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文化時評4:ディミトリス・パパイオアヌー『TRANSVERSE ORIENTATION』@ロームシアター京都
パパイオアヌー、横断する調教師
文:清水 穣

2022.08.18
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All photos by Julian Mommert
パパイオアヌーの作品の背後には、「飼い慣らすtame」という主題がつねに鳴り響いている。「文化」が「野生」を「飼い慣らす」と言うが、どちらも相対的な、つまり各々の文化に依存した概念である。結局「tame」とは、強い文化が弱い文化を「飼い慣らす」、つまり「上」から「下」へ暴力的に支配することになる(近代史における「白人の使命」)。大航海時代以降、「未開」で「野蛮」と見なされた非白人文化圏は、次々と「飼い慣らされ」植民地となっていった。その垂直的支配と搾取が、パパイオアヌーの引用する近世・近代ヨーロッパの芸術を裏打ちしている。美術史を彩る美しい絵画や彫刻のほとんどは白人の表象である、これが、パパイオアヌーの舞台に ―現代の国際的な舞踊団としては例外的に― アジア系やアフリカ系のダンサーが登場しない理由であろう。フルヌードが美術史的な記号として想起されるためには、それは白いヌードでなければならないのだ(ついでに言えば「ギリシア」もまた、植民地化された「非ヨーロッパ」に対して「ヨーロッパの起源」として構成された近代の概念である)。

事実上の植民地主義から逃れられない、この文化相対主義を超えるために、ある人々 ―最後のモダニスト― は、すべての人間的文化の外部としての絶対的野生を措定する。このとき「tame」は、絶対的野生を人間の文化に取り込むことであると同時に、その不可能性をも含意する。文化とは常に、津波の押し寄せる海岸線のように、絶対的野生を「tame」する可能性と不可能性のせめぎ合いである、と。『偉大なる調教師』(2019)は、まさに最後のモダニストの夢であった。せめぎ合う両者に対応して、舞台は上下二段仕立てで、見えない地下は野生の領分とされ、それを覆い隠す薄いベニヤ板を張り重ねた舞台上では、人間の文化 —古典絵画から宇宙飛行士まで— が書き割りのように次々と演じられるが、時折ベニヤ板を突き破って噴出する野生に中断された。

今作の『Transverse Orientation』は、前作になおも残っていた「上」「下」の関係を、横断的・水平的な関係へと導く試みであるように見える。舞台は上下ではなく、大きな壁で前後に分けられている。壁の後ろは見えないが、扉が一つ、その前後をつないでおり、そこを通って登場する人物たちが、息をつく間も与えず、次々と独創的な演技=舞踏を繰り広げては、我々の中のイメージの記憶を刺激しつづける。とは言え、これみよがしな美術史引用は影を潜め、対立する要素、例えば、テクノロジー(「照明用ガス」に見立てた蛍光灯)と身体(ダンサーの身体能力の限りを尽くすアクロバット)、人間の文化(黒いスーツ)と人間の自然(素裸)、動物(雄牛)と人間、男と女、内と外、虚と実…等々は、もはや互いにせめぎ合うのではなく、それぞれが個別性を保ったまま部分的に交差したり、キメラのように連続したりする(脚立とダンサーが一体化する;2人のダンサーが上半身と下半身を、着衣部分と露出部分を、連結させて這い回ったり、回転したりする;雄牛から女が産み落とされる;雄牛の頭部をもつ人間;外化した子宮を揉みつぶすと、こぼれ出た羊水の中から赤児が現れる;照明によって壁面に伸び広がる影絵と黒い実体が入り交じる)。「飼い慣らされた」雄牛が飲むバケツの水、ラオコーンの彫像のように身悶えする肉体に浴びせかけられる水滴(に見立てた小さなジェルボール)、垂れ落ちる羊水、床で反射して光のオーラとなってマリア(?)を包む落下する水など、「落下する水」の主題は、最後に舞台の床が覆され、それまでのすべてが潜在する水の上で行われていたことが暴露されるに至って、「tame」の主題とつながる。すなわち、異なる存在のすべてを(allではなくてevery)横断する潜在的要素としての「水」(ターレス?)が、人間(文化)と自然(野生)を連続させるのだ、と。垂直的な支配関係から解放された「tame」とは、tameする側とされる側が、つねにすでに何か共通のものに横断されていること、浸透されていることへの気付きである、と。

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ところで、よく知られているように「tame – apprivoiser」は『星の王子さま』の中心的な主題でもある。「僕は飼いならされていないJe ne suis pas apprivoisé」と王子に言い放つ狐は(同書21章)、「apprivoiser」とは「絆を作ること」、つまりお互いに世界に一つだけの存在になることであり、さらに何かを本当に知るための条件でもある、と教える。狐の教えは、そのまま芸術鑑賞の要でもあろう。例えば、指輪だの愛の霊薬だのと話が現実離れしているからオペラには感動できない、『魔笛』は音楽が素晴らしいのであってドイツ語の歌詞や台詞がわからないほうが良い…などという人は、オペラに「apprivoiser」されていないのだ。何千回と繰り返されてきたありきたりの筋立てや喜怒哀楽はうつろな形式に過ぎない。が、そこに個々の観客が自らの具体的な記憶や感情を接続したとき=絆を作ったとき、オペラはいわば全実体化(transubstantiation)を起こすのである。パパイオアヌーの作品もまたそれ自体としてはうつろな記号的存在でできている(ピクトグラムのような黒い球体の頭部を持った人物、黒いスーツ姿の男達、ヌード)。そのうえで彼の舞台とは、ダンサーが、いまここで、その超絶的な身体の動きを通じて、うつろな記号と絆を結ぶ=apprivoiserされる、現場なのである。そしてそれは、作品とその観客の関係にも及ぶ。横断的なオリエンテーションTransversal Orientationは、舞台と観客をも横断する、すなわちパパイオアヌーの作品は、観客をapprivoiserするからだ。上演後のスタンディングオベーションを見れば、apprivoiserされなかった観客は少なかった。
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(注)
カトリック/ギリシア正教の用語で、ミサで用いられる「パン」と「ワイン」が、そのまま「キリストの肉」と「血」として現前する秘蹟のこと。うつろな形式の受肉。


しみず・みのる
批評家。同志社大学教授

ディミトリス・パパイオアヌー「TRANSVERSE ORIENTATION」は、2022年8月10日と8月11日にロームシアター京都で上演された。このレビューは8月11日の公演に基づいて書かれている。なお、写真はいずれも過去公演のもの。