対談:島袋道浩×浅田 彰 一休さんと現代美術(上)
構成:浅田 彰+編集部
2019.03.21
構成:浅田 彰+編集部
対談写真:編集部
展示・作品・会場写真提供:島袋道浩
編集協力:斉藤雅子
浅田 今日は昨年、京都造形芸術大学大学院グローバルゼミでも教鞭を執られた島袋道浩さんをお迎えしました。去年の春、島袋さんがここで話をされたとき予告されたように、京都府で「京都:Re-Search」というアーティスト・イン・レジデンスのプログラムをやっていて、その成果が『大京都』と称して発表される。その一環として、去年の夏、京田辺市で島袋さんが応募者の中から選んだ3人のアーティストのレジデンスの成果とともに作品を発表された。まずはそれを振り返るところから始めましょうか。
島袋 そうですね。京都というとどうしても京都市が主役になっちゃうじゃないですか。でも、京都府には、北に天橋立があったり、南に京田辺があったり、そういう地域の魅力をアーティスト・イン・レジデンスによって発見し、アーティストの作品を通して発表するというプログラムを京都府が始めています。2016年度に舞鶴で始まって、2017年度に京田辺と福知山、2018年度が京丹後と亀岡。「京都:Re-Search」で調べてもらったら出てきますけれども、まずポートフォリオを提出して応募し、選考された人が少しお金をもらってレジデンスをするというものです。僕はそのコーチ役を務めたのですが、まず2週間ぐらい滞在してリサーチをし、作品のプランをつくってもらう。その中で面白かったものを選んで、次の年に展覧会をしてもらうというシステムです。京田辺の場合は、一昨年にレジデンスをして、去年展覧会をやったわけです。同時に今年の夏、京丹後では SIDE CORE というグループをコーチ役に、5人ぐらい若いアーティストが来てレジデンスをしていました。この3月には亀岡でアーティスト・グループの目がコーチを務めます。
浅田 京田辺では「京都:Re-Search」のときに7、8人を選び、そのプロポーザルから3人を選んで、島袋さん自身とその3人で『大京都』をやった…。
島袋 そうです。
浅田 日本では地域アートというのが盛んになって、去年島袋さんも参加された越後妻有・大地の芸術祭とか、今年開催される瀬戸内国際芸術祭とか、大規模なイヴェントが開かれ、良かれ悪しかれ一大観光事業になっている。対して、京都府は最初から大規模な観光事業としてやるんじゃなく、小規模でも本当に面白いことをやろうとしている。僕はそこに好感を持つんだけど、宣伝・広告が不十分なのか、あまりに知られてないのは、ちょっと残念ですね。ともあれ、去年の7月6日から16日まで京田辺で『大京都』が開催された。
島袋 会期が10日しかないというのがまずすごいですよね。
浅田 で、ぼくも7月7日の土曜日のアーティスト・トークに参加するはずだった。ところが、7月6日前後というのは、後になって気象庁が「平成30年7月豪雨」と名付けた大豪雨の真っ只中…。
島袋 覚えていますか、あのすごい雨。おかげで、10日しかない展覧会なのに、半分ぐらいしかできなかった。だから、幻の展覧会なんですよ。
浅田 参加アーティストの光岡幸一さんは天井川をテーマにしていて、そこに橋をかけていたのに、危ないから撤去しろ、と。
島袋 そうそう、見せる前に撤去しなくちゃならなかったとか。だから、ほとんどの人が見てない。それで、その翌週は猛暑ですよね。
浅田 7月7日のトークが豪雨でキャンセルされたのを、さすがは粘り強い島袋さんらしく、「せっかくだから次の土曜にやろう」というので、7月14日にやった。
島袋 今度それが猛暑だったわけです。人が動きたくないようなね。
浅田 京都市でも連日38度の暑さになった、その猛暑の最初の日です。トークの後、JR学研都市線で大阪に行くつもりが、京田辺のちょっと先の四条畷駅でレール温度が59度を超えたので…。
島袋 レールが曲がっちゃったんですよね。
浅田 というか、その危険があるので、59度を超えたら自動的に運行停止になるらしい。それで、やむなく京都市に戻ったんです。
島袋 とんでもない10日間でしたよね。
浅田 だから、猛暑の中でほとんど朦朧としながら見て、それでも非常に面白かったし、トークもやったので、せっかくだから『REALKYOTO』に記録を載せようと思ったら…。
島袋 暑過ぎて録音するのを忘れていたのかな。主催者のほうにも記録が残っていなくて。あの日は暑すぎてほとんど人も来てなかったし、京都造形芸術大学の学生の人たちにも知ってもらいたいので、もう一度やろうという浅田さんのご好意で、今日やらせてもらっています。
浅田 というわけで、まずは島袋さん自身の展示の話から。
始まりは一休さん
島袋 京田辺という場所でなぜ引き受けたかといったら、
浅田 一休といちばん縁の深いのは京都市の大徳寺で、晩年は大徳寺の住持になるんだけれども、そのとき住んでいたのは京田辺の酬恩庵、現在の一休寺で、そこからときどき大徳寺に通っていた。
島袋 そうですね。人生最後の25年間は基本的に京田辺にいらっしゃった。
