インタビュー:想田和弘(『精神0』監督・製作・撮影・編集)
聞き手:福嶋真砂代
想田和弘監督の観察映画第9弾『精神0』が「仮設の映画館(http://www.temporary-cinema.jp/)」にて公開中(配信中)だ。新型コロナウイルスで世界が騒然とする中、新作を携えて来日した想田さんに公開直前Skypeインタビューを行った。『精神0』は、精神医療に人生を捧げてきた山本昌知医師の引退と、その後の人生、そして妻の芳子さんにカメラを向けたドキュメンタリー。誰しも逃れられない「老いと死」に繊細かつ鋭い眼差しを注ぐ。インタビューには妻でありプロデューサーの柏木規与子さんが飛び入り参加するというオンラインならではの嬉しいハプニングもあり、撮影の経緯(いきさつ)や、印象深いシーンの秘話、さらにバリ島のお葬式へと話が弾んだ…。さらに想田監督と東風の共同発案による新しい試み「仮設の映画館」の仕組みや、厳しい状況下にある映画への現在の思いも語ってくれた。たっぷり1時間のロングインタビューをほぼノーカットでお届けします(内容に踏み込んだところもありますので、できれば観賞後にお読みいただく方が良いかもしれません)。
■「ゼロに身を置く」ということ
―― 『精神0』は、ひとりの患者さんが山本先生に「ゼロに身を置くとはどういうことか?」と問いかけるエピソードからはじまります。この映画の真髄がここに描かれ、すべての起点はここにあると解釈していいでしょうか。
想田 「ゼロに身を置く」という山本先生の言葉ですね。そうですね、あれが映画のすべてを規定していると言えます。患者さんだけじゃなく、山本先生ご自身、奥さまの芳子さん、すべての登場人物にとって必要な言葉であり、おそらく山本先生もご自身に対して言い聞かせている言葉ではないかなと僕は解釈しました。『精神0』の「ゼロ」はそこからインスピレーションをいただいてます。
―― この映画には3人の主人公がいるように思いました。つまり、山本先生と芳子さん、さらに隠れ主人公として想田監督なのではと。勝手な解釈なのですが、これまでの作品の客観的視点からよりご自身が踏み込んでいるように感じました。
想田 まあそうかもしれないですね(笑)。
―― プレスにも想田さんは「”仕事人間”である自分の生き様が山本先生に重なる」とコメントされていたこと、それが映し出されていたようでした。また「夫婦」という視点でも、山本先生と芳子さんが作ってこられた「こらーる岡山」が、想田監督と柏木さんにとっての「映画」というものに重なっていくのを感じました。
想田 特に柏木がそれを感じたようです。山本先生はいわば精神医療界の“スター”で、実際に数多くの患者さんを支えるすばらしい活動をされてきました。でも実は山本先生の業績の半分は、芳子さんがされた仕事だったんです。そのことに僕は、『精神』を撮った頃には気づけなかった、いや薄々気づいていたけどフォーカスできていなかった。今回『精神0』で芳子さんの友人のお宅に一緒に伺って、そこでようやく芳子さんの功績についてのいろいろな話が出てきたわけです。芳子さんが山本先生の仕事の欠かせない部分を担っていたということを、はっきりと語られて、それを山本先生も含めてみんなで確認し合うことができたのはよかったなと思います。柏木いわく「その構図はうちとそっくりで、一緒に映画を作っているのに想田ばかりが脚光を浴びて、柏木は想田に吸収されている」と。それはそうだなと思いました……。
■ここで柏木規与子さんが登場!
―― 柏木さん、初めまして。ベルリン国際映画祭の授賞式では、柏木さんが出席してエキュメニカル賞を受賞されましたね、その時はどんな感じでしたか?
