文化時評8: 梶原靖元展@ギャラリー器館
須佐、珠洲、そして壱岐 ― 梶原靖元の現在
文:清水 穣
2023.01.13
特定の古陶磁の伝世品をオリジナルとして、そのコピーを現代の技術で作れば、それは「仿作」であり(コピーであると明示すれば)、「贋作」にもなる(コピーをオリジナルと偽れば)。そういうオリジナルはないが、古陶磁(志野、織部、初期伊万里…等々)と見紛う作品を現代の技術で作れば、それも「贋作」になり(伝世品であると偽れば)、あるいは「写し」と呼ばれる(現代の作者名を伴えば)。現在の日本で、モダンクラフトやオブジェの作家を除いた陶芸家のほとんどは、巧拙の差はあれ、何らかの「写し」を制作していると言える(「清水穣作、斑唐津盃」のように)。「写し」を現代美術の用語に翻訳すれば、さしずめ「アプロプリエーション」といったところだろう。オリジナルのないコピーであるから、「写し」の作家は ―アプロプリエーションにはるかに先駆けて― 古陶磁のシミュラークルを作ってきたわけである。
しかし、1990年代以降、古窯の発掘が進み古陶磁の歴史記述の精度が上がるにつれ、文献と伝世品に基づいてきた従来の歴史が書き換えられると、「写し」のなかから「原理主義」とでも呼べる傾向が現れてきた。梶原靖元(かじはらやすもと、1962-)もその一人である。「原理主義」とは「見かけ」は重要ではない、という意味である。「写し」は数百年の時を経た古陶磁の現在の見かけを、現代の技術によって写す。言い換えれば、最初から数百歳の老人を作る。「原理主義者」は、新しい歴史認識に従って数百年前の素材と技術を再現し、新しくその古陶磁を制作する。たった数百年では地層分布は変わらず、窯の中で生じる物理化学現象に今昔の差はありえないから、原理主義者は当時の陶工になりきって制作できるわけである。梶原は、現代に蘇った古唐津の陶工であり、唐津各地の地質に応じた「単味の石もの」(岩石 ―砂岩、頁岩、花崗岩― から作られた粘土のみで作られた焼物)としての古唐津の再現に成功して、唐津焼に画期をなした陶芸家として知られる。
古唐津は、壬辰倭乱(秀吉の朝鮮出兵1592-98)の際に、陶芸の先端技術者として「拉致」されてきた朝鮮人陶工が、岸岳を中心とする唐津の地で、朝鮮半島の陶石の代わりとなる素材を探し出し、それ(砂岩、頁岩)を用いて、李朝の技術で制作した焼き物のことである。やがて彼らは、出兵基地の名護屋に集結していた大名たちの趣味、すなわち侘び茶に適応するとともに、美濃へは最新の連房式登窯の技術を伝えた(その登窯で織部、志野織部は焼かれた)。その後、一群の朝鮮人陶工が有田泉山に陶石を発見すると、日本でも磁器生産(初源伊万里、初期伊万里)が始まり、それと反比例するように古唐津は衰えていく。古唐津は、桃山陶と李朝陶磁の交差点に発生し、その後の日本陶芸史に決定的な影響を残すとともに、この交差点からは、李朝を通じて高麗へ、さらに北宋の陶磁へと遡行できるし、また桃山陶を通じては古瀬戸へ、猿投へ、陶邑へ、須恵器へ、そしてふたたび朝鮮半島へと遡行できる。ある意味で、古唐津には東洋陶磁史が集約されているのだ。そして梶原陶芸とは、新しい古唐津(?)の制作にとどまらず、東洋陶磁史上の様々な時代への遡行であり、その時間旅行から産み落とされる作品は、新たな歴史認識に基づく古陶磁の新解釈である。
2020年に西日本新聞に連載された『古唐津点描』は、作家の30年に渡る実制作に裏打ちされた東洋古陶磁に対する深い造詣を端的に表したものである。それが作家に一種の「やりつくした感」を与えたとしても不思議ではない。事実、連載以降、作家は唐津の交差点から、躊躇いもなく脇道へ、けもの道へと逸れ始め、不気味で可愛い(?)オブジェ(古唐津と同時代の「肥前狛犬」を模したもの)、岩を焼いただけのオブジェ、何とも造形の意思を欠いた、ゆる〜い手びねりのヘタウマ絵付皿が登場して、梶原ファンをハラハラさせてきた。その逸脱は止まるところを知らない(上記すべて本展にある)が、それが、原理を動かさず、古陶磁「再現」というモードからの逸脱であることは、はっきりしている。
