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虹の36年—アートスペース虹の活動を振り返る
対談:やなぎみわ×ヤノベケンジ(司会:原 久子)

2018.05.07
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話者:やなぎみわ×ヤノベケンジ
司会:原久子

2017年12月24日、アートスペース虹が36年の活動に幕を閉じた。20平米ほどの小さな画廊のスペースで、その間1,436回の展覧会が開かれた。やなぎみわとヤノベケンジも、新人のころ、ここでキャリアをスタートさせた。閉廊する虹について記録を残したいというやなぎやヤノベの希望で今回の対談が企画され、京都文化芸術コア・ネットワークの活動の一環として、京都芸術センターを会場として実現した。

(写真提供:京都芸術センター)


 
映像で振り返るアートスペース虹

 進行を務める原と申します。今日はまず、Ufer!(ウーファー)の岸本康さんが1992年に始められた『KYOTO ART TODAY』という京都の美術状況を記録した映像を上映しつつ、どんな活動がアートスペース虹でなされてきたのか概要を振り返ります。その後、アートスペース虹での個展経験があり、縁の深い、やなぎみわさんとヤノベケンジさんからそれぞれの視点で、虹にまつわるエピソードを伺っていきたいと思います。

アートスペース虹では毎年1月、堀尾貞治個展『あたりまえのこと』から始まり、来廊者は堀尾さん作の干支のオブジェを頂戴することができました。

堀尾貞治『あたりまえのこと(1000 塗れば1000 の表現)』1992年1月14日-1月26日
Photo: Kanamori Yuko


虹の特徴としては、三条通りに面していて外からもガラス越しに展覧会が見えて、かつホワイトキューブの中で完結した展示を観て帰るだけではなく、行為としてのアート、あるいはその痕跡にも触れられるアートスペースでした。これは1991年の映像記録ということで、…今から27年前の映像ということになります。ガラス扉に絵を描き、それを転写していくとか、空間を自由に使うことが許されました。

やなぎさんの…これは初個展ですかね。

やなぎみわ『The White Casket』1993年8月24日-9月5日


やなぎ これ(映像)は正確に言うと初個展ではないんですよ。学生のときは工芸科だったので、実はファイバーアートの作品で3回個展をしているんですね。その個展の後、ちょっとブランクがあって、虹での『エレベーターガール』の作品でリスタートさせているんです。

彼女たちの後ろにエレベーターのドアがあってボタンもあるんですよ。虹は、熊谷寿美子さんのご自宅の道路に面した部分がギャラリースペースになっているので、このエレベーターを作ってしまうと事務所が塞がって、つまり熊谷さんがお家から出てこられなくなってしまうわけです(笑)。だからあのエレベーターのドアが開かないといけない。ただ観音開きなんですよ。奥からギーッて開いて、熊谷さんが仏さんみたいに開けて出てきはるわけです。

会場 (笑)

やなぎ 顔のよく似たふたりの女性を選んで、朝から晩まで座ってもらってたんですね。でもこのときに、やっぱり生身の人はたいへんだなぁと思ったんです。すごくがんばってくれるんだけど、寝込んで来られないとか、途中で貧血起こしたりとか…エレベーターガールの写真作品がその後しばらく続くんですけど、その第1弾がエレベーターガールズのパフォーマンスだったということです。

 こちらは伊達伸明さんの個展の映像です。伊達さんは建築物をウクレレにして残すという『建築物ウクレレ化保存計画』で知られていて、最近まで継続的に虹で展示をしてこられました。

伊達伸明 1994年1月8日-1月20日


 次に志村昌弘さん。画廊の前の路面を京阪電車が走っていたころですね。これもやはり行為を伴って(笑)、三条通りの西のほうから東へ向かっていて。絵画の方も展示されてきましたけれども、彫刻とか立体の作家も非常に多かったと記憶しています。

志村昌弘『のざらし日記』1995年7月11日-7月16日


 これは4人展なんですが、國府理さん、高嶺格さん、黄瀬剛さん、吹田哲二郎さんです。こういった組み合わせのグループ展ができるというのもアートスペース虹の懐の深さかと感じます。國府さんはこの後もよく展示をされました。

