KYOTO EXPERIMENTのこれからについて
森山 直人
2015.07.16
森山です。
前回の更新から、ほんとうに、随分日が経ってしまいました。
心を入れ替えて、これからせめて1月に2回、原則として毎月1日と15日に更新していこうと思います(といいつつ、さっそく遅れてしまいましたが・・・)。雑記風のこともあれば、舞台評のこともあると思います。
あらためまして、どうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、新装開店第1回は、私が実行委員長をしているKYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)について、書いてみようと思います。
一応付け加えておくと、このフェスティバルは、2010年にスタートし、年1回のペースで開催され、昨年で5回目を終了しました。
そして、これまた急いで付け加えておくと、実行委員長であるからといって、私自身が立ちあげた企画ではまったくありません。
もともとこのフェスは、京都芸術センターが、2004年~09年にかけて実施した「演劇計画」というプロジェクトを母体にしています。
そして、なにより重要なのは、「演劇計画」を立ち上げて、今日のような状態にまで成長・発展させたのは、ほかでもない、現在フェスのプログラム・ディレクターである橋本裕介さんをはじめ、当時はまだ20代後半から30代前半であった、京都の若いスタッフの熱意だった、ということです。
かくいう私自身も、橋本さんたちから、「演劇計画」に誘われ、今日に至っているわけです。
ですから、もしもみなさんが、「KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)」の文字を目にしたら、その時はぜひとも、そのことを思い出し、共有していただければうれしいです。
さて、毎年9月末から10月にかけては、舞台芸術祭のシーズンなのですが、今秋は、フェスはありません。
なぜかというと、2015年度のみ、2016年3月の開催となるからです。そして、2016年度は、また秋の開催に戻ります。つまり、2016年のみ、春(15年度分)と秋(16年度分)の2回開催となるわけです。
なぜ、今回だけ、そのような変則的な状況になっているのか。それは、「ロームシアター京都」のリニューアル・オープンが来年1月に控えており、次回は、そのオープニングに合わせた企画として位置づけられているからです。
私のようなよそ者など申し上げるまでもありませんが、「ロームシアター京都」は、もともと「京都会館」という名称で、1960年に開館し、半世紀以上にわたって京都市民に親しまれてきた由緒ある公共ホールでした。建築家・前川國男のデザインによる重厚感のある建物は、まさに文化の拠点としての風格をそなえていたのだと思います(東京出身の私は、同じ建築家の「東京文化会館」をすぐに連想してしまいます)。今回のリニューアルにあたって、建築保存を求める運動が起こったことも、それだけ大切なシンボルとして愛されてきたことの証なのだと思いました。
ただ、パフォーミング・アーツの立場から見ると、劇場施設の老朽化は激しく、時代に対応していない設備環境は、プロフェッショナルの側から多くの問題点が指摘されてきたことも、たしかなようです。その点、今回のリニューアルにあたっては、劇場機構の更新もさることながら、京都会館時代にはなかった演劇やダンスの「自主製作」の機能を持つことになりました。これは、劇場という、「ものを創る場所」にとって、きわめて重要な機能であり、しかも心強いことに、指定管理団体である「公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団」のなかに、そのために新たな部署が設置され、全国から、キャリアのある若手・中堅のスタッフが集結しつつあります。
どんなに優秀なアーティストがいても、優秀なスタッフがいなければ優れた作品は生まれませんが、とりわけ集団創作であるパフォーミング・アーツにとって、そのことは顕著に現れます。そのような形で新装開店する「ロームシアター京都」は、京都を代表する公共劇場として、これからますます重要性を増していくことでしょう。
そして、「KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)」実行委員会にも、「ロームシアター京都」の指定管理者である「公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団」が、すでに加わっています。来年3月のフェスには、「ロームシアター京都」もメイン会場として加わります。プログラムの公式発表までにはもう少し時間がありますが、国内外から、優れた作品が、新たな劇場に鮮やかな彩りを添えることになると信じていますので、ぜひご期待ください。
