GAT 034 サスキア・ボス
武力闘争の時代にアートを教えること: Part 1
2022年2月24日のロシアによるウクライナへの軍事侵攻は世界中を驚かせた。国際紛争、戦争や経済的困難、移住問題、絶えざる問題にさらされるわたしたちの現代。歴史上、不穏な時代に生きたアーティストたちは、これらのテーマにどのように向かい合ってきたのだろうか。2022年8月8日、アムステルダムに拠点を置く美術史家、批評家、インディペンデント・キュレーターでもあるサスキア・ボスは「武力闘争の時代にアートを教えること」というタイトルでオンライン・トークを行った。以下はその抜粋である。
石井潤一郎 (ICA Kyoto)
これから30分、美術史的に重要なこと、わたしが調べたことを中心に、現代アートも取り上げながらお話ししていきます。最新のスライドはもう20年前のものなので、あまり現代的ではないところで終わると思いますが、1070年からスタートするということは、ほぼ1000年にまたがるアートの話ということになります。
《バイユーのタペストリー》は、西洋美術の中でも最も初期の、美しくもあり、恐ろしくもある「描写」のひとつです。しかしこれはタペストリーです、「描写」と呼べるのでしょうか?これはキリストの名の下において行われた、十字軍による殺戮の物語を視覚化したものなのです。
これは発見されていない絵画の習作です。レオナルド・ダ・ヴィンチは実際に壁画を制作したのか、あるいは習作だけで終わったのかは謎なのですが、《アンギアーリの戦い》、1505年です。
これはヤン・ルイケンというオランダの画家で、1696年に、どういう理由かはわかりませんが、1572年に起こったパリの虐殺事件にさかのぼります。彼がこの絵を描く120年以上前の、聖バーソロミューの日に起きた虐殺です。パリで多くのカトリック教徒がプロテスタントやユグノーを殺害した日です。当時のユグノーやプロテスタントは、カトリックのパリよりもプロテスタントを擁護していたオランダ(ホーランド)へと逃げようとしていました。
これは史上最も陰惨な絵画の一つです。アムステルダム国立美術館(ライクスミュージアム)の所蔵品ですが、首が切られて身体が切り開かれ、なぜか腸が持ち去られているといった死体が描かれているため、ほとんど展示されることはないそうです。
殺されているのは共和国主義者のデ・ウィット兄弟で、オラニエ派に対抗していました。オラニエ派とは国王、つまりオラニエ公に味方する人たちのことです。当時はまだ「国王」は存在していませんでしたが、オラニエ公という似たような存在があり、2つの勢力が対抗していました。アムステルダムには共和国派が非常に多く、それからハーグの半分には、今でもそうですが、オラニエ派が住んでいます。戦いは他国、特にルイ14世がオランダ(ホーランド)に向けて侵攻を始めた1672年に起こりました。
オランダ(ホーランド)は敗戦し、当時の政府の指導者的な立場にあったデ・ウィット兄弟は、ルイ14世が軍隊を率いてオランダ(ネザーランズ)に侵攻してくることを予測できなかったのは彼らの失敗であるとして非難され、民衆に虐殺されたのです。
1633年、《戦争の惨禍》。兵士が暴れ、人々が逮捕され、木の上で吊るされ処刑される様子が描かれています。
これはフランスのジャック・カロによる18枚のエッチングで、わずか8センチ×18センチですが、有名なスペインのフランシスコ・デ・ゴヤにとって、これらは非常に重要なものでした。
彼の有名なドローイングとアクアチントのシリーズ《戦争の惨禍》です。
忘れてはならないのは、軍隊とともに同胞を殺しているナポレオンが描かれているということです。ここにもブルボン家があり、王がおり、その反対側にはすでに19世紀の共和主義者がいるのです。
もちろんナポレオンは革命の後ほとんど皇帝のような存在となり、その後実際に皇帝になったのですが、彼は現在のプーチンのように周りの国々を手中に収めています。イタリア、オランダ、そしてスペインを手に入れました。
兵士を見てください。これはフランスに味方しているブルボン家系のスペイン人なのかもしれないし、あるいは絞首刑にされた人物を見て楽しんでいるように見える、ただのフランス人兵士なのかもしれません。
《マドリード、1808年5月3日》スペインのレジスタンス殺害。