『パイロット ファーム』(國府理 吹田哲二郎 高嶺格 黄瀬剛)1996年6月3日-6月16日


これは國府さんの作品で、道が前にあるということで乗り物に乗ってそこに入ってこられるものです。いろんな展示やパフォーマンスが自由にできるロケーションや画廊の形態も、作家にとっては魅力だったんではないかと思います。

次はフジタマさんですが、この展覧会は私にとっても印象深いものでした。

フジタマ『テレビを担ぐ人』1997年7月29日-8月3日


本人自身がかぶり物を着けてパフォーマンスをするんです。後ろには当時流行っていた料理番組の映像が流れていて、その前で彼女が延々と玉ねぎを切りまくる行為の反復がある。

最後に藤浩志さんの展覧会。『やせ犬売ります』というタイトルを付けられていて、作品を観ようと思って歩いている人たちだけでなく、いろんな人たちが前を通って、覗いていく。そういったところからも様々なコミュニケーションが作家と観る人との間に生まれただろうし、オーナーである熊谷さん・オーディエンス・アーティスト…いろんな関係性が生まれやすい状況があったと、こういった記録を見ていてあらためて思います。

藤浩志『ヤセ犬売ります』1998年7月28日-8月2日


かなり独断と偏見に満ちた紹介になってしまいましたけれども、終了させていただきます。ここからはメインのおふたりに聞いていきたいと思います。

 
ふたりの実質的なデビュー

ヤノベ アートスペース虹が1981年から開廊して36年間、長きに渡ってある意味京都を牽引してきた場所だと思うんです。開廊当時は、僕は16歳の高校生で虹の存在も知らなかったんですが。本当にたくさんのアーティストを輩出して多くの美術関係者を育てた場所だと思うので、僕はそのすべてを語れませんが、自分が虹にどう関わってきたかを中心にお話ししたいと思います。僕にとってはアートスペース虹での展覧会が、今ここにアーティストとして存在している上で大きな影響があったというのは過言ではない、そういう場所に引き寄せていただいた熊谷さんにとても感謝しています。

 
 まず、アートスペース虹で展覧会をするようになった経緯を伺います。

ヤノベ 僕は1965年生まれで、京都市立芸術大学に入学したのが1985年です。僕は彫刻専攻で、やなぎさんは工芸科染織専攻で、入学時から非常にミステリアスなオーラを纏ったちょっと近寄りがたい女性でしたね。当時、西高東低と言われるくらい関西のアートシーンは盛り上がっていたんです。関西ニューウェーブと言われて。僕が1年生に入ったときは中原浩大さんや松井紫朗さんもまだ学生だった。彫刻の教員は福嶋敬恭さん、小清水漸さん、野村仁さんたちで、プロフェッショナルな現場で先生も先輩たちも活躍していました。兵庫県立近代美術館では『アート・ナウ』という登竜門的な展覧会があったり、そういう状況が80年代後半から90年代頭に関西にはありました。

僕にとって、アートスペース虹がとても身近に感じられたのは、実は画廊主の熊谷さんの娘さんが同じ彫刻専攻の2年先輩だったんですよ。そういうこともあり、彫刻専攻の先輩方は虹を借りて展覧会をするというのがわりと慣例的になっていました。熊谷さんの非常に柔らかいお母さん的なキャラクターもあいまって、相談をしたり展覧会をさせてもらえたりとか、そうした関係であったと思います。

 そういうところから関係がスタートして、個展を開くわけですね。

ヤノベ 僕は虹で3回展覧会をやっています。これは1988年で、学部の4回生のとき。初個展をするときには熊谷さんにお願いしようと考え、金属や石彫を使った作品を作りました。僕は元々ただのアニメ・マンガ・特撮オタクで、そういうもんが作れたらいいなという邪な動機で入学し、大学に入ってからもガメラスーツを作ったりして、先生には顰蹙を買っていました。中原浩大さんには面白いなと言っていただけて、その影響が少し見え隠れする展覧会だったんですね。その後大学院に進み、大学院1年生のときに交換留学制度でイギリスのRCA(Royal College of Art)に3ヶ月行き、その間にこういう作品を作る発想が思い浮かび、帰国2年後の1990年に個展をすることになりました。
 