逸脱の1つのパターンは、古の朝鮮人陶工の鋭い眼力が、朝鮮の沙土(白花崗岩の風化物)に代わる地層を見抜いて古唐津を作り出したように、陶工梶原は日本各地に旅行すると、その土地の地層を見抜いて、「もしその地に朝鮮人陶工が連れてこられていたなら、作ったであろう焼物」を制作するというものである。例えば去年の個展で、作家は古唐津には現れないが、李朝の象嵌青磁に見られる、釘でひっかいたような粗い象嵌に着目し、その技法によって良寛の書を象嵌したシリーズを作り出していた。本展の「五合庵陶石」のシリーズは、その良寛の寺として知られる新潟県燕市の国上寺五合庵を訪れた作家が、その礎石に白い陶石が用いられていることに気がついて、周辺の山を探し歩き、採取した陶石から作られた。また「壱岐手」は、芭蕉の旅の随行者として有名な河合曾良の墓を訪ねて、唐津から壱岐に渡った作家が、やはり偶然に発見した真っ黒な粘土(梶原の命名「木炭粘土」)から作られた優品で、薄造りのなめらかな造形を許す可塑性と艶のある漆黒は、まだまだ未知の可能性を秘めている。また、「須佐唐津」のシリーズは、実際に古唐津の陶工が招聘されて山口県須佐で焼いた焼物の歴史を追憶するものである(須佐唐津の窯跡がある)。
逸脱の2つ目は、陶芸史の再確認である。過去にも、岡山県の寒風古窯跡群(備前焼の前身である須恵器の古窯)や、そのルーツとしての新羅土器や伽耶土器を参照する作品群があった。本展の「珠洲」シリーズは、やはり須恵器系古窯として知られる珠洲焼の素材である珪藻土(珪藻泥岩)を、梶原流に料理した作品群で、その料理法は、珠洲の技術が半島から直に伝来した(南下説)のではなく、畿内から北上したものだという仮説(北上説)に基づいている。淡い水色が美しい「大谷山水釉」のシリーズは、かつて北宋汝窯へのオマージュとして作られた「清涼寺釉」「天青釉」に連なり、鉄を主体とする釉薬の乳濁に由来するブルーを追求するもので、汝窯〜高麗青磁〜会寧〜斑唐津といった系譜から、共通分母を抜き出したような作品群である。ここから、梶原の中国陶磁への接近が再び始まるのかもしれないと思えば、ハラハラする甲斐もあるというものだ。
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
『梶原靖元展』は、ギャラリー器館で2023年1月22日まで開催中。
しかし、1990年代以降、古窯の発掘が進み古陶磁の歴史記述の精度が上がるにつれ、文献と伝世品に基づいてきた従来の歴史が書き換えられると、「写し」のなかから「原理主義」とでも呼べる傾向が現れてきた。梶原靖元(かじはらやすもと、1962-)もその一人である。「原理主義」とは「見かけ」は重要ではない、という意味である。「写し」は数百年の時を経た古陶磁の現在の見かけを、現代の技術によって写す。言い換えれば、最初から数百歳の老人を作る。「原理主義者」は、新しい歴史認識に従って数百年前の素材と技術を再現し、新しくその古陶磁を制作する。たった数百年では地層分布は変わらず、窯の中で生じる物理化学現象に今昔の差はありえないから、原理主義者は当時の陶工になりきって制作できるわけである。梶原は、現代に蘇った古唐津の陶工であり、唐津各地の地質に応じた「単味の石もの」(岩石 ―砂岩、頁岩、花崗岩― から作られた粘土のみで作られた焼物)としての古唐津の再現に成功して、唐津焼に画期をなした陶芸家として知られる。
