異点:韓国で照らす他の地図
003 ソウルと隣り合わせの場所、仁川
文:紺野優希
1. 海・空・陸、そして歴史とつながる仁川
空港名でもおなじみの仁川は、ソウル市内から車や電車で1時間ほどかかるところにある。入国するときの通過ポイントとして考えられがちだが、仁川という地域は実に広範囲である。黄海と首都ソウルと隣接しており、古くから物資や人の移動を手助けしている。19世紀末から港、鉄道、通信、そして2001年に空港が整備されてから今まで、経済を支えている。それと同時に、日帝時代と韓国戦争を経ながら、地政学的にも揺れ動く地域でもある。1876年に日朝修好条規を交わし開国/侵略したのも仁川の江華島での事件がきっかけであり、1945年の朝鮮半島の分断によって、仁川は解放・占領・戦争の波に繰り返しさらされることになった。
こうした史実を記録し伝える目的で、いわゆるミュージアムに当てはまる施設は市内にも多い。仁川広域市立博物館【*1】をはじめ、仁川上陸作戦記念館【*2】や、韓国移民史博物館【*3】、仁川開港博物館【*4】など、仁川の歴史を紹介する施設も少なくない。芸術と絡めて言うと、移民やディアスポラに焦点を当てた作品が終結する「ディアスポラ映画祭」が2013年から現在まで仁川で開催されている。一方で、市立美術館がない広域市として、これまでは認知されてきた。広域市というのは行政区画の一つであり、(日本の都道府県にあたる)「道」と同格の区域を指す。(首都のソウルのみ「特別市」という別格の名称がついている。)大田、釜山、蔚山、大邱、光州、そして仁川がこれに当てはまるが、市立美術館がないのは仁川だけだ。2026年現在、2028年の「仁川ミュージアムパーク」開館に向けた動きが本格化しているが【*5】、かといって現時点でアートスペースが皆無なわけではない。
2. 仁川のアートスペース
仁川と聞くと、「仁川アートプラットフォーム」が思い出されるだろう。仁川文化財団が運営するこの施設では、2009年から現在まで韓国内外のアーティストが滞在制作をしている。韓国国内には名の知られたレジデンス施設があり、ソウルにも国立現代美術館(MMCA)とソウル市立美術館(SeMA)傘下の施設がそれぞれあり、制作環境の確保やキャリアのステップアップの場としてアーティストに幅広く認識されている。ソウル内での競争率や生活範囲内のアクセス面を踏まえると、仁川アートプラットフォームの立地は魅力的である。また、視覚芸術だけでなく、公演芸術に関わる人も滞在制作ができたという点が、他のレジデンス施設との違いでもあった。日本からも黒田大スケなどが、ここで滞在制作を行っていたこともある。近年は施設の閉館問題に揺れており【*6】、仁川出身や仁川での経験が豊富なアーティストが主に選ばれているが、それでもこの場所の果たす役割は大きいといえる。では、それだけかと言われれば、仁川アートプラットフォームの周辺をはじめ、小さなアートスペースやギャラリーが点在しているのも事実である。
仁川のアートシーンを俯瞰する動きとして、近年『インチョンミスル:空間の空間(人千美述인천미술: 공간의 공간)』(発行:space imsi, 2022)という本があげられる【*7】。この本は、2016年9月にオープンしたプロジェクトスペース「イムシコンガン(space imsi)」のリサーチ・プロジェクトとして進められたもので、仁川という地域と美術のかかわりについてトランス・ローカリティな視点に基づき、人物やスペースの統計データをもとに構成されている。その中でも「(不)可能な地図とスペース(たち)」という項目では、延べ670箇所の仁川のアートシーンの名前や特性、位置を時期別に紹介している。2011年から2021年の10年にかけては、「コンテンポラリーアートの多様な変化」という題目のもと、292箇所のスペースが触れられている。博物館をはじめ、書店兼ギャラリーやカフェ兼ギャラリーなどもスペースにカウントしながらも、この時期には「視覚芸術」のみを扱うアートスペースが増えたことについても触れている【*8】。また、イムシコンガンと仁川アートプラットフォームのある「仁川市中区」に集中していた展示スペースは、ほかのエリアにも広がったと説明がある【*9】。中区には今でも「shhh」(2021)や「ブヨン(Buyeon)」(2020-)、「Cha Studio」(2021-)、「Project Space Kosmos」(2024-)などが、展示会場として使われてもいる。中区からも比較的近いが、東区の「Woonsol」(2021-)、ミチュホル区の「space dum」(2014-)、ヨンス区の「Art Space Bullmoji」(2022-)、西区の「Art Space 103」(2024-)などのアートスペースでは、頻繁に個展や企画展などが開かれている。
地域が広がった理由については、先に紹介した本であまり詳しく触れられていないが、ソウル内で生まれた動向とも共鳴し合うと言えるだろう。リーマンショックを経験した世代が、2010年代には自発的にスペースやプロジェクトを行う「新生空間」というムーブメントがあった。卒業後のキャリアが美術館やコマーシャルギャラリーの敷居の高さに阻まれた若手作家やキュレーター志望生が、アートシーンという生態系を自主的に作り出す流れは、仁川においても同様だったのではないか。一方で、2010年を迎えた仁川のインフラ面の発展も影響を与えたに違いない。中区は、チャイナタウンをはじめとして、仁川の中でも観光化が進んでいる中心地である。それに拍車をかけるように、2009年の世界都市フェスティバルの開催、経済自由地域に指定されたソンド国際都市計画の実現、同年末の仁川大橋開通、2010年に開港10周年を迎えた仁川国際空港まわりの開発ならびにソウル駅までの空港鉄道開通などの大きな変化があった。2016年には仁川都市鉄道(地下鉄)2号線も開通し、仁川市内の交通事情も大いに改善されたといえるだろう。地域の発展とソウルをはじめとした周辺地域との繋がりが増えたことによって、中区の地価が上がるとともに、中心地にこだわることなく自由な活動を展開する人たちが一層増えたのではないかと、推察する。とはいえ、現状としてはやはり中区を中心にアートスペースが集中している事実は否定できない。仁川という地域一帯が活性化したとはいえ、中区は今でも仁川の中心的な存在である。
3. 今後の仁川美術?