 日本ではできないことがRCAではできたのでしょうか。

ヤノベ 海外に行くことで自分や日本を客観的に見るきっかけになり、滞在中に考えたことが今の自分を作ったというのはあると思うんです。この作品の雛形みたいなものをイギリスで作っていました。1990年の春ごろのことで、ジョン・C・リリーの《アイソレーション・タンク》の発想と彫刻が細胞レベルで一体化するということがピッタリとはまった瞬間で、思いついた日の夜は眠れないくらい興奮して、この作品さえ作ったら僕は一生アーティストとして堂々と生きていけるっていうくらいの気持ちになりました。

ヤノベケンジ「TANKING・MACHINE」


これは、鉄を溶接して作った直径2メートルくらいの水槽の中に生理的食塩水を入れて、体温程度に温めて中に入って瞑想するというものなんです。フタをすると真っ暗になって、視覚も聴覚も触覚も奪われるという作品なんですが……。ひとつの母胎内回帰ですね。 アートスペース虹は通りに間口が面していて、ガラス戸を外せば割と広い入口になっている。そこから入れられるように、作品を上下2分割にしたんですね。あと、虹の空間は道路に向かって若干傾斜があって、水が多少溢れても手前のほうに流れるだろうと(笑)。

会場 (笑)

ヤノベ これはもちろん彫刻作品だけど体験しないと意味がないと思ったので、当時、自分でデザインして裏側に「作品を楽しみたい方は水着をご持参下さい」というメッセージを入れました。

自分で言うのも何ですけど、当時そんな作家っていなかったんですよ。たくさんの人が水着を持ってきて、着替えて入るんですけど、1日平均10人以上の人が入ってたんでだいぶ汚れました。

この写真は熊谷さんですね。1990年なんで、たぶん今の僕の年齢と同じくらいですかね。

 
自分も入ったし、本当にたくさんの人が入ってトリップ感覚。ギャラリーとはいえ大勢の人が集う祝祭空間でした。毎日水を替え、生理的食塩水にするために18kgの塩をひと袋入れ。楽しいから写真をいっぱい撮ってたんです。これは建畠晢さんですね(笑)。

 
会場 (笑)

 
ジャパニーズ・ネオ・ポップの契機

 このある意味センセーショナルと言うか、そのころ自分たちが思っていたアートの枠組みをポーンと越えてしまうようなものが出てきて、この作品のことが多くの人に伝わることになったわけですね。

ヤノベ そうですね。当時『美術手帖 BT』の編集者だった楠見清さんも早い段階で観に来たり、この写真を村上隆さんが見てびっくりしたり、その後ジャパニーズ・ネオ・ポップと呼ばれる大きなムーブメントが起こる契機のひとつになったとは思います。

 そうですよね。先陣を切って発表され、みんながこれに触発されるというような部分は大いにあったんじゃないかと思います。

ヤノベ 同じ年に、キリンプラザ大阪で開催された第1回キリン・アート・アワードを受賞し、個展をさせてもらいました。その最初の作品が生まれた場所でもあって、この作品自体、今でもデビュー作という設定にしています。だから、。熊谷さんが産婆みたいなもんで(笑)、僕はアートスペース虹で産湯に浸かり、作家として誕生できたんですね。熊谷さんには「毎日水道代だけで馬鹿にならへんよ」って怒られましたけど(笑)。

やなぎ 水道代払ってなかったの!?(笑)

ヤノベ 水道代請求されたかなぁ? 「この作品は会期1週間では短い」って言ったら、熊谷さんは僕の作品のこと何も知らないのに「じゃあ2週間にしましょう」というふうに快諾していただいて、企画展ということにしてもらって画廊代も払ってないんですよ。熊谷さんが何でそれを許してくれたか僕もよく解らないんですけど……。

家にも帰らず芸大に泊まり込みで、熊谷さんが僕に連絡取れないから、「会期が迫ってるのにヤノベさん連絡取れない」って心配して芸大まで見に来はったんです。そしたら僕が転がってる姿を見て「びっくりした」っていう話を何度かされました。僕はあんまり覚えてないですけど(笑)。

