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文化時評5:ヴォルフガング・ティルマンス『To look without fear』@ニューヨーク近代美術館
我らはどこから来たのか、我らは何者か、我らはどこへ行くのか
文:清水 穣

2022.09.17
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wake (2001). Image courtesy of the artist, David Zwirner, New York / Hong Kong, Galerie Buchholz, Berlin / Cologne, Maureen Paley, London
コロナ禍により18ヶ月延期され、その分時間をかけて入念に準備されたヴォルフガング・ティルマンスの回顧展。作家は、初心に帰ったかのように、数多の模倣者を生んだ最初期のあの展示方法、すなわち大小の作品を、星座のように、電子音楽の楽譜のように1 、美術館の空間全体にちりばめるインスタレーションを使って、過去30年間の軌跡を見事に辿り直していた。

Installation view of Wolfgang Tillmans: To look without fear, on view at The Museum of Modern Art, New York from September 12, 2022 – January 1, 2023. Photo: Emile Askey

1989年のベルリンの壁崩壊を契機に、その後の数年間にヨーロッパを吹き抜けたボーダーレスな自由の空気とティルマンスを夢中にさせたレイヴ・カルチャー;そのなかで知り合った画家ヨッヘン・クラインとの恋愛;自らもAIDSに感染し、発症したヨッヘンの死;メメント・モリとしてのコンコルド連作;「君を忘れたくない I don’t want to get over you(2000)、ヨッヘンの死(彼の新しい写真が二度と撮れないこと)の否認から発生した抽象写真2 ;新自由主義とグローバリゼーションによる時代の閉塞;世界各地で発生する戦争とテロリズム;情報とイメージの奔流に抵抗する「Truth Study Center」3 ;デジタルカメラに持ち替え、デジタル技術の能力(肉眼を遥かに超える高解像力、光感度、印刷技術)をむしろ積極的に受容して、宇宙的時空間(日蝕、月蝕、金星の太陽面通過、土星と木星の大接近=Great Conjunction)を背景に、グローバリゼーションの波に洗われた後の、ローカルな地球各地の一瞬の光景を鮮やかに映し出した「Neue Welt」4 ;その後、ティルマンスを打ちのめしたBrexit、ベルリン移住、「ドイツのための選択肢 Alternative für Deutschland」の躍進とウクライナ危機;ティルマンスの音楽とヴィデオへの傾斜は、80年代テクノポップへの隠れなきノスタルジーを示し、展覧会の最後には、徹夜明けのパーティ(30年間の?)の残骸に朝日が差す光景を背景に、2つの鏡の塔が立っており、その間に入り込んだ者は両方向(過去と未来?)へ向かって無限写しになる、と。

The Cock (kiss) (2002). Image courtesy of the artist, David Zwirner, New York / Hong Kong, Galerie Buchholz, Berlin / Cologne, Maureen Paley, London

Venus transit (2004). Image courtesy of the artist, David Zwirner, New York / Hong Kong, Galerie Buchholz, Berlin / Cologne, Maureen Paley, London

「立つ鳥後を濁さず」という言葉が浮かぶほどストレートで美しい個展は、まるで54歳の作家が早々と記した自伝のようでもあり、弱体化するEU、ポスト・トゥルースの波に押されて後退する民主主義、復活する国境と壁の意識…等々に対し、アーティスト=アクティヴィストとして積極的に抵抗を続けてきた、ここ10年ほどのティルマンスの活動を想起すれば、ニューヨーク近代美術館という象徴的な場所を使って、アート・ワールドに潔く別れを告げているのかと疑いたくもなる5 。「これまで観た中で最も悲しい展覧会のひとつ」と、NYタイムズの展評子が書くのも不思議ではない。「あの汗まみれの90年代の深夜、あのとき我々は、新たなミレニアムの様々な自由を記録する歴史家に出会ったと信じていた。だが、そうではなく、ティルマンスとは自己起業家(フーコー)としてのアーティストの先駆けであり、不幸がスクリーンの外で積み重なれば重なるほど画像をアップし続ける我々の行為の先駆けであったとしたらどうか」(括弧内は清水)6 。言葉は選ばれているが、要は、功成り名遂げてMoMAでの回顧展にまで到達したティルマンスは今や時代に追いつかれ、終わりつつある、と。それはこの回顧展が与えるビタースイートな第一印象ではありえても、その理解ではない。

Freischwimmer 230 (Free Swimmer 230, 2012). Image courtesy of the artist, David Zwirner, New York / Hong Kong, Galerie Buchholz, Berlin / Cologne, Maureen Paley, London

Concrete Column III (2021). Image courtesy of the artist, David Zwirner, New York / Hong Kong, Galerie Buchholz, Berlin / Cologne, Maureen Paley, London

まず一番に感じられるのが、アメリカの批評家に、ヨーロッパを覆い始めている危機(ファシズムの回帰)に対する当事者意識がないことである。ここ10年ほどのティルマンスの政治化——「Truth Study Center」というあえてダサい題名、EU残留投票を訴えるダサいポスター、国連人権宣言まで持ち出してくる大文字の正義のダサさ——は、当事者としての危機感から直に来ている7 。大陸の人間が肌身で感じているであろう、暗い過去の反復への不安を、共有しない新大陸の人間に、「Freedom from the known」(MoMA-PS1、2006年)に端を発し、「Neue Welt」(2012年)以降はデジタル写真によって全面的に展開されるティルマンスの政治的芸術が理解できず、街頭デモやエイズ基金の写真も「自己正当化の自己満足」にしか見えないとしても仕方がないが、その責は作家が負うべきものではあるまい。

