森閑のメトロノーム ― 高谷史郎 『ST/LL』 -
文:津田朋延
2016.02.04
津田朋延
1月23日から24日にかけ、日本列島は40年ぶりという大寒波に見舞われた。
この日の琵琶湖は冬晴れの穏やかな光線に覆われ、その水面は氷点の狭間を漂いながら、時が止まったかのように静寂でフラットである。これからはじまる白昼夢の序章は既に、湖のパノラマと同化するホワイエに踏み込んだ瞬間からはじまっていた。
高谷史郎の新作パフォーマンス『ST/LL』は、びわ湖ホールでの昨年2月の試演にはじまり、フランス ル・アーブルでの滞在制作の後、5月にはル・ヴォルカン国立舞台で世界初演、10月のブリュッセル公演を経て、この度びわ湖ホールでの日本初演となった。
ダムタイプオフィス、ル・ヴォルカン国立舞台とともに作品制作に携わってきたびわ湖ホールにとって待望の里帰り公演であり、真冬日となったこの2日間は湖畔に佇むホールでの上演には理想的な時候だったのではないだろうか。
高谷史郎の操る闇と光の世界に、坂本龍一による音楽が融合し、織りなされたそのシークエンスのすべては視覚的にも聴覚的にもただ純粋に美しく、時の流れの感覚を失ったあたかも夢かと思しき体験は観客をカタルシスへと誘うものであった。
公演内での出来事は、公演の前後に観る湖畔の風景とあまりにもスムーズにリンクしているおかげで、観客は夢のはじまりとその終わりの区別をしばらく見失う。
それは言葉にしてしまうと、儚く色褪せてしまうような個人的で感覚的な体験であり、あらかじめ吐露すれば、そのディテールを詮索した補足説明はおそらく不要であろう。
しかし一方で、この作品には芸術と科学との類似性の傍証や、空間・時間に関する形而上的なコノテーションが孕まれていることも明確である。
「STILL」の「I」を「/」に置換した「ST/LL」というタイトルがもつメッセージについて、高谷はビジュアル的な補完であったとしか語らなかった(公演後のアーティスト・トーク)が、その字面のチューニングが宇宙の創成に起因した無に存在する「ゆらぎ」を意識させる。
上演前に配布されるリーフレットに「微分としての時間表現、物語の時間ではなく、動きの前後にある無限の時間について」と前置きがあるように、『ST/LL』は私たちが慣れ親しんだ日常の時間や空間の認識を解体し、過去や未来の混在する高次元の世界をここに出現させる試みなのではないかと予感させる。
開演を待つ舞台中央には、縦長のソリッドな「壁」と、そこから垂直に延びる縦長の黒いテーブルがある。テーブルには皿やグラスやカトラリーなどの食卓を想起させるものが配置されており、4台のメトロノームが既に「幾つかの時間」を刻みはじめている。
開演と同時にテーブル上部からカメラ(スパイダーと呼ばれる3本のワイヤーで吊り下げられたもの、日本公演ではじめて採用されている)が無音で降下してくると、「壁」はテーブル上の状況を映すスクリーンへと変化する。
パフォーマーがテーブルに歩み寄ると同時に、舞台の漆黒の床面は僅かに波紋を描きはじめ、そこが浅い水面であったことに気づく。
肉眼では、そこが食卓であるという印象をアフォードしていたテーブル上の物質は、スクリーンに投影され、さらに鏡としての水面に反転し喪失していく像によって、その質量と時間は徐々に現実とのズレを生じさせていく。
序章ではシステマチックな動きを演じたパフォーマー(オリビエ・バルザリーニ、平井優子、薮内美佐子)たちが次のシークエンスでは、テーブルに横たわり命を与えられたばかりの生物のように原始的な動きを演じはじめる。
やがてテーブルは宇宙空間に浮かぶモノリスと化し、彼らの身体だけを抽出したスクリーンの映像がその空間の領域をいったんは曖昧にするが、その動きをトレースする白線が、かつていた場所とは異なる次元の空間領域を定義しはじめる。
テーブル上のパフォーマーとその動きがモニターに同期されたとき、このパフォーマンスを肉眼で鑑賞することの本質に接触し、ふと夢から覚めた。肉眼でとらえていたパフォーマーの身体と、スクリーンに映像化されたそれとのあいだには、光速で移動するものと地上の私との相対的な時間のように、大きな時差が存在していることを自覚したからだ。
もしこの作品全体を映像作品として鑑賞していたのであれば、このように時間と空間が互いの運動によって歪み、湾曲していくような知覚を、おそらく意識することはできなかっただろう。
ところが、いったん異次元の世界に解放された知覚は、直後に暗闇にあらわれるパフォーマー(鶴田真由)の歩みと、それに呼応する儚げな灯、その背後に流れるアイヌの子守唄「60のゆりかご」によって、天と地をもつ「私たちの自然」へとふたたび導かれる。ただしそれは、現代人の知る距離感を失いつつある「自然」とはちがったもの、もっと原始的な「自然」、神々の創造した畏れおおき「自然」である。
