ブログ第1回
森山 直人
2012.09.19
森山です。これからリニューアル・オープンしたこの「REALKYOTO」で、舞台芸術について書いていこうと思っています。よろしくお願いします。
ところで、いまは9月。日本にいると、スポーツと同じように演劇やダンスにも「シーズン」があるなどという感覚はほとんど生じませんが、世界的に見れば、9月の半ばから、ヨーロッパの劇場は新しい「シーズン」を迎えることになります。ただ、ここ数年は多少なりとも、日本でも「シーズン」に近い感覚が芽生えてきたとすれば、「フェスティバル/トーキョー」や「KYOTO EXPERIMENT」のような、国際的な同時代性を強く意識した舞台芸術祭が、9月から11月にかけて、競って選りすぐりのプログラムを上演するようになったからでしょう。「季節感」は、なかなかどうして馬鹿にできないものです。たとえば、毎年3月末になれば、多くの日本人が多少なりともプロ野球の新しいシーズンの開幕を思い浮かべるし、最近は8月になれば、プレミア・リーグやセリエ・A、リーガ・エスパニューラ等に、新たに移籍した日本人のサッカー選手のことが、気になってそわそわしだす、という人も増えてきました。人々が、共通の何かを思い浮かべようとするとき、「季節感」というやつが、案外そうしたイマジネーションを支えている、という場合が少なくないように思うのです。
最近私は、一見どうでもいいことに見えて、この「シーズン」という感覚が、ライヴ=なまものである演劇やダンスにとって、意外と重要なのではないか、と思えてきました。なまものは、原則「その場で食べ」たら終わり。けれども、その記憶が長らく残っているとしたら、その記憶の無意識の土台となっているもののひとつに、「季節感」が重要な役割を果たしていたりするのではないか。「季節感」は、同じ時間を生きている人々が広く共有している「時間」です。「季節感」は、間違いなく一種の「公共性」の時間感覚を生み出していて、もっと正確に言えば、それは個人がある時手にしたかけがえのない体験が、公共的に流れる時間とつながるための役割を持っているということができるかもしれません。現代美術であれば、ついこの間終了したばかりの「越後妻有トリエンナーレ」などは、明確に「夏」という「季節感」とリンクしています。
日本の舞台芸術に目を向けてみましょう。日本で「季節感」を採用していない劇場がまったくないわけではありません。たとえば、東京の新国立劇場は、ヨーロッパの劇場の「シーズン」をそのまま取り入れて、秋から始まって夏に終わる「季節感」を採用しています(たとえば今年なら、「2012/13プログラム」という呼称を広報媒体などで使っています)。今年の秋は、この劇場で、高谷史郎の『明るい部屋』のような作品も上演されるので見落とすことはできないのですが、こと「季節感」の醸成という点に限ってみれば、残念ながら新国立劇場のこの方式は、ほとんど機能していないのが現状です。なにしろ開場して15年も経つのに、この「季節感」は、舞台芸術のファンにさえ、ほとんど共有されていません。もしかするとこの「失敗」は、秋に始まって夏に終わるという欧米に特有の「季節感」をそのまま輸入しただけだったせいかもしれないのですが、新国立劇場のプログラムが、総じて公共的な話題にならないことの一因は、おそらくそのあたりにもある。「季節感」という公共的な時間感覚を生み出そうとするのであれば、思い切って日本人の伝統的な四季の感覚を活用したほうがよいのかもしれません。
現在私は日本の劇場やフェスティバルのプログラムを見ていて、それぞれのプログラムはそれなりに充実しているにもかかわらず、どこかバラバラにそれぞれが動いているだけのいような印象を拭うことができないことが気になっています。もちろん、送り手が自分のことだけを考えているというわけではないでしょう。けれども、それだけでは、「どの劇団や劇場が好き」といった趣味の感覚は生じるかもしれませんが、「公共性」の感覚は生じることはありません。それだけでは、「資本主義」が生み出す時間感覚とそれほど差がない、という感じがします。たとえば、伝統からコンテンポラリーまで含めて、劇場が「春のプログラム」「夏のプログラム」「秋のプログラム」「冬のプログラム」といったネーミングを共通のフォーマットとして採用し、A、B、C・・・といったそれぞれの劇場のプログラムが、共通の括りによって比較されるようになったとすると、互いが互いを意識し、シビアな比較のなかで競い合うような状況が生じるのではないか。結果として、送り手や作り手、受けてである観客の視野はもっと広がっていき、同じ時期に開催される「なまもの」をめぐって活発な議論が戦わされる状況は生まれてくるのではないか。そういう状況のなかでしか、「なまもの」の真の活性化は生じてこないように思うのです。
「KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)2012」は、9月22日から、「フェスティバル/トーキョー12」は、10月下旬からそれぞれはじまります。どちらも、演劇好きやダンス好きに留まらない、現代のアートに広く関心を持っている人々に広く発信できるようなプログラムを組んでいますので、ぜひ繰り返し脚を運んでいただきたいと思います。しかし、繰り返しになりますが、個々の劇場の努力だけでは、「公共性」の感覚は生じることがありませんし、「劇場」をめぐる真の政治性が浮上することもありません。今年、せめて、私たち観客のなかだけでも、自分たちのイマジネーションのなかで「シーズン」をそっと採用してみてはどうでしょうか? 歌舞伎もミュージカルも、前衛的な表現も、同じフレームのなかで見比べ、食べ比べてみる。そのことを通じて、何が「私たち」にとって、いま必要な表現であるのかについての意見を、大いに戦わせる習慣の実現に向かって、一歩脚を踏み入れてみてはどうか、と、目下考えているところです。