自分だけで言ってる自画自賛じゃないかと思われてるかもしれないんですけど『20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から』という書籍があります。中村ケンゴさんというアーティストが編・著の、90年代以降のアートシーンを振り返る資料と共にまとめたものです。ちなみに1989年にはベルリンの壁が崩壊し、平均株価が年末に38,915円で史上最高値、ものすごい時代の極点だったと思うんです。そして90年代、三菱地所が米ロックフェラービルを買収とか、今では考えられないくらいのバブル経済期です。

 

1990年の美術界の重要な出来事として15項目くらいあって、中原浩大『オマージュ―レゴ・エイジ』@ハイネケンビレッジ、森村泰昌『美術史の娘』@佐賀町エキジビット・スペース、キース・ヘリング死去、水戸芸術館オープン、手塚治虫展@東京国立近代美術館、『ファルマコン』@幕張メッセ、ワタリウム美術館オープン、『ハイ・アンド・ロウ――モダンアートと大衆文化』@ニューヨーク近代美術館、ダムタイプ「pH」スタート……で、ヤノベケンジ『TANKING・MACHINE』@ アートスペース虹という記述があるんですよ!

会場 (笑)

 それぐらいにアートスペース虹で重要なことが起こっていた、と。

ヤノベ 僕は中村ケンゴさんに会ったこともないんですよ!(笑) だけど、京都のひとつの貸画廊の出来事が注目されてて。

この年表でもうひとつ、1993年の美術界の重要な出来事として、水戸アニュアル『アナザーワールド』、『フォーチューンズ(fo(u) rtunes)パート2』@レントゲン藝術研究所、ゲルハルト・リヒター展@ワコウ・ワークス・オブ・アート、ザ・ギンブラート、キーファー展@セゾン美術館、ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館 草間彌生個展、『村上隆展:なんでもない日、万歳!』@広島市現代美術館、SCAI THE BATHHOUSE オープン、明和電機デビュー、『パラレル・ヴィジョン』@世田谷美術館…、そして、やなぎみわ『The White Casket』@アートスペース虹と記載されています。

 この時期を代表するものとしてふたりの個展が選ばれているわけですね。非常に優秀なアーティストがいても、それをサポートする画廊やスペースがないと、伝えていくことが出来ない。この80年代末から90年代初めの勢いの中で、おふたりがパラダイムシフトを起こすような作品を作られたことが、多くの人たちの印象に残っていると思います。

ヤノベ ふたりのアーティストが同じ場所で話題になる展覧会ができて、歴史的にも評価されるというのは、ある種運命的なものも含めて、熊谷さんが何かを持ってるとしか思えないということを感じています。1993年の展覧会では、やなぎさん自身がものすごく大きく変わる作品を作ることになったと思いますけど、その辺りをちょっとお聞きできますか。

やなぎ そのときに、つまり生身の人間を入れるというときに、たぶんほかのギャラリーは無理だと思ったんだよね。で、虹さんだったら許してくれるだろうということを小賢しく考えたわけなんですよ、きっと。

 
作品の変化はありますよね。私も学部生のはじめは着物とか屏風を型友禅で作っていたけど、学生のときはすごい温度差があって、彫刻専攻と版画専攻が圧倒的にそのときの京都芸大のスターだったんですよ。私は染織にいましたけれど、工芸科ってかなり保守的だったんです。そんな工芸科のアトリエ棟の向かいが彫刻棟なんですよ。「彫刻専攻に東京からギャラリストが来た」とかね、そういうのが伝わってくるわけです。当時のバブル時代のコンテンポラリーアートの華やかな部分とかは、よくわからない。で、周りの学生も、工芸を展示できるギャラリーマロニエとかで展示することが多かったんですね。貸画廊でも住み分けがありました。