浅田 そこで亡くなって、お墓も一休寺にある。だから、一休さんは京田辺のキャラクターみたいになっていて、駅前にもマンガだかアニメだかの一休さんの像がありますね。
島袋 少し画像を見て下さい。これが一休寺です。有名なのは一休さんが人と会ったりするのに使っていたという方丈という建物だけど、実は本堂は正面の建物です。その手前の庭で、モミジの枝が垂れてくるのを竹で支えていて、それが何かしゃれていていいなといつも見ていたのですが、誰も気づかないから、1本だけ銀色に塗っとこう、と。一応これも作品なんですけど、これは誰も気づかなくてもいいという類の作品。
で、本堂に行かず、右に曲がると
そのとき表に置いた僕の文章を読んでおくと…
「一休さんへ
思わず一休さんと親しみを込めて呼んでしまう一休宗純禅師は、僕にとってのアートの始祖です。晩年を過ごされた京田辺の酬恩庵の一休寺で展示をさせてもらえることは本当に心踊る、夢のようなことです。亡くなられる前の年に弟子の墨斎に作らせたという木像。そのちょっと難しいお顔を少しほころばせられたらと思っています。」
ここにはかなりリアルな一休さんの木像があるんですが、それはともかく、入るとたらいと丸い円盤がある。丸い円盤は昔つくった僕の作品で、「輪ゴムをくぐり抜ける」というものです。浅田 結構やっている人がいましたね。
島袋 結構やっていましたね。禅寺でただ輪ゴムをくぐり抜けてみるというのは、いい感じなんです。みんなも帰ってやってみて下さい。オーバンドの18番だとくぐり抜けられると思います。くぐり抜けると不思議な達成感があるんですよ。ちょっと急に偉くなったような。自分がワンランクアップしたような気持ちになる作品です。
浅田 禅では座禅にせよ何にせよ言語に頼らず体で修行を体験して悟りを開く、いわばそのパロディというか…。
島袋 たらいのほうは、「浮くもの/沈むもの」という、ただ、浮いているトマトと沈んでいるトマトがくるくる回っているというだけの作品です。「何か仕掛けがあるんですか」とか「重しを入れているんですか」とか言われるんですけど、皆さん、これ、うちへ帰って台所でパスタゆでるような大きな鍋に水いっぱい張ってやってもらったらいいと思うんですが、同じスーパーで買ってきた同じトマトでも浮くのと沈むのがあって、面白いなと思うんですよ。兄弟でも運動が得意な子と勉強が得意な子がいるみたいな話で、同じお母さんから生まれても違うみたいな。ヨーロッパ人、特にドイツ人に見せると、なぜだ、なぜだと、すごく科学的に知ろうとするんですね。でも、僕はあまりそういうのに興味がなくて、自分がワッと驚いたことをただシェアしたい、人と共有したいなと思ってやっているんです。
浅田 意味があるのかどうかわからないけれども、面白い。そのたらいの円と輪ゴムやそれを載せた円盤の円が重なって、絶妙な導入になっていました。
島袋 「これ食ふて茶のめ」とか禅画とかでも丸がよく出てきますが、それにかけていました。それで、左を見ると、数珠とか売っていたりするショーケースが元からあるのですが、そのひとつをお借りして、展示させてもらったんです。これは本当の石器なんですけど、それとiPhoneやiPadを並べています。人類のいちばん古い道具と新しい道具って、結構似ているんですね。人間が手に持っていい感じがするみたいなのは原始時代から変わっていないのかなとか思うんです。この作品には裏話があって、これはいろんなところで見せている作品なんですけど、ヴェニス・ビエンナーレで見せたときに、スティーヴ・ジョブズの近くで働いていたという人が来て、「スティーヴも最初にiPhoneをつくったときに石器のような美しさだと言ってたのよ」とすごく喜んで話してくれました。それで、コレクションにしてくれるのかなと思ったら、そうはならなかった(笑)。
浅田 本人が生きていたら買ったかもしれない。
島袋 ちょっと見せてみたかったですね。で、その隣。僕は神戸の垂水の出身なので、蛸壺漁に使う蛸壺を瓢箪でつくって、実際に蛸壺漁に行ったことがあります。これはあまりわかる人がいなかったと思いますけれども、
浅田 一休さんといえば頓智ということになっているけれど、そもそも禅では公案と称して謎かけをするというか、ノンセンスな小話の意味を問うたりする。「瓢箪でナマズをとるとはいかに」、つまり「ぬるぬるしてつかまえにくいナマズをつるつるした丸い瓢箪でつかまえるとはどういうことか」というお題があって、何人もの禅僧が「その心は…」という解答を漢詩にしたのが並んでおり、その下に如拙の絵がある。それが妙心寺退蔵院にある「瓢鮎図」ですね。
島袋 これです。当時の禅のお坊さんたちが皆、署名しているんですよね。
浅田 当時の京都五山の主だった禅僧が解答を競っていて、たいてい「いかに悟りを開くか」という寓意として解釈しているわけだけれど、まあ見方によっては大喜利みたいなものですよ。
島袋 しかも、これ、こんなばかげた絵といったらばかげた絵なんだけど、国宝なんですよね。そういう意味では日本はいい国だなと思うんですよ。こんなものが国宝なのかと。現物を見られたことはあります?