現代人が認識している科学的事実も、未来にはまったく別の事実に置き換えられる可能性があると、高谷は伏線を敷く。「その意味において科学も神話のようなものである」と(リーフレット中のステートメント)。
『ST/LL』は、ハイテク機器によりコントロールされた映像と光、静寂を誇張する坂本龍一のピアノ演奏とそれを繊密に解析し再構築された音楽、その中で展開する叙情的な身体表現により構成された、流麗な美しさをもったサイエンス・フィクションである。
しかし、その舞台の床に「水」という制御不能なメディウムを配したことによって、この物語はフィクションとファクトとの境界を彷徨する。
私はこの作品に出会うまで、高谷の作品にみられる洗練された美しさの根拠は「可視光線のマチエール」にあると考えていた。
自然や身体の輪郭を、いったん熱を排除した光線として編集することで無垢の美しさを強調し、その尊さをあらためて意識させるといった試みが、高谷作品の核心であると捉えていたからだ。
しかし『ST/LL』を体験しているその只中にあっては、私自身の体温が大きく変化するようなエモーションを感じ、闇や光は温度と湿度をもったものとしてインプットされた。
パフォーマンスの終盤でダンサーの平井優子が、すでに写す役目を終えたスパイダーカメラを相手に相互の動きをシンクロさせていくシークエンスがあり、それは人間と人工物とのあいだに芽生えるアニミズム的な因縁を感じさせるような演出であった。
ここで高谷が光学的なガジェットそのものを単にツールとして扱うのではなく、思考力をもっているかのような物体(これもまた、ひとつのモノリスなのか!?)として登場させたことで、この作品に人間的な湿度を与えているのかもしれない。
人と自然との本来の慈悲深い関係を、メディアを通して深く印象づけるという意味で、『ST/LL』もまた高谷史郎とダムタイプオフィスの真骨頂といえよう。
森閑たる漆黒の表面に挿し込まれた「/」=「ゆらぎ」によって、世界は終わりなく静かに膨張しつづけている。
つだ・とものぶ
建築家/京都精華大学デザイン学部建築学科講師
高谷史郎 パフォーマンス 《ST/LL(スティル)》
2016年1月23日・24日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール
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1月23日から24日にかけ、日本列島は40年ぶりという大寒波に見舞われた。
この日の琵琶湖は冬晴れの穏やかな光線に覆われ、その水面は氷点の狭間を漂いながら、時が止まったかのように静寂でフラットである。これからはじまる白昼夢の序章は既に、湖のパノラマと同化するホワイエに踏み込んだ瞬間からはじまっていた。
高谷史郎の新作パフォーマンス『ST/LL』は、びわ湖ホールでの昨年2月の試演にはじまり、フランス ル・アーブルでの滞在制作の後、5月にはル・ヴォルカン国立舞台で世界初演、10月のブリュッセル公演を経て、この度びわ湖ホールでの日本初演となった。
ダムタイプオフィス、ル・ヴォルカン国立舞台とともに作品制作に携わってきたびわ湖ホールにとって待望の里帰り公演であり、真冬日となったこの2日間は湖畔に佇むホールでの上演には理想的な時候だったのではないだろうか。
高谷史郎の操る闇と光の世界に、坂本龍一による音楽が融合し、織りなされたそのシークエンスのすべては視覚的にも聴覚的にもただ純粋に美しく、時の流れの感覚を失ったあたかも夢かと思しき体験は観客をカタルシスへと誘うものであった。
公演内での出来事は、公演の前後に観る湖畔の風景とあまりにもスムーズにリンクしているおかげで、観客は夢のはじまりとその終わりの区別をしばらく見失う。
それは言葉にしてしまうと、儚く色褪せてしまうような個人的で感覚的な体験であり、あらかじめ吐露すれば、そのディテールを詮索した補足説明はおそらく不要であろう。
しかし一方で、この作品には芸術と科学との類似性の傍証や、空間・時間に関する形而上的なコノテーションが孕まれていることも明確である。
「STILL」の「I」を「/」に置換した「ST/LL」というタイトルがもつメッセージについて、高谷はビジュアル的な補完であったとしか語らなかった(公演後のアーティスト・トーク)が、その字面のチューニングが宇宙の創成に起因した無に存在する「ゆらぎ」を意識させる。
上演前に配布されるリーフレットに「微分としての時間表現、物語の時間ではなく、動きの前後にある無限の時間について」と前置きがあるように、『ST/LL』は私たちが慣れ親しんだ日常の時間や空間の認識を解体し、過去や未来の混在する高次元の世界をここに出現させる試みなのではないかと予感させる。