ヤノベ でも、エレベーターガールの作品は全然違う次元にステージが上がった瞬間だと思います。

やなぎ やっぱりすでに「むちゃするんやったら虹さん」ていう共通認識がうっすらあったんですよね(笑)。まずヤノベ君があれをやって、西松鉱二君が三条通りの向こうからオートバイで突っ込んだらしいとか、とにかくむちゃなことをして熊谷さんを困らせたというのがあって。それでも「虹さんやったらやらしてくれるんちゃうの」と言ったのがあなたの奥さんだったように思うんですけど。みんなそういうふうな認識を持ってました。だからそういう展覧会ばっかりが虹さんところに集中して、熊谷さんがどんどん大変になっていく……(笑)。

 学生や、まだ卒業間もない20代の人たちが発表していた場所が、80年代や90年代には大阪・京都・神戸にあったと思います。1981年に虹がスタートして、90年代になって十数年経っていて。「やってもええんちゃうかな」っていう、みんなをその気にさせるような先輩たちがいたということですね。

やなぎ 私は工芸から現代美術に踏み出したせいもあったかもしれないけど、すごく怖かったのね。敷居が高いっていうか。やっぱり画廊でやるっていうのが怖いんですよ。観に来る人たちも作品の評価をいろいろ言うわけじゃないですか。すごくドキドキした記憶がありますね。
まぁ今は、卒業制作展がいきなりオークションですから、もっと残酷だと思いますけども。私たちは、少なくとも私は自分の作品が売れるものだということすら知らなかった。ただ、虹でやったとき、「熊谷さんが作家の味方である」ということをすごく感じましたね。

 それは大いにあると思いますね。アーティストの味方という。

ヤノベ そうですね。

やなぎ ずっと怒られながらも受け入れてくれるような感じがして、そういう安心感じゃないかな。

ヤノベ 熊谷さんはいろいろ勉強をさせてくれるひとりの先生みたいな部分もあって。堀尾さんの展覧会を観たときに「これで作品なんか!」とか最初思ってたんですけど、かたや浅野弥衛︎さんみたいな名のある作家の展示もされていて、そういう話を濃い緑茶を飲みながら聞いたり、作家としての所作みたいなものを教えてもらったりしました。もうひとつは、母親的な、本当におせっかいなくらいいろんなことを世話やいてくれる。僕も海外に行くときに「海外ではバイリンガルでこういうものは名刺代わりに役立つから」と言ってカタログを作っていただいて。

 これですね。

 
ヤノベ もちろんほかの作家にも同じように、本当に自分の子供たちがちゃんと育っていけるようにっていう思いを持ってくれてたというのがありますね。ほかの画廊とは違う存在感が熊谷さんの虹にはあったような気がします。

 この後、ドイツに行かれたんですね。

ヤノベ そうですね。そのタイミングで出すという、細かな気配りもして下さって。まぁ、虹に行くたびにいまだに説教されて、「面倒くさいな」とたまに思ったりするんですけどね(笑)。小うるさいお母さんやなぁ、と思いながらも、ためになる話を聞かせてくれる、そういう場所ですね。

 
画廊はメディア

 今だとポートフォリオのデータをメールで添付送信すれば届くようなものですけど、このころは紙の媒体が主流でした。デビュー間もない作家にとっては、海外渡航の際に、バイリンガルでしかもカラーで印刷されている冊子はありがたいですね。
ヤノベさんとやなぎさんにとってのある種のデビューの場がアートスペース虹だったということをお聞きできたんですけれども、発展途上のアーティストたちにとって画廊というのはどういう場所なんでしょうか。

やなぎ 私たちが虹で初個展したころって、インターネットがまだないでしょ。画廊で実際に人に会うっていう状態、そこが大きな情報交換の場なんですよ。私の場合も《White Casket》のエレベーターガールのパフォーマンスを観に来た兵庫県立近代美術館(現・兵庫県立美術館)の尾﨑学芸員(現・鳥取県立博物館副館長)が「『アート・ナウ』に出したらどうか」って声をかけて下さったりとか、つまりそういう場所だったりするんですよね。

 画廊自体がメディアでもあるという。

やなぎ メディアなんですよ。だってそこでしかいろんな情報を知りようがなかったですもん。今は世界中で起こっていることが同時にわかってしまうので、これはものすごく苦しい。つながり過ぎちゃいけないと言うか、そういうものばかりを見てると作品を作れなくなるので、そこをどうやって切るか、自分でどうコントロールするのかが重要だと思うんです。私たちは、画廊というサロンがある、良き時代に育った世代だと思いますね。