浅田 ありますよ。
島袋 どれぐらいのサイズですか。
浅田 小さいですよ(漢詩の部分を含めて111.5㎝×75.8㎝)。座屏という小さな衝立の表裏に漢詩と絵が配されていたという説もある。いまは上下につなげて掛け軸になっているけれど、普通の床の間に掛けられるサイズです。
島袋 これ実物を見たことがないので、見たいなと思っているんですね。
浅田 そもそも如拙というのも、「大巧は拙なるが如し」、つまりすごくうまい人はむしろ下手に見えるという老子の言葉にちなんだ名前だから。
島袋 赤塚不二夫みたいなところがありますよね。
浅田 そう、いわばヘタウマですよ。
島袋 僕も気づいたことがあるんですけど、如拙さんは1400年前後に生きた人で、一休さんは1394年生まれで1481年に88歳で亡くなっている。如拙さんは一休さんのちょっと前、同じ時代に生きた人なんで、だから、一休さんはこの絵を見た可能性があるんですよね。
浅田 十分あるでしょう。
島袋 というのを踏まえて、この瓢箪の蛸壺をもって来たんです。
浅田 なるほど。一休よりちょっと年下なのが雪舟(1420-1506年)で、備中(岡山県)の田舎から京都の
ついでに、予備知識として歴史的な文脈をざっと復習しておくと、室町幕府3代将軍の足利義満がいまの金閣寺(鹿苑寺)を含む華麗な北山第をつくり、8代将軍の足利義政が、政治的には応仁の乱(1467-1477)に突入するなか、いまの銀閣寺(慈照寺)を含む東山殿をつくる。そこで、人類史上最も洗練されていたと言いたくなる宋の白磁・青磁や窯変天目のような陶磁器、書画、禅や朱子学、その他さまざまな文化を摂取して、北山文化・東山文化が成立し、そこから能や茶の湯などが生まれて来る。要するに、宋の洗練をさらに日本で洗練した時代です。
荒っぽく言うと、それを1回ひねったのが15世紀の一休で、さらにもう1回ひねったのが16世紀の利休と言ってもいいんじゃないか。そのあげく、たとえば中国で高温焼成された最高級の窯変天目のようなものに対し、手で土をひねって焚火で焼いただけのような楽焼の茶碗のほうがいいんだということになる。つまり、茶道のわびさびの文化を最初から素晴らしいものと考えてはいけないので、あれは技術的にも美的にも最高に洗練された北山文化・東山文化を前提とし、それをあえてひっくり返したものなんです。その無茶苦茶な価値転倒をやってのけたのが一休であり利休であると思えばいいんじゃないでしょうか。
島袋 さて、次の空間に行くと、きれいな庭があって、そこに別のヴィデオの作品を置いたんです。「MacBook Airを研ぐ」という作品なんです。これは実は音が重要なんですが、この砥石で砥いでいるときの音が禅っぽいでしょう。お坊さんがかみそりで頭を剃るときの音に似ているでしょ。で、最後にリンゴを切ったときのスコーンという音が庭に響くと、ししおどしみたいでいい感じなんですよ。
浅田 MacBook Airを研いだものでリンゴを切る映像が面白いんで見入ってしまったけれど、なるほど、音がキーだったのか。
島袋 僕だけ、自分で喜んでいる。左側に一休さんの像があって、一休さんの耳にもその音が入っているはずなんですよね。
一休さんのアニメ、みなさん、見たことあります? 実は画像を探していたら、いま中国でも一休さんのアニメがはやっているようなんですが、やはり僕も一休さんとの出会いはテレビアニメの『一休さん』です。
浅田 日本では1975年から82年までTV放映されたようですね。
島袋 僕、ドンピシャですね。69年生まれなので、6歳から、人間形成の大事なときに見ている。マンガ『一休さん』の話が本当の話かどうかは諸説あるけれど、江戸時代に書かれた『一休咄』という本とかがもとになっているそうです。ただ、火のないところに煙は立たないというか、噂が大きくなるというか、それなりのことをしていたということは確かだと思います。
浅田 たしかに一休は逆説の人だったには違いない。ただ、かわいい頓智小僧とは全然違って、激越な人だったんですよね。後小松天皇のご落胤ということになっていて、だからやりたい放題だったのかもしれないけれど、過激な修行をし、師の
島袋 だから、マンガではこんなかわいい顔をしているけど、本人にいちばん似ていると思われている絵がこれなんです。この差!
浅田 実物は狷介な人物という感じですね。
島袋 偏屈そうなおじさんですよね。
浅田 むろん、一方的に威張るのではなくて、逆説に次ぐ逆説で相手を翻弄するタイプの人でしょう。仏教の修行だけではなく、若いころから漢詩で認められ、和歌も詠んだ。「
島袋 そう、そのときの「一休み」が一休という名前の由来と言われています。
浅田 修行のあと悟ったと認める印可状を師から渡されると、そんなもの要らないよと言って勝手に出ていく。あとは、放浪ですよね。
島袋 当時、そういう印可状を
浅田 特に兄弟子がそうで、大徳寺の住持になって威張っているが、禅の精神などまったくわかっていないと、ぼろくそに言うわけね。
島袋 そうですね。兄弟子は、18歳ぐらい年上の
浅田 朱太刀像といわれる一休像があるけれど、朱塗りの鞘に入った木刀を持ち歩いていた、それは「悟ったようなふりをして威張っている禅僧は実は使いものにならない木刀である」という嫌味だ、と。
島袋 見かけ倒しだ、と。
浅田 他方、自分は漢詩を書くときの号も狂雲子。
島袋 自分のことを、狂った雲だ、と。
浅田 で、どんな内容かと思ったら、美少年にも飽きたからいまはもっぱら女三昧だ、俺に会いたかったら色街に来い、みたいなことが書いてある。で、77歳にもなって、
