文化時評17:京都芸術センター FOCUS#5 麥生田兵吾「色堰き空割き息返かかか」展
凝視の果て、麥生田兵吾の写真
文:清水 穣
2023.10.17
完璧なテクニックをもちながら独特の癖が抜けない、麥生田兵吾はそんなピアニストに似ている。どんな凡庸な鼻歌からでも素晴らしい曲を展開してみせる音楽家のように、この写真家は京阪電車や学研都市線の沿線、つまり大阪や奈良の鄙びた郊外で見つけたどんな人間であろうと、廃墟であれゴミであれ、美形も異形もひとしく、魅力的な写真にしてみせる。このテクニシャンはまた、人の警戒心を解く天才であり、10分前に知り合った男を全裸で池に飛び込ませ、10分後には他人の家に上がり込んで写真を撮っている。
河原温の「Today」のように、毎日欠かさず撮影した写真を「pile of photographys」と題してブログにアップする活動を続けながら、麥生田は専ら「Artificial S」という主題の下に制作を行ってきた。今展には直接関係していないようだが、Artificial SのSはSubject(主題、主体)であり、非人称のEs(ドイツ語のit)でもあろう。つまり写真の主題であり、写真の主体であり、非人称のカメラアイの謂であって、1枚の写真は、それら3つの人工的な構成物の相互作用から生まれる。写真とは、構成された非人称性を通じて、構成された主体が構成された主題と「対」となって結ばれる場所であり、麥生田の展示はつねに、その場所を凝視するよう求めている。かつて牛腸茂雄もまた、いわゆる「コンポラ写真」から離れた場所で、「対」としての写真を生きた作家だったが1、牛腸の「対」が一貫して対称的な(=正対する)自己と他者、自己と世界の対であったならば、麥生田のそれは、カメラという第3項のせいで対称性が保証されないという意味で、非対称の対である。
展覧会は、京都芸術センターのギャラリー南とギャラリー北の2会場で開かれた。ギャラリー南は、一見すると見慣れた日常スナップのコレクションだが、よく見れば、写真としてしか存在しないイメージ(高解像度・高速度デジタル撮影によって、空中で煌めきながら静止した水滴や水面;長めの露出によってハイライトが強調された静物、等々)、そして写真を主題としたイメージ(さまざまな逆光のヴァリエーション、一=多、隻眼、盲目性)が、プリントされた紙という現実の物体として、壁面から浮かせて提示されていた。見慣れた世界の断片は、実は存在しないデジタルイメージであり、われわれがいま現実に眼にしているものはただの紙である、と。ただし、浮かせるためにむき出しの角材を用いたのは、展示に凝りすぎない何気なさの表現としてであったかもしれないが、結局のところ、演出されたその何気なさがわざとらしかった。ヴォルフガング・ティルマンスの、大小の写真をランダムに組み合わせる壁面展示に倣ったインスタレーションは、モチーフ ―数名の人間が体を密着させて一つの塊となる遊び― の類似性(ティルマンスのKnotenmutter (1994)参照)もあって、成功しているとは思えなかった。選びぬかれた一つ一つの写真には十分な強度が備わっていただけに、余計な(青臭い?)インスタレーションは省略しても良かっただろう2。
それとは対照的に、ギャラリー北のインスタレーションは実に効果的で、見る者を何回も作品の前に立ち返らせ、深い印象を残した。そのテーマは、写真に写し込まれている視覚情報を現実として受容する方法であり、画像を現実の側へ一歩踏み出させる実験である。このインスタレーションの基本はライティングで3、コロンブスの卵というべきか、作家は写真の中の光に従って照明を組み立てただけである。具体的に言えば、写真の中の明るい部分(フェルメールの絵のような光の滴り、ハイライト、天体)に、実際にスポットライトを当ててわずかに光らせ、写真の中で光が差してくる方向(例えば明るい空)から光源を隠したライトの光を当てる。作品サイズが大きい前者では、まるで本物の風景を眼のあたりにしているようで、スポットライトの光を手で隠して初めて写真に戻るのであった。比較的小サイズの後者では、郊外の廃屋に、雲のない白い空から本当に光が差しているので、まるでどこか遠くの世界を覗き見ているかのようであった。
