RESIDENCIESARTICLES

AIRアーティスト・イン・レジデンスとは何か?(1):
― 遊工房レジデンスの始まり
文: 村田達彦

2024.04.05
SHARE
Facebook
Twitter
Antalya, Turkey 1966 photo by Yirmaz Yuksel

この度、ICA Kyotoから、我がレジデンスに関しての執筆の機会をいただいた。
5回ほどに分けて書いてみよう。ICA Kyotoのユニークな活動の中から何か面白いフィードバックがあったら幸いだ。

初回は、私のレジデンス体験の始まりとその時生まれた縁について記してみる。1966年、小生が工科系の大学生のことに遡る。工科系専攻の後、エンジニアとして生計を立てることになる。学生時代に将来の仕事場のイメージを知る機会としての工場実習の科目があった。3回生の時であるが、都内某時計メーカの工場実習は社会人としての通勤生活を知る機会となる。お小遣いを頂戴し単位取得も出来るありがたい学びの場であった。卒業年度になり、この実習を海外の工場で実施する世界規模の交流プログラムがあることを知った。実習先として当時は西欧行きが人気であったが、私は東西の谷間の国、トルコを体験先として目指した。幸い、イスタンブール工科大学経由でイスタンブールにある家電メーカーでの実習機会を得ることが出来た。このプログラムはユネスコの下部組織でもあった国際機関・IAESTE [*1] の国際交換プログラムとして当時日本の大学、企業も加盟を始めたばかりの時期である。夏季の3か月、各国からの実習生が集い実習と共に現地での生活をする大変貴重な機会であった。実習期間前後の1か月は渡航期間となり、特別な体験となった。当時、航空機での旅は金持ちなど特別なもので、我ら学生は船と鉄道での移動が当たり前の時代だ。欧州行きは、横浜港から太平洋・インド洋を周り、紅海からスエズ運河、そして地中海で、帰りは、シベリア鉄道とナホトカからの船便で、月2便、往路・岐路いずれも1か月は優にかかる渡航であった。以下は1966年5月から12月までの私の体験の片鱗である。

5月末、横浜大桟橋からフランス郵船マルセーユ行き貨客船「ベトナム」丸に乗船。見送りの仲間たちと、家族とのしばしの別れの挨拶の為に甲板上にいた。紙吹雪…

夕方には太平洋の海原の夕日を見てキャビンへ。3等キャビンは船底の2段ベット、香港に向けて出発した。しばらくすると台風の予兆で、船は上下に揺れ始めたが、直ぐに眠りこけてしまった。翌朝、目が覚めたのは、日の出を過ぎ、太平洋のど真ん中、船底の食堂でパンと果物の朝飯を取る。朝からワインと思ったら、毎食赤ワイン!私の船は、香港、マニラ、サイゴンは当時ベトナム戦争中でスキップ、シンガボール、バンコク、コロンボ、ボンベイ、アデン、ジプチ、スエズ、ポートサイドへ。ここで、ソ連の黒海オデッサ行きの貨客船に乗り換え、ギリシア・ピレウス経由イスタンブールへ進む。各港で2日か3日停泊する。人と貨物の入れ替えの為に停泊中は自由行動で上陸が可能だ。中心街まで乗り合いバスなどで移動し町探索を楽しむことが出来た。思い出にふけっているとレジデンスの話に行き着かないので以下は省略。

3か月の夏季実習はあっという間に過ぎた。同時期の実習仲間は、スイス、フランス、イタリア、トルコなどの若者達。工科系のIAESTE実習生4人は研究所、技術部門、品質管理部門で、商科系のAIESEC [*2] 実習生3人は営業など事務部門で実習した。地元学生以外は、工場内の寮生活、職場や地元の人々との交流も広がり生涯忘れることが出来ない貴重なものとなった。休日も充実したもので、その後の相互交流、そして生涯の友など、縁が縁を生む私の人生の貴重な軸となっている。この軸の1つを紹介し第1話を終了したい。

[*1] IAESTE, The International Association for the Exchange of Students for Technical Experience(イアエステ)
世界80以上の国に委員会を持ち、理工農薬学系学生の海外技術研修を仲介している国際非政府組織
日本国際学生技術研修協会(イアエステ・ジャパン):上記の国内組織
[*2] AIESEC,Association Internationale des Etudiants en Sciences Economiques et Commerciales(アイセック)
世界120以上の国と地域に4万人以上の会員を有する学生による海外研修生交換事業を推進する国際非営利組織。
アイセック・ジャパン:上記の国内組織


Travelers and local youth at Kars, a border town between Turkey and Armenia, October 1966

イスタンブールでの3か月の実習生活の終了後、実習先から頂戴したお小遣いでアナトリアへの一人旅を実行した。無銭旅行の途中、トルコの地中海沿岸港町アンタルヤで野宿をしていた時に、気遣って親切に声をかけてくれた、偶然に出会った地元のお医者さんが、日本からの風来坊学生を自宅に泊めてご馳走してくださった。私と同世代の娘さんがイスタンブールで建築家を目指しているとのこと。その後クリスマスカードの交換などでペンパル仲間となり、20年経過した1987年のこと、突然に、「来年、娘が東京の大学での研究で3か月東京へ行く。世話してくれ」との手紙が届いた。1988年春、建築博士となった娘さんが、パートナーの彫刻家と共に我が家に現れた。これが遊工房レジデンスの始まりとなる。当時は、レジデンスなる言葉も知らず、滞在中の4カ月ほどサポートした。大学研究室での研究活動と共に、彫刻家の旦那と我が彫刻家のパートナーとも大いに気心が結ばれる縁となり、その後のレジデンスの運営につながる出来事となった。ご両人の現地の大学と地域での活動、隣接する欧州を中心とした国々との交流活動、そしてレジデンンスの存在などを伺うことが出来た。翌年には早々の現地調査と共に、同様の国内事情の調査を始めた。

後は次回につづく。


村田達彦(むらた・たつひこ)
30年の技術者としての生活の後、1988年より、創作・展示・滞在のできるアーティストのための創作館・遊工房アートスペースをパートナである村田弘子と共同で東京に設立。2010年から、マイクロな存在の独自の運営をしているアーティスト主導の世界にあるAIRプログラムを「マイクロレジデンス」と名付け、その顕在化、AIRの社会装置としての役割についての調査・研究を国内外のネットワークを通し推進している。
2015年からは、レジデンス活動と美大との連携による、Y-AIR, AIR for young(AIR活動機会をもっと若手作家へ!)の実践も展開している。遊工房アートスペース・共同代表。Res Artis名誉理事。