島袋 50歳ぐらい年下の盲目の恋人が最後に出来るんですよね。
浅田 88歳で死ぬまで同棲する。ふたりの愛の営みも流麗な漢詩に書いちゃうわけですよ。
島袋 書いているんですよね。枯れ木にも花が咲くみたいなことを。
浅田 円相の中の一休像の下に森の描かれた肖像画もあって…。
島袋 泉北にあるやつですね。
浅田 そう、堺より南にある忠岡町の、町工場や畑の点在する一画に、相国寺あたりにあってもおかしくない室町の書画の名品を集めた正木美術館というのがある、そこのコレクションだけれど、円相が盲目の女性の夢のようにも見えて、魅力的な絵です。
島袋 これは墨斎という、もしかしたら一休さんの息子じゃないかとも言われている一番弟子みたいな人が描いたやつなので、本人にいちばん近いんじゃないかと言われている肖像なんですけど、これが87歳。88歳で亡くなる前年ですね。このとき、やっぱり墨斎に、生きている自分の木像をつくらせ、自分の毛やひげを抜いたのを移植させているんですね。それが一休寺にあるものです。
浅田 真珠庵にもひとつあるけれど、いずれにせよ異様な迫力がありますね。そもそも、昔は絵でも彫刻でもリアリズムからは遠く様式化されたものが多いけれど、仏教で師から弟子に渡される
島袋 毛を植えたというのはやっぱりすごいことで、当時、禅のお坊さんというのは、髪の毛は剃ってしまってないのが普通だったのですね。それに反抗して、一休さんは、さっきの肖像画のように髪を生やし、しかもぼさぼさ頭だったらしいんです。だから、わざわざ自分の毛を植えているというのは、自分は最高の禅僧だという気概を持ちつつ、でも、俺は型にはまらないぞという宣言だったと思うんですよね。
浅田 さすがにいまは毛もひげもほとんど落ちているけど…。
島袋 近寄って見てないからわからないですけど、穴だけあいています。これは一休さんが乗ったお輿というんですか、これに乗って京田辺から大徳寺に通ったらしいですよ。
浅田 ものすごく遠いけれど…。
島袋 これ、いまも残っているんですよね、一休さんが着たという袈裟。一休寺というのは一休さんに由来する物を展示していて面白いところなので、一度みなさんも行ってみるといいと思います。
浅田 リアリスティックな分身としての頂相を大事にするのと同時に、師の着けていた袈裟、持っていた数珠、そういう遺品を大事にする。そもそも釈迦の遺骨と称するものを仏舎利と呼んで大事にするでしょう。仏教はわりあい理論的なものと思われているし、現にそうなんだけど、最終的には実存的なものなんですよ。
島袋 袈裟といえば、一休さんの話で大好きなのがあるんです。あるとき法事があって、一休さんは最初、髪はぼさぼさ、洋服もぼろぼろの格好で出かけたそうなんですよ。そうしたら中に入れてくれなかった。そこで上等の袈裟を着て出直していったら、今度は、どうぞどうぞと言って招き入れられた。そして法事が終わって食事を出されたときに、一休さんはお膳の前の座布団の上に自分が着ていた上等の袈裟を畳んで置き、自分は食べずに横でもそもそしていた。「どうして食べてくれないんですか」と聞かれたので、「いやいや、あなたは自分の中身じゃなくて袈裟に価値を見出したわけだから、このご飯は袈裟に食べさせなきゃいけない」と言ってお膳に手をつけずに帰ったという話があるんです。
浅田 なるほど、島袋さんはマンガの『一休さん』を見ていた子供時代から、頓智や奇行の話を面白いなと思っていたんですね。
島袋 思っていましたね。僕自身も先生に口答えするようなかわいくないところのある子供だったと思います。小学校のときの授業中、窓辺の席で外ばっかり見ていたら、先生が「おまえ、なんで外ばっかり見てるんだ」と言うので、「部屋の中に鳥が飛んでますか」と答えたら、「ちょっと来い」と言ってパコーンと殴られた。「屁理屈言うな」といってすごく怒られたのを覚えています。一休さんだったら頓智といって済むのに。
浅田 ある意味で、現代美術も、パラドックスと言うとカッコいいけれど、要するに頓智でしょう。
島袋 そう、屁理屈は頓智、そしてコンセプチュアル・アートにつながりますから。
浅田 デュシャンなんて完全に…。
島袋 屁理屈おやじ。
浅田 その意味では、かわいらしくなったマンガの『一休さん』の頓智も、元祖一休の底無しのパラドックスに通ずるところはあって、島袋さんのようにうまく掘り下げていくと、マンガの『一休さん』から元祖一休へ、また現代美術にたどり着くというわけですね。かわいらしいマンガの『一休さん』だけで止まってしまってはいけない。本物は相当やばい人ですよ。
島袋 やばい人でしょうね。たぶん本当に天皇の子供だったんでしょう。そうじゃないと、あんなことはできない。生まれたときの名前は千菊丸ですからね。お墓にも菊の紋章がついていて…。
浅田 後花園天皇の即位は一休の推挙によるとも言われるし、いま一休の墓所を宮内庁が「後小松天皇皇子宗純王墓」として管理しているのを見ても、単なる風説ではなさそうですね。ただ、虎丘庵の庭にあった墓所を近代になってから宮内庁が壁で囲って立ち入り禁止にしてしまった、それで庭が分断されてしまっているのは問題ですけれど。
島袋 あのお墓も、一休さんが生きている内に建てさせているんですよ。よっぽど京田辺のあの場所が好きだったんでしょうね。
やっぱり始まりは一休さん
