現代アートのグローバリゼーションとアーティスト・イン・レジデンス
第3回 現代アートのグローバリゼーションとカルチュラル・デモクラシー Part 2
文: 菅野幸子

(左がディビッド・パントン、右がジョナサン・ハーベイ)
前回に引き続き、アーティスト・イン・レジデンス(以下、AIR)というシステムについて、今回は70-80年代のイギリスの事例をもとに考えていく。
2-1.アーティストたちによるセルフ・ヘルプ活動
英国の現代アートが世界的に注目を浴びるようになったのは、1988年、ダミアン・ハースト(Damien Hirst)[*1]を始めとする美大生のグループによる自主企画の「フリーズ (Freeze) 」展が開催されたことに起因すると言われる。当時、展示の企画、販売、資金調達、カタログ制作などはキュレーターの仕事であり、作品の展示・販売はギャラリーで行うという分業制だったのを、素人の学生たちがすべてをやってのけたことで世間を驚かせ、世界からも注目されるようになったのである[*2]。しかし、ハーストらが自主企画でやらざるを得なかったということは、裏を返せば、当時、現代アートを支援するための基盤が貧しく未整備であったことを意味していた。当時のロンドンは、現代アートのマーケットやギャラリーも数少なく、芸術家を目指す美学生を支援してくれる制度やチャンスもなかった。ハーストらの1世代、あるいは2世代前の現代アートのアーティストたちにとっては、さらに厳しい状況で、それぞれの創作空間の場と発表の場を自ら作り出すしか方策がなかった。それゆえ、アーティストたちは、 試行錯誤を重ねつつ、それぞれ独自に創作活動の基盤整備の礎を築いていたのだった。アーティスト・イニシアティブという言葉もあるが、キュレーターやギャラリストといった専門家の手を借りず、アーティスト同士で助け合いながら活動していくセルフ・ヘルプ、すなわち自助運動は、英国を含むヨーロッパでは1970 年代に活発に展開されていたのである。
2-2.アクメ・スタジオの挑戦~アーティストたちにスタジオを!
西ベルリンでヘルターらがベタニエンを立ち上げた同じ頃、ロンドンでも興味深いいくつかの自助活動が始まっていた。
最初の事例は、世界でも最も物価の高い都市のひとつであるロンドンで、若手アーティストたちが自らのスタジオや居住空間を確保しようとするセルフ・ヘルプ、すなわち自助しようとする試みであり、ロンドン東部に位置し、現在、アーティストたちに廉価でスタジオを提供し、世界からアーティストたちを受け入れているアーティスト・イン・レジデンスを運営しているアクメ・スタジオ(ACME Studios)の活動である[*3]。

Acme Lane Studios, 1990 © John Riddy, Courtesy of Acme Archive
写真は初期のアクメスタジオ
1972年、アクメ・スタジオは、ロンドンの近郊にあるレディング大学の美術部を卒業したばかりのジョナサン・ハーベイ(Jonathan Harvey)[*4]とデイビット・パントン(David Panton)を含む7名のアーティストたちによって立ち上げられた。彼らは現代アートを志してロンドンにやってきたのだが、資金、人脈、経験や実績もないといった学生あがりで、家賃も物価も高いロンドンで経済的に自立していくことは至難の業だった。そこで、当時、解体される運命にあった住宅や店舗に目をつけ、管理者であるロンドン市と直接交渉して貸借することを試みたのだった。交渉したところ、ロンドン市は、次のように回答してきた。それは、「2つの選択肢がある。1つはスクワットと言う公有地を占拠する違法なやり方だが、いずれ立ち退かなければならない。もう1つの方法は、今日は帰って、合法的に住宅協会を立ち上げてから戻ってきなさい。」というものだった。ロンドン市が提示してきた住宅協会を立ち上げるためには、7名が10ポンドずつ負担して登録する必要があった。7名の芸術家たちはなんとか各自10ポンドをやり繰りして、1972年11月、アクメ住宅協会(ACME Housing Association)を立ち上げた。翌73年3月、アクメ住宅協会は、ロンドン市から東部の端にある2件の空き店舗を格安で借りることができた。ただし、解体されるまでの21ケ月間という条件の上、ガスも電気、水道も通っておらず、ひどい状態の物件で、自ら改修しなければならなかった。建物が解体される時には、無条件で引き渡すことが契約に明示されていた。ロンドン市にとっては解体寸前の建物を有効活用できるメリットがあり、空き家の活用方法の新たな可能性が広がった訳で、双方にとってウィンウィンの契約となった。また、ハーベイたちは約束を守ったので、市との間に信頼関係が築かれるようになった。