オットー・ディックス1924年、第一次世界大戦を振り返って。
1937年、スペイン内戦の頃です。フランス系スイス人のマックス・エルンストが1937年に《The Fireside Angel》を制作するのは、ドイツのファシスト軍がスペインの保守派を助けていることをすでに意識していたからです。スペインは後にフランコ体制下のスペインとなるのですが、ここではまだその段階ではありません。
わたしにとって、この絵は鳥肌が立つような絵です。鳥肌が立つのは、戦争の狂気があまりにも不快に描かれているからです。ほとんど気が狂わんばかりに、それほどまでに巧妙に描かれているのです。
シュルレアリストたちはフロイトを読んで無意識について知り尽くした後、深い感情と対話できるようになりました。フロイトは無意識を分析する手助けをしましたが、マックス・エルンストをはじめとするシュルレアリスムの画家たちは、それを実現する巨匠たちであり、わたしにとってこれは恐ろしい絵画なのです。
これは同じ年、1937年、ピカソの《ゲルニカ》です。ゲルニカは爆弾が落とされた村です。
これは1936年、これもスペイン内戦についてなのですが、1年前です。
問題はここで、これは1937年に『ライフ誌』に掲載されたのです。ロバート・キャパのこの写真についての疑問は(京都芸術大学大学院グローバル・ゼミの)授業でも詳しく分析していますが、これは本物なのか、それともポーズなのか、ということです。
2009年になって初めて、この写真がポーズであった可能性を示唆する記事が出てきました。演出が重要である他の作品については、後ほどまた触れたいと思います。
これはピカソによる、かなり早い段階での朝鮮戦争に対するリアクションです。これは朝鮮での大虐殺についてです。
ご覧のように、ゴヤの絵(*《マドリード、1808年5月3日》参照)の影響を受けているように見えます。マネの絵画の中にもゴヤに似たものがありますので、この絵はマネとゴヤの両方の影響を受けていると思われ、ピカソが描いたものですが、《ゲルニカ》とは全く違います。
これは1958年の作品《アウシュビッツ》。ベッセル・コージンが制作した彫刻です。
これも《アウシュビッツ》と呼ばれる、1966年、鉄と木の作品です。
アウシュビッツのことは、みなさんもよくご存知だと思います。このアーティストは、そこに向き合い、そこから芸術を生み出そうとすることができる数少ない一人でした。語りえないものから芸術を生み出そうとすることは、最も困難なことの一つです。「ヒロシマ」が起きたとき、それは不可能でした。「9.11」をアートにしようとするのはとても難しいことです。アウシュビッツを題材にした作品を作ろうとしても、それはとても不可能なことなのです。
彼は抽象的な表現者です。彼は非常に優れた彫刻家ですが、誰もその作品を展示することはありません。理由は非常に「重たい」からです。死体が描かれたあの絵(*《The corpses of the brothers De Wit’》参照)のようなものです。展示するのはとても難しく、レクチャーでもあまり見かけません。
サスキア・ボス(美術史家、キュレーター、批評家)
アムステルダムに拠点を置く、現代アートの批評家、インディペンデント・キュレーター。ヨーロッパと米国で、展覧会制作、アート教育やアドミニストレーションにおいて長いキャリアを持つ。「デ・アペル」キュラトリアル・プログラムの創設ディレクターであり、2005年から2016年までニューヨークのクーパーユニオン大学で芸術学部学部長を務めた。現在、国際美術館会議(CIMAM)理事。
ボスはこれまで、多くの機関とコラボレーションのもと国際的なプロジェクトの企画を行ってきた。ルディ・フックスが率いるキュレーション・チームとともにカッセル・ドクメンタ7のカタログ編集補佐として携わったのち、Sonsbeek’86(アーネム、オランダ)、ヴェネツィア・ビエンナーレ(「アペルト」共同キュレーター、1988年)、サンパウロ・ビエンナーレ(オランダ館コミッショナー、1998年)、第2回ベルリンビエンナーレ(2001年)、第3回ミュンスターランド彫刻ビエンナーレ(2003年)など。2009年にはヴェネツィア・ビエンナーレのオランダ館をキュレーションした。
※ このトークは2022年8月8日にオンラインで開催された。