 でも去年の12月24日で活動を終了されたんですけど、京都芸術センターももちろん「場」ですし、今日もこんなにたくさん来ていただいていますが、これからのアートシーンにとって必要な「場」が他に出来てくるという予感はありますか。

やなぎ 実際、私も今、東九条で新しい劇場を始めようとしています。うちの劇場E9はちょっと年齢層高いんですよね(笑)。だけどもっと若い人たちがもっと気軽な、シェアスタジオとかをたくさん作っているので、場所の発生というのは今のほうがずっと多い。薄く広くつながるというのは今の世代のほうがずっと得意でしょう。みんなコミュニティにしがみついてないからね。こっちにも所属してるし、こっちにも所属してる、こっちにもって全部掛け持ちだから、そういう意味でつながりはものすごく速いから、きっとたくさん現れて、もしかしたらたくさん消えていってるかもしれないけれども、その辺はあまり心配してないですね。

 人間の時間は限られてるから、ともすると密度が薄れていくかもしれないですね。

やなぎ そうね、あんまりしがみつき感がないから、みんなそこにじっといてというのはないかもしれないですね。

ヤノベ 熊谷さんが作ってくれた場所みたいなものは、多くのクリエイターや美術関係者の遺伝子にも刷り込まれてると思うんですよ。形はなくなるけどみんなの心に残って、それぞれが濃密な関係や場所を作っていってるような気はするので、やっぱり熊谷さんの功績じゃないですか。

 以前、1枚の写真を見せていただいたんですが、イサム・ノグチさんが写っていて。京都に来られるときは近くの定宿から、たびたび虹を訪れられていたということで、そういう方が京都の作家の活動を観る機会があったんですね。

ヤノベ 蔡國強さんも京都に来たら虹に寄っていきますよ。虹のおばちゃんもどこまで広げてはんのかなぁて(笑)。そういう意味では僕たちも虹の存在を超えるような何かを残していきたいと思いますね。虹の彼方に! ですね。

会場 (笑)

 おふたりの場合、やなぎさんはトレーラーを引っさげて演劇をやってらっしゃるし、ヤノベさんはウルトラ・ファクトリーで…

(ヤノベさんが「オーバー・ザ・レインボウ」の曲をかける)

ヤノベ 僕たちは虹の彼方のどこかへみんなを導くような存在でないといけない! そういう感じじゃないですか。

やなぎ 36年は本当に偉大ですよ。本当にそう思う!

 
作家のインキュベーター

ヤノベ ひとことこれを言いたい! という方はおられますか。先ほどちょっと映像に映ってた山下さん、どうですか。

山下 山下里加です。長くフリーランスのライターとしてアートスペース虹を取材させていただいたり、今は京都造形芸術大学にいます。

私は『AI(Artist Interview)』というインタビュー冊子を以前作ってまして、これは画廊から委託を受けて、ほぼ印刷代なんですが、画廊が「この人はいいアーティストだ」と思った人にお金を出すよという感じのもので。そのときに虹からは、やなぎさんのインタビューを出させていただきました。本当にいろんな思い出があるんですけど、その当時のアートシーンというもの自体に、つないでいこうという意思があったように思います。

たくさんの印刷物を熊谷さんが作られているというのも、つないでいくことがあたりまえだという意思があってそれらがあった、というふうに今あらためてお話を伺いながら思いました。

 ありがとうございます。

田中 田中恒子です。私はずっと長い間コレクターをしてきました。買わなくて後悔している作品のひとつはやなぎさんの《グランドマザー》の第1号目の写真だったんです。今日話されなかったんですけれど、《グランドマザー》の第1号目の写真を展示されたのは熊谷さんのところですよね。

