特別寄稿
ロームシアター京都の新館長人事に際して考えたこと
文:橋本裕介
今年1月16日に発表された、ロームシアター京都の新館長人事が波乱を呼んでいる。2016年のリニューアルオープンから館長を務めてきた平竹耕三氏(京都市文化市民局参事)に代わり、今年4月に新館長に就任するとされた三浦基氏は、京都を拠点に活動する劇団「地点」を主宰する演出家だ。だが昨年9月以来、同氏と地点は、劇団内で起きたとされる元劇団員へのハラスメント・解雇問題について、主に映像・演劇制作に関わる労働者の組合である「映演労連フリーユニオン」および元劇団員との間で、団体交渉の最中にある。
舞台芸術界からはさまざまな声が上がっているが、当事者の主張はこれまでほとんど聞こえてこなかった。以下は、ロームシアター京都のプログラムディレクターによる特別寄稿。内情を記すにとどまらない、そして同劇場にとどまらない問題提起に、ぜひ耳を傾けていただきたい。
なお、この記事とともに蔭山陽太氏のインタビューも掲載する。現在はTHEATRE E9 KYOTOの支配人である氏は、ロームシアター開館準備期間中の2013年8月から開館後の2018年3月まで同館の支配人/エグゼクティブディレクターを務めていた。蔭山氏もプログラムディレクターの橋本氏も、三浦氏と共同作業を重ね、京都を代表する劇場の骨格をつくりあげてきた仲である。併せてお読みいただければ幸いである。
橋本裕介(ロームシアター京都プログラムディレクター)
私は現在ロームシアター京都のプログラムディレクターという立場で仕事をしているが、2020年1月16日に当劇場の新館長就任記者会見が行われて以来、その経緯を明らかにすることを求める公開質問状が出る、またそれに伴い2020年度自主事業参加アーティストから辞退の可能性を示唆されるなど、この1ヶ月半多くの批判的な声に囲まれている。去る2月19日に行った2020年度自主事業ラインアップ説明会で明らかにしたように、私自身が新館長決定のプロセスに関わっていないため、そうした批判的な声に十分応えられるだけの情報を持っておらず、それが日々やり取りしている関係者に対しても逆に影響を与え、申し訳なく思うとともに対処に苦慮している。
本稿は、現在進行形の当劇場が抱える問題に対して何らかの説明や、今後の見通し、あるいは論評を加えるものではない。そうではなく、新館長に指名されている三浦基さんにたとえ係争中の問題がなかったとしても、今回の人事について私が考えたことについて、京都市に限らず日本の舞台芸術環境の課題として述べるものである。
“偏り”と“バランス”
私が年末にこの人事の決定を知らされたとき、就任時期や新館長の担う業務について、記者会見で実際に発表された通りのことが既に決まっており、記者会見の時期も揺るがないものだった。係争中の事案についてのリスクについて一通り懸念を伝えたのち、私が言ったのは、「では私はプログラムディレクターとして、お役御免ということですね」というものだった。それを聞いた京都市側の方々は非常に驚き、「いやいや、そんなつもりは全くないし、これまで通り仕事をしてもらえたらと思っている」とおっしゃった。本稿で伝えたい課題は、概ねこのやり取りにある認識の齟齬に集約される。
現館長・平竹耕三は、2016年1月の開館以来ロームシアター京都の館長を務めているが、就任当時の肩書きは、京都市文化芸術政策監である。2007年に文化市民局に着任して以来、京都市の文化行政に携わり、ローム株式会社とのネーミングライツ契約を取り付けてきた当事者である。そうした行政の立場から公共劇場としての役割を考え、いわゆる芸術性を追求する自主事業だけではなく、市民ホールとして市民の利用に供する場として、あるいはカフェや書店といった機能による市民の憩いの場としてどうあるべきか、総合的に統括していた。そのため、しばしば私は自主事業のプログラムの“偏り”について指摘を受けてきた。もっと“バランス”をとるべきだと。
ところが今回の人事では、新館長の役割として「ロームシアター京都における事業企画立案・実施」というものが新たに加わった。アーティストに館長を依頼するのだから当然と言えば当然である。