Lutz & Alex sitting in the trees (1992). Image courtesy of the artist, David Zwirner, New York / Hong Kong, Galerie Buchholz, Berlin / Cologne, Maureen Paley, London

次に、「ティルマンスの写真は、素人のスナップや現在のインスタグラムの写真と区別がつかない」という昔ながらの議論は、観者がそこにノンスタイルのスタイル、つまり演出された自然さしか見ていないせいである。しかしティルマンスが広告向けに撮った写真を見れば、その本質は逆に、わざとらしさの自然さにある。例えば、今回特大サイズで展示されたLutz & Alex sitting in the trees (1992)は、見るからに自然な写真ではないし、アレックスの目線の位置を見れば、撮影者は高い脚立か隣の木に登っている。幼馴染を裸にして1点の服だけ羽織らせ木に登らせるという演出からは一種の親密さintimacyが生まれているが、それが真実のレヴェル(互いに正直に振る舞う)ではなく、演出のレヴェル(互いに演技だとわかっている)に置かれているので、わざとらしさが自然さに転じるのだ。

Silver 152, chromogenic print, 21 5/16 × 25 1/4″ (54.2 × 64.2 cm) (2013). Image courtesy of the artist, David Zwirner, New York / Hong Kong, Galerie Buchholz, Berlin / Cologne, Maureen Paley, London

さらにまた、ティルマンスの写真は1点で完結するものではなく、等価性(写されたイメージが帯びている表層的な感覚、たとえば弾性、挿入、突出、光沢など)を通じて8 、あるいは同じイメージのサイズを違えた反復9 や、部分と全体の関係10 を通じて、さらにデジタル以降では、同じモチーフのアナログ版とデジタル版の対比11 を通じて、他の写真群と共鳴し、他の写真群へと連続していく。ヨッヘンの死を契機として誕生した抽象写真は、等価性自体の純粋な表現であるとともに、アナログ写真についてのメタ写真的な作品(身近なピンホール現象としてのPaper DropStudio Light、光化学変化自体の写真=シルヴァー)として展開し、上で述べたようなデジタル技術によってさらに発展中である(巨大なシルヴァーのシリーズなど)。展覧会全体に張り巡らされたイメージ群の複層的な共鳴に気がつけば、「輝かしい90年代からの下り坂の物語」はあまりにも単線的で、作家本人の人生に寄り過ぎている。そもそも、自分の来し方を徹底的に振り返る展覧会は、これで2度目である(1度目は、10歳時の天文写真にまで遡って過去のすべての作品を時系列順にカタログ化した「If one thing matters everything matters」[Tate、2003年])。ヴォルフガング・ティルマンスは、定期的に過去を整理して空っぽになる作家なのである。それは失われた過去を偲ぶためではなく、過去から自由になるためだ。交響するイメージ群が奏でているのは歓喜の歌でもなければ、レクイエムでもない。
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(注)
1 例えば、カールハインツ・シュトックハウゼンの電子音楽『STUDIE II』(1954)のスコア(部分)。
2 清水穣「メメント・モリ——ティルマンス抽象写真の誕生」参照。清水穣『日々是写真』(現代思潮新社、2009年)所収
3 清水穣「歪んだ四角形——ヴォルフガング・ティルマンスと写真の空間性」参照。清水穣『日々是写真』(現代思潮新社、2009年)所収
4 清水穣「リフレインと散種——ヴォルフガング・ティルマンスの「デスクトップタイプ」レイアウト」参照。『ヴォルフガング・ティルマンス』(美術出版社、2014年)所収
5 実際、ドイツ国会議員への立候補を考えて、複数の議員に相談までしたそうである。「おそらく(年齢なりの)責任を果たすべきときなのでしょう。(社会的関与の芸術などを見れば)人々はますます政治的になっていますが、誰も政治の世界に踏み込もうとはしない」(括弧内は清水)。Matthew Andersonによるインタヴュー ”Wolfgang Tillmans: Older, Wiser, Cooler,” The New York Times(2022年8月29日発表、9月1日更新)
6 Jason Farago, “Disappearing World of Wolfgang Tillmans,” The New York Times(2022年9月8日、プレス内覧会直後の神速批評!)
7 この選択されたダサさは、高橋悠治の水牛楽団への転身を想起させる。
8 清水穣「ヴォルフガング・ティルマンス―等価性の芸術」参照。清水穣『写真と日々』(現代思潮新社、2006年)所収。
9 本展で言えば、第1室 Wall 1-4 Springer 1987 → 第11室 Wall 2-2 Springer 1987。部屋番号と壁面番号は、本展のパンフレットに記載された展示図による。
10 第1室 Wall 2-15 Adam redeye 1991 → Wall 2-17 Adam redeye (photocopy) 1991ほか、多数。
11 夜空や夜景、そして深夜のクラブの室内の写真が好例である。アナログの前者とは異なり、デジタルの後者(第7室以降)では、撮影時に写真家の肉眼がこのような光景を見ていたわけではない。これらは写真映像になって初めて存在し始めた光景なのである(第7室 Wall 7-9 Munuwata sky 2011, 第8室 Wall 4-6 The Spectrum/Dagger 2014, 第11室 Wall 4-5 crossing the international date line 2020など)。

しみず・みのる
批評家。同志社大学教授

Wolfgang Tillmans個展『To look without fear』は、ニューヨーク近代美術館で2023年1月1日まで開催中。