だまし絵のようなこれら作品とは逆に、放棄された火葬炉の写真では、炉の奥(ただの写真の状態では真っ暗で見えない)にスポットライトが当たると、薄汚れた内部が見える。写真内の暗がりに現実の光を当てると、見えなかった細部が浮かび上がるのは、奇妙な経験である。「不可視だったものが、写真によって可視化している」のではなく、ここでは写真自体が不可視性を含み、「その全てを見ることは出来ない」もの、つまりは現実と化しているからである。
最後に、麥生田展に必ず登場するグロテスクな被写体について。本展で言えば、潰れたミミズや幼鳥の死骸、捨てられたオナホール(フェラチオ仕様)などがそれにあたる。いわゆるアブジェクトなモチーフであるが、光る水滴、可愛い子供や花や虫がフォトジェニックであるのと同じく、アブジェクトもまたフォトジェニックである。ある社会の明るい表と暗い裏の両方のイメージを相殺しているのかもしれない。が、それではプラスとマイナスでゼロになるだけである。アブジェクトへの偏愛が写真の零度への志向に等しい、それでは、アブジェクトが泣くというものであろう。
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(注)
1 清水穣「プロヴォークとコンポラ」『デジタル写真論』(東京大学出版会、2020年所収)参照。 2 ついでに言えば、現代詩のような展覧会タイトル(色を堰き止めて空、空を割いて色、色即是空の境地で、すべての言葉は息を吹き返し、オノマトペのような直接性を取り戻す…?)も感心しない。この推測が正しいとして、オノマトペは指示対象を欠き、差異化された音韻の純粋形態であって、むしろ翻訳困難で不自由な言葉である。基本語彙の少ない日本語は、オノマトペ(「ごりごり」「もぞもぞ」といった反復語)に頼るところが大きく、日本語母語話者には感覚的に理解され、勝手に造語(「もふもふ」)さえされるが、これらの語彙が、日本語学習者には切りのない困難となる。 3 ライティングではなく、子供がこちらへ差し出している小動物(「か」ニ、「か」エル、「か」メ)の写真を、文字通り手前側へ突き出して展示した作品や、丸い写真を鏡に映して見せる作品もあった。後者の効果も不思議なもので、マイナスが自乗されてプラスになるように、映像が自乗されて奇妙な現実感が出現していた。被写体がグロテスクな「口」であるだけにますますそうであった。
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
FOCUS#5 麥生田兵吾「色堰き空割き息返かかか」展は、京都芸術センターで、2023年8月19日〜9月18日まで開催された。
展覧会は、京都芸術センターのギャラリー南とギャラリー北の2会場で開かれた。ギャラリー南は、一見すると見慣れた日常スナップのコレクションだが、よく見れば、写真としてしか存在しないイメージ(高解像度・高速度デジタル撮影によって、空中で煌めきながら静止した水滴や水面;長めの露出によってハイライトが強調された静物、等々)、そして写真を主題としたイメージ(さまざまな逆光のヴァリエーション、一=多、隻眼、盲目性)が、プリントされた紙という現実の物体として、壁面から浮かせて提示されていた。見慣れた世界の断片は、実は存在しないデジタルイメージであり、われわれがいま現実に眼にしているものはただの紙である、と。ただし、浮かせるためにむき出しの角材を用いたのは、展示に凝りすぎない何気なさの表現としてであったかもしれないが、結局のところ、演出されたその何気なさがわざとらしかった。ヴォルフガング・ティルマンスの、大小の写真をランダムに組み合わせる壁面展示に倣ったインスタレーションは、モチーフ ―数名の人間が体を密着させて一つの塊となる遊び― の類似性(ティルマンスのKnotenmutter (1994)参照)もあって、成功しているとは思えなかった。選びぬかれた一つ一つの写真には十分な強度が備わっていただけに、余計な(青臭い?)インスタレーションは省略しても良かっただろう2。