さて、そういうタイミングで、いまあらためて考えなければいけないのは、これからの芸術のあり方についてだと、個人的には考えています。
2020年の東京五輪については、新国立競技場建設問題を筆頭に、一時期の祝祭的なムードではすまない不安要素も、徐々に表面化しつつあります。しかしながら、同時にまた、五輪がらみでかなりの金額の文化予算が、今後数年間は動くことになるのは確実で、しばらくは良くも悪くも、こうした流れに振り回されることになるのは、ある程度はやむをえないかもしれません。加えて、京都市は、2017年度の「東アジア文化都市」にも選ばれていますから、アジア関連の交流も、それに関連して活発化することになるのでしょう。パフォーミング・アーツにも、同じことが生じることと予想されます。
けれども、すでに少なくない人が指摘しているように、問題は、むしろ「東京五輪後」にあるわけです。いうまでもなく、その後に本格化する超高齢化・人口減少によって、物事の根本的な考え方をめぐって、これまで通りではすまなくなるような大きな変化が要請されることになるでしょう。間違いなく、それは「お金の使い方」と連動していますから、芸術文化に関わる予算の見直し(大幅削減)といった事態が、2020年以降、いつ起こっても不思議ではありません。
したがって、「ロームシアター京都」や、「京都国際舞台芸術祭」の未来もまた、中長期的には、決して楽観視できる状況にはない、ということは、肝に銘じておかなければならない現実なのだと思います。けれどもそのことは、「売れるもの」と「売れないもの」の格差が、あらゆる分野で生じる現在、ほとんどの芸術ジャンルが共通に抱えている大問題でもあると考えています。
ところで私自身は、「芸術」が、つねに公共のサポートを必要とするものだとは考えていません。むしろ京都、大阪はとくに、さまざまな「民間」の主体が、たえず全体を牽引してきたことを忘れてはならないと思っています。「京都国際舞台芸術祭」が、京都市だけの事業ではなく、さまざまな主体や有識者から構成されている「実行委員会」によって運営されていることの意味は、そこにもあります。ともすれば偏りがちになる、いや、戦後日本の歴史により忠実にいえば、「偏らないこと」に偏りがち(!)になる文化行政の論理から自由になれるのは、まさにこうした場所しかない、と、これまた私自身、確信しています。
その上で、私は、芸術の公共的な発信の意味は、新たな価値を提案し、議論するところにあると思っています。
たとえば、1947年、演劇の世界では誰もが知っている、「アヴィニョン演劇祭」というフェスティバルが立ち上がりました。世界で最も歴史の古い、由緒ある演劇祭として、今日もなお続いています。このフェスティバルを主導した演出家のジャン・ヴィラールが掲げていた価値=理念は、首都一極集中が続いていたフランスの演劇状況に一石を投じ、「演劇の地方分化」のモデルケースを実現することでした。そしてその背景には、「民衆演劇運動」の理念に沿って、芸術をあらゆる人にとって手の届くものにする、という革命的な理想が存在していたのでした。
現在、私たちは、もしかすると、その当時ほど、「芸術」という価値を一元的に信じることができるわけではないかもしれません。しかし、まさにこうした価値観の転換を伴う時代だからこそ、「芸術」が重要なのだと考える人も少なくないでしょう。ある意味では、「芸術」がこれまで培ってきた価値の大きさと深さを再検証し、未来に向けて発信していくまたとないタイミング、絶好のチャンスであるとさえ言うことができるのではないでしょうか?
長くなりましたが、私自身が思うことは、そうした、「芸術の価値を再検証し、未来に向けて発信していく」緩やかな運動体のなかに、「ロームシアター京都」も「京都国際舞台芸術祭」もあり続けることができたら、ということです。仕組みが変わり、新たなスタートを切るタイミングにあたって、ぜひともそのことだけは表明し、呼びかけておきたいと思いました。
最後に、実行委員長として、・・・いやいや、こういうコメントは、やはりこのブログにはふさわしくありませんね。やめておきます。なんだか「公式見解」のような文章になってしまって、すみませんでした。
そういうわけで、ともかくみなさん、ぜひフェスにも、劇場にも足を運んでください!!
