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文化時評16:菊池寛実記念 智美術館「河本五郎-反骨の陶芸」展
反骨のアイデンティティ
文:清水 穣

2023.10.05
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「河本五郎-反骨の陶芸」展 展示風景
菊池寛実記念 智美術館 撮影:渞忠之
河本五郎の言葉から始めよう。「陶芸家というものが芸術家であるとすれば、今までみたこともない新しい美しさを発見して、創り出してみせる義務がある。そういうことはなまじ出来ることではないけれど、そういう妄想を抱いた人を陶芸家といいたい」1。智美術館が定期的に開催する、中堅〜巨匠陶芸家の回顧展を、私は毎回楽しみにしている。それは、もしその陶芸家が「芸術家」と呼びうる本質を備えているならば、初期から晩年(ないし最近)までの作品群に、作家の本質は否応なく表れるからである。隠﨑隆一のときも、秋山陽のときもそうであった。これは個性的作風(人と違うことをする個性的な陶芸家ならいくらでもいる)の話ではなく、作家の主体的選択を超えた次元の話である。陶芸家の本質は、そうであることしかできないという作品の内的な必然性として表れる。作品からその必然性が読み取れたとき、その制作者は「芸術家」と呼ばれる。

東海地方以外で、河本五郎(1919-1986)と聞いてピンとくる人は、かなりの陶芸通と言えるだろう。おそらく直近ではパラミタミュージアム(三重県)の「没後30年河本五郎展 上絵に込めた情念の美」展(2017年)が、本展の背中を押したのかもしれない。没後30年経って、回顧展を実現するだけの河本作品が集まったという事実は、作家がまだ忘れられていないことを証していた。河本作品を買い支えてきた全国各地の愛好家たちは、長らく忘却の淵にあった作家に光が当てられたことを喜んだであろう。

「赤絵の壺」1971年
撮影:渞忠之(以下、すべて)

「色絵史神文四方器」1974年

現在、河本五郎のシグニチャー的なスタイルと言えば、ザラついてマットに仕上げられた白磁の、歪んだ箱状の造形に、奔放な染付が施されているというものである。それがいまひとつ分かりにくく人気と結びつかない理由は、なるほど表面の質感は独特で、磁器の不規則な形のタタラ作りには匠の技が光るとはいえ、それだけで河本陶芸を代表できるほど(例えば三輪一族の鬼萩、池田省吾の絵付けのように)突き抜けたものではなく、また好んで用いられる歌垣文様も、たしかに独特な絵付けではあれ、日本酒黄桜のカッパのキャラクター(清水崑)を連想させたりもするからである。言い換えれば、河本陶芸とは、マットな肌合い、ロクロを使わない造形、世俗に傾いた絵付けの三重の組み合わせでできている。

「染付歌垣四方壺」1977年

「色絵撩乱の箱」1974年
瀬戸市美術館蔵

展覧会を通して見れば、作家は一度確立された作風を捨て、かなりの紆余曲折を経てこのスタイルに到達したことがわかる。「陶器でも磁器でもない私自身の芸術を心がけねばならない。」 しかし「私自身の芸術」は、たとえば、ジョアン・ミロやイサム・ノグチに倣うオブジェ陶芸の道ではなかった。また他方で、河本は桃山陶について「伝統なるものは、すべての陶芸が背負わざるを得ない遺伝因子みたいなもので、伝統派だけのものではない。しかもこの世界では、伝統の遺伝因子の展開とか進展はあまり試みられることはなく、多くはその形骸あるいは外容の踏襲、なぞりに伝統なる文字が当てられる感が強い」2と、おそらくは加藤唐九郎あたりを念頭において、批判している。これらの発言に拠れば、河本陶芸(三重体)は、陶器ではなく、景徳鎮に代表されるような磁器でもないもので、瀬戸・美濃(古瀬戸、桃山陶)の「伝統の遺伝因子の展開とか進展」であるということになる。それはどのようなものか。

ここで、戦後の中部東海地方における、河本五郎〜鯉江良二〜加藤委という系譜 ―歪んだ造形の系譜― を仮定し、加藤委を補助線として召喚しよう。加藤陶芸は、磁器の世界へ持ち込まれた桃山陶の表現であり、桃山陶そのものの本質について再考を促すものでもある。その加藤に「仁井余ンパ」というシリーズがある。にいよんぱ、すなわち国道248号線は、美濃から瀬戸を抜けて猿投へ、古窯で言えば元屋敷窯跡から瀬戸古窯を抜けて黒笹古窯群へ通じている。ここには桃山陶を、猿投白瓷からの連続性において見る視点がある。この「連続性」とは朝鮮由来ということである。

 
周知のように猿投は須恵器 —すなわち朝鮮— をルーツとするが、その後に中国青磁を目指すも、あと一歩で実現できなかった窯である。元屋敷の連房式登窯も唐津経由の朝鮮由来であるが、ベクトルは逆で、志野や織部は唐物からの差異化を目指して焼かれたのであった。1930年代、かつて列強諸国に対して「日本」として売られてきた超絶技巧の明治陶芸がじつは中国以上に中国的な陶芸に他ならなかったと知られるようになり、あらためて中国とは異なる日本陶芸のアイデンティティが問われたとき、それを桃山陶に遡って「見出した」人々は、そこで愛でられた歪みや不完全の美が、すでに高麗茶碗にもあったことをあえて見ようとしなかった。「仁井余ンパ」シリーズは、モダニズムの要請に応えて構成された日本陶芸のアイデンティティの核心に「朝鮮」が存在したと示唆するのだ。桃山時代、茶陶において唐物中心の美学から、侘び寂びという対抗美学への転換がなされた。しかしそれは、朝鮮陶磁を接ぎ木することによってではなかったか、と。

「染付流沙幻相匣」1984年

陶器ではなく景徳鎮でもないもの、磁器肌の質感、歪んだ造形と染付、それは端的に言って李朝白磁の世界である。河本はあの接ぎ木の場所、すなわち日本陶芸の「アイデンティティ」の核心に戻り、明治以降の近代陶芸史と植民地朝鮮、古唐津と古瀬戸、そこにおける中国と朝鮮の配分など、歴史の複合的な「遺伝因子」を踏まえて、あの三重体にたどり着いたのだ。それは、純粋には日本でも朝鮮でも中国でもなく、部分的には三者のどれでもあるということである。陶芸のアイデンティティはつねにキメラ状をしている。東洋陶磁史の中に河本陶芸の先行例を探せば、絵唐津や古染付ということになろう。朝鮮の職人が日本にある素材で李朝染付を作り、中国の職人が日本からの注文であえて歪んだ造形やヘタウマな絵付け(鶏龍山のような)を描いた。どちらにも侘茶趣味が臭うが、それは侘茶もまたキメラだからである。その侘茶趣味を吹き飛ばすのが、河本の世俗指向、その乱交のような絵付け、段ボール箱やコンビーフの缶のような造形である。反骨の陶芸とは、乱交の陶芸、すなわちフュージョンの陶芸にほかならない。
 
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(注)
1 本展図録『反骨の陶芸 河本五郎』。菊池寛実記念智美術館、2023年、97頁。

2 河本五郎「現代日本の陶芸 第8回中日国際陶芸展に寄せて」。『中日新聞』夕刊、1980年6月6日。

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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授

「河本五郎-反骨の陶芸」展は、菊池寛実記念 智美術館で、2023年4月22日~8月20日まで開催された。