柏木 気持ちよかったです。だいたい構図としては想田が前で、私は後ろでニコニコしているという形なのですが、今回は想田がエジプトにいて出席できず、私はドイツに別件で滞在していて、本当にバタバタと直前にベルリンに着いて授賞式に間に合ったんです。受賞後に女性の審査員やプレスの方々が駆け寄ってこられて、「I’m a big fan of you!」と口々に言われました。いつもは想田の後ろでニコニコしてると「あ、奥さんですか」みたいな扱いなんですが、こうやってポンと前に立つと大勢の方々から「女性としてあなたは誇りよ」と言われる。それを聞いて「私ももう少し積極的に前に出るほうがいいのかな」と思いました。女性としてがんばっている姿を見たい人がこんなにいるんだなと思いました。
―― 柏木さんは長いおつきあいの中で芳子さんを見ていらっしゃると思うのですが、芳子さんの生き方について、どのように感じていらっしゃいましたか?
柏木 一度だけ、私は芳子さんに注意を受けたことがありました。「ミニコラ」という作業所で、山本先生と芳子さん、想田と私の4人でごはんを食べていたときに、私が話の中で、想田を“落とした”ことがあったんです。すると芳子さんが「夫はね、立てれば立てるほど輝くのよ」とおっしゃったんです。「それはウチの家訓と逆だな…」と思ってすかさず「夫がちやほやされて登っていったら、上からガツンと叩き落とす、私は自分がそういう役割だと思ってるんです」と言いました。すると芳子さんは「うふふふ」という感じで「夫は基本的には立てるほうが輝くものよ」と。確かに芳子さんを見てると常にそのスタンスで、ただ内心は「私は夫と二人三脚で、『こらーる』も私がいなければ!」くらいの気概を持ってらっしゃったんじゃないかな。でもそれを表に出さない、そういう価値観なのかなと思いました。山本先生は、芳子さんなしで「こらーる」を維持発展させていくのは難しかっただろうし、芳子さんは先生が自宅に連れてこられた患者さんのお世話をしたり、時にはふたりの子供さんたちと山本先生の間に立たされたり、いろいろ苦労を重ねられた。でもそういうことを表に出して言われないんだなと思いました。私は自分の功績をアピールしがちで。へへへ。
■「もう一軒行かん?」と山本先生に誘われた
―― 芳子さんが活躍された姿を映画の中で知り、芳子さんの印象が変わると同時に、「こらーる」が山本先生だけの仕事ではないことも理解することができました。
想田:(それを描けたのは)ギリギリセーフでしたね。実は僕はあのシーンを撮る前に、「だいたいこれで撮り終わった」と思って、先生に「だいたい撮り終えました。ありがとうございました」と申し上げたら、「もう一軒行かん?」って言われたんです。「芳子さんの友達のお宅に遊びに行きたいから、よかったら撮影せん?」という山本先生からの提案があった。それで一緒に、芳子さんをよく知る居樹(すえき)さんのお宅にお邪魔して、あのような非常に重要な場面を撮れたわけです。もしかしたら山本先生も、「このままだと芳子さんのことが十分撮れていないんじゃないか」とお感じになってたんでしょうね。
―― そうだったんですか! そのシーンでハッとしたのは、居樹さんが芳子さんの趣味の歌舞伎や茶道、さらに株の話もして、それを聞いている芳子さんはすべてわかっているように笑っておられたことです。いっぽうで、お墓参りのシーンや、想田さんが山本先生のお宅でお寿司をごちそうになるシーンで芳子さんにカメラがフォーカスしていきますが、そこには想田監督の覚悟も感じました。
