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「GEIST ー『多元な音響空間』の実現に向けた自動演奏楽器、入出力装置、および作曲・演奏法の開発」公開実験レビュー
文:三輪眞弘

2022.04.03
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撮影(以下すべて):井上嘉和
公演が終わり、薄暗い会場を出てから口をついて出てきた「機械じかけのお化け屋敷」・・は、何か皮肉混じりの言い方のようだがそうではなく、むしろぼくにとっては肯定的な感想だった。アメリカ実験音楽の古典とも言えるD.チューダーの「Rainforest」(1968〜)に着想を得、フィールド・レコーディングや、多チャンネル・スピーカーシステムによる電子音響音楽の発表様式として知られる「アクースモニウム」からの影響もあるであろうこの作品は、ぼくにとって多種多様な「音響的出来事」が重層的にせめぎ合い、ちりばめられたシンフォニーを聴いたような体験だった。ここで言う「音響的出来事」とは、無数の「音源」、すなわち録音の再生はもとより、電子的な合成音、エキサイター(振動子)などを用いた創作楽器(それらを「音具」と呼ぶことにしよう)や、それらの電子制御による自動演奏、さらに、ほとんど気づかれることはなかったが、人間の生演奏なども含まれ、それらが春秋座の舞台にセリ上げられた観客を囲み、鳴り響いたという事実である。また、それらの音響と絶妙に同期した照明は、全方向に配置されたそれらの「音具」を個々に浮かび上がらせては消え、「音源」の種明かしをしているようにも見えるのだが、それでもほとんどの「音源」はやはり謎のままである。おそらく、音響を特定の音源や意味に結びつけないという意味で、ミュージック・コンクレートの創始者、P・シェフェールが提唱した「アクースマティックな状況」を意識したものだろう。事実、多種多様な個別の「音具」は、それぞれが極めて個性的な音を発しているにもかかわらず、適度な抽象度を保ちながら互いの関係性の中で調和し、先に述べた「シンフォニー」という言葉をぼくに想起させたのだった。

この公演の間、これら無数の「音具」をすべて多チャンネル・スピーカー(システム)による再生に置き換えたらどうなるのだろうかと何度も考えた。20もあったというスピーカーからの再生音も含め、すべての「音具」もまたスピーカーからの再生音に置き換えることは可能だったのではないか。もちろん、その音響的な差を「目隠しテスト」でも識別できないとは限らないが、いずれにせよ観客にとって明らかなのは無数の奇妙な「音具」が身の回りに置かれていたことだろう。「音具」による「出来事としての音」を直接感じながらも、その音源の姿が定かでないような、先に述べた「アクースマティックな状況」とその時間進行を司る無人演奏システムの存在こそが多チャンネル・スピーカーでは決して代替できない本質的な違いであった。そしてそれは、この作品を特徴づける「遷移する気配」とでも呼びたくなる「幽霊的」な時空を生み出し、作者自身の解説にあったように「突然亡くなった父、そして父のいた時空」がそこに投影、いや、希求されていたと作者を知らないぼくにも素直に感じられた。やはり「幽霊の現れる」、ぼくが言うところの「機械じかけのお化け屋敷」として構想されていたのだと腑に落ちたのだった。

現在も続くコロナ禍において様々な「視聴覚装置(メディア技術)による表現」の可能性は拡大し続け、地球の隅々まで浸透した。その一方でぼくたちが呼吸を続けている「現実の時空」における芸術表現の基盤は、これからも音楽や演劇、ダンスなどの伝統的な「舞台」芸術のままなのか、それ以外に、根本的に新しい表現の「形式」というものはあり得ないのか。
 今回の公演でぼくが受け止めたのは、そのような壮大な問いかけだった。ところが、ここまでぼくが「公演」と書いてきたこのイベントは正式には「2021年度劇場実験Ⅰ|GEISTー「多元な音響空間」の実現に向けた自動演奏楽器、入出力装置、および作曲・演奏法の開発」プロジェクトの「公開実験」だという。そうだとすれば、一体これは何の「実験」で、何をもってその実験が成功/失敗したと判定すべきなのだろうか。いずれにせよ、ぼくは音楽作品を鑑賞はしても検証することはないので、なぜ「実験」という言葉が使われたのかが謎だった。そのことについて思ったことを以下に記す:

上記のように今回の「公演」があたかも工学研究の成果発表のように告知されたことに、ぼくは少なからず驚愕したわけだが、つまるところ、上記の名称はおそらくこのプロジェクトの予算獲得のための文言であり、決して「GEIST」という作品を鑑賞者が共有するために選ばれた言葉ではなかったということだろう。
 指摘する人は少ないが、近年、大学におけるすべての活動が「学問」ではなく、「研究」という言葉にすり替えられている。学問は「真理」を探求するものだったが、研究は設定された目的に支配され、その実利的な「成果」を常に要求する。一方、その要求に応じさえすれば娯楽(エンターテインメント)なども含め、これまで学術研究のテーマとされてこなかったこの世界のあらゆる事象を「研究」の対象にできる。ただし、それらにおける「予算がほしければ何の役に立つのか(目的を)説明せよ」という条件は、芸術創造を含む人文学関係のプロジェクトには本質的にそぐわない。いや、そのような目的/手段に支配されたこの世界を測る単一の「ものさし」をこそ相対化し、批判するのが、娯楽とは異なる、芸術・人文学の営みなのだとぼくは考えている。
 そのような意味で今回、未来の実時間表現のあり得る姿を高い完成度で示してみせたこのプロジェクトの成果を認める一方で、「GEIST]という作品の単なる再演ではない、さらなる可能性を「研究として定義する」という枠組みに何か無理があるように感じた。あるいは、アカデミズムにおける「研究」という概念そのものについて改めて考えさせられたと言うべきだろうか。

みわ・まさひろ
作曲家/メディアアーティスト。情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授
https://www.iamas.ac.jp/faculty/masahiro_miwa/

「GEIST ー『多元な音響空間』の実現に向けた自動演奏楽器、入出力装置、および作曲・演奏法の開発」劇場実験は、2022年3月16・17日に、京都芸術劇場 春秋座で計4回開催された。本レビューは、16日(水)15:00〜の上演に基づいて執筆されている。