浅田 ともあれ、怖くて近寄れないようなキレッキレの人の逆説が、江戸時代の『一休噺』からマンガの『一休さん』に至って、かわいらしい小僧さんの頓智になってしまったわけで、このこと自体、一休的とも言えるけれど、島袋さんがそこから一休本人に遡っていくことで、古木も研げば刃になるというか、一休本人のやばいところにまで接近する、と同時に、まさしくそれが現代美術に通ずるというのは、面白いですね。
島袋 毒薬転じて薬となるみたいなところがありますよね。アートってそういうところがあって、毒薬じゃないと効かないときがある。ちょっときつい毒みたいな薬が必要な患者さんもいっぱいいるんですよ。そういうことを社会に対してやった人なんだろうなと思うんです
浅田 そうですね。禅僧であると同時に東山文化を代表する文化人だった一休だけれど、東山文化をさらにひねろうとしたというか、高僧やエリート文化人の世界から京都や堺の町衆の中へ出ていったというか、そのあたりが一休の独自性なんでしょう。
ともあれ、はっきりした確証はないけれども、わび茶の創始者とされる村田珠光(真珠庵や虎丘庵の庭も彼の作とされる)も、一休に学んだと言われるし…。
島袋 そうそう。村田珠光は面白い人で、一休さんの弟子なんですけれども、居眠り癖のある人で、座禅をしたら悪気はないんだけど寝てしまう人だったので、「僕は修行したいのにどうしたらいいか」と聞いたら「濃いお茶を飲んだら起きていられるんじゃないか」と言われて、そこからお茶に入ったらしい。それが千利休まで続いていく。
浅田 もともと栄西が中国からお茶を持ってくるわけだけれども、明らかに眠気覚ましだったんだと思いますよ。そういう意味で実用的なものだったお茶を、「茶の湯」というアートに転換していく。一休のかけたスピンがそこで効いてくるとすれば面白いですね。
島袋 そうですね。とにかく一休さんは当時の芸術家にすごい慕われているんですよね。
浅田 足利義満に寵愛された世阿弥が能楽を大成するんだけれど、その女婿の
島袋 どうしてなんだろうと少し調べてみたんですけど、能楽師とか連歌師というのは要するにフィクションに関わる人たち、言ってしまえば嘘をつく人たちじゃないですか。それは仏道に外れるんじゃないかという悩みが当時の芸術家にはあったらしいんですよね。それに対して一休さんは、いやいや、そんなことはない。フィクション、つまり嘘の中にも仏道はあるんだということをはっきり言った。それで当時の芸術家が一休さんの周りに集まったというふうなことを知りました。
浅田 さっきの大雑把な話に戻ると、15世紀の一休の後、16世紀に利休が出てきて、一休と同じ堺や大徳寺を舞台としながら、茶道具のみならず、書画や花、建築や作庭に至るすべてを含んだ茶の湯の文化をアート・ディレクターとしてつくりあげていく。またそれが現代美術にもつながっていくわけですよ。
島袋 僕もそう思います。だから、今日なんでこんな話をしているかというと、ヨーロッパとかで美術をやっていると、すぐ「始まりはデュシャン」みたいなことになるんだけど、僕は「始まりは一休さん」と言いたい。自分のコンセプチュアル・アートの始まりは一休さんだ、と。
浅田 デュシャンよりずっと早いよ、と。
島袋 そう、500年ぐらいこっちのほうが進んでいるよ、と。そういうことは少し知っていてもいい、意識してもいいんじゃないかと思うんですよ。
浅田 禅とか茶の湯と言うと「わびさび」ばかり強調されるけど、その手前にものすごくゴージャスな北山文化や、それをさらに洗練した東山文化があり、一休や利休のような人たちがそれを大胆に転倒した、その転倒こそが面白いんだということを強調する必要がある。
島袋 そう。いまも同じことが起こっていると思うんですけど。そういう一休さん的なものがちゃんと伝わってないと思うんですよ。桃山文化みたいなデコラティヴなものは通じても、一休さんのようなものは伝えにくい。袈裟を見て何じゃみたいな話なので。
浅田 能と歌舞伎、伊勢神宮や桂離宮と日光東照宮、つまりはミニマリズムとバロックという対立があるとして(もちろん本当はそう簡単な話ではないけれど)、後者はわかりやすいんですよ。いまだと伊藤若冲とか村上隆とかかな。じゃあ前者はどうなっているかというと、いま世界の人たちは安藤忠雄の「住吉の長屋」や杉本博司の「海景」なんかにそれを見ているんじゃないか。それはそれで悪くないけれど、スタイライズされた様式として受け取られていて、本当はそこにも働いている逆説や転倒の力学はあまり理解されていないような気がする…。
島袋 それは見えている部分ということですね。視覚的なことですか。
浅田 そう。それはそれでレヴェルの高いものではあるけれど…。
島袋 それもひとつですよね。
浅田 そういうミニマリズム対バロックの図式はわかりやすいけれど、本質的なところには届いていない…。
島袋 僕もそう思います。それもこれもあっていいんだけど、一休さん的なところもちゃんと知っておくべきだし、もうちょっと紹介したいなと思っているんですよ。日本の昔の美術ってそういうものだけじゃないですよ、と。
浅田 いまちょうど京都国立博物館に雪舟の「
島袋 達磨の後ろに立っているやつですね。
浅田 そう。だけど、慧可が手を出しているように見える、よく見るとそこに赤い線が入っていて、それは切断した腕を差し出しているのだとわかるんですよ。何度願い出ても、達磨は壁を向いたまま振り返ってもくれない。それで、自ら腕を切断して命がけの覚悟を示し、それでやっと入門を許される。そこで達磨が振り向く直前の場面が、太い輪郭線である種ブラック・ユーモアをたたえたマンガのように大胆に描かれているわけです。言ってみれば、作者の雪舟も、描かれたふたりと同じくらい過激にやろうとしている。そこには一休の激越さに通ずるものがあるんじゃないか。墨斎の達磨像も悪くないけれど、それと比べても雪舟のこの達磨像は破格ですよ。