私がそこで問題にしたいのは、「なぜ行政職の館長からアーティストの館長へと舵を切ったのか? その根拠となる過去4年間の事業評価を、設置者である京都市はどのようにおこなったのか? また、これまで自主事業における“偏り”は是正の対象となってきたが、その点はアーティストが館長を担うことによって最早問わないのか?」ということである。私の見立てでは、「舵を切った」というほどの大きな方針転換のつもりはなく、また事業評価も行っていない、というのが現実だろうと考えている。だからこそ、上記のような「これまで通り仕事をしてもらえたら」という発言が出たのである。京都市側の方の中には、私がやり取りの中で思わず気色ばんでしまったので、気を遣って「これまでの4年間は高く評価しているので、これまで通りやって欲しい」と言って下さったりもした。しかし、それは私のプライドを多少慰めはしたものの、根本的な疑問の解決にはなっていない。そもそも、自主事業のプログラミングを統括していた私の上位にある館長職に「ロームシアター京都における事業企画立案・実施」という職務を付与する以上、私の仕事がこれまで通りであるわけがない。
ジェネラリストが劇場の統括をしていた時、私が担当していた自主事業は、この建物の活動のほんの一部であり、他の活動と補完し合う関係で行われる必要があるということが明確だった。いわゆる貸し館と呼ばれる事業で親しんでいる観客の方々、アーティストの方々がたくさんいて、またカフェや書店として親しんでいる市民の皆さんがいる中で、いかに現代的あるいは先鋭的な表現や、教育普及等の事業を行っていくべきかに腐心しながら、私は自主事業の企画立案を行っていた。“バランス”に気を遣いながら。
しかしアーティストが劇場の統括をするとなれば、当然そのアーティストによる作品上演や、芸術観を反映した運営が想定される。現にそれを期待して「事業企画立案・実施」という職務を付与し、館長プロデュース事業の実施ということも約束された。一体“バランス”はどこへ行ってしまったのか?
私はそのような劇場があってもいいと思うし、実際ロームシアター京都の開設準備の頃、館長ではないにせよ「アソシエート・アーティスト」という名称で、芸術家が劇場に深く関わるあり方を提唱した。しかしそのアイデアは京都市からは一笑に付された。そのような“偏った”あり方は現実的ではないという理由で。だから、ロームシアター京都も日本にあまたある公共ホールと同様に、あくまで《公の施設》という地方自治法244条に規定された設置根拠の枠内で、それぞれの地域の特性に合わせて、「ほんのちょっとの色付け」として自主事業を行っていくのだろうと思っていた。舞台芸術のキュレーターとしては、SPACのような施設(市民に貸し出す必要がない)をゼロから作ることと、既存の施設の中で自主事業の領域を広げていくことのどちらを選ぶかと考えたら、当時の自分の状況(KYOTO EXPERIMENTが軌道に乗り始めていた)から、またこれまでの京都の舞台芸術環境から、ロームシアター京都に携わるのが妥当な選択だったと思うし、今もそう思っている。
「芸術監督」という言葉の欺瞞
「アーティストを館長に迎えることによって、劇場に色を付けていく」という記者会見での発言(市長、理事長、及び専務理事がそれぞれ異なる言葉で似たニュアンスで語った)は非常に重いし、実はとても大きな方針転換である。本気でやるなら組織のあり方も見直し、予算的な裏付けも必要だし、そうでなければ逆にアーティストとしての館長は何もできない。果たしてそれが具体的な過去4年間の事業評価に基づいたものだったのか、そして覚悟の上でのことだったのか、私の知る限りにおいてはそうではないし、仮に事業評価がなされているとすれば公にすべきことである。これをオープンにして議論を生まなければ、検証ができず、京都市の文化行政の発展にとっても意味がない。あるいは、もし事業評価が全くなされていない状態で、いわば雰囲気でこうした人事を行い、現実的には文化行政上の方針転換をするつもりがないのだとすれば、館長として招いた人物をいわば“お飾り”として扱うことになり、それも問題である。
“お飾り”問題について、少し別の角度から説明したいと思う。私はロームシアター京都でもKYOTO EXPERIMENTでも、《プログラムディレクター》という肩書で仕事をしてきた。これは先行する国内の劇場・フェスティバルのキュレーターの方々に倣ったものである。しかし、私を知る海外の関係者は、私のことを別の誰かに英語で紹介するときには、《artistic director》と言う。それはフェスティバルや劇場の、芸術面(artistic)の監督(director)をしているからだ。この捻れには、日本の奇妙な習慣や思い込みが伏流している。日本の舞台芸術界では、とりわけ劇場における芸術監督は、芸術家(artist)による監督(director)と解釈されており、「キュレーターつまりアートマネジメント側の人間は裏方なのだから、芸術家が担う仕事の肩書を付けるのはまかりならん」というような暗黙の了解がある。それで苦肉の策として編み出した言葉が《プログラムディレクター》なのだろうと理解している。