やなぎ そうですね。

田中 実は熊谷さんと私とは年が1歳しか違わないんです。第2次世界大戦がどんなに悲惨な社会状況を作り出したかということがわかる同世代の人間なんですね。私はいつも彼女を尊敬するんです。彼女は自分で自分の人生を切り開き、この京都のアート界を支える女傑——と言って良いかどうかわかりませんが、そういう人になられた。私と話すとき、彼女はいつも「私は作家のインキュベーターでありたい。作家を育てるということが自分の使命だと思っている」というふうに言われて、そこにある図録もいっぱい出版されて。去年の1月に「もう画廊を閉じよう」と決心されてから後に展示された作家の方には、ほとんど図録を作ってあげてはるんですね。お金の問題じゃなくて、彼女の生き方の問題として、作家を支えていくという生き方をしてこられた。ヤノベさんが言われた通り、作家のお母さんとしての彼女の役割は、京都の現代美術の世界を支えてきたと思います。熊谷さんに頼まれたことは断らない、というのが私の熊谷さんとの付き合い方なんです。熊谷さんが「誰それという作家が今とてもお金が困っていて図録が出せないんですけど」と言われたら「はいわかりました。いくら要るんでしょか」と言ってお金を出す。それが、せめて私のできることだったんですね。それはすべて、作家を尊敬してるというより熊谷さんを尊敬してるから。だから、熊谷さんの言うことなら何でも聞きます、というのが私の生き方になりました。ということです。以上。

会場 (大拍手)

 それでは吉村さん。

吉村 吉村良夫と言います。昔、新聞記者をしていました。

街の画廊で生身の人間がいろんなことをやる前例は、京都でも70年代にありました。それが、アートスペース虹が始まったころからは、京都の若い人も少し大人しくなってきたのかなというか、やんちゃな人たちが80年代になってからはいなくなったような気がします。その中で圧倒的に元気が良かったのがヤノベさんだったと思います。

昨年の暮れの國府さんのすごく気持ちのこもった展覧会が開かれたときなんかは、熊谷さんの「静かな決意」というのかな…それは初めから終わりまでずっと、あぁよくこれだけのことをいつもにこにこ笑いながらやってこられたなという、それが本当にすごかったと思います。京都の人たちの誰かが引き受けてくれたらと思うんだけど、戦後の京都の画廊の歴史っていうのかな、通史というのかな、そういうのを今京都には美術系の大学がたくさんあるし研究者もたくさんいるんだから、そういう人たちがきちっとフォローしてまとめてくれたらいいなと、これは京都の先生方にお願いしておきたいことです。

会場 (大拍手)

 このところ三条界隈では、ギャラリーすずき、はねうさぎ、立体ギャラリー射手座、COCO……と皆さんお世話になってこられた画廊がなくなってしまいました。アーティストがいてこそのアート作品ですが、周辺で支える状況を作っていくということがあってはじめていろんなことが生まれていくのだと思います。そろそろ、熊谷さんに出てきていただいてもよいでしょうか。

会場 (大拍手)

熊谷 皆さん、今日はお忙しい中をわざわざお越し下さいましてありがとうございました。本当は縁の下にいるのが性に合ってるので、ここに出てくるべきではないと思ってるんですけど、ありがとうございます。

ヤノベ 長い間お疲れ様でした!

会場 (大拍手)

(花束贈呈)

 今日はもうひとつ。これは制作者のヤノべさんから。

ヤノベ 熊谷さんに贈るトロフィーを作りました。

会場 (どよめき)

ヤノベ ここに銘板があって「熊谷寿美子 アートスペース虹 1980-2017 ウルトラ芸術文化功労賞」と記しました。ありがとうございました。

 
ヤノベ ここがトロフィーの形をしたシャンパングラスになっていて、ここにはデュシャンの「泉」のデザインの便器が載っていて、下から溢れ出る水に支えられてその下に虹が発生してるという造りです。皆さんがご存じのように、虹が閉廊した2017年は、デュシャンが「泉」を作ってから100年目の年でした。現代美術という大きな流れを作ったデュシャンの「泉」100年目に、美術にひとつの大きなムーブメントを起こした熊谷さんの画廊の伝統を重ね合わせて制作したものです。上の便器部分は3Dモデルで、ウルトラ・ファクトリーの若い学生たちが虹の功績を称えて作りました。2017年という記念すべき年に、ウルトラ・ファクトリー・アカデミーがオスカー像のように、世界のたくさんの人に贈っている像のひとつが熊谷さんに贈られるというわけです。

