文化時評26:竹﨑和征@See Saw gallery + hibit
シミュラークルの変容 ”Variante” of the simulacre
文:清水 穣
2024.08.03
ずいぶん昔から知っているつもりだった竹崎和征が、いつのまにこんな世界を開拓していたのだろう。優れた画家の出現をはっきりと告げる、遺作展であった。
いうまでもなく、現代の我々は、さらに全面的なアーカイヴ社会に生きており、あらゆる時代の情報が無時間的な平面の上に等しく並んでいるかのような幻想は日常化した。既視感が蔓延する時代には、「過去の断片」の再利用に質的な変化が生じる。過去のオリジナル作品のコピーとして再利用が行われるのではもはやなく、過去にありがちで、過去に存在したであろうが、どのオリジナル作品であるかはアイデンティファイされない断片の、再利用が主流となる。そう、これはオリジナルなきコピー、シミュラークルの話である。
現代の絵画は、どこかで見たような要素 ―過去のシミュラークル― の再構成であるほかない、と。つまりその基本的姿勢はシニシズムであるということか(そういう作家にも事欠かない)。否、問題は、シミュラークルのリサイクルである絵画が、いかにしてその画家の生(どう生きたか、どう死んだか)という究極の差異の刻印を帯びるかなのである。人は生まれて、人生の中で様々な経験を経て、最後は死ぬ。その生も死も、様々な経験も、多くは平凡で同じ類のものだが、一人ひとりによって生きられたものである限り、すべて異なっている。芸術の実践は、「同じもの」から「差異」を生み出すことにかかっている。画家は自分の絵画を、プルーストの主人公のように、「再び見出さ」なければならない。
この「同じ一つ」の音楽的外形のことを、アドルノは「性格的要素Charakter」と呼んだ。それは、マーラーが生きた時代の音楽世界から貴賤の差なく選ばれた、さまざまなタイプの音楽のことで、真面目なクラシックファンが眉をひそめる通俗性も珍しくない。性格的要素には引用元・参照元が明らかな場合もあれば、そうではなく「〜〜音楽」― 軍楽隊、子守唄、民謡、童謡、流行歌、新ドイツ音楽風、後期ロマン派風、ウィーン古典派風…等々 ―のシミュラークルも多い。つまりアドルノによれば、マーラーの音楽とは、多彩なシミュラークルがヴァリアンテの技法で変容し、それらがとりあえず互いに結び付いて構成する仮晶(Pseudomorphose)であって、そこでは「同じ一つ」のものが刻々と差異化され続けている。「マーラーの音楽が壊れている(gebrochen)という事実は、マーラーにおいて、音楽的な意味でそのまま文字通りに受け取ってよいものは何一つないという点にこそ求められるべきです。マーラーを理解するとは、背後の意味や二重底を理解するということなのですから。」1
絵画を構成する複数のパラメータ(タッチ、色彩、レイヤー、マチエール、モチーフ、そしてそれらの美術史的記憶)が同時に動いて、そこから、独自のバランスとして多義的な絵画が出現するというスタイルは、杉戸洋や、同じSee Saw Galleryで発表したことのある池谷保の作品を連想させるが、モチーフや額装・展示の選択がかなり意識的でシアトリカルな杉戸や、より抽象画寄りでモチーフをあまり問わない池谷とは異なり、モチーフが基本的に限定された個人的なものである点では、桑原正彦も参照されるだろう。いずれにせよ、竹崎の絵画では「風景」というシミュラークルが、画家の生を通じて、竹崎個人のヴァリアンテへと転じている。それは非常に稀なことなのだ(地方へ引き籠もって、画業に精を出せばよいというものではない)。この風景のシリーズには大作もあるのだろうか(Misako & Rosenや47 Canalの資料を見た限りでは小品がメインのようだ)、シリーズのすべてを通覧したとき、何が見えてくるのだろうか。近い将来に、どこかの美術館が(高知県立美術館!)回顧展を開いてほしい。
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(注)
1 Theodor W. Adorno, “Zu einem Streitgespräch über Mahler”, Gesammelte Schriften, Band18 (Frankfurt: Suhrkamp,1984) p.245.(清水試訳)
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
竹崎和征氏は、2024年6月22日に逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます。
竹﨑和征展は、See Saw gallery + hibitで、2024年9月14日まで開催中。
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ボードレールが、マネを元気づけよう(?)として、あなたはそもそもシャトーブリアンやワーグナーといった過去の巨匠たちとは違って「あなたの芸術の老衰の中の第一人者に過ぎないVous n’êtes que le premier dans la décrépitude de votre art 」と書き送ったことはよく知られている。ここで「絵画の老衰の中の第一人者」であるとは、複製技術(写真)によってアーカイヴ化していく全ての過去が創作の前提であり、「絵画」という言葉の定義を根本から変えてしまわない限りもはや新しい絵画はありえず、画家にできることは、過去の断片の再利用(変奏、コラージュ、モンタージュ等々)にほかならないという認識である。いうまでもなく、現代の我々は、さらに全面的なアーカイヴ社会に生きており、あらゆる時代の情報が無時間的な平面の上に等しく並んでいるかのような幻想は日常化した。既視感が蔓延する時代には、「過去の断片」の再利用に質的な変化が生じる。過去のオリジナル作品のコピーとして再利用が行われるのではもはやなく、過去にありがちで、過去に存在したであろうが、どのオリジナル作品であるかはアイデンティファイされない断片の、再利用が主流となる。そう、これはオリジナルなきコピー、シミュラークルの話である。