想田 たぶん山本先生も最初は迷われたところだと思うんです。最初に先生の引退のことを聞いて「撮らせていただけないか」とお願いしたとき、先生って大抵はふたつ返事で受けて下さる方なんですけど、今回は「1週間くらい考えさせてくれ」とおっしゃって、それがけっこう心にひっかかったんです。あの山本先生が「考えさせてくれ」というのは珍しいなと。たぶん先生はかなりの覚悟を持って私たちのお願いを受けて下さったのだと思うんです。
―― そうなんですね。
想田 申し出てから1週間後くらいに「自分は被写体として全然自信がないけれども、もし精神医療になんらかの貢献ができるような映画になるのであればお願いします」というような言い方をされて、撮影を了承してくださいました。そのことは僕の中にずっと残っています。
―― その山本先生の覚悟は、10年前の『精神』を撮った時とは違ったのでしょうか。
想田 ちょっと違うように思いました。
■ドキュメンタリーの怖さを知った10年前
―― 『精神』では、患者さんの顔を映すかどうか、そういうところからクリアしていかれたと思いますが、『精神0』でも患者さんは顔出しされていて、加えて先生と芳子さんのありのままの姿を撮ることもあり、ハードルはアップしていたのですね。
想田 そうですね。『精神』の時は僕がまだ若かったんですね。ほとんど何も考えずに、精神科の診療所で映画を撮らせてもらえることにウキウキしながらカメラを回していました。
―― 好奇心のほうが優っていたと。
想田 そう、若かったので、それがどんなことを意味するのかほとんど考えもせず、勢いだけで撮ってしまって、結果、公開するときにめちゃくちゃ苦労しました。公開時に「自殺する」とおっしゃる患者さんがいらっしゃったり。ドキュメンタリーというのはこんなにも怖いことなんだ、公開するということはもしかしたら人を殺してしまうかもしれない、そんな恐怖を実感させられたような経験でした。
でもそのとき、山本先生は映画の公開に全面的に協力して下さったんです。そのことがすごく不思議でした。患者さんに「公開日に自殺します」とか言われたら、普通なら「もう映画を公開するのやめようか」ってなるのが医者だと僕は思ってたから。ところが先生は「やめる」という選択肢ではなくて、「みんなで乗り越えましょう」という感じで、患者さんのケアにも当たってくださって、すごくサポートして下さったんです。そして結果的には公開も無事にできた。そういうこともあって「いったい何者なんだ?」と山本先生に興味を募らせたという側面はありますね。また、柏木家と山本家の関係も深まっていきました。実は芳子さんが通っているデイケアセンターは柏木の母と父が中心になって経営する施設で、家族ぐるみのつきあいになっていってた。僕と柏木の間では「いつか山本先生のドキュメンタリーを撮ろうね」という気持ちがずっとあったんです。
―― 『港町』(2018)のプロモーションのために来日したとき、たまたま山本先生の引退に居合わせたというのも奇跡的なタイミングですね。
想田 本当に“タイミングと出逢い”なんですね、それがちょっとずれただけで、もしかしたら全然撮れてなかったかもしれないですから。
■試行錯誤を経た「フラッシュバック」
―― 『港町』のバーベキューのシーンにも山本先生と芳子さんがいらっしゃいましたね。『港町』は霊界を漂うような不思議なドキュメンタリーで、その文脈のなかに『精神0』があるのかなと思ったのと、『ザ・ビッグハウス』にも宗教的なカットがいくつかありました。今回、はっきりと「宗教」ではないけれど、やはり描かれているのは「日本人の死生観」のようなものではないかと。想田さんがお寿司をごちそうになるシーン。マラソンで言うと「折り返し地点」のような分岐点があって、戻って来ると先にはお墓があるという構図がまた意味深いです。今回の編集にあたって苦労されたことはありましたか。