近年仁川ではアーティスト活動を続ける傍らで、アートスペースを運営する人も増えている。前述の「space imsi」や「shhh」、「Project Space Kosmos」、「Woonsol」なども、アーティストが運営しているスペースである。視覚芸術活動に理解のある人たちのおかげで、仁川ベースで(あるいは、仁川に籍を置いて)活動する作家たちも、自身の制作を披露するきっかけが作りやすくなっているのではないか。もちろん彼らの中には、仁川での活動をステップアップとしてとらえ、ソウルで展示することを志す人がいてもおかしくない。そこには、仁川市内での交流が希薄という認識もある。美術と関連した大学がないかといえば、そうではない。仁川大学、仁荷大学、カトリック大学には美術専攻の科目があるが、「Bullmoji」の運営メンバーが語るように、彼らが集う場が少ないという認識が根強いままだ【*10】。仁川の中でのコネクションを作る意味合いも込めて、Bullmojiの企画展第一号は三つの大学から作家を招いて、行われた(「KEEP GOING!」, 2023)。またWoonsolでは、若手キュレーターのシン・サンヒョンとの共同企画のもと、仁川ベースで活動する若手作家を呼び、延べ4か月にわたり定期的に会いながら制作の話などをし、展示「Pas : Paz_layers site」(2025)を開催した【*11】。

企画展「Pas : Paz_layers site」(2025, Woonsol)
写真:송정목
交易や移動の中心でありながらも、仁川における美術の交流はソウルほどダイナミックな流れではないかもしれない。だからといって、多くの作家や作家志望生が全員ソウルに行ったきりというわけでもない。
【*1】 1946年4月に開館した、韓国初の公立博物館。
【*2】 1984年9月15日に開館した記念館。韓国戦争の終結を告げることになった「仁川上陸作戦」の行われた地域に建てられた。
【*3】 2008年に開館した、韓国初の移民史博物館。朝鮮から米国ハワイへの移民の歴史をはじめ、【*4】 日本やロシア、中南米やドイツに渡った歴史を紹介している。
【*5】2010年に開館した博物館。日本第一銀行仁川支店の建物を活用した会場では、仁川の近代文物を紹介している。
仁川広域市のホームページに掲載された記事「열린 도시, 인천 – 열린 공간, 미술관 | 인천 뮤지엄파크(公に開かれた都市仁川、公に開かれた場所、美術館 – 仁川ミュージアムパーク)」(2026-01-31)を参照。
【*4】 日本やロシア、中南米やドイツに渡った歴史を紹介している。
【*6】 2023年秋ごろから、一般市民向けの文化施設として運営する案が市によって出された。
・「참담한 인천시의 인천아트플랫폼 레지던시 종료 계획(仁川市の仁川アートプラットフォーム・レジデンス、惨憺たる終了計画)」
・「인천아트플랫폼 ‘시민친화 문화공간’ 탈바꿈…내년 전면 개편(仁川アートプラットフォーム、「市民に寄り添う文化施設」に大変身…来年度全面的な改編へ)」
2026年4月16日の記事によれば、市民に向けたスペースとして一部開放しつつも、滞在制作ができる環境も全面撤廃にはならない模様だ。
・「인천시, 인천아트플랫폼을 열린 문화공간으로(仁川市、仁川アートプラットフォームを公の文化施設へ)」
リンク先の計画図を見ると分かる通り、仁川アートプラットフォームは滞在制作のできるレジデンス施設のほかに、展示会場や劇場も同じ敷地にある。
【*8】『人千美述인천미술 : 공간의 공간』, 임시공간, 2022, p. 61
【*9】 同上, p. 61
【*10】「’불모지’ 연수동에 심은 청년 예술의 희망(不毛の地・ヨンス洞にこめた若手芸術の希望)」
なお、「Bullmoji(불모지)」は「不毛の地」という意味で、仁川で過ごしている彼らの心境を表しているといえるだろう。
【*11】 本展の前書きを参照。
(※上記全URL最終確認2026年5月23日)本連載について
「異点:韓国で照らす他の地図」は、韓国と日本の二拠点で活動する美術批評家、紺野優希氏の連載です。同国の文化芸術の中核都市、ソウルからあえて視点をずらして諸地域を見つめ直し、オルタナティブな活動や地域の文脈で語られるアートを線で繋ぎながら、韓国のアートシーンの新たな輪郭を浮かび上がらせていきます。
執筆者プロフィール
紺野優希(こんの・ゆうき)
主に韓国で活動している美術批評家。「アフター・10.12」(Audio Visual Pavilion・2018)、「韓国画と東洋画と」(gallery TOWED, FINCH ARTS, Jungganjijeom II・2022)などを企画。日本と韓国の展覧会・イベント情報を紹介するポータルサイト「Padograph」(https://padograph.com/ja)の韓国担当。GRAVITY EFFECT 2019 美術批評コンクール次席。
