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文化時評33:ウィーン交響楽団@ウィーン楽友協会
ファシズムの影
文:清水 穣

2025.02.28
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Arnold Schönberg, Blue Self-Portrait, 1910
2月末に筆者はウィーンのアートシーンを取材したのだが、最も強い印象を残したのはなんと楽友協会での一夜であった。ウィーン交響楽団、パトリック・ハーン(指揮)、キリル・ガーステイン(ピアノ)、コーネリアス・オボンヤ(ナレーター)によるプログラムは、アーノルト・シェーンベルクの『ナポレオン頌歌』(作品41、弦楽合奏版)、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェンのピアノ協奏曲5番(作品73)、休憩を挟んで、同じくベートーヴェンの交響曲第3番「エロイカ」(作品55)で、一目瞭然、プログラムの中心にはナポレオンが立っている。

Photo by Shimizu Minoru

『ナポレオン頌歌』は12音技法で作曲されているが、その原セリーは、A-C-F-G#-C#-E; H-D-G-B♭-E♭-G♭で、音列の最後の3音が、変ホ短調のIの和音を構成するため、12音音楽でありながら同主調の変ホ長調へと転換が可能であって、実際、作品は変ホ長調の主和音で終わる(もちろん、ベートーヴェンのエロイカを意識したシェーンベルクの作為)。これを利用して、舞台上では第1曲の最後の和音に引き続いて、ピアノ協奏曲5番(その冒頭もまた変ホ長調の主和音の華々しいアルペッジョ)が始まった。「皇帝」というあだ名をもつこの協奏曲が、「ナポレオン」の文脈に接続されたわけである。

Jacques-Louis David, Napoleon Crossing the Alps, 1800

Ending of Ode to Napoleon Buonaparte

Opening of Emperor

弦楽四重合奏とピアノに重ねて、ナレーターが、ロード・バイロンのナポレオンに対する愛憎に満ちた激烈な詩句をシュプレヒゲザングの要領で歌い語り叫ぶこの曲は、1942年、第二次大戦の只中で、ナポレオンをヒトラーに見立てて作曲された。大衆の希望の星として輝き、その希望を裏切って独裁者として君臨した果てに失墜した存在、それが「ナポレオン」なのである。この希望と失望のプロセスが、ベートーヴェンの「エロイカ」(1804年)に反映していることは知られている。出版譜(1806年)の表紙には「ある偉大な男の思い出を称えて」と書きこまれたが、作曲家にとってナポレオンは英雄「だった」(彼はやがて新しい英雄『ウェリントンの勝利』(変ホ長調、作品91、1813年)を作曲するだろう)。

主催者がこのようなプログラムを組んだ理由は、少し欧州の政治情勢を知っていれば明らかだ。オーストリアでは去年の総選挙で、極右政党として知られるオーストリア自由党(FPÖ)が与党となり、それ以来、組閣できないまま、政治の空転が続いている。ドイツでも先日の総選挙で、ドイツ社会主義党(SPD)が大敗し、旧来のキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)が与党に返り咲いたが、なんと第2党の座は「ドイツのための選択肢」(AfD)に奪われてしまった。EUに対する懐疑と反移民を掲げる右派ポピュリズムの風が、ヨーロッパ中で吹き荒れている。「ナポレオン」はその音楽的象徴として持ち出された。

それを強調するかのように、休憩前のアンコールとしてクルト・トゥホルスキーの1931年の詩にハンス・アイスラーが曲をつけた「薔薇は道に撒かれて(Rosen auf den Weg gestreut)」が歌われた。ドイツ語の慣用句「薔薇を道に撒く(Rosen auf den Weg streuen)」とは、日本語で言う「誉め殺し」のことで1、そこからこの曲のリフレインの「ファシストにキスせよ(Küsst die Faschisten)」という強烈な反語が出てくる。右派ポピュリズムを高みから冷笑してきた知識人たちは、ここにいたって、100年前と全く同じように、突然、自分たちがファシズム前夜にいることを発見したのだ。

「エロイカ」が変ホ(E♭)長調で作曲されたことは、音楽史上、この調性に「ナポレオン」「英雄」という性格を与えた(たとえば、リヒャルト・シュトラウスの『英雄の生涯』も変ホ長調)。もっとも、それ以前から♭が3つ付くこの調性は、三位一体や、フリーメーソンの聖数3を象徴する調性であり、封建社会を啓蒙的理性の光によって超えようとしたモーツァルトが、その最後のオペラ『魔笛』のために選んだ調性でもあった。ナポレオンがその光を代表していた限りにおいて、E♭は英雄ナポレオンの調性であった。