しかし、当初アーティストを目指していたハーベイとパントンの運命はこれにより大きく変わった。口コミで多くの芸術家たちが彼らを頼りに集まるようになり、2年後の1974年12月には、76件もの物件を90名の芸術家とその家族たちを収容するスタジオ・スペースとして運営するようになっていた。結局、ハーベイとパントンはアーティストとなる夢をあきらめ、アクメ・スタジオの運営に専念することになった。二人は、共同でエグゼクティブ・オフィサーという体制を取り、この運営体制はハーベイが引退する2015年まで44年にわたって継続され、現在までに7000人以上ものアーティストたちを支援してきている[*5]。こうして、アクメ・スタジオは、ロンドンにおいて、芸術と芸術家たちを支援する上で不可欠な中間支援組織として発展するようになり、1987年、アーツカウンシル・オブ・グレートブリテン[*6]やブリティッシュ・カウンシル[*7]からも協力を得て、国際芸術家スタジオ交換プログラム(International Visual Artist Studio Exchange Program)を立ち上げ、5ケ国間の文化芸術団体・機関の国際ネットワークを通じて、各国から推薦された芸術家をロンドンで受け入れている。
アクメ・スタジオは、創立当初から長年アーツカウンシルから運営助成を受けていたのだが、現在は経済的に自立した中間支援組織へと発展している。かつて、廉価でスタジオを借りていたアーティストたちが世界で活躍するようになり、今度は投資してくれる側にまわるようになるという好循環が生まれるようになったのだった。このような中間支援組織があってこそ、ロンドンは、世界中からアーティストを惹きつける都市であり続けることが可能となっているのである。
2-3.芸術家斡旋グループの挑戦~アーティストたちに仕事と機会を!
アクメ・スタジオの活動が始まる少し前の1970年、ロンドンでは、もう一つ、興味深い活動が始まっていた。コンセプチュアル・アーティストのジョン・レイサム(John Latham)[*8]とパートナーでやはりアーティストのバーバラ・ステヴィニー (Barbara Steveni)[*9]によって、アーティスト・プレイスメント・グループ(Artists Placement Group、以下APG)[*10]が立ち上げられたのだ。APGは、アーティストたちは、会社や組織といった社会制度の枠組みの中でも社会に貢献出来るという理念のもと、民間企業や公的機関にアーティストたちを派遣しようというこれまで誰も思いつかないアイディアを実践したグループである。このアイディアを思いつき、最初に実践したのはステヴィニーだった。ステヴィニーは、ロンドン西部で廃棄物を収集していた際、工場の外に廃棄されている廃材を使うよりも、芸術家を工場の中に直接送りこむことの方が社会的に有益ではないかと思いついたのである。そこで、ステヴィニーは、芸術家とビジネス界を結ぼうとし、ビジネス界に芸術家を斡旋する組織としてAPGを始めたのだった。ステヴィニーは、受け入れ先の企業や公的団体の責任者にAPGの目的と概要を手紙に書いて送り、芸術家の受け入れを打診した。受け入れ先として選ばれた組織の多くは重工業と国営企業で、当然のことながら、このような実験的な試みがスムーズに受け入れられた訳ではなかった。ステヴィニーは、100件以上の企業や団体に打診したが、受け入れ先の団体や企業は、派遣された芸術家たちに賃金を支払わなければならなかったこともあり、受け入れが成立したのは6件のみだった。ステヴィニーは、APGの狙いは、産業界と芸術という2つの異なる領域を結ぶ、新しい支援方法を模索することだったと述べており、このAPGの挑戦は、現代でアーティスト・イン・カンパニーと呼ばれる仕組みを先どりしていた活動だった。