島袋 これは一休さんが持っていたものじゃないかと一休寺に伝わっている
浅田 で、年を重ねるごとに死に近づいているわけで、めでたくもあり、めでたくもなし、と。
島袋 裏側にはそういうことがあって、人はみんな死ぬものだ、死ぬのは別に当たり前なんじゃないの、めでたい、めでたい、と。
そしてこれが、さっき浅田さんの言われた「有漏路より無漏路へ帰る 一休み」。
浅田 去年、京田辺でもこの歌を引いたけれど、「雨降らば降れ、風吹かば吹け」というのはカッコいい、しかしこれほどの豪雨と猛暑になるとそうも言っていられない、と。
島袋 暑いときどうしていたんでしょうね、一休さん。そしてこれが「華叟の子孫、禅を知らず」。
浅田 華叟というのが師の華叟宗曇。
島袋 そして華叟の子孫というのは、18歳年上の兄弟子、養叟宗頤のことを言っている。あいつは禅なんかわかってない、「狂雲面前」、つまり狂った雲である自分の前で誰が禅のことを語れるんだ、30年間俺は肩の身が重いぞ、自分ひとりで松源以来の禅の伝統を背負っているんだぞ、と。松源というのは、華叟さんよりずっと前の代の師匠にあたる中国の僧です。一休さんはすごい自信満々の人なんですよね、俺にしか禅はわかっていないというようなことを言って。
浅田 宋に渡って臨済宗松源派の
島袋 嫌なやつでしょうね、自信満々な。これは一休さんの字ですけど、字を見ても曲者ですよね。
浅田 僕は字のよしあしを自信を持って判断できないけれど、一休の書は乱暴なのが多くて、ものすごく評価が高いのが不思議といえば不思議…。
島袋 ああ、そうですか。
浅田 癖のある面白い字ではあるけど、書としていいものなのかどうか…。
島袋 これどうですか。
浅田 「諸悪莫作・衆善奉行」、つまり悪いことをするな…。
島袋 そうそう、悪いことするな、いいことをしよう、ということなんですけど。
浅田 これはすごいと言えばすごいよね。
島袋 これは一休さんのいちばんいい書とされていて、いろんな書道の本にも出てくるやつですよね。僕、これはやっぱりすごいなと思うんです。
島袋 ここのかすれても気にしないところとか、いちばん最初の「諸」という字の伸びている感じとか。吉増剛造さんの書く「ノ」にちょっと共通しているところがありますね。
浅田 ただ、吉増剛造には一休の書の男性的な切断力はあまり感じないな。だいたい、吉増剛造はイタコみたいな詩のだだ漏れ状態になっていて、イタコを見ていると面白いという意味で若い人たちが吉増剛造をキャラクターとして面白がるのはわからないでもないけれど、詩人としてはどうなのか…。
島袋 そうですか。僕にとっては尊敬する芸術家のひとりですが。(浅田さんの言葉で言うだだ漏れになるほどの日々の積み重ねみたいなものは僕にはやはりすごいと思えるのです。)
浅田 僕がマラルメ的な詩のパラダイムに縛られすぎているのかもしれないけれど、だだ漏れで溢れ出る生きた言葉の洪水を死の冷気によって凍結し数学的に構造化するからこそ詩が成立するんだと思うんですよ。詩でもアート作品でも、作者のキャラクターを超えたところで非人称の構造として成り立っていないとダメじゃないか、と。いずれにせよ、一休は全身で禅を生きた人だとして、だだ漏れではない、むしろ切断力の人だと思うな。
島袋 切断力。どういうことですか。切るということですか。
浅田 うん、切るということ。修行をしたこともするつもりもないからよくはわからないけれど、禅というのは一言で言えば切断でしょう。例えば、無心で庭を掃き続けていて、石がこつんと竹に当たったときに、ふと悟るとか。
一休さんを思い出させる現代アーティスト
島袋 今日は「一休さんと現代美術」というタイトルですけど、これは誰の絵かわかりますか。ナムジュン・パイクさんの作品です。一休さんのことを考えたとき、パイクさんの文字のいいかげんな感じを、僕はすぐ思い出してしまうんです。
僕はパイクさんのことをすごいなと思っていて、尊敬するアーティストのひとりなんですけど、たぶん浅田さんが評価するところと違うところを評価しているような気がしていて…。
浅田 いや、ブラック・ユーモアの人で、一休的だと思いますよ。ステージから客席に走って行ってジョン・ケージのネクタイをちょん切ったエピソードからもわかるように、激越なんだけど、ユーモアがある。
島袋 文字を見ても、こんないいかげんによくやれるなと思うんですよ。これ、結構一休っぽいでしょう。これで終わる!? みたいな。一発ですよね。
これとかも禅画っぽいですね。
浅田 ちょっとわかりやすすぎるかもしれない。
島袋 パイクさん、これ書きながらコメントしていて、重なっているところの形が果物の種みたいじゃないですか。芸術と通信の重なるところにヴィデオ・アートがあるんだけれども、それはこの種のように固くて、これから芽が出るようなものなんだ、ということを言っていて、面白いなと思うんです。
これとかどうですか。
浅田 面白いと思いますよ。またもや教科書的に言うと、鈴木大拙が英語で書いた仏教の本、特に禅の本が、欧米で圧倒的な影響力を持った。パイクの師匠格のケージもその影響を受けたひとりです。ただ、ケージの場合は、さっきの話で言うとミニマリズムを徹底したような感じ。ピアニストが出てきて4分33秒間何もやらない。それで聴衆がざわざわしたり、外の音が聞こえてきたり、そのサウンドスケープ全体が音楽だ、と。4分33秒は273秒なので、絶対零度を意識していますよね――ケージは明言していないけれど。だから、4分33秒ストップウオッチで計るんですよ。