 
熊谷 とても感謝の気持ちでいっぱいなんですけど、京都にはたくさんのギャラリーがあって、それで私はその一部でしかないんです。やっぱり全体のことが明らかにされることを私は切に望みます。60年代から頑張ってきて下さったギャラリーがあって、梁画廊さんとか射手座さんとかマロニエさんとか16さんとかね、たくさんの画廊が50何年がんばって下さってるので、私がこういうふうにしてもらうのはとてもおこがましい気がして、本当に肩身が狭い思いをしてるんです。

もうひとつ言うことがあるんですけど、私は芸大まで行きました。ボロッ切れのように転がっていて、「あの、ヤノベさん……」と言って揺り起こしたら、ばぁっと立ち上がって私にひとことも言わず、振り向きもせずに「あぁ! 寝てた!」って言ってまた作り始めたんです。それで私はすごすごと帰ってゆきました。以上でございます。

会場 (笑・大拍手)

 いろんな形で場はまた生まれてくるでしょうし、新たな場所でお目にかかりたいと思います。皆さん、どうもありがとうございました。

 

(2018年1月21日、京都芸術センター/2018年5月7日公開)

 
アートスペース虹 1981年8月8日-2017年12月24日。京都東山の三条通に面した大きなガラス窓と白い空間が印象的なギャラリー。現代美術を中心に、幅広く実験的な作品を発表する場として様々なジャンルの展覧会を開催してきた。「虹」の名には、「消えても心に残る爽やかな存在と、ほのかな希望」としての、オーナー・熊谷寿美子さんの思いが込められた。




やなぎ・みわ
現代美術家。アートスペース虹での個展は、1994年「WhiteCasket」エレベーターガールの生身のパフォーマンス。神戸生まれ、京都在住。1991年京都市立大学大学院美術研究科修了。1990年代後半より写真作品を発表。主な個展にヴェネツィア・ビエンナーレ(日本館、2009年)、グループ展ではPARASOPHIA: 京都国際芸術祭2015、シドニー・ビエンナーレ(2002年)に参加。2011年から本格的に演劇活動を開始し、『1924 海戦』(2011年)、『ゼロ・アワー 東京ローズ最後のテープ』(2013年)を演出し、2015年に北米5都市を巡回。2014年にステージトレーラーを台湾で製作しヨコハマトリエンナーレ2014で発表。2016年に野外演劇『日輪の翼(原作:中上健次)』を上演した。2017年には東アジア文化都市2017京都「アジア回廊 現代美術展」で『日輪の翼』を一部再創作し発表した。2017年、第30回京都美術文化賞受賞。京都造形芸術大学教授。

 
やのべ・けんじ
現代美術家。1965年大阪生まれ。京都市立芸術大学大学院美術研究科修了。1990年初頭より、「現代社会におけるサヴァイヴァル」をテーマに実機能のある大型機械彫刻を制作。創作の原点は、幼少期に遊び場で過ごした大阪万博跡地「未来の廃墟」。21世紀の幕開けと共に、制作テーマを「リヴァイヴァル」へと移行。2011年震災後、希望のモニュメント《サン・チャイルド》を国内外で巡回。「瀬戸内国際芸術祭2013」、「あいちトリエンナーレ2013」などに出展。2016年、第29回京都美術文化賞を受賞。京都造形芸術大学教授。

 
はら・ひさこ
アートプロデューサー。1980年代半ばから関西を拠点に、編集、執筆、展覧会企画等に関わる。主な共同企画に「六本木クロッシング2004」(森美術館)、「Between Site & Space 」( 2008 トーキョーワンダーサイト渋谷、2009 ARTSPACE シドニー)、「あいちトリエンナーレ2010」(愛知県美術館ほか)、「パリに笑壷を運ぶ −現代日本映像作品展」(2012年、パリ日本文化会館)、「六甲ミーツ・アート 芸術散歩」(六甲山各所)など多数。 共編著「変貌する美術館」(昭和堂)ほか。大阪電気通信大学教授。