前回の更新から、ほんとうに、随分日が経ってしまいました。
心を入れ替えて、これからせめて1月に2回、原則として毎月1日と15日に更新していこうと思います(といいつつ、さっそく遅れてしまいましたが・・・)。雑記風のこともあれば、舞台評のこともあると思います。
あらためまして、どうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、新装開店第1回は、私が実行委員長をしているKYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)について、書いてみようと思います。
一応付け加えておくと、このフェスティバルは、2010年にスタートし、年1回のペースで開催され、昨年で5回目を終了しました。
そして、これまた急いで付け加えておくと、実行委員長であるからといって、私自身が立ちあげた企画ではまったくありません。
もともとこのフェスは、京都芸術センターが、2004年~09年にかけて実施した「演劇計画」というプロジェクトを母体にしています。
そして、なにより重要なのは、「演劇計画」を立ち上げて、今日のような状態にまで成長・発展させたのは、ほかでもない、現在フェスのプログラム・ディレクターである橋本裕介さんをはじめ、当時はまだ20代後半から30代前半であった、京都の若いスタッフの熱意だった、ということです。
かくいう私自身も、橋本さんたちから、「演劇計画」に誘われ、今日に至っているわけです。
ですから、もしもみなさんが、「KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)」の文字を目にしたら、その時はぜひとも、そのことを思い出し、共有していただければうれしいです。
さて、毎年9月末から10月にかけては、舞台芸術祭のシーズンなのですが、今秋は、フェスはありません。
なぜかというと、2015年度のみ、2016年3月の開催となるからです。そして、2016年度は、また秋の開催に戻ります。つまり、2016年のみ、春(15年度分)と秋(16年度分)の2回開催となるわけです。
なぜ、今回だけ、そのような変則的な状況になっているのか。それは、「ロームシアター京都」のリニューアル・オープンが来年1月に控えており、次回は、そのオープニングに合わせた企画として位置づけられているからです。
私のようなよそ者など申し上げるまでもありませんが、「ロームシアター京都」は、もともと「京都会館」という名称で、1960年に開館し、半世紀以上にわたって京都市民に親しまれてきた由緒ある公共ホールでした。建築家・前川國男のデザインによる重厚感のある建物は、まさに文化の拠点としての風格をそなえていたのだと思います(東京出身の私は、同じ建築家の「東京文化会館」をすぐに連想してしまいます)。今回のリニューアルにあたって、建築保存を求める運動が起こったことも、それだけ大切なシンボルとして愛されてきたことの証なのだと思いました。
ただ、パフォーミング・アーツの立場から見ると、劇場施設の老朽化は激しく、時代に対応していない設備環境は、プロフェッショナルの側から多くの問題点が指摘されてきたことも、たしかなようです。その点、今回のリニューアルにあたっては、劇場機構の更新もさることながら、京都会館時代にはなかった演劇やダンスの「自主製作」の機能を持つことになりました。これは、劇場という、「ものを創る場所」にとって、きわめて重要な機能であり、しかも心強いことに、指定管理団体である「公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団」のなかに、そのために新たな部署が設置され、全国から、キャリアのある若手・中堅のスタッフが集結しつつあります。
どんなに優秀なアーティストがいても、優秀なスタッフがいなければ優れた作品は生まれませんが、とりわけ集団創作であるパフォーミング・アーツにとって、そのことは顕著に現れます。そのような形で新装開店する「ロームシアター京都」は、京都を代表する公共劇場として、これからますます重要性を増していくことでしょう。
そして、「KYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)」実行委員会にも、「ロームシアター京都」の指定管理者である「公益財団法人京都市音楽芸術文化振興財団」が、すでに加わっています。来年3月のフェスには、「ロームシアター京都」もメイン会場として加わります。プログラムの公式発表までにはもう少し時間がありますが、国内外から、優れた作品が、新たな劇場に鮮やかな彩りを添えることになると信じていますので、ぜひご期待ください。