ところで、いまは9月。日本にいると、スポーツと同じように演劇やダンスにも「シーズン」があるなどという感覚はほとんど生じませんが、世界的に見れば、9月の半ばから、ヨーロッパの劇場は新しい「シーズン」を迎えることになります。ただ、ここ数年は多少なりとも、日本でも「シーズン」に近い感覚が芽生えてきたとすれば、「フェスティバル/トーキョー」や「KYOTO EXPERIMENT」のような、国際的な同時代性を強く意識した舞台芸術祭が、9月から11月にかけて、競って選りすぐりのプログラムを上演するようになったからでしょう。「季節感」は、なかなかどうして馬鹿にできないものです。たとえば、毎年3月末になれば、多くの日本人が多少なりともプロ野球の新しいシーズンの開幕を思い浮かべるし、最近は8月になれば、プレミア・リーグやセリエ・A、リーガ・エスパニューラ等に、新たに移籍した日本人のサッカー選手のことが、気になってそわそわしだす、という人も増えてきました。人々が、共通の何かを思い浮かべようとするとき、「季節感」というやつが、案外そうしたイマジネーションを支えている、という場合が少なくないように思うのです。
最近私は、一見どうでもいいことに見えて、この「シーズン」という感覚が、ライヴ=なまものである演劇やダンスにとって、意外と重要なのではないか、と思えてきました。なまものは、原則「その場で食べ」たら終わり。けれども、その記憶が長らく残っているとしたら、その記憶の無意識の土台となっているもののひとつに、「季節感」が重要な役割を果たしていたりするのではないか。「季節感」は、同じ時間を生きている人々が広く共有している「時間」です。「季節感」は、間違いなく一種の「公共性」の時間感覚を生み出していて、もっと正確に言えば、それは個人がある時手にしたかけがえのない体験が、公共的に流れる時間とつながるための役割を持っているということができるかもしれません。現代美術であれば、ついこの間終了したばかりの「越後妻有トリエンナーレ」などは、明確に「夏」という「季節感」とリンクしています。
日本の舞台芸術に目を向けてみましょう。日本で「季節感」を採用していない劇場がまったくないわけではありません。たとえば、東京の新国立劇場は、ヨーロッパの劇場の「シーズン」をそのまま取り入れて、秋から始まって夏に終わる「季節感」を採用しています(たとえば今年なら、「2012/13プログラム」という呼称を広報媒体などで使っています)。今年の秋は、この劇場で、高谷史郎の『明るい部屋』のような作品も上演されるので見落とすことはできないのですが、こと「季節感」の醸成という点に限ってみれば、残念ながら新国立劇場のこの方式は、ほとんど機能していないのが現状です。なにしろ開場して15年も経つのに、この「季節感」は、舞台芸術のファンにさえ、ほとんど共有されていません。もしかするとこの「失敗」は、秋に始まって夏に終わるという欧米に特有の「季節感」をそのまま輸入しただけだったせいかもしれないのですが、新国立劇場のプログラムが、総じて公共的な話題にならないことの一因は、おそらくそのあたりにもある。「季節感」という公共的な時間感覚を生み出そうとするのであれば、思い切って日本人の伝統的な四季の感覚を活用したほうがよいのかもしれません。
現在私は日本の劇場やフェスティバルのプログラムを見ていて、それぞれのプログラムはそれなりに充実しているにもかかわらず、どこかバラバラにそれぞれが動いているだけのいような印象を拭うことができないことが気になっています。もちろん、送り手が自分のことだけを考えているというわけではないでしょう。けれども、それだけでは、「どの劇団や劇場が好き」といった趣味の感覚は生じるかもしれませんが、「公共性」の感覚は生じることはありません。それだけでは、「資本主義」が生み出す時間感覚とそれほど差がない、という感じがします。たとえば、伝統からコンテンポラリーまで含めて、劇場が「春のプログラム」「夏のプログラム」「秋のプログラム」「冬のプログラム」といったネーミングを共通のフォーマットとして採用し、A、B、C・・・といったそれぞれの劇場のプログラムが、共通の括りによって比較されるようになったとすると、互いが互いを意識し、シビアな比較のなかで競い合うような状況が生じるのではないか。結果として、送り手や作り手、受けてである観客の視野はもっと広がっていき、同じ時期に開催される「なまもの」をめぐって活発な議論が戦わされる状況は生まれてくるのではないか。そういう状況のなかでしか、「なまもの」の真の活性化は生じてこないように思うのです。
「KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)2012」は、9月22日から、「フェスティバル/トーキョー12」は、10月下旬からそれぞれはじまります。どちらも、演劇好きやダンス好きに留まらない、現代のアートに広く関心を持っている人々に広く発信できるようなプログラムを組んでいますので、ぜひ繰り返し脚を運んでいただきたいと思います。しかし、繰り返しになりますが、個々の劇場の努力だけでは、「公共性」の感覚は生じることがありませんし、「劇場」をめぐる真の政治性が浮上することもありません。今年、せめて、私たち観客のなかだけでも、自分たちのイマジネーションのなかで「シーズン」をそっと採用してみてはどうでしょうか? 歌舞伎もミュージカルも、前衛的な表現も、同じフレームのなかで見比べ、食べ比べてみる。そのことを通じて、何が「私たち」にとって、いま必要な表現であるのかについての意見を、大いに戦わせる習慣の実現に向かって、一歩脚を踏み入れてみてはどうか、と、目下考えているところです。