想田 この作品は結構ポンポンポンと進みました。撮影もカメラを回したのは7日間で、編集もそんなに迷いはなかったです。最後のカットは「もうこれしかないだろうな」と撮ってる時に思ったし。唯一悩んだところは「フラッシュバック」です。あれは最初はなかったんです。でもラフカットを観ている時、柏木が「芳子さんのシーンが足りない、足りない」とすごく言うので、僕も確かにそうだなと……。そんなときに『精神』では使わなかった芳子さんの映像素材があることを思い出して、観たら僕らが長く親しんできた「芳子さん」が映っている。でもこれまで「フラッシュバック」を使ったことがなかったので、編集技術的には試行錯誤が必要でした。最初はカラーで入れたのですが、現在と区別がつかなくなってしまった。友だちにも観てもらい、伝わるかどうか確認しながら編集したのですが、やっぱり伝わらないというので、モノクロにしようと。そんな試行錯誤を経てああいう形になったんです。
―― そういえば、マーク・ノーネス(ミシガン大学映像芸術文化学科・アジア言語文化学科教授、『ザ・ビッグハウス』共同監督・製作)さんがクレジットされていましたね。
想田 そうなんです、マークさんにはかなり早い段階のラフカットを見ていただいて、いろいろと有益なアドバイスや意見もいただいてました。パンフレットには長文の批評を寄せていただきました。
■老いて死ぬ「苦」からは、誰も逃れられない
―― 話を戻しますが、フラッシュバックでは芳子さんがとても生き生きと、山本先生をリードするくらいのエネルギーを持った女性であることがわかるのですが、同時に現在のお姿との対比に繊細なアプローチでありながら「時間の残酷さ」も感じます。
想田 『精神0』で撮らせていただい2018年の芳子さんももちろん「芳子さん」ですが、僕らとしては以前の「芳子さん」も存じ上げているので、そうすると2018年の映像だけでは芳子さんのパーソナリティがちゃんと観客に伝わらないのではないかと考えたんです。なんとか僕らの知っている「芳子さん像」に近づけたいと思い、そうすると過去の「芳子さん」にアクセスするしかない。
―― なるほど。
想田 おっしゃった「残酷」という言葉はその通りで、やはり人間が老いていくこと、そしてその先には死があること、それは本当に残酷なことなんです。しかも誰にも逃れられないところが特に残酷です。いまの新型コロナウイルスをなぜみんなが怖がっているかというと、死ぬのが怖いからです。自分が死ぬ、あるいは自分の大好きな人が死ぬかもしれない、そのことが怖くてパニックになっている。いくら逃れようとしても、最終的には誰も逃れられない。これが本当に人間にとってのいちばんの「苦」なんだと思うんです。この「苦」とどう私たちがつきあっていくかというのは、おそらく誰にとっても、生きていく上での最大のテーマなんだと思うんです。意識するとしないとに関わらず。そういう部分を見つめたいという気持ちはずっとあったし、これは子供の頃からずっと抱えているテーマなんです。
―― そんな小さい頃にもう「死」について考えていたんですか?
想田 「なんで生きるんだろう」とすごく思っていた時期があって。せっかく一生懸命勉強して、努力して、身体を鍛えたりしても、最後は死んじゃうんだ、と。死んじゃうのになぜ生きるのだろうっていうのはずっと僕の中にあった「問い」なんです。そういうこともあって、大学で宗教学を専攻したのかな。
■受け入れ難いことを、いかにして受け入れるか
―― どんなことを勉強したのですか?