さて、そういうタイミングで、いまあらためて考えなければいけないのは、これからの芸術のあり方についてだと、個人的には考えています。
2020年の東京五輪については、新国立競技場建設問題を筆頭に、一時期の祝祭的なムードではすまない不安要素も、徐々に表面化しつつあります。しかしながら、同時にまた、五輪がらみでかなりの金額の文化予算が、今後数年間は動くことになるのは確実で、しばらくは良くも悪くも、こうした流れに振り回されることになるのは、ある程度はやむをえないかもしれません。加えて、京都市は、2017年度の「東アジア文化都市」にも選ばれていますから、アジア関連の交流も、それに関連して活発化することになるのでしょう。パフォーミング・アーツにも、同じことが生じることと予想されます。
けれども、すでに少なくない人が指摘しているように、問題は、むしろ「東京五輪後」にあるわけです。いうまでもなく、その後に本格化する超高齢化・人口減少によって、物事の根本的な考え方をめぐって、これまで通りではすまなくなるような大きな変化が要請されることになるでしょう。間違いなく、それは「お金の使い方」と連動していますから、芸術文化に関わる予算の見直し(大幅削減)といった事態が、2020年以降、いつ起こっても不思議ではありません。
したがって、「ロームシアター京都」や、「京都国際舞台芸術祭」の未来もまた、中長期的には、決して楽観視できる状況にはない、ということは、肝に銘じておかなければならない現実なのだと思います。けれどもそのことは、「売れるもの」と「売れないもの」の格差が、あらゆる分野で生じる現在、ほとんどの芸術ジャンルが共通に抱えている大問題でもあると考えています。
ところで私自身は、「芸術」が、つねに公共のサポートを必要とするものだとは考えていません。むしろ京都、大阪はとくに、さまざまな「民間」の主体が、たえず全体を牽引してきたことを忘れてはならないと思っています。「京都国際舞台芸術祭」が、京都市だけの事業ではなく、さまざまな主体や有識者から構成されている「実行委員会」によって運営されていることの意味は、そこにもあります。ともすれば偏りがちになる、いや、戦後日本の歴史により忠実にいえば、「偏らないこと」に偏りがち(!)になる文化行政の論理から自由になれるのは、まさにこうした場所しかない、と、これまた私自身、確信しています。
その上で、私は、芸術の公共的な発信の意味は、新たな価値を提案し、議論するところにあると思っています。
たとえば、1947年、演劇の世界では誰もが知っている、「アヴィニョン演劇祭」というフェスティバルが立ち上がりました。世界で最も歴史の古い、由緒ある演劇祭として、今日もなお続いています。このフェスティバルを主導した演出家のジャン・ヴィラールが掲げていた価値=理念は、首都一極集中が続いていたフランスの演劇状況に一石を投じ、「演劇の地方分化」のモデルケースを実現することでした。そしてその背景には、「民衆演劇運動」の理念に沿って、芸術をあらゆる人にとって手の届くものにする、という革命的な理想が存在していたのでした。
現在、私たちは、もしかすると、その当時ほど、「芸術」という価値を一元的に信じることができるわけではないかもしれません。しかし、まさにこうした価値観の転換を伴う時代だからこそ、「芸術」が重要なのだと考える人も少なくないでしょう。ある意味では、「芸術」がこれまで培ってきた価値の大きさと深さを再検証し、未来に向けて発信していくまたとないタイミング、絶好のチャンスであるとさえ言うことができるのではないでしょうか?
長くなりましたが、私自身が思うことは、そうした、「芸術の価値を再検証し、未来に向けて発信していく」緩やかな運動体のなかに、「ロームシアター京都」も「京都国際舞台芸術祭」もあり続けることができたら、ということです。仕組みが変わり、新たなスタートを切るタイミングにあたって、ぜひともそのことだけは表明し、呼びかけておきたいと思いました。
最後に、実行委員長として、・・・いやいや、こういうコメントは、やはりこのブログにはふさわしくありませんね。やめておきます。なんだか「公式見解」のような文章になってしまって、すみませんでした。
そういうわけで、ともかくみなさん、ぜひフェスにも、劇場にも足を運んでください!!