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Review: 大友良英+田中泯“地球に生まれてきたことを何よりも誇りに思ってる人々へ!!で、即興。”@THEATRE E9 KYOTO
田中泯と大友良英の「3日目のゴドーを待ちながら」
文:小崎哲哉

2022.07.28
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All photos by Rin Ishihara
哲学者のロジェ・カイヨワは1978年、死の数ヶ月前に田中泯の踊りを観て「名付けようのない踊り」と評したという。もちろんサミュエル・ベケットの小説『名づけられないもの』(1953。邦訳は宇野邦一)の引用だろう。田中を撮ったドキュメンタリー映画の題名にもなった(2022。犬童一心監督)。言い得て妙である。

それもあり、田中がベケット好きだと聞いていたこともあって、舞台上に大友良英と登場したときには『ゴドーを待ちながら』を下敷きにした公演かと思った。ふたりともパナマ帽をかぶっていて、それが山高帽をかぶった『ゴドー』の主要登場人物、ディディことヴラジーミルと、ゴゴことエストラゴンに重なって見えたのである。どた靴ではないが、ふたりは黒い靴を履いてもいた。体型的に、田中がディディ、大友がゴゴだ。

会場のシアターE9は定員100名ほどのブラックボックス。舞台面も舞台を囲む壁も真っ黒に塗られている。上手には卓球台ほどの大きさの小舞台。中央のやや下手にギター、アンプと関連機器が並べられ、大友はほぼ真上からのピンスポットを浴びながら演奏した。チューニングでもしているように見せかけて、音叉のような器具でいきなり弦を叩く。大友を聴くのが初めてだったのか、突然の爆音に最前列の客がのけぞった。田中は小舞台の後ろからのっそり現れた。舞台袖の照明が大きな影をつくりだす。

一度ディディとゴゴだと思うと、もうそれ以外には見えない。原作は2日間を2幕で描いているが、これは3日目か。ゴゴは、現れなかったゴドーと、現れると請け合ったディディに拗ねたのか、決してディディと目を合わさない。ディディはふくれっ面のゴゴの機嫌を取るかのように、ゴゴに近づき、ギターを見つめる顔を覗きこみさえするけれど、ゴゴはまったく応じない。ギターを使ってひとり遊びをしているように見える。

ディディもゴドーを待ちくたびれたのか、ゴゴのつれなさに落胆したのか、歩みぶりが老人のそれである。前屈みで、決して後ろに反らない。ときどき両手を挙げて、斜め45度上を見る。大黒や上手下手の壁を伝う。「卓球台」に載って、ようやく背筋を伸ばした。手前左側の端に立って、45度以上の角度で、そこにはない空を見上げる。

ここまでが僕の中では『3日目のゴドー』の第1部。第2部は「差異と反復」が主題の原作(?)と異なり、がらりと様相を変える。きっかけは、舞台の奥のほうでディディ、もとい田中が上着を脱いだことだった。現れ出たのは真っ赤なTシャツ。このあとの田中は我が道を行くが如く遠慮がなくなる。背筋は伸びる。歩みは早まる。小走りさえする。ゴゴ、もとい大友も空気が変わったことを感じたのだろう。テンポは速まる。音は強まる。リズムは複雑化する。そしてついに、ディディ、もとい田中は真上、つまり90度上を向いて叫び声を上げるのだ。「あ〜、あ〜」「あ〜、あ〜」「あ〜、あ〜」。長い待ち時間のあとのカタルシス。

『ゴドー』は、決して来ない救済を待つ「絶望の物語」である一方、待つ間に様々な遊びを考え出しては実行する「遊びの物語」でもある。映画『ソナチネ』(1993。北野武監督)では、ビートたけし率いる小さな暴力団組織の組員数名が、最後のドンパチの前に沖縄の田舎の海岸で無為の日々を過ごす。花火や紙相撲など、子供のような遊びに耽って時間を潰すのだ。北野は、間違いなくベケットと世界観を同じくしている。田中泯もそうだと思う。

ゴドーは今日も現れなかった。だが、遊びに興じるディディとゴゴ、もとい田中と大友はすこぶる楽しそうだった。手練れにして長いつきあいのふたりは、アイコンタクトが皆無であっても踊りと音楽を完璧に同期させる。さて、次はどんな遊びをつくりだしてくれるのだろうか。『4日目のゴドー』、『5日目のゴドー』が待ち遠しい。

おざき・てつや
Realkyoto Forum編集長。京都芸術大学大学院教授

「スガダイロー+田中泯 / 大友良英+田中泯 “地球に生まれてきたことを何よりも誇りに思ってる人々へ!!で、即興。”」は、2022年7月14日〜17日に、THEATRE E9 KYOTOで上演された。このレビューは、7月17日の公演を観て書かれている。

THEATRE E9 KYOTO