古唐津は、壬辰倭乱(秀吉の朝鮮出兵1592-98)の際に、陶芸の先端技術者として「拉致」されてきた朝鮮人陶工が、岸岳を中心とする唐津の地で、朝鮮半島の陶石の代わりとなる素材を探し出し、それ(砂岩、頁岩)を用いて、李朝の技術で制作した焼き物のことである。やがて彼らは、出兵基地の名護屋に集結していた大名たちの趣味、すなわち侘び茶に適応するとともに、美濃へは最新の連房式登窯の技術を伝えた(その登窯で織部、志野織部は焼かれた)。その後、一群の朝鮮人陶工が有田泉山に陶石を発見すると、日本でも磁器生産(初源伊万里、初期伊万里)が始まり、それと反比例するように古唐津は衰えていく。古唐津は、桃山陶と李朝陶磁の交差点に発生し、その後の日本陶芸史に決定的な影響を残すとともに、この交差点からは、李朝を通じて高麗へ、さらに北宋の陶磁へと遡行できるし、また桃山陶を通じては古瀬戸へ、猿投へ、陶邑へ、須恵器へ、そしてふたたび朝鮮半島へと遡行できる。ある意味で、古唐津には東洋陶磁史が集約されているのだ。そして梶原陶芸とは、新しい古唐津(?)の制作にとどまらず、東洋陶磁史上の様々な時代への遡行であり、その時間旅行から産み落とされる作品は、新たな歴史認識に基づく古陶磁の新解釈である。
2020年に西日本新聞に連載された『古唐津点描』は、作家の30年に渡る実制作に裏打ちされた東洋古陶磁に対する深い造詣を端的に表したものである。それが作家に一種の「やりつくした感」を与えたとしても不思議ではない。事実、連載以降、作家は唐津の交差点から、躊躇いもなく脇道へ、けもの道へと逸れ始め、不気味で可愛い(?)オブジェ(古唐津と同時代の「肥前狛犬」を模したもの)、岩を焼いただけのオブジェ、何とも造形の意思を欠いた、ゆる〜い手びねりのヘタウマ絵付皿が登場して、梶原ファンをハラハラさせてきた。その逸脱は止まるところを知らない(上記すべて本展にある)が、それが、原理を動かさず、古陶磁「再現」というモードからの逸脱であることは、はっきりしている。
逸脱の1つのパターンは、古の朝鮮人陶工の鋭い眼力が、朝鮮の沙土(白花崗岩の風化物)に代わる地層を見抜いて古唐津を作り出したように、陶工梶原は日本各地に旅行すると、その土地の地層を見抜いて、「もしその地に朝鮮人陶工が連れてこられていたなら、作ったであろう焼物」を制作するというものである。例えば去年の個展で、作家は古唐津には現れないが、李朝の象嵌青磁に見られる、釘でひっかいたような粗い象嵌に着目し、その技法によって良寛の書を象嵌したシリーズを作り出していた。本展の「五合庵陶石」のシリーズは、その良寛の寺として知られる新潟県燕市の国上寺五合庵を訪れた作家が、その礎石に白い陶石が用いられていることに気がついて、周辺の山を探し歩き、採取した陶石から作られた。また「壱岐手」は、芭蕉の旅の随行者として有名な河合曾良の墓を訪ねて、唐津から壱岐に渡った作家が、やはり偶然に発見した真っ黒な粘土(梶原の命名「木炭粘土」)から作られた優品で、薄造りのなめらかな造形を許す可塑性と艶のある漆黒は、まだまだ未知の可能性を秘めている。また、「須佐唐津」のシリーズは、実際に古唐津の陶工が招聘されて山口県須佐で焼いた焼物の歴史を追憶するものである(須佐唐津の窯跡がある)。
逸脱の2つ目は、陶芸史の再確認である。過去にも、岡山県の寒風古窯跡群(備前焼の前身である須恵器の古窯)や、そのルーツとしての新羅土器や伽耶土器を参照する作品群があった。本展の「珠洲」シリーズは、やはり須恵器系古窯として知られる珠洲焼の素材である珪藻土(珪藻泥岩)を、梶原流に料理した作品群で、その料理法は、珠洲の技術が半島から直に伝来した(南下説)のではなく、畿内から北上したものだという仮説(北上説)に基づいている。淡い水色が美しい「大谷山水釉」のシリーズは、かつて北宋汝窯へのオマージュとして作られた「清涼寺釉」「天青釉」に連なり、鉄を主体とする釉薬の乳濁に由来するブルーを追求するもので、汝窯〜高麗青磁〜会寧〜斑唐津といった系譜から、共通分母を抜き出したような作品群である。ここから、梶原の中国陶磁への接近が再び始まるのかもしれないと思えば、ハラハラする甲斐もあるというものだ。
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
『梶原靖元展』は、ギャラリー器館で2023年1月22日まで開催中。