開演を待つ舞台中央には、縦長のソリッドな「壁」と、そこから垂直に延びる縦長の黒いテーブルがある。テーブルには皿やグラスやカトラリーなどの食卓を想起させるものが配置されており、4台のメトロノームが既に「幾つかの時間」を刻みはじめている。
開演と同時にテーブル上部からカメラ(スパイダーと呼ばれる3本のワイヤーで吊り下げられたもの、日本公演ではじめて採用されている)が無音で降下してくると、「壁」はテーブル上の状況を映すスクリーンへと変化する。
パフォーマーがテーブルに歩み寄ると同時に、舞台の漆黒の床面は僅かに波紋を描きはじめ、そこが浅い水面であったことに気づく。
肉眼では、そこが食卓であるという印象をアフォードしていたテーブル上の物質は、スクリーンに投影され、さらに鏡としての水面に反転し喪失していく像によって、その質量と時間は徐々に現実とのズレを生じさせていく。
序章ではシステマチックな動きを演じたパフォーマー(オリビエ・バルザリーニ、平井優子、薮内美佐子)たちが次のシークエンスでは、テーブルに横たわり命を与えられたばかりの生物のように原始的な動きを演じはじめる。
やがてテーブルは宇宙空間に浮かぶモノリスと化し、彼らの身体だけを抽出したスクリーンの映像がその空間の領域をいったんは曖昧にするが、その動きをトレースする白線が、かつていた場所とは異なる次元の空間領域を定義しはじめる。
テーブル上のパフォーマーとその動きがモニターに同期されたとき、このパフォーマンスを肉眼で鑑賞することの本質に接触し、ふと夢から覚めた。肉眼でとらえていたパフォーマーの身体と、スクリーンに映像化されたそれとのあいだには、光速で移動するものと地上の私との相対的な時間のように、大きな時差が存在していることを自覚したからだ。
もしこの作品全体を映像作品として鑑賞していたのであれば、このように時間と空間が互いの運動によって歪み、湾曲していくような知覚を、おそらく意識することはできなかっただろう。
ところが、いったん異次元の世界に解放された知覚は、直後に暗闇にあらわれるパフォーマー(鶴田真由)の歩みと、それに呼応する儚げな灯、その背後に流れるアイヌの子守唄「60のゆりかご」によって、天と地をもつ「私たちの自然」へとふたたび導かれる。ただしそれは、現代人の知る距離感を失いつつある「自然」とはちがったもの、もっと原始的な「自然」、神々の創造した畏れおおき「自然」である。
現代人が認識している科学的事実も、未来にはまったく別の事実に置き換えられる可能性があると、高谷は伏線を敷く。「その意味において科学も神話のようなものである」と(リーフレット中のステートメント)。
『ST/LL』は、ハイテク機器によりコントロールされた映像と光、静寂を誇張する坂本龍一のピアノ演奏とそれを繊密に解析し再構築された音楽、その中で展開する叙情的な身体表現により構成された、流麗な美しさをもったサイエンス・フィクションである。
しかし、その舞台の床に「水」という制御不能なメディウムを配したことによって、この物語はフィクションとファクトとの境界を彷徨する。
私はこの作品に出会うまで、高谷の作品にみられる洗練された美しさの根拠は「可視光線のマチエール」にあると考えていた。
自然や身体の輪郭を、いったん熱を排除した光線として編集することで無垢の美しさを強調し、その尊さをあらためて意識させるといった試みが、高谷作品の核心であると捉えていたからだ。
しかし『ST/LL』を体験しているその只中にあっては、私自身の体温が大きく変化するようなエモーションを感じ、闇や光は温度と湿度をもったものとしてインプットされた。
パフォーマンスの終盤でダンサーの平井優子が、すでに写す役目を終えたスパイダーカメラを相手に相互の動きをシンクロさせていくシークエンスがあり、それは人間と人工物とのあいだに芽生えるアニミズム的な因縁を感じさせるような演出であった。
ここで高谷が光学的なガジェットそのものを単にツールとして扱うのではなく、思考力をもっているかのような物体(これもまた、ひとつのモノリスなのか!?)として登場させたことで、この作品に人間的な湿度を与えているのかもしれない。
人と自然との本来の慈悲深い関係を、メディアを通して深く印象づけるという意味で、『ST/LL』もまた高谷史郎とダムタイプオフィスの真骨頂といえよう。
森閑たる漆黒の表面に挿し込まれた「/」=「ゆらぎ」によって、世界は終わりなく静かに膨張しつづけている。
つだ・とものぶ
建築家/京都精華大学デザイン学部建築学科講師
(2016年2月4日公開)
高谷史郎 パフォーマンス 《ST/LL(スティル)》
2016年1月23日・24日 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール
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