島袋 最初から4分33秒にしようとしていたんですね。
浅田 そう、一応楽譜があって、ちゃんと3楽章に分かれている。単に何でもやりたい放題じゃない、フレームがあるからこそ自由なハプニングが可能になると考えるんですね。他方、パイクをはじめとするフルクサスは、そこをもっとアナーキーに突っ切るというか、空の論理にとどまらず身体的に突き破るというか。だから、パイクにネクタイをちょん切られたとき、ケージは本当は嫌だったという話も、数人から聞きました。一休の奇行に辟易するようなものかもしれない。ついでに言えば、ケージやマース・カニンガムの下で修業した
島袋 ユーモアは大事ですよね。一休さんはユーモアがあるし、パイクさんも笑っちゃうところがある。過激なんだけど、笑っちゃう。それがいいところだなと思いますね。
これ、パイクさんは「エスキモーとしての自分」というタイトルを付けているんですけれども、カナダでつくられた作品です。これ、顔と腰をよく見てほしいんですけど、顔に変な線を引いているでしょう。もにょもにょもにょって変な線を引いている。こういうところに僕はぞくっと来るんですよ。腰に至っては、この塗り方。ディテールですけど、こうは塗れないなというか、何かすごいなと思うんですね。きれいに塗ろうとかじゃなくて、ヘタウマでもないし、ヘタヘタみたいな。ヘタヘタのすごさ。僕にとってはこれがいちばんなんですよ、ヘタヘタ。
ヴィデオの作品をやるじゃないですか。あの人、自分でインスタレーションしたものって、電気のコードをぐちゃぐちゃにしたままなんですよ。いまだったらコードを見えないようにしたり、きれいに束ねたりするでしょう。パイクさんはぐちゃぐちゃ。絡まったままで、それが結構、田中敦子の絵みたいになっていていいんですよ。よくこんなままにしておけるなというところがあって、僕はその辺に感動するんですね。
浅田 いわゆるヴィデオ・アートだとカッコよく仕上げようとすることが多くて、ゲイリー・ヒルのヴィデオ・インスタレーションなんてコードのさばきからして実に美しいんだけど、パイクはぐちゃぐちゃでも平気。
島袋 そうですね。ここで別の作家を紹介したい。黄永砅(ホワン・ヨンピン)はご存じですか。
浅田 ええ。
島袋 黄永砅も、一休さんを思い出させる、やっぱり過激な人ですね。これは面白い作品で、中国の絵画の歴史の本と西洋の絵画史の本を洗濯機に入れて2分間回してみたという作品なんです。黄永砅は僕より15歳ぐらい年上で、
黄永砅は1980年代半ばに、厦門(アモイ)だったかな、中国の地方で中国のダダイズムみたいなことをやっていました。彼も最初意識していたのはまずやっぱりマルセル・デュシャンとジョン・ケージなんですよね。彼らに対してどう落とし前を付けるかみたいなことをやっていて、1989年にフランスのポンピドゥー・センターで開催されたジャン=ユベール・マルタンの『大地の魔術師』展に選ばれたことが中国国外に出るきっかけになった。で、そのまま亡命しちゃったんです。『大地の魔術師』展というのはすごく大切な展覧会で、僕がいまヨーロッパのいろんなところで活動しているのも、その展覧会があったからとも言えると思います。
浅田 まあ、そうでしょうね。
島袋 西洋人の現代美術と非西洋人の美術を初めて一緒に展示したと言われている展覧会で、すごく重要だと思うので皆さんもノートにメモして家に帰ってから調べてみてもいいものだと思います。
当時天安門事件とかあったころですから黄永砅はもう帰りたくないと言って亡命した。いまもフランスにいて、ヴェニス・ビエンナーレのフランス館の代表にも選ばれました。
これも黄永砅の作品です。キッチンの後ろに布張っているだけで、中華料理つくったりするから、それがどんどん汚れていく。これは一種ケージ的です。ケージ的なものをどうするかというのはアジア人の課題としてありますよね。ケージ自身が中国の易とか使っているし、偶然を取り入れるということをやっていて、これはそういうことを意識している作品だと思います。
美術館をひもでつないで引っ張ってみるということもやっています。実際動くのかなと思いますが。まじめにドローイング描いて、美術館を引っ張ってみるというプロジェクト。
浅田 確かに過激な人ではある。
島袋 あと、もうひとり、一休さんで思い出すのはデイヴィッド・ハモンズです。ハモンズは1990年前後に一気に有名になった、アメリカで最初の非白人アーティストのひとりだと思います。『大地の魔術師』展より少し後ですけれども。そのころ、片一方で黒人のアーティストにはジャン=ミシェル・バスキアがいた。バスキアというのはさっきの話でいう桃山文化みたいな人ですよね、どっちかといったらデコラティヴな。社交界とかああいうところで、いまでもたくさんお金出して買う人がいる。
浅田 グラフィティをうまくアートに持ち込んだ。しかし、他のグラフィティ・アーティストと違って、最初からアート・ワールドで通用する作品を目指したし、良かれ悪しかれ作品がうまく仕上がっている…。
島袋 いまでもバスキアはみんな知っているでしょう。その反対側にハモンズがいて、アメリカの黒人のアーティストからはいまでもものすごい尊敬を得ている人で、これ何しているかといったら、冬のニューヨークで、雪でつくった雪玉を路上で売っている。もちろん買ったところで、家に持って帰ったら溶けてなくなるし。でも、これって逆に言うと、いま僕たちは形がなくならないと思っていろんなものを買うけれど、何年か後には潰れてしまったりするだろうし、そういうのをニューヨークというすごい資本主義の場所であざ笑っているみたいなところがあると思うんです。この作品を僕が20歳ぐらいのときに知ったときは衝撃でしたね。