ただ私は、日本の公立劇場の99%が用いるこの芸術監督という言葉には、欺瞞があると考えている。SPACを除いて、本当に劇場全体の芸術面を監督できている芸術監督がどこにいるだろうか? 繰り返しになるが、ほぼ全ての国内の公立劇場の設置根拠は、地方自治法にある《公の施設》であって、その目的は「市民の利用に供する」ことにある。つまり、場所を貸し出すことが施設の第一の目的である。だから、実際多くの劇場の責任者はジェネラリストであり、たとえ芸術監督を擁する劇場であっても、多くの場合芸術監督は組織の意思決定のラインに存在しない。つまり、対外的な影響力と、芸術監督プログラムによる集客が期待されているに過ぎず、そうした場所での芸術監督は、劇場全体の芸術面を真の意味で監督できる制度にはなっていない。
その背景にあるのは何か? これは私の推察だが、設置者である自治体が官僚制度、つまり自分たちのグリップを手放さないためだろうと考えている。著名な芸術家や有識者を神輿に担ぎ、その一方で匿名の官僚がコントロールするという図式である。
現在発生中の新型コロナウィルスへの対応に際し、日本政府が専門家の知見を十分に活用できていないように映るのと同様に、様々な公共政策の意思決定の局面で専門性が、実は遠ざけられているのが今の日本の社会ではないかと思う。聞くところによると、美術館の展覧会の関連イベントなどで、「担当学芸員によるツアー」と学芸員の名前を表に出さずに広報することがあるそうだが、その習慣にも同様の背景があるのだろう。
しかしそこで諦めるのも釈然としない。私のようなキュレーターでありプロデューサーでもある者は、アートマネージャーという専門家の端くれである以上、旧弊に抗って堂々とメッセージを放っていくべきだと考えている。アートマネージャーは単なるイベントの下請け業者ではなく、専門的知識と経験に基づいて、公共政策を担うことのできる存在で、その存在が前景化することによって、より長期的なビジョンに立って文化政策を推進できるはずだからだ。そのためには、たとえ目立ちたがりの誹りを受けても意に介さず、自らの言葉で政策を語る知識と胆力が必要である。「論理」を積み重ねて、検証可能なやり方で政策を実行する方が、人々の「印象」に訴えかけ、ときにコロコロと首をすげ替えるよりは、よっぽどサスティナブルで公共政策に馴染むのだから。
劇場が実現したいビジョンとは?
その一つの具体的な仕事が、劇場やフェスティバルにおけるプログラムのキュレーションだと言える。キュレーション、これは日本の舞台芸術の分野においては極めて未発達な領域である。もともと、舞台芸術を成り立たせるためのお金に占める入場料収入の割合は、他の芸術分野に比べて高い。これは舞台芸術が民主的なメディアであるとも言えるし、面白いものは既に観客の側が知っているとも言える。つまり、キュレーションなど無くとも、観客は自身で関心のある作品を見つけ、需要と供給のバランスは保てるのだ、という考え方もないわけではない。しかし、それだけで良いのだろうか。ポピュラーなもの、つまり多数派の声は、商業的にも成り立ち、民間の力でも十分にやっていける。だとすれば、税金をはじめとする公的な資金を用いる事業は、それを補完する上でも、小さな声、少数派の声にも応える必要がある。もしかすると、まだ生まれていない声、つまり未来の住人に対しても何ができるかを考えるべきかもしれない。それが結果として、新しい表現、あるいはまだ見ぬ異なる文化圏にある表現を紹介すること、作品をプロデュースすること、そして人材育成や、市民と共に作り上げていく事業へと形作られていくのだと考える。それらの成果はすぐには現れないが、社会に必要な公的事業である。だからこそ、「論理」の積み重ねが重要なのだ。
仮に劇場のトップにアーティストを戴くとしても(それ自体は悪いことではない)、根拠に立脚し、実現したいビジョンを持った上で、政策として必要な制度と予算を準備しなければ意味がない。
そんなわけで、今回のロームシアター京都の館長人事は、「論理」よりも「印象」を重んじるものであり、これまで私に限らず多くのアートマネージャーや有識者の知見を生かしてきた京都市の文化行政にとって、後退の印象を抱かずにいられないものである。この街の規模だからこそ、お互いに顔の見える関係を築くことが出来、それが功を奏してきたと考えてきただけに、残念である。
(2020年3月3日公開)