現代の絵画は、どこかで見たような要素 ―過去のシミュラークル― の再構成であるほかない、と。つまりその基本的姿勢はシニシズムであるということか(そういう作家にも事欠かない)。否、問題は、シミュラークルのリサイクルである絵画が、いかにしてその画家の生(どう生きたか、どう死んだか)という究極の差異の刻印を帯びるかなのである。人は生まれて、人生の中で様々な経験を経て、最後は死ぬ。その生も死も、様々な経験も、多くは平凡で同じ類のものだが、一人ひとりによって生きられたものである限り、すべて異なっている。芸術の実践は、「同じもの」から「差異」を生み出すことにかかっている。画家は自分の絵画を、プルーストの主人公のように、「再び見出さ」なければならない。
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マネの話は、グスタフ・マーラーにも当てはまるだろう。複製技術(録音)によってアーカイヴ化していく全ての過去が作曲の前提であり、「音楽」という言葉の定義を根本から変えてしまわない限り、もはや新しい音楽はありえず、作曲家にできることは、過去の断片の再利用にほかならない、と。アドルノは、マーラー流の再利用の特徴をあえて一言で表すならば、それは「ヴァリアンテVariante」であると言う。「ヴァリアンテ」は「ヴァリエーション(変奏)」ではない。後者では、同一の和声進行という核を保ったまま、音楽の外形が次々と変化し続けるが、前者においては、音楽の外形はほぼ同一に聴こえながら、その内側の細部が次々と変容し続ける。変奏が、同じ一つの土台の上での自由な変化であるならば、ヴァリアンテは、「同じ一つ」という外殻の内側で、その内実を変化させる自由なのである。この「同じ一つ」の音楽的外形のことを、アドルノは「性格的要素Charakter」と呼んだ。それは、マーラーが生きた時代の音楽世界から貴賤の差なく選ばれた、さまざまなタイプの音楽のことで、真面目なクラシックファンが眉をひそめる通俗性も珍しくない。性格的要素には引用元・参照元が明らかな場合もあれば、そうではなく「〜〜音楽」― 軍楽隊、子守唄、民謡、童謡、流行歌、新ドイツ音楽風、後期ロマン派風、ウィーン古典派風…等々 ―のシミュラークルも多い。つまりアドルノによれば、マーラーの音楽とは、多彩なシミュラークルがヴァリアンテの技法で変容し、それらがとりあえず互いに結び付いて構成する仮晶(Pseudomorphose)であって、そこでは「同じ一つ」のものが刻々と差異化され続けている。「マーラーの音楽が壊れている(gebrochen)という事実は、マーラーにおいて、音楽的な意味でそのまま文字通りに受け取ってよいものは何一つないという点にこそ求められるべきです。マーラーを理解するとは、背後の意味や二重底を理解するということなのですから。」1
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竹崎和征の絵画は、もっぱら身の回りの風景を、繊細な色使いと、描き込みすぎない密度のタッチで描くもので、夕暮れに沈む町、夏の終わりの空、点描風に即興的に描かれた庭、逆光の花々、池端の草など、日本の田舎の静かなスローライフを想起させる小品群は素直に美しく魅力的である。が、没入を保つには小さすぎるそのサイズによって、それら風景は、同時に「風景」としても現れる。つまり、抽象や記号として、ラフな色面構成として、銀地に重ねられたレイヤーとして、そして上下で塗り分けられたパネルに貼り付けられたマスキングされたキャンバスとして、現れる。最近では珍しく釘で貼られたキャンバスの、その釘頭が白く塗りつぶされたりされなかったりしている。絵画であるとともに「絵画」であることは、現代の作品であれば当然とも言えるが、更に言えば、逆光の花は黒く枯れ、池の水は黒く濁り、街の灯りは見えず、静かな風景に鳥や虫の声はない。ここには都会人が感情移入する田園詩はなく、新興住宅地の開発、里山の宅地化、農薬による生態系の破壊といった、日本の地方の不毛の自然が、ある種の諦念とともに提出されているとも言える。絵画を構成する複数のパラメータ(タッチ、色彩、レイヤー、マチエール、モチーフ、そしてそれらの美術史的記憶)が同時に動いて、そこから、独自のバランスとして多義的な絵画が出現するというスタイルは、杉戸洋や、同じSee Saw Galleryで発表したことのある池谷保の作品を連想させるが、モチーフや額装・展示の選択がかなり意識的でシアトリカルな杉戸や、より抽象画寄りでモチーフをあまり問わない池谷とは異なり、モチーフが基本的に限定された個人的なものである点では、桑原正彦も参照されるだろう。いずれにせよ、竹崎の絵画では「風景」というシミュラークルが、画家の生を通じて、竹崎個人のヴァリアンテへと転じている。それは非常に稀なことなのだ(地方へ引き籠もって、画業に精を出せばよいというものではない)。この風景のシリーズには大作もあるのだろうか(Misako & Rosenや47 Canalの資料を見た限りでは小品がメインのようだ)、シリーズのすべてを通覧したとき、何が見えてくるのだろうか。近い将来に、どこかの美術館が(高知県立美術館!)回顧展を開いてほしい。
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(注)
1 Theodor W. Adorno, “Zu einem Streitgespräch über Mahler”, Gesammelte Schriften, Band18 (Frankfurt: Suhrkamp,1984) p.245.(清水試訳)
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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
竹崎和征氏は、2024年6月22日に逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます。
竹﨑和征展は、See Saw gallery + hibitで、2024年9月14日まで開催中。