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なかそらの話
文:宮永愛子

2012.11.29
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宮永愛子
 
春、私たちは久しぶりに再会した。
 
私が滞在した48階の部屋には、都会の景色をみはらす大きな窓があり、晴れた日は、高層ビル群の遠くに小さく富士山が見えた。雨の夜、窓はけぶったグレーの雲に覆われ、むこうの景色の見当がまるでつかなかった。真っ暗なはずの部屋は、雲が夜の街の光を透かし、窓の分だけ浮遊した白いグレーだった。この絶妙な景色に私たちは黙って魅せられていた。
 

「現在がいつまでも過去とならず、身体のなかに同時に存在し続ける感覚があるのですが、48階の部屋の中で会話していた現在も、過去にはならず、ずっと身体のうちにある、と感じます」彼女は翌日こうメッセージをくれた。彼女、とは小説家の朝吹真理子さん。朝吹さんは前日の対談で私の作品について、「はじまりは沢山あるのに終わりがない」とも話した。これは偶然にも、私が初めて発表した作品のタイトルと同じで、話はさらに弾んだ。この偶然に重ねて、展覧会の担当者から、この言葉を展覧会タイトルにと提案された。
 

私の作品はいつも変化を伴っている。防虫剤にもなるナフタリンを素材とするため、作品は常温で昇華をはじめる。つまり時間の経過と共に、彫刻作品はそのフォルムを失う。変化するフォルムを見て、私の作品を「消滅するアート」と呼ぶ人も多い。キャッチーですぐに覚えてもらえるけれど、実際は消滅しているのではなく、同じ空間で再び結晶化し、新しい形へと結ばれているだけなのだ。そんなわけで今回の展覧会では、今一度自分のコンセプトをきちんと伝えたい、という気持ちがあった。作品は確かに「はじまりはあって終わりはない」のだが、今の私は、はじまりも終わりもない、しなやかな言葉がほしかった。私にとって世界は、儚く見えて、しかしいつも柔軟に変化しながら均衡をとっているものだったから。
 

nakasora — puzzle – 2012 (detail)

photo by Ozaki Tetsuya

 

彼女との親交は続き、タイトルの呪縛の渦中にあった私にアドバイスが届く。「終わりがない」という感覚を敷衍すると、「いつまでも」や「どこまでも」になってしまう、と。そして、私がその言葉にしっくりこないことも察したうえで、彼女がおまじないにしているクセナキスの言葉も添えてあった。「ここはまた20億光年のかなたでもあるのだ」。この言葉はある意味、「はじまりがあって終わりのない」感覚を押し広げていったときにぶつかる言葉だと思う、と彼女はメールを結んでいた。私は彼女への返事に、「そうなの、私は過去はいつも完了していないと思うの」と書いた。それからしばらく日にちが過ぎたけれど、私の中におまじないの言葉はまだ生まれてこなかった。
 

パソコンとは便利なもので、私の逃避を助けてくれる。撮りためた写真を眺めながら「旅」へ出かけた。実際に今年は、何度か南米へ旅をしている。日本の景色の裏側がどんな風に存在しているのか見てみたかったのだ。ペルー、ボリビア、アルゼンチン。「地球の根源」、この文字に全くおさまりきらない自然を前に、机上の旅との違いに興奮した。昼間の乾燥した暑さ、山間では血圧不足のしびれを感じさせる寒さ、荒野の匂いがあった。ジープに乗って標高五千五百メートルの国境を越え、ペルーから雨季のボリビア、ウユニ塩湖へ。ここでは標高三千五百メートルに塩の湖が広がる。この塩湖は私の作品に類似している気がしていて、かねてから訪ねてみたい場所だった。透明樹脂に封入したナフタリンの彫刻は、空気に触れないため、昇華することなく静かに眠りについている。ある日誰かがシールを外すと、彫刻はその一ケ所からゆっくりと昇華して、いずれ半透明な痕跡を残すので、タイトルは”waiting for awakening”(目覚めを待っている)という。私は自分の作品との類似を思い、この塩湖は海の化石で、封入の途中といえるのではないかと想像した。
日本の裏側では、数百万羽のフラミンゴがピンクの湖をつくり、雨季のウユニ塩湖では、地上に空が存在していた。
 

初夏、展覧会のタイトルはまだ決まっていない。私は母校の学生たちと一緒に、「景色のはじまり」という作品をつくるため、金木犀の葉を集めていた。作品には剪定した葉っぱが大量に必要なので、学生は様々な記憶の場所に剪定の相談に出かけるようになっていた。時に樹の持ち主とのおしゃべりが弾み、お茶をいただいて帰ってくる子もいた。葉を集めると、同じ金木犀の葉でも、育った場所で、厚みや風合いが異なっていることに気づく。葉を注視すると、葉脈は俯瞰したグーグルマップにふわりと変身し、小さな街が見えた。葉脈を水の路と捉えると、離ればなれの山と海は、川を介してお互いを讃えているようにも思えてくる。秋、金木犀の十二万五千枚の葉は長さ30メートルの大きな地図となって、向こう側の景色に耳を澄ます。
 

現象を追うだけならば、彫刻のフォルムはいらない。けれど私は、自分を取り巻く、日常生活の中を流れている小さなはじまりに着目して、大きな俯瞰した世界がいつも変化しながらバランスをとって存在していることを感じていたい。
 

私のおまじないの言葉は、目の前で見つかることとなる。
私は絵を描くのが苦手で、作品のことを考える時は、鏡文字で言葉を並べ私なりにドローイングする。これをすると、文字の持つ意味に思考が引っ張られるのを避けられ、文字が自由になり、イメージが膨らむ。読みにくいところもいい。様々な時間が流れ重なったある日、私はふと紙に「空中」と書いた。「そらのなか」「くうちゅう」とはどこだろう。「空中」とは普通、地上から上のことを指す。私には、それはあるようでないような場所を表す言葉に思えたので、「空中」の後に鏡文字で「空」を加えた。これで紙の裏から読んでも「空中空」。「空中空」とすると、とたんに地上も地下も無くなり、「中」という文字が境界をつくり、お互いの世界はバランスを得た。窓の雲もクセナキスも、そして私のみた景色もどこかに繋がり、気持ちがすとんとした。「空中空」何と読もうか。——なかそら。空中空は「そら」ではなく、「から」でもなく、変化しながら巡り巡っている全ての所在とすることにしよう。
 
(初出:『新潮』2012年11月号)

 
宮永愛子氏の展覧会『なかそら—空中空—』は国立国際美術館(大阪市)にて2012年12月24日まで開催中です。


 

(2012年11月29日公開)