ピアノ協奏曲第5番は、1809年、ナポレオン軍が2度目にウィーンを占領した年に作曲され、のち1811年に、ベートーヴェンの弟子でありパトロンでもあったルドルフ大公(1788-1831)によって私的に初演された。ちなみに、そのルドルフ大公が戦禍を逃れて都落ちする際に作曲されたのがピアノソナタ「告別」(作品81a、1809年)である。どちらも変ホ長調で書かれ、作曲年代が近いこともあって、「告別」ソナタには、ピアノ協奏曲とほとんど同じパッセージ(とくに3楽章)が登場する。この協奏曲に「皇帝」というあだ名がついたのは、もっぱらこの作品が、変ホ長調で=英雄的で、華々しい作品であるからで、この「皇帝」をナポレオンに帰するのは、成立事情からしておかしい。変ホ長調の両曲は「ルドルフ大公」を指しており、また彼に献呈されてもいる。ナポレオンに失望したベートーヴェンが、代わりに啓蒙的理性の希望を託したのは、ルドルフ大公であった、と。

Joseph Karl Stieler, Portrait of Ludwig van Beethoven when composing the Missa Solemnis, 1820

Johann Baptist von Lampi the Elder, Rudolf von Österreich, first half of 19th century

ところでこのルドルフ大公という人は、彼に捧げられたベートーヴェンの作品が、ことごとく超絶技巧で前衛的(とりわけピアノソナタ29番「ハンマークラヴィーア」、作品106、1819年)であることからして、きわめつきにピアノが上手かった。このソナタは、ピアノトリオ「大公」(作品97、1811年)とならんで変ロ(B♭)長調である。つまり、ベートーヴェンのなかで、大公のための調性は、変ホ長調から変ロ長調に変化した。B♭は、E♭のドミナントであるから、ルドルフ大公は、いわば英雄に至るひとつ前の位置を占める、と。ここで、アイスラーのアンコール曲はト短調であった。ト短調は変ロ長調の平行調である。つまり、あのアンコールは、ベートーヴェンが短い希望を繋いだ道 ―啓蒙君主による統治― に「薔薇を撒いていた」とも解釈できる。事実、ベートーヴェンは最終的に世界平和への望みを、変ホ長調ではなく、ニ長調で表現した(交響曲第9番の終楽章「歓喜の歌」はニ(D)長調)。主音は半音しか違わない、E♭―B♭―DときたらE♭で終わりたくなる。だがニ長調と変ホ長調は遠隔調である。

ベートーヴェンの希望と失望が「エロイカ」を生んだ。ナポレオンはファシズムの只中で反面教師として呼び出され、現在の右派ポピュリストたちへ向けてその反語と風刺の身振りが引用された。だがわれわれは、それが無力だったことも知っている。ベートーヴェンは変ホ長調(啓蒙的理性の光、英雄)から離れて、ニ長調の世界を見出した。それはベートーヴェンにとって宗教的な世界であった(ニ長調は#2つ、#はドイツ語でクロイツ=十字架、『ミサ・ソレムニス』もニ長調)。2025年の「ニ長調の世界」とは何なのだろうか。

The Wiener Musikverein
C.Stadler/Bwag, ; CC-BY-SA-4.0.

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(注)
1 ちなみに、モーツァルトの『魔笛』の最も重要な箇所の一つ(2幕28場)に、少し形を変えてこの慣用句が出てくる。タミーノとついに再会を果たしたパミーナは、「もうどこにいてもお側を離れません、私があなたを導きましょう、愛が私を導いてくれますように!」に続けて、「愛は(その導きの)道に薔薇を撒くでしょう、だって薔薇には棘があるから(Sie [=Liebe] mag den Weg mit Rosen streu’n, Weil Rosen stets bei Dornen sein.)」と歌う。ここではこの慣用句は愛の試練の比喩として用いられている。このメロディによって、曲調はヘ(F)長調からハ(C)長調へと転調する。ハ長調は、魔法の笛の調性である。モーツァルト自身のフリーメーソン思想とはべつに、『魔笛』の音楽の理想は、E♭ではなくCを向いている。

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しみず・みのる
批評家。同志社大学教授
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ウィーン交響楽団による“HAHN, OBONYA, GERSTEIN · SCHÖNBERG, BEETHOVEN”は、ウィーン楽友協会で、2025年2月20日に開催された。