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荒ぶる建て込み(伊藤隆介「All Things Considered」)
文:澤 隆志

2015.04.10
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澤 隆志

2001年から2010年まで映画祭ディレクターをしていたので、毎年葵祭のころに京都に来ていた。ゲーテ・インスティトゥートで朝から晩まで映像作品を上映していた。若き宮永亮、水野勝規、林勇気、伊東宣明、山本麻紀子など京都にゆかりのある作家と出会い、勉強させてもらった。

その映画祭(イメージフォーラム・フェスティバル。毎年5都市をツアーする。)にほぼ毎年のように上映作品と展示作品を出品していただいていたのが伊藤隆介であり、特に展示作品は東京で設置したものが分解梱包され、普通の宅急便で移動して、僕や現地の美大生が前日に組み立てる! という恐ろしいもので、ゲーテ北にあるケーヨーデイツーに毎年補修部品を買い出しに行ったものだった…。そんな作品が児玉画廊に集まるということで、なんとも感慨深いし、自分のやっていたことがいかに大胆だったか思い知らされる。

伊藤作品は大きく二つの軸があって、既存のフィルムを物理的、造形的にコラージュし、展示と転写上映を行う『版』シリーズと、精巧な模型にCCDカメラを仕込んで、その模型とカメラの捉えた中継画像を並置して展示する『Realistic Virtuality』シリーズがある。今回集められるのは後者である。これは「Virtual Reality」をひっくり返した伊藤の造語で、作家のサイトでは「現実的な仮想性」と訳され、「<現実>と<メディア(マス・メディア)が運んでくる現実>の“段差”を面白く表現」するものとある。
これはビデオ(中継)の機能、構造をある種むき出しにすることで、我々が日常享受しているイメージの“リアリティのほころび”をチャーミングに追求するものだ。記憶に焼き付いているイメージと、その模型を並置することによって。模型は精巧に作られた部分と、ビデオに映らない部分をラフなままに残して現場感、「建て込み」(映画スタジオ等のセットの設営)感をだしている。

「建て込み」の魅力は独特である。東京都現代美術館でみたトーマス・デマンド展(2012)も精巧な模型(の写真)でなかなかだったのだが、僕の興味は、もっぱら次回の庵野展のメインである『巨神兵東京に現わる』の特撮セットがまさに建て込まれている様子だった。一日中見ていても飽きないカメラの視野角の内外のギャップ。精巧に作れば作るほど拡がるギャップが心地よい。

《自由落下》(「Realistic Virtuality(現実的な仮想性)シリーズ)2013
CCD camera, scratch-built model, motor, light, steel cart, video projector


編集の小崎さんにはジン・キジョン(Kijong Zin)との類似を指摘され、なるほどと思った。確かに似ている。でもかわいらしいチープ感と伊藤の建て込み感(精巧とラフの意図的な同居)がちょっと異なるかもしれない。また、さらなる違いを挙げるとしたら、「村雨ケンジ」要素だろうか。これは伊藤隆介のサブカルチャー評論家、編集者、メディア批評家としての筆名である。筆名で思い当たる方もいるだろう。そうでない方には手頃なレファレンスとして、北海道新聞の連載が伊藤のblogに掲載されているし、「月刊モデルグラフィックス」での論考は札幌宮の森美術館のカタログに再掲(その批評文から伊藤隆介論を展開する工藤健志氏は伊藤作品のよき理解者で共犯者でもある)されている。

多ジャンルに造詣の深い村雨ケンジは、特定のマンガやアニメを論じるだけでなく、そのマンガやアニメを入り口に、現代美術や映画史やSF等のトピックに行き来し、話題をコラージュさせるのだ。村雨ケンジの記事も伊藤隆介のインスタレーションも素材は違えど同じ働きをしている。シカゴでシャーロン・カズンに学び、同期にアピチャッポン・ウィーラセタクンがいて、アメリカ同様日本でも、美術と映画の断絶に苦い思いをしている伊藤だけに、サブカルチャーまで交えた、『タワーリング・インフェルノ』の如きオールスター・キャストの知的パニックを提供してくれる。
そして、今回集まった作品はなかなかハードだ。大体、それを眼にしていたら死んでしまうようなものばかりじゃないか! ドローン、ブラックホール、大地震に地獄、リトルボーイ、そしてふくいち…。

目玉のひとつになるであろう福島第一原子力発電所建屋内を扱った《そんなことは無かった》《こんなことは無かった》(いずれも2012)はやはり 不気味で、今日まで引きずっている苦い思いを再確認させてくれる作品だ。311以降、日本で生活している人間皆が見たいと思っている「あそこ」の「中」であり、大量の再現CG、予想図、政府見解、海外メディアのすっぱ抜き、憶測やデマなど膨大なイメージを上書きされ続けながら誰にもその様子はわからないブツだ。うちのめされて疲れてしまい、なかったことにしたいとさえ思ってしまっているものでもある。伊藤はそこに映画史のクリシェ「荒ぶる神々」の主題を重ねる。それはディザスターもののショック(「あの日」)だけでなく、人智の及ばないものへの不安と恐怖(先が見えない、被害が見えない、責任が見えない「あの日」から今日まで)を表象している。日本のどこかの平凡なデスクの上に置かれたビスコの箱を突き破ってカメラがメルトスルーしていくと、誰も到達したことのないむき出しの原子炉格納容器が現れる。引きちぎられたパイプ(あぁ、漏れてる)や、むき出しになったコンクリートの鉄筋が刺のように無数に突き出たおぞましいご本尊。カメラは何もせずに無言でドリーバックして、再びビスコ世界に戻ってくる。ご丁寧に建屋は2作品で、悪夢のような往復運動は2画面分ある。こんなことやそんなことは無かったと言わせないばかりに!

中:《そんなことは無かった》(「Realistic Virtuality(現実的な仮想性)シリーズ)2012
右:《こんなことは無かった》(「Realistic Virtuality(現実的な仮想性)シリーズ)2012
CCD camera, scratch-built model, motor, light, steel cart, video projector


《こんなことは無かった》(「Realistic Virtuality(現実的な仮想性)シリーズ)2012
CCD camera, scratch-built model, motor, light, steel cart, video projector


会場の児玉画廊は鴨川沿いで、頑張って歩いて行けば懐かしのゲーテにたどり着く。春の陽気に柳が映えてくることだろう。ゲーテの手前は「荒神橋」で、これは日本最初の荒神さまを祀った「清荒神(きよしこうじん)」というお寺にちなんでいるのだとか。荒神ツアーを試みてもいいかもしれない。しかし現実でも仮想現実でもない、現実的な仮想性はなかなか鎮められないように思う。

(2015年4月9日)

 
さわ・たかし
映像作家、キュレーター。2000年から2010年までイメージフォーラム・シネマテーク、イメージフォーラム・フェスティバルのプログラム・ディレクターを務める。また、ロッテルダム、ベルリン、バンクーバー、ロカルノ等の国際映画祭や、国内美術館等にプログラム提供多数。主な映像作品に『特派員』。

 
写真提供:児玉画廊



伊藤隆介「All Things Considered」
2015年3月28日〜4月25日 児玉画廊(京都)