それとは対照的に、ギャラリー北のインスタレーションは実に効果的で、見る者を何回も作品の前に立ち返らせ、深い印象を残した。そのテーマは、写真に写し込まれている視覚情報を現実として受容する方法であり、画像を現実の側へ一歩踏み出させる実験である。このインスタレーションの基本はライティングで3、コロンブスの卵というべきか、作家は写真の中の光に従って照明を組み立てただけである。具体的に言えば、写真の中の明るい部分(フェルメールの絵のような光の滴り、ハイライト、天体)に、実際にスポットライトを当ててわずかに光らせ、写真の中で光が差してくる方向(例えば明るい空)から光源を隠したライトの光を当てる。作品サイズが大きい前者では、まるで本物の風景を眼のあたりにしているようで、スポットライトの光を手で隠して初めて写真に戻るのであった。比較的小サイズの後者では、郊外の廃屋に、雲のない白い空から本当に光が差しているので、まるでどこか遠くの世界を覗き見ているかのようであった。
だまし絵のようなこれら作品とは逆に、放棄された火葬炉の写真では、炉の奥(ただの写真の状態では真っ暗で見えない)にスポットライトが当たると、薄汚れた内部が見える。写真内の暗がりに現実の光を当てると、見えなかった細部が浮かび上がるのは、奇妙な経験である。「不可視だったものが、写真によって可視化している」のではなく、ここでは写真自体が不可視性を含み、「その全てを見ることは出来ない」もの、つまりは現実と化しているからである。
最後に、麥生田展に必ず登場するグロテスクな被写体について。本展で言えば、潰れたミミズや幼鳥の死骸、捨てられたオナホール(フェラチオ仕様)などがそれにあたる。いわゆるアブジェクトなモチーフであるが、光る水滴、可愛い子供や花や虫がフォトジェニックであるのと同じく、アブジェクトもまたフォトジェニックである。ある社会の明るい表と暗い裏の両方のイメージを相殺しているのかもしれない。が、それではプラスとマイナスでゼロになるだけである。アブジェクトへの偏愛が写真の零度への志向に等しい、それでは、アブジェクトが泣くというものであろう。
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(注)
1 清水穣「プロヴォークとコンポラ」『デジタル写真論』(東京大学出版会、2020年所収)参照。 2 ついでに言えば、現代詩のような展覧会タイトル(色を堰き止めて空、空を割いて色、色即是空の境地で、すべての言葉は息を吹き返し、オノマトペのような直接性を取り戻す…?)も感心しない。この推測が正しいとして、オノマトペは指示対象を欠き、差異化された音韻の純粋形態であって、むしろ翻訳困難で不自由な言葉である。基本語彙の少ない日本語は、オノマトペ(「ごりごり」「もぞもぞ」といった反復語)に頼るところが大きく、日本語母語話者には感覚的に理解され、勝手に造語(「もふもふ」)さえされるが、これらの語彙が、日本語学習者には切りのない困難となる。 3 ライティングではなく、子供がこちらへ差し出している小動物(「か」ニ、「か」エル、「か」メ)の写真を、文字通り手前側へ突き出して展示した作品や、丸い写真を鏡に映して見せる作品もあった。後者の効果も不思議なもので、マイナスが自乗されてプラスになるように、映像が自乗されて奇妙な現実感が出現していた。被写体がグロテスクな「口」であるだけにますますそうであった。
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
FOCUS#5 麥生田兵吾「色堰き空割き息返かかか」展は、京都芸術センターで、2023年8月19日〜9月18日まで開催された。