてたいくつかの近況報告メールをまとめてリライトしたものである。発言の引用はだいたい筆者が要約したものだが、ソースはすぐ見つかるだろう。「疫病の年の手紙」というタイトルはむろんダニエル・デフォー(1660-1731)の『A Journal of the Plague Year』(1722)を意識したもの。『ロビンソン・クルーソー』(1719)の作家が子どものころ経験した1665年のロンドンのペスト大流行を想起して書いたこの作品は、『ペスト』(中公文庫)という翻訳があるほか、武田将明による新訳(研究社)には当時のロンドンの地図なども収録されていて参考になる。
これは磯崎新が2月15日の Skype対談(「Impossible Architecture」展@国立国際美術館 [大阪])で示した図版の改訂版(「虚諧(4)」『現代思想』2020年4月号掲載)である。念のために言えば、ヴェニス(ヴェネツィア)のレデントーレ教会(1577年着工、92年完成)はペストの終息(1576年)を神に感謝して建てられたアンドレーア・パッラーディオの傑作、対してトーマス・マンの『ヴェニスに死す』に出てくるのはペストではなくコレラの流行である。タイタニック号がクルーズ船の先駆であることは言うまでもない。また、大友克洋の『AKIRA』(1982-90年連載:アニメ映画版は1988年)の舞台は2019(~20)年の東京。もう少し詳しく言えば、1982年(現実世界では連載開始の年)に東京は「新型爆弾」で壊滅、それから随分たって東京湾(磯崎新もスタッフとして参加した丹下研究室の「東京計画1960」の位置)の「ネオ東京」に高層ビルが林立する一方、東京は廃墟のままになっていたが、オリンピックをきっかけに復興を進めようということになる、しかし、軍の育成した超能力をもつ子どもたちがオリンピック・スタジアムで激突、ふたたび大爆発が起こる…。映画版には「東京オリンピック開催迄あと147日」という看板に「中止だ、中止」と落書きされているシーンがあるが、2020年東京オリンピック開会の147日前にあたるのは(対談2週間後の)2月29日。当日には京都大学にも「AKIRA」を模した立看板が出現した。なお、マンガ版では「413日前」となっているが、それに該当する2019年6月19日には、オリンピック招致の裏金疑惑をめぐってフランス当局の捜査対象となった日本オリンピック委員会の竹田恆和会長が退任した。また、マンガ版第3巻巻末の次巻予告ページには「WHO、伝染病対策を非難」という架空の新聞記事の引用もある。アニメ映画版の4Kリマスターセットが4月24日に発売されるが、IMAXシアターで観られる日が来るのを待ちたい。
(2020年4月24日公開)