想田 お葬式の研究とか。特にバリ島のお葬式は1ヶ月くらい調査に行きました。バリ島では公開で火葬もして、お祭りのように賑やかに死者を送り出すんです。衝撃的だったのは、火葬される遺体が見えること。動物の形をした棺に遺体を入れて、それを野外で火葬する。これはバリヒンズーという宗教のしきたりですが、カースト制度が残っていて、その人のカーストによってどういう動物の棺に入るかが決まっている。いちばん位の高い人は「牛」です。張り子の牛みたいな棺の中に遺体が入っていて、公衆の前で火葬します。見る人たちも着飾って、笑いながら送り出すんです。遺体がどんどん破壊されて灰になっていく過程をみんなで見つめる。僕はそんな残酷なことを目撃して耐えられるかなと思ったけれど、見ていると、不思議にさわやかな感じがしたりして。火が遺体を浄化しているように見えて、思っていたこととは全然違いました。その遺体は灰になると海へ流すのですが、その一連の行事が儀礼になっているんですね。やはり人間にとって死を受け入れることはなかなかできることではない、自分の死も、自分の愛する人の死も受け入れ難い。でもその受け入れ難きを受け入れるためにはなんらかの装置が必要なんです。だからこそ、文化によってやり方は違うけれど、お葬式を発達させてきて、それによって「死」を飼い慣らしてコントロールしようとしてきた。お坊さんがお経をあげてくれると、なんとなく魂が荒ぶるのを抑えてくれるような気がしたりするでしょ(笑)。「49日が過ぎるとこの世からあの世に行くんですよ」と説明を聞くと、なんとなく納得して安心したり。
―― お葬式はそのためにあるんですね。
想田 はい、「無事にあの世へ行けた」ということを確認し実感するために、どうしても必要なんだと思います。話が逸れましたが、今回、なぜ山本先生が引退するかというとご高齢になったからです。ご高齢だということは、死に近づいているということです。先生や芳子さんの生活を見つめさせてもらう作業というのは、ある意味、老いや死を見つめることになるだろうということは、最初から予感はあったし、実際そうなったと思います。
―― 山本先生は映画を観られましたか。
想田 去年の夏に柏木と一緒に岡山に行って、先生と芳子さんと息子さんと一緒に観ていただきました。先生は特に感想はおっしゃらなかったけれど、ずっとにこにこしながら「おうおう」と声を上げながら観ていらしたので、おそらく気に入ってくださったのではないかと思います。
■「生きる」ことのエッセンスが凝縮された瞬間
―― ひとつ不思議に感じたのは、普通の映画の音効かと思うくらい、音声が驚くほどクリアなことです。想田さんおひとりでカメラを回していて、音声さんはいないはず……?
想田 音声さんはいません。僕の腕がいいからですよ(笑)。つねに音声のことも考えながら自分のポジションやカメラワークを決めてます。先生にはだいたいの場面ではピンマイクをつけていただいたので、細かな息遣いまで録れています。息遣いの音はこの映画の中でとても重要なものになりました。
―― 本当に息遣いはとても印象的でした。他にも印象に残るのは先生と芳子さんがブロック塀を挟んでわかれて歩いて行くシーンや、最後の手をつなぐお墓の坂道シーン。あの瞬間はどういう気持ちで撮られていたんですか。
想田 それはもう感動してます。なんというか、「生きる」ということのエッセンスが、お墓の場面にはあると思うんです。言葉にするとベタになってしまうんですが、結局は人間は手を繋ぐしかない。そういうことをおふたりを見ていてものすごく感じたし、特に日本のご夫婦が人前で手を繋がれるのはレアで、ドキドキするんですね。
―― NYなら手を繋ぐことも日常だろうと思いますが、想田さんが日本で見ると違う感じがするわけですね。
想田 それはそうです。先生と芳子さんが手を繋いでいるところはこれまで見たことなかったですし、お墓の場面では、最初は手を繋いでいなくて、先生はズンズン先へ歩いてしまって、芳子さんは一生懸命ついていくんですね。ちょっと急な坂道にさしかかって、先生が芳子さんに手を出すのですが、先生は繋ぐことなく先に行ってしまう。でもそこで先生はハタと気づいて振り返るとそこに芳子さんがおられて。それで初めて戻って手を繋ごうとするのですが、その時は先生は両手に花とか荷物を持っているのでなかなか繋げない。荷物を脇に抱えることで、ようやく手を繋げるわけです。ここまで言っていいのかわからないのですが、僕の解釈としては、あの道筋にいままでの先生と芳子さんの関係がエッセンスとして凝縮されているのだと思ってます。
■「仮設の映画館」について