デイヴィッド・ハモンズは90年代後半に日本にレジデンスで来ていたことがあるんですね。東京の青山にあったギャラリーシマダが招待して、山口県にしばらくいたことがあって、そのとき僕は偶然会う機会があって、少し話したりしたんですけど、そのとき名刺をもらったんですよ。今回思い出して、探したら見つかって、写真撮ってきました。
浅田 これは傑作だね。
島袋 神妙な顔して名刺を出されたんですけど、これ、僕だけじゃなくて、当時いろんな人に渡したのだと思います。日本に来ると、名刺交換ってすごいするじゃないですか。あれが彼にはすごい不思議で、ばかげたものに見えたんでしょうね。だから、「名刺」と書いた名刺をつくって、それを名刺交換のときに出している。これも彼のひとつの作品だなと思います。20年ぐらい前にもらったんですけど、きのうたまたま見つかって。裏返すと、「CARD」と書いてある。一応英訳もしているんです。
彼はカタログとかつくるの大嫌いだと話していたし、展覧会もほとんど断っていて、いまや知る人ぞ知るアーティストになっちゃっていますけど、すごく重要な、有色人種の我々が世界で活動するときに、知っていていいアーティストだと思いますね。
僕が一休さんに関係すると勝手に思っている現代美術の話をしてきましたけど、これまでのところどうですか。
浅田 さっき言ったことを補足すると、鈴木大拙の影響もあって、欧米のアーティストたちが禅に憧れるようになった。抽象表現主義でも、現代書道みたいな絵があるじゃないですか、フランツ・クラインとか。アンフォルメルもそうですね。イサム・ノグチとともにアメリカで日本美術を現代美術と結び付けようとした長谷川三郎のような人もいた――残念ながら病死してしまうけれど。磯崎新のように、日本に勝ったアメリカが戦利品としてジャポニカと称する日本趣味を持ち帰ったととらえることもできるかもしれないけれど、良かれ悪しかれ、『大地の魔術師』展よりはるか前の段階で、禅がかなり広く流行する…。
島袋 アメリカではそうですね。やっぱりヒッピー・ムーヴメントとかビートニクの中で禅というのはすごい。ゲーリー・スナイダーなんて、京都にいたりしたし。デイヴィッド・ハモンズも言っていました、なぜジョン・ケージは日本に住まなかったんだろう、と。
浅田 ただ、禅が東洋趣味・日本趣味の一種としてミニマリスティックに様式化されてしまう場合も多かった。そこでもういちど一休に戻り、生きられた禅の本質を再発見することが、現代美術の核心にもつながるんじゃないか、という島袋さんの問題提起は重要だと思います。
島袋さん自身、ニコラ・ブリオーのいう「関係性の美学」に分類される場合が多い。でも、美術館で観衆と一緒にご飯をつくって食べたら「関係性のアート」になるのかというと、そうではない。一休みたいに、普通の関係を遮断するパフォーマンスが逆説的に何かを伝える、つまり、関係の不可能性を関係として成り立たせるというのが、禅のキーポイントであり、アートのキーポイントでもあると思うんですよ。
だいたい、欧米で日本人だというとすぐ「おまえは禅の影響を受けているか」とか言う、あれは嫌でしょう。
島袋 そういうレヴェルで言われるとね。
浅田 本当の禅というのは逆転につぐ逆転で、形式化・様式化することができない。東洋趣味・日本趣味の枠に収まるようなものじゃない。むしろ、そのことこそが現代美術に通ずるんだと思いますね。
島袋 そうですね。価値とか意味をスコーンとひっくり返すというか。
浅田 これが難しいところで、例えばケージがやったことはその意味で面白いし、禅と直接関係がなくてもデュシャンのやったことも面白いんだけど、それが「誰でもできるデュシャン」、「誰でもできるケージ」みたいな形でマニュアル化され、ヘタウマ化していくとすれば、そんなものには意味がない。そんな甘いもんじゃないんだということをあらためて思い起こす意味で、一休は面白いと思います。
島袋 じゃあ、浅田さんにぜひ1冊本を書いてもらいましょう。
浅田 いやいや、禅は「不立文字」だから。
(「下」に続く)※近日公開予定
(2019年1月11日、京都造形芸術大学にて。2019年3月21日公開)
しまぶく・みちひろ
美術家。1969年、神戸市生まれ。那覇市在住。1990年代初頭より国内外の多くの場所を旅し、そこに生きる人々や動物、風習や環境に関係したインスタレーション、パフォーマンス、ヴィデオ作品を制作している。パリのポンピドー・センターやロンドンのヘイワード・ギャラリーなどでのグループ展やヴェネチア・ビエンナーレ(2003/2017)、サンパウロ・ビエンナーレ(2006)などの国際展に多数参加。著書に『扉を開ける』(リトルモア) など。
あさだ・あきら
批評家。1957年、神戸市生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。 同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)など。
*【一休さんと現代美術――京田辺での「京都 Re-Search ― 大京都」を振り返って:島袋道浩・浅田彰】は2019年1月11日、京都造形芸術大学で行われました。