このアーティスト・イン・カンパニーとは、高度でクリエイティブな活動が求められる企業や大学などにアーティストが滞在することによって、既存の価値観にとらわれない創造活動を通じて、その団体に新しい刺激や価値、アイディアをもたらす役割が期待されている仕組みである。例えば、ハイ・ブランドのエルメス[*11]や革新的なテキスタイルを生み出しているHOSOO[*12]、IT企業のマイクロソフト[*13]などで展開されている。こうしたAIRは、未来への投資でもあると言えよう。
2-4.まとめ
本稿では、ロンドンのアーティストたちの自助活動について見てきた。現在のロンドンでは、世界中から多種多様なアーティストたちが集い、実に多彩な活動が展開されている。さらに、ナショナル・ギャラリーやテート・ギャラリーを始めとする名高い美術館や文化施設も集積しており、文化芸術の都として知られている。しかし、その歴史的背景をたどってみれば、ベルリンにおいてもロンドンにおいても、それほど古くない歴史においてアーティストたち自らが立ち上がり、新たな創作活動の基盤を作り上げてきた経緯が見えてくる。このような現代アートの枠組みの中で、アーティストたちが出会い、刺激しあい、切磋琢磨できるアーティスト・イン・レジデンスという仕組みもまた発展してきたということである。
Matchmakers Wharf Studios 2012 © Morely von Stemberg, Courtesy of Acme Archive
ACMEが所有している建物の一つ|2012年に建設された6階の建物で、49のスタジオがある。
[*1]Damien Hirst(2025年5月15日閲覧)。
[*2]「Freeze」は、90年代に台頭したアーティストの一群「YBAs(Young British Artists)」の原点としても知られ、オルタナティブな表現を求めた当時の若手アーティストたちに大きな影響を与えた。
[*3]ACME Studios(2025年5月15日閲覧)。
[*4]Jonathan Harvey(2025年5月15日閲覧)
[*5]ACME 50(2025年5月15日閲覧)
[*6]英国の文化芸術の中間支援機関で、現在は、アーツカウンシル・イングランドとなっている。(2025年5月15日閲覧)
[*7]British Council:英国の対外文化交流機関(2025年5月15日閲覧)
[*8]John Latham(2025年5月15日閲覧)
[*9]BARBARA STEVENI(2025年5月15日閲覧)
[*10]APGの活動は国内外の様々な団体に影響を与え、京都では「東山アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)」がAPGの活動を参考に設立されている。
[*11]Artists’ Residencies|Fondation d’entreprise Hermès(2025年5月15日閲覧)
[*12]HOSOO GALLERY(2025年5月15日閲覧)
[*13]Artist in Residence|Microsoft(2025年5月15日閲覧)
菅野幸子(かんの・さちこ)
AIR Labアーツ・プランナー/リサーチャー
ブリティッシュ・カウンシル東京、国際交流基金を経て現職。グラスゴー大学美術学部装飾芸術コースディプロマ課程修了。東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究(文化経営学専攻)後期博士課程満期退学。博士(文学)。専門領域はアーティスト・イン・レジデンス、英国の文化政策、国際文化交流。主な著作として、「現代アートとグローバリゼーションーアーティスト・イン・レジデンスをめぐってー」(『グローバル化する文化政策』佐々木雅幸・川崎賢一・河島伸子編著、勁草書房、2009年)他、共同編集として『アーティスト・イン・レジデンス:まち・人・アートをつなぐポテンシャル』(菅野幸子・日沼禎子編、美学出版、2023年)。