―― 最後に、初めての試みである「仮設の映画館」について、お聞かせ下さい。
想田 あくまでも今回は映画館に生き残ってもらわないと困るという。それに尽きます。本当は僕も公開を延期したかったんです。こんな状況で公開していただいても、どれだけ観に来て下さるのか、感染のことを気にしてヒヤヒヤして観るなんてのは作品にとってはいいことではないし、公開の意味がないと思ったので、最初は「1年くらい延期しませんか」と言いました。ところが配給の東風からは「そうすると映画館、みんな潰れちゃいます」と言われて、それもそうだなと思い直しました。実際、観客動員数が激減し、さらに新作を引き上げられてしまったら、映画館はもう閉めるしかない。そうするともう僕らが戻るところはないわけです。だから今回は本当にあくまでも緊急避難で、事態が収束したらみんなでワイワイガヤガヤ映画館に集いたいわけです。そのためには今は配信で我慢して、配信によって映画館を守りたいという、それ以外になかったです。
―― 実は「観察映画」シリーズのうち『精神』だけが想田監督にインタビューしていない作品だったのでとても心残りでしたが、今回『精神0』でお会いできて嬉しかったです。ありがとうございました。
想田 そうなんですね、ありがとうございました。
(このインタビューは2020年4月17日、Skypeにて行いました。)
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『港町』ではクミさんという不思議な存在がある種の悟りの境地へと想田作品を導いたように感じた。そして『精神0』では、山本夫妻を、いや芳子さんを撮ることで、人間にとって逃れられない「老いと死」を、少し言葉が荒いかもしれないが、「容赦なく」見つめ、さらに違う次元へと向かうように思う。なにしろ想田カメラが粘るときは要注意だ。例えば『牡蠣工場』では外国人労働者を撮るシーン(ここで柏木さんのアシストがかっこいい)、『港町』では高祖鮮魚店の車に乗り込むところ、『精神0』では、女性からすると「ああこれは少し残酷だな」という角度で芳子さんを撮ることを躊躇しない。そこには「何か」があるのだ。被写体へ最大の敬意を払いながら、核心にタッチする何かが……。そうやってちょっとヒヤヒヤしながらソウダカンサツの企みを読みこんでいくところが個人的に想田作品の魅力だと感じる。今回の山本先生の教え「ゼロにもどる」という魔法のような言葉をこれから杖にして、『港町』で体感した霊験の旅を超えていきたい。観察映画への興味はまだまだ尽きない。(RealTokyoに寄せたレビューもぜひご一読下さい)そうだ・かずひろ
そうだかずひろ 1970 年栃木県足利市生まれ。東京大学文学部卒。スクール・オブ・ビジュアル・アーツ卒。93 年からニューヨーク 在住。映画作家。台本やナレーション、 BGM 等を排した、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・ 実践。 監督作品『選挙』(07)、『精神』(08)、『Peace』(10)、『演劇 1』(12)、 『演劇 2』(12)、『選挙 2』(13)、 『牡蠣工場』(15)、『港町』(18)、『ザ・ビッグハウス』(18)。国際映画祭などでの受賞多数。著書に『精神病とモザ イク』(中央法規出版)、『なぜ僕はドキュ メンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 VS 映画』(岩波 書店)、 『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書 房新社)、『カメラを持て、町へ出よう』(集英社インターナショナル)、『観察する男』(ミシマ社)、『THE BIG HOUSE アメリカを撮る』 (岩波書店)など。
ふくしま・まさよ
航空会社勤務の後、『ほぼ日刊イトイ新聞』の『ご近所のOLさんは、先端に腰掛けていた。』、『お隣が宇宙、同僚がロケット。』コラム執筆。桑沢デザイン塾「映画のミクロ、マクロ、ミライ」コーディネーター。産業技術総合研究所IT科学者インタビューシリーズ『よこがお』執筆。REALTOKYO CINEMAブログ主宰。
『精神0』
監督・製作・撮影・編集:想田和弘製作:柏木規与子
製作会社:Laboratory X, Inc
配給:東風
2020年/日本・アメリカ/128分/カラー・モノクロ/DCP/英題:Zero
公式HP 『精神0』
仮設の映画館
この記事は『REALTOKYO CINEMA』より転載